ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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ここに来て3回目の朝。
部屋を与えられて間もないがすでにこの部屋の隅が定位置になっている。昨日は浴衣を抱いて蹲り朝を迎えたが、今日は掛け布団をその定位置に持っていき同じような格好でただただ座り込んでいた。全く寝ていないわけではなく昨日も今日も色々と考え込んでいるうちに意識がかくりと抜けて、また眼が覚めてを繰り返していた。
浅い眠りを繰り返すことのなんと効率の悪いことか。身体はひどく疲れているのにしっかり睡眠を取らないから更に疲れが溜まっていく。うずくまっていると全身がガチガチになるし、悪循環この上ない。
よたよたと立ち上がって片手で掛け布団を引きずり部屋の中央にポツンと敷いてある敷布団まで重い足を動かす。項垂れたまま、手の力を抜けば足元に掛け布団がはらりと落ちた。
「…ばかみたい」
***
「おばさま、食器洗い終わりました」
「あらっやっぱり早いわねえ。どうもありがとう」
嬉しそうにニコニコと笑顔を浮かべる食堂のおばちゃんに「あ、いえ…そんな…」と手を振る。次の指示を仰ぐと、おばちゃんは食堂を見渡して頷いた。
「もう生徒もほとんど捌けちゃったし、澪ちゃんもお食べなさいな」
ぴくりと眉を上げて席の方を見る。
昨日から朝の事務仕事のお手伝いの後に昼と夜は厨の奥で皿洗いや片付け、簡単な仕込みを手伝っていた。昨日は初めてということもあり完全に人がいなくなってからおばちゃんと食事をとったのだが、今日はまだ生徒や教師がチラチラと席に残っていた。気まずいな…と小さく息を吸い、ちょっとでも時間を稼ごうと「それじゃあ…机を拭き終わってから、いただきます」と告げて布巾を手にした。
厨から食事スペースにそろりと移動すると、視線を感じた気がして息を押し殺して隅の机に向かう。できるだけ気配を押し殺しながらゆっくり机を拭きあげる。二つの机を拭き終われば残りは二つ。一方は教師の方がお茶を啜っていて、もう一方は井桁模様と黄緑の着物を纏った生徒が三人、会話をしながら食事している。そろそろ教師の方が出ていくかな…と何度も同じ箇所を拭きながらタイミングを伺う。しかしいつまでもそうしているわけにはいかず布巾を握りしめて頭をもたげた。
ゆっくり視線を上げるとこちらをギッと見据える鋭い目を捉えてしまい、さらにキツく布巾を握りしめて頭を下げた。心臓が大きく波打ち冷や汗が滲んできたが「ごちそうさまでした」と厨に向かって低い声で呟いた彼はこちらを見やることなく食堂から去って行く。
睨んでいたのか、あれが元来の眼力なのかは分からないけど、一瞬にして縮み上がった澪は震える息を吐き出しながら彼が去ったあとの机を忙しなく拭いた。
結局最後の机は拭くことができず、澪はおばちゃんに手渡された膳を持って席を見ていた。会話が盛り上がっているのか生徒たちはまだ食堂を立ち去る気配がないため、対角線上の机の、彼らに背を向ける側の席に着く。
手を合わせて小さな声で「いただきます」と呟いた。生徒の笑い声を背に小鉢の和物やメインの焼き魚を食す。
澪はシナに学園を案内された時に初めて食堂のおばちゃんと出会った。
包容力のある、みんなのお母さんって感じだと思った。割烹着姿を着たおばさまの朗らかな笑みを見たら緊張がほぐれて、思わず座り込みそうになってしまうのをグッと堪えた。最も自然体に近い姿勢でいられるのはおばさまの側だと思う。
