春の湊

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とある大学生の女の子
ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
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障子紙を通してうっすらと入ってくる月明かりが布団を照らす。

は部屋に敷かれた布団の中に入るでもなく、ただ部屋の隅に座り込んでいた。膝の上には丁寧に畳んだ自前の浴衣が置いてある。両膝を抱え込んでそれに顔を埋めた。

学園長様とお話をして、山本さんとお話をして、山田さんと土井さん、そして一年は組の生徒達とお話をして。
それで、1日が終わった。なんだろう…不満、とかじゃない。そもそも1日やそこらで元の場所に帰れるとは思っていなかったけど。
ただ、帰るために何か少しでもできることをしなければと。

「分かんない…」

重々しいため息をつく。
一つだけ、もう一度あの草原に行きたい。今はそれしか思い浮かばない。
けれどもう外は真っ暗だし、場所もわからない。
そもそも、出ていいのかな…?

ただ与えられるままに1日を過ごしただけの身でお願いなんてできるわけがない。まずはしっかり働いて、恩を返してからだ。そうして今までの恩を数え、そしてこれからも保護してくださるそれを加算すれば果てが見えないくらいに積み重なってゆく。毎日働いたとしてそれはいくら積み重なるのか。恩を勘定することすら失礼な気がして、頭の中のしっちゃかめっちゃかな計算を消していく。
その点お金とは、実に合理的だ。恩に報いたくば積めば良い。自分と相手が考える価値を目に見える形で示すことができる。かといって電気も水道もないこの場所で同じ通貨が使えるわけもない。

あれ

そういえば私はいつ持ち物を落としたんだっけ

フッと息が止まる。昨日の記憶、そうだ
私は友人とお祭りに行く約束があってそこに向かっていた。途中、神社にお参りをしようと思って、そのときは確かに手首につっかかっていたんだ。けれど、そこから先が、わからない。本当に気づいたらいつの間にかあの草原に倒れ込んでいた。この間に何があったのか。どれだけ思い出そうとしてもボンヤリと霞む記憶は霧散していく。

つんと鼻の奥が痛くなって、寝巻きの裾を握りしめた。

私、神様に悪いことしてしまったのかな。

神様なんて別に特段信じているわけじゃない。お正月や何かお祈りをしたいときはお願いだなんて手を合わせるだけ。でもきっとそんなの私だけじゃない。

「私だけじゃないよ…」

都合のいいときにしか頼らないのか悪かったのかな、だとしたらもう、そんなことはしないから。
もしそうなら許してください。

は肩を震わせて膝を抱える両手に力を込めた。

***

「入門表にサインくださ〜い!」

柔らかい雰囲気の青年がニコニコと笑顔を携え用箋挟を差し出す。「ず〜っと待っていたんですよぉ。」と唇を尖らせる彼にとにかく頷きそれらを手にするを見て吉野は呆れたようにため息をつく。

「小松田くん…せめて自己紹介くらい待てませんか…」

眉間をぐりぐりとマッサージする吉野は「待てませんでしたぁ!」と元気よく返事をする小松田に若干青筋を立てている。は片やブチ切れ寸前、片や能天気な二人に挟まれて狼狽していた。
しばらくして吉野の咳払いでようやく場が落ち着き改めて彼らは挨拶を交わす。彼らがいるのは忍術学園の事務室で、今日はが学園で働き出す初日なのだった。

吉野から差し出された資料を見ては「たっ…!」と小さく声を上げる。

たっぴつ…すごい、見事な、達筆だ…

教科書や博物館で展示されているようなそれに目をパチパチさせた。たまに楷書らしいものもあるが内容を理解できるかと言われると自信がない。

「ファイリ…えと、資料の整理とかでしたら、できると思います…すみません、文字、勉強したらもっと色々と…」
「これは私の勘ですが、さんは小松田くんよりも仕事ができます。」

できますと断言する吉野に「えぇ…」と声が漏れてしまう。小松田はなぜか照れたように頭を掻いていて吉野にジロリと睨まれていた。事務仕事は資料を扱うだけでなく多岐に渡るためできるものを手伝ってくれたらありがたいらしい。そして「小松田くんのフォローも非常に助かります」と少し低い声で静かに言う吉野の視線は相変わらず小松田を向いている。

「今日は小松田くんに付いてまわってください。きっと色々とわかります。」
「いろいろ…」
「いいですか小松田くん!さんは忍者ではないので決して危険なところには立ち寄らず余計なことをしないでください。」