「おばさま」と初めて口にしたときは「あらやだ、そんなに畏まらないでいいのよぉ」と笑われた。でも、しっくりきたその呼び方を変えるのは憚られて、もじもじとしていたら何かを感じ取ってくれたのか「ええ、ええ。いいのよ。澪ちゃん」と笑って両腕をさすってくれた。
とてもあったかくて、すごく優しい味のご飯は美味しいけれど、どうしてもうまく飲み込めなくてたくさんは食べられないことも打ち明ければ微笑んで「あらそう…それじゃあ“ちょっと”をたくさん味わうといいわ。少しづつ、ゆっくり増やしていきましょう」と量を調整してくれた。
この膳にはたくさんの優しさや愛情が詰まっている。
「お残しは許しまへんでぇ!」と叫ぶおばさまの声を厨で何度も聞いた。きっとずうっとずっと言い聞かせてこの学園の生徒たちはおばさまのご飯を食べ育っているんだ。つい先日まで1食2食抜くなんてことがザラで1日1食で簡素なご飯を済ますことも多かったから、おばさまのご飯を口にすると実家を思い出してちょっぴり切ない気持ちになる。まだほんの数回しか食事をしていないけれどこれから毎日毎日、ご飯を食べるたびに思い出していてはやるせないな…と思う。
もしかして変な顔してるんじゃないかな、見られたら嫌だな、と俯きながら食べるものだからご飯を食べ終わった後は首が少し痛い。
そんなふうにしていたら、不意に「おばちゃん、ありがとうございます」という声が耳に入ってきてカウンターの方を横目で見た。
「澪さん、こんにちは」
膳を持ってこちらへ近づいてきたのは半助で、慌ててお辞儀をした。「ご一緒してもいいですか?」と問われてドギマギしながら頷くと彼は向かいに座る。すでに生徒たちは食堂を引き上げていて、今はおばちゃんと澪、そして半助しかいない。多分もう午後イチの授業は始まっている時間だ。今日の午後は授業がないのかなと疑問に思うもののそれを聞き出す勇気もなく静かに食べ進めた。
一口、おっきいなぁ…
半助の口の中に吸い込まれていくお米やおかずをほけっとしながら見ていると、不意にその口が彼の右手で隠されて嚥下したのち恥ずかしそうに呟く。
「す、すごい見つめてきますね。ちょっと、恥ずかしいな…」
「ぇあっ!?」と間抜けな声と共に飛び上がってしまいようやく自分の失態に気がついた澪は忙しなく視線を彷徨わせてペコペコと頭を下げた。
「すみません本当に…!!」
「いえいえそんな謝らなくても…やっぱり二人じゃまだ緊張しますよね」
「なんせ昨日ぶりだし」と呟く半助の気遣いに猛烈に情けなくなる。ぎゅっとお箸を握りしめて会話のネタを探す。
「き、……今日は、遅い、んですね」
何が!遅いの!“昼食が”よ!!!と心の中で自分に突っ込む。我ながらなんて会話が下手なんだと思った。だってさっきまで思ってたこと聞けばいいのにいざとなると出てこないんだ。私ってこんなにお話するの下手だったっけ…?と気が遠くなったが、半助はその超絶へたっぴな会話のキャッチボールをしっかり続けてくれた。
「は組のテストを採点していたらすっかりこんな時間になってしまったんですよ。…いやぁ、今日は午後の授業がなくて本当に良かった。」
苦い笑みを浮かべながら左手をお腹の辺りで握りしめる半助はさっきよりもどんよりしていて「お疲れ様です…」と労いの言葉をかけた。
「んと…テスト、もしかして…あまり点数がよくなかった、とか…ですか?」
控えめに質問してみたものの、なんだか失礼にも捉えられることを突っ込んでしまった気がして唇を喰んだ。半助の様子を恐々と伺っているとぐいっとお味噌汁を飲み干し、タンッと器を置いた勢いのまま項垂れて「そうなんですっ…!!!」と苦しげな声を出した。「ちゃんと教えたはずなのに、一年は組の良い子達はっ…!」と彼らの採点や間違えたところなんかをつらつら述べて今度は両手でお腹を押さえながら「教えたはずだ…教えたはずだ…」と唸るようにぼやく。