「はぁ〜い」と間延びした返事をする小松田は先輩風を吹かす気満々で吉野はグッといろんな言葉を飲み込む。普通に、通常の事務仕事をしていればまず怪我の心配はない。が、彼の場合はその普通が通用しないらしい。
とにかく吉野は何度も釘を指し、にも何かあったら助けを求めるように言いつけて二人を事務室から送り出した。


ちゃんは忍者じゃないんだぁ」
「はっはい…」

僕は忍者を目指しているんだぁ。と相変わらずのほほんといろんな話を聞かせてくれる小松田に控えめな相槌を打つ。マイペースでなんて穏やかな人だろうと思いながら、仕事を教えてもらう相手が彼でよかったと胸を撫で下ろす。働くとは言ったもののは大学生でアルバイトの経験しかない。朝から、というか昨晩からちゃんとこなせるのか不安で仕方なかった。達筆の資料もくらっときたし、パソコンやプリンターのない見慣れない事務室に心臓は鳴りっぱなしだった。

ちゃんと、できるかな…
って、弱気になってちゃダメだよね…

やらなきゃいけないんだ、とお腹をぎゅっと抑えて息を吸う。
そして、そんな不安はいつしかどこかへ吹っ飛ぶことになる。

「ここっ小松田さんっ?!」

「あわ…小松田さあああ?!」

「こっ…小松田さぁぁん…!」

あっちへ行けば顔面から地面とこんにちはして資料をばらまき、
こっちへ行けば備品の山に突っ込んで雪崩を起こし、
そっちへ行けば掃除用具片手にずぶ濡れに。

いつの間にか資料などの荷物はがしっかり胸に抱き抱えている。
「あっそうだ!これはねぇ…」といろんなことを親切に教えてくれるたびにハプニングを起こす小松田に何度肝を冷やしたことか。やっちゃった…と笑う彼に手を差しのばし支えた回数はすでに両手の指では数えきれない。

まだ数時間しか経っていないのに…!
小松田さんが大怪我しないか心配すぎて、仕事が手につかない…!

心の中でひぇえ…と悲鳴を上げながら唇を噛み締めた。不幸中の幸いというか、ほとんど無傷だった小松田を見て安堵のため息をつけていたさっきまではよかった。
しかし今は。

「いたた……落とし穴落ちちゃったぁ…」

小松田は穴の中で土を払いえへへと笑っている。穴は3メートルくらいありそうで手を伸ばしても届くかわからない。というか届いても多分引き上げることはできない。とにかく穴の淵に手をついてか細い声で小松田に呼びかける。

「怪我はありませんか?あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫!けどどうしよう、僕一人じゃ上がれないや」

「誰か呼んできてくれるかな?」と笑顔の小松田に思わず「だ、だれか…」と呟いてしまう。なんて、ハードルの高い…事務仕事の方がマシだよぅ…と心の中で泣き言を垂れた。吉野さんが言っていた『色々』の意味がようやくわかった。「そういえばここら辺はそういえば色んな罠が仕掛けてあるんだった。ちゃんも危ないからさっき通って来た道の方に行って誰か連れてきてほしいなぁ!」
すでに小松田さんの中で私が人を連れてくることは決定事項らしい。口ごもりがら眉間に皺を寄せるも、穴の中から「いってらっしゃい」と手を振られてはどうしようもなくて。胸の中の資料を握りしめて人を探しに行った。

不安げな表情を浮かべてそろそろと小さく歩を進めるがさっぱり人が見当たらない。胃がぎゅうっと締め付けられるように痛んで、そういえばここに来てからよく痛むのは胃だったのか…なんてあっちの方向へ思考の舵を切る。ついに足は止まり、目を瞑って「んんん…」と案を練る。なんかもう、誰か知らない方に声をかけるより吉野さんが確実にいる事務室に向かった方が良い気がする。ちょっと遠いけど多分そう。うん、間違いない。
よし、と目を開けて事務室へ歩き出そうとした瞬間、視界の端に人影が入り込む。一歩踏み出したまま固まったは唇を噛み締めて一旦視線を逸らして俯いた。

青紫、五年生の方…
昨日土井さんがお名前呼んでいた方のように見える……

た、タイミング……!悪いよっ…!