小数点以下で語られる点数に、すごく細かく採点基準を設けているんだなぁと感心して苦笑いを浮かべた。
「子供の頃は、色んなことに興味が移って毎日がいろんなワクワクで溢れているから…楽しい記憶が両手からこぼれ落ちるほどあって、学校での授業の記憶はついこう、隅に追いやられがちですよね」
半助はほうと顔を上げて澪を見つめた。彼女の視線は下を向いたまま交わることはないが、ゆるゆると目を細めて昨日よりも饒舌に語った様に驚いた。ぽそぽそと秘密話をするような声で紡ぐ言葉が心に響いてなるほど、と小さく相槌を打った。
「…でも、忘れているようで実は覚えていて。何年も経ったある日、ふとした拍子にこんなこと教わったなぁって思い出したり。案外、楽しかった事は忘れたままだったりして…」
「…って、だからなんだって話ですよね!」と突然慌てたように取り繕う澪に対して半助はそんな、とゆるゆる首を振る。
「す、すみません長々と…あの、つまりなんというか、えと…」
「決して無駄じゃ、ないので。大丈夫だと思います。」
昨日よりもほんの少し穏やかな笑みを浮かべる澪を前に一瞬惚けてしまい、中途半端に開いたままの口がぴくりと震えた。
「…なんだか、すごく響いたな」
「えっ、あのっ、全然、深い言葉?とかではなくて、」
「自分がそうだったなぁみたいな、なんかあの、ほんと全然…」と声と共に身体を小さくする澪。なんでこんな長々とつまらない自分語りしちゃったんだろう…と内心冷や汗ダラダラだ。ちょっとでも励ませたらなんて口を開いてしまったのが間違いだったかもしれない。
「少し、澪さんのことを知れた気がします。」
いつの間にかキリキリとした胃痛は治っていて、まるで薬みたいだと思った。きっときれいに紡がれる言葉にはそんな力が宿ることもあるんだろう。
ちょっとの気まずさから抜け出せたらと投げ交わした会話が思わぬ着地点に収まり、半助は緩やかに口角を上げた。
気恥ずかしさと緊張とで、なんだかそわそわしてしまう澪は気分を紛らわすようにお米を口に押し込む。気づけば半助の皿は空っぽになっていて、食べ始めた時間も量も違うのに…?!と慌てて箸を進めた。
食べ終わった澪に合わせて「ごちそうさまでした」と手を合わせた半助に申し訳なさを感じながら膳を下げる。それからおばちゃんに声をかけた彼は「それじゃあまた」と会釈をして食堂をあとにした。
厨にいたおばちゃんと目が合い、おばちゃんは嬉しそうに笑って「良かった」と呟いた。背を向けて食器を拭くおばちゃんはどうしてかご機嫌に鼻歌を歌っていて、『良かった』が何を指すのかわからないけれど食堂に小さく響く鼻歌に思わずフッと笑みが溢れた。
布巾を持って、生徒たちがいた机とさっきまで食事をしていた机をゆっくりと拭く。向かい合って座っていたそこでほんの少し力が抜けて、さっきの会話を思い浮かべる。
突然おしゃべりになってしまったのは多分、おばさまのご飯を食べて実家のこととかを思い出しちゃったからだと思う。
いつの間にか止まってしまった右手をハッと動かして力を込めて拭いた。
やっぱりご飯はひとりで食べたいかも。変なことを言ってしまわないから。
でも
そういえば、今は首が痛くないな。
ふうと息をついて少しばかり軽い足取りで床を蹴った。
「おばさま、私水を汲んできます」
「あらほんと?お願いしてもいいかしら」
昼餉が終わったら、次は夕餉の準備だ。日が暮れて、お腹を空かせた生徒がまた続々とやってくる。
澪は厨に足を踏み入れ、桶を抱えてくるりとおばちゃんの方を振り返る。
「きっと昨日よりも上手く汲めると思うの」
そう言ってパタパタと井戸へ向かった澪を見て、おばちゃんはやっぱり嬉しそうに微笑み「良かった」と呟いた。
部屋を与えられて間もないがすでにこの部屋の隅が定位置になっている。昨日は浴衣を抱いて蹲り朝を迎えたが、今日は掛け布団をその定位置に持っていき同じような格好でただただ座り込んでいた。全く寝ていないわけではなく昨日も今日も色々と考え込んでいるうちに意識がかくりと抜けて、また眼が覚めてを繰り返していた。
浅い眠りを繰り返すことのなんと効率の悪いことか。身体はひどく疲れているのにしっかり睡眠を取らないから更に疲れが溜まっていく。うずくまっていると全身がガチガチになるし、悪循環この上ない。
よたよたと立ち上がって片手で掛け布団を引きずり部屋の中央にポツンと敷いてある敷布団まで重い足を動かす。項垂れたまま、手の力を抜けば足元に掛け布団がはらりと落ちた。
「…ばかみたい」
***
「おばさま、食器洗い終わりました」
「あらっやっぱり早いわねえ。どうもありがとう」
嬉しそうにニコニコと笑顔を浮かべる食堂のおばちゃんに「あ、いえ…そんな…」と手を振る。次の指示を仰ぐと、おばちゃんは食堂を見渡して頷いた。
「もう生徒もほとんど捌けちゃったし、澪ちゃんもお食べなさいな」
ぴくりと眉を上げて席の方を見る。
昨日から朝の事務仕事のお手伝いの後に昼と夜は厨の奥で皿洗いや片付け、簡単な仕込みを手伝っていた。昨日は初めてということもあり完全に人がいなくなってからおばちゃんと食事をとったのだが、今日はまだ生徒や教師がチラチラと席に残っていた。気まずいな…と小さく息を吸い、ちょっとでも時間を稼ごうと「それじゃあ…机を拭き終わってから、いただきます」と告げて布巾を手にした。
厨から食事スペースにそろりと移動すると、視線を感じた気がして息を押し殺して隅の机に向かう。できるだけ気配を押し殺しながらゆっくり机を拭きあげる。二つの机を拭き終われば残りは二つ。一方は教師の方がお茶を啜っていて、もう一方は井桁模様と黄緑の着物を纏った生徒が三人、会話をしながら食事している。そろそろ教師の方が出ていくかな…と何度も同じ箇所を拭きながらタイミングを伺う。しかしいつまでもそうしているわけにはいかず布巾を握りしめて頭をもたげた。
ゆっくり視線を上げるとこちらをギッと見据える鋭い目を捉えてしまい、さらにキツく布巾を握りしめて頭を下げた。心臓が大きく波打ち冷や汗が滲んできたが「ごちそうさまでした」と厨に向かって低い声で呟いた彼はこちらを見やることなく食堂から去って行く。
睨んでいたのか、あれが元来の眼力なのかは分からないけど、一瞬にして縮み上がった澪は震える息を吐き出しながら彼が去ったあとの机を忙しなく拭いた。
結局最後の机は拭くことができず、澪はおばちゃんに手渡された膳を持って席を見ていた。会話が盛り上がっているのか生徒たちはまだ食堂を立ち去る気配がないため、対角線上の机の、彼らに背を向ける側の席に着く。
手を合わせて小さな声で「いただきます」と呟いた。生徒の笑い声を背に小鉢の和物やメインの焼き魚を食す。
澪はシナに学園を案内された時に初めて食堂のおばちゃんと出会った。
包容力のある、みんなのお母さんって感じだと思った。割烹着姿を着たおばさまの朗らかな笑みを見たら緊張がほぐれて、思わず座り込みそうになってしまうのをグッと堪えた。最も自然体に近い姿勢でいられるのはおばさまの側だと思う。
「おばさま」と初めて口にしたときは「あらやだ、そんなに畏まらないでいいのよぉ」と笑われた。でも、しっくりきたその呼び方を変えるのは憚られて、もじもじとしていたら何かを感じ取ってくれたのか「ええ、ええ。いいのよ。澪ちゃん」と笑って両腕をさすってくれた。
とてもあったかくて、すごく優しい味のご飯は美味しいけれど、どうしてもうまく飲み込めなくてたくさんは食べられないことも打ち明ければ微笑んで「あらそう…それじゃあ“ちょっと”をたくさん味わうといいわ。少しづつ、ゆっくり増やしていきましょう」と量を調整してくれた。
この膳にはたくさんの優しさや愛情が詰まっている。
「お残しは許しまへんでぇ!」と叫ぶおばさまの声を厨で何度も聞いた。きっとずうっとずっと言い聞かせてこの学園の生徒たちはおばさまのご飯を食べ育っているんだ。つい先日まで1食2食抜くなんてことがザラで1日1食で簡素なご飯を済ますことも多かったから、おばさまのご飯を口にすると実家を思い出してちょっぴり切ない気持ちになる。まだほんの数回しか食事をしていないけれどこれから毎日毎日、ご飯を食べるたびに思い出していてはやるせないな…と思う。
もしかして変な顔してるんじゃないかな、見られたら嫌だな、と俯きながら食べるものだからご飯を食べ終わった後は首が少し痛い。
そんなふうにしていたら、不意に「おばちゃん、ありがとうございます」という声が耳に入ってきてカウンターの方を横目で見た。
「澪さん、こんにちは」
膳を持ってこちらへ近づいてきたのは半助で、慌ててお辞儀をした。「ご一緒してもいいですか?」と問われてドギマギしながら頷くと彼は向かいに座る。すでに生徒たちは食堂を引き上げていて、今はおばちゃんと澪、そして半助しかいない。多分もう午後イチの授業は始まっている時間だ。今日の午後は授業がないのかなと疑問に思うもののそれを聞き出す勇気もなく静かに食べ進めた。
一口、おっきいなぁ…
半助の口の中に吸い込まれていくお米やおかずをほけっとしながら見ていると、不意にその口が彼の右手で隠されて嚥下したのち恥ずかしそうに呟く。
「す、すごい見つめてきますね。ちょっと、恥ずかしいな…」
「ぇあっ!?」と間抜けな声と共に飛び上がってしまいようやく自分の失態に気がついた澪は忙しなく視線を彷徨わせてペコペコと頭を下げた。
「すみません本当に…!!」
「いえいえそんな謝らなくても…やっぱり二人じゃまだ緊張しますよね」
「なんせ昨日ぶりだし」と呟く半助の気遣いに猛烈に情けなくなる。ぎゅっとお箸を握りしめて会話のネタを探す。
「き、……今日は、遅い、んですね」
何が!遅いの!“昼食が”よ!!!と心の中で自分に突っ込む。我ながらなんて会話が下手なんだと思った。だってさっきまで思ってたこと聞けばいいのにいざとなると出てこないんだ。私ってこんなにお話するの下手だったっけ…?と気が遠くなったが、半助はその超絶へたっぴな会話のキャッチボールをしっかり続けてくれた。
「は組のテストを採点していたらすっかりこんな時間になってしまったんですよ。…いやぁ、今日は午後の授業がなくて本当に良かった。」
苦い笑みを浮かべながら左手をお腹の辺りで握りしめる半助はさっきよりもどんよりしていて「お疲れ様です…」と労いの言葉をかけた。
「んと…テスト、もしかして…あまり点数がよくなかった、とか…ですか?」
控えめに質問してみたものの、なんだか失礼にも捉えられることを突っ込んでしまった気がして唇を喰んだ。半助の様子を恐々と伺っているとぐいっとお味噌汁を飲み干し、タンッと器を置いた勢いのまま項垂れて「そうなんですっ…!!!」と苦しげな声を出した。「ちゃんと教えたはずなのに、一年は組の良い子達はっ…!」と彼らの採点や間違えたところなんかをつらつら述べて今度は両手でお腹を押さえながら「教えたはずだ…教えたはずだ…」と唸るようにぼやく。
小数点以下で語られる点数に、すごく細かく採点基準を設けているんだなぁと感心して苦笑いを浮かべた。
「子供の頃は、色んなことに興味が移って毎日がいろんなワクワクで溢れているから…楽しい記憶が両手からこぼれ落ちるほどあって、学校での授業の記憶はついこう、隅に追いやられがちですよね」
半助はほうと顔を上げて澪を見つめた。彼女の視線は下を向いたまま交わることはないが、ゆるゆると目を細めて昨日よりも饒舌に語った様に驚いた。ぽそぽそと秘密話をするような声で紡ぐ言葉が心に響いてなるほど、と小さく相槌を打った。
「…でも、忘れているようで実は覚えていて。何年も経ったある日、ふとした拍子にこんなこと教わったなぁって思い出したり。案外、楽しかった事は忘れたままだったりして…」
「…って、だからなんだって話ですよね!」と突然慌てたように取り繕う澪に対して半助はそんな、とゆるゆる首を振る。
「す、すみません長々と…あの、つまりなんというか、えと…」
「決して無駄じゃ、ないので。大丈夫だと思います。」
昨日よりもほんの少し穏やかな笑みを浮かべる澪を前に一瞬惚けてしまい、中途半端に開いたままの口がぴくりと震えた。
「…なんだか、すごく響いたな」
「えっ、あのっ、全然、深い言葉?とかではなくて、」
「自分がそうだったなぁみたいな、なんかあの、ほんと全然…」と声と共に身体を小さくする澪。なんでこんな長々とつまらない自分語りしちゃったんだろう…と内心冷や汗ダラダラだ。ちょっとでも励ませたらなんて口を開いてしまったのが間違いだったかもしれない。
「少し、澪さんのことを知れた気がします。」
いつの間にかキリキリとした胃痛は治っていて、まるで薬みたいだと思った。きっときれいに紡がれる言葉にはそんな力が宿ることもあるんだろう。
ちょっとの気まずさから抜け出せたらと投げ交わした会話が思わぬ着地点に収まり、半助は緩やかに口角を上げた。
気恥ずかしさと緊張とで、なんだかそわそわしてしまう澪は気分を紛らわすようにお米を口に押し込む。気づけば半助の皿は空っぽになっていて、食べ始めた時間も量も違うのに…?!と慌てて箸を進めた。
食べ終わった澪に合わせて「ごちそうさまでした」と手を合わせた半助に申し訳なさを感じながら膳を下げる。それからおばちゃんに声をかけた彼は「それじゃあまた」と会釈をして食堂をあとにした。
厨にいたおばちゃんと目が合い、おばちゃんは嬉しそうに笑って「良かった」と呟いた。背を向けて食器を拭くおばちゃんはどうしてかご機嫌に鼻歌を歌っていて、『良かった』が何を指すのかわからないけれど食堂に小さく響く鼻歌に思わずフッと笑みが溢れた。
布巾を持って、生徒たちがいた机とさっきまで食事をしていた机をゆっくりと拭く。向かい合って座っていたそこでほんの少し力が抜けて、さっきの会話を思い浮かべる。
突然おしゃべりになってしまったのは多分、おばさまのご飯を食べて実家のこととかを思い出しちゃったからだと思う。
いつの間にか止まってしまった右手をハッと動かして力を込めて拭いた。
やっぱりご飯はひとりで食べたいかも。変なことを言ってしまわないから。
でも
そういえば、今は首が痛くないな。
ふうと息をついて少しばかり軽い足取りで床を蹴った。
「おばさま、私水を汲んできます」
「あらほんと?お願いしてもいいかしら」
昼餉が終わったら、次は夕餉の準備だ。日が暮れて、お腹を空かせた生徒がまた続々とやってくる。
澪は厨に足を踏み入れ、桶を抱えてくるりとおばちゃんの方を振り返る。
「きっと昨日よりも上手く汲めると思うの」
そう言ってパタパタと井戸へ向かった澪を見て、おばちゃんはやっぱり嬉しそうに微笑み「良かった」と呟いた。