まったく見知らぬ顔だったなら足を止めることなく事務室に迎えていたかもしれないのに名前は・・・知っているというなんっっとも微妙な顔見知り(?)の方を見つけてしまった。声をかけて助けを求めるべきなんだと思う。時間もロスしなくて済む。
渋い顔で空気と化した嘆きを吐き出し泣く泣く方向転換する。

小松田さんを助けるため小松田さんを助けるため…

資料で口元を隠しながら木に寄りかかる久々知の元へ歩み寄り3メートルほど離れたところから意を決して声をかけた。

「あの…」

身を屈めて誰にも届きそうにないくらいの声で「くくちさん」と囁く。聞こえていたのかわからないが、パッと顔を上げた久々知と共に木の影から誰かが顔を覗かせた。一人じゃなかったことに驚いて思わず後ずさる。

「あっ、あ、こま、…いや」

「あ、と…いい今、お時間…よろしいでしょうか…!」

言葉に詰まるうちに口元を隠していた資料が段々と顔全体を隠すように上がっていってしまった。やってしまった…!と恐る恐る目元まで資料を引き下げると思い切りこちらを見つめる視線とかち合う。
「どうしました?」と久々知が切り出したので息を吐き出して要件を伝えた。ドキドキしながら返答を待つもあっさり了承してくれて肩の力が抜ける。

「こちらです」

と小松田の元へ案内すると久々知だけでなく木から顔を覗かせた青年もついてくる。特に会話することなく歩いていたが視線をひしひしと感じておっかなびっくり視線を向けるとバッチリ目が合ってしまいすぐに逸らした。あからさますぎる挙動にまたやってしまった…!と血の気が引く。しかし気の利いた一言も思い浮かばないは小松田が落ちた穴が見えたためそちらへ向かって逃げるように足を進めた。

「小松田さん、あの、くくちさんが助けてくださるって…!」

“くくちさん”という部分だけしゅんと声を小さくして穴の底に呼びかけると「遅かったね〜!ちゃんもどこかで落とし穴に落ちたんじゃないかって心配したよぉ」なんて返ってきて、は身をすくめて謝った。
久々知はするすると穴に降りて小松田を抱えてあっという間に戻ってくる。ただそれだけでも身のこなしが華麗というか、「わぁ…忍者みたい…」とつい感心してしまった。

「ええ、忍者ですよ。忍たまだけど」

後ろから耳元で囁くようにそう言われて声もなく飛び上がる。青年はその様子を見て「驚きすぎだろ」とケタケタ笑っており恥ずかしくなって距離をとった。すると今度は「アンタ穴に落ちるぞ」と指を指す。振り向くと後一歩下がれば真っ逆さまで、小さく悲鳴をあげて退いた。

「三郎、からかいすぎ」
ちゃん、そっちにも罠あるから気をつけてね」

小松田が肩の土を払いながらなんてことないように教えてくれるけれど、あるの?!罠?!と心臓がバクバク波打って資料を掲げた体勢で固まってしまった。なぜ資料を掲げてしまったかわからないけれど、そのまま硬直するを見て三郎は大声をあげて笑う。

「ハハハ!アンタほんとに間抜けだな!!なんだよその体勢!」
さん、そのまま前まで歩いてしまえば安全ですから」

やっぱり吉野さん呼べばよかった…!と心の中で叫びながら数歩前に出て、サッと小松田の後ろに移動する。小松田と共に頭を下げて、ようやくひと段落かと思えばニヤニヤとこちらを見つめる三郎と目が合う。何度目かもわからないが目を逸らして俯いていたら久々知が声をかけてきた。

月ヶ瀬さん、ですよね」
「はいっ、そうです」

突然フルネームを呼ばれたことに驚いて間抜けな返しをしてしまいきゅっと唇を固く結んだ。ご丁寧にも彼らは自己紹介をしてくれて、すでに彼に呼ばれたにもかかわらずペコペコとお辞儀しながら「月ヶ瀬です」と名乗る。

「昨日、土井先生と山田先生の部屋の前でウロウロしているのずっと見てました」
「えっ!?えぇ…そん、そんな、前から見、てたんです…?」

ニコッと笑う久々知の衝撃的な発言にショックを受ける。む、無理…と紅潮していく顔を隠すように再び資料を盾にした。

「俺は一昨日の夜アンタが泣いてるの見たぜ」

一昨日の夜。泣いて。…泣いて!?
頭をフル回転させて記憶を掘り返しても目を覚ました時に彼はいなかったはず。とにかくこれ以上醜態を晒したくなくてブンブン頭を振って否定する。すごく吃るし、舌はちょっぴり噛んでしまった。

「ないって、ませんよっ?!泣いてません!」
「嘘つけ。目真っ赤にしてて伊作先輩の前でもごめんなさ〜いって言ってたじゃないか」

うわああああああ……!!なにこれなにこれ…!と耳を塞ぐように頭をかかえる。多分からかってる。そんなふうに謝ってないもん絶対!
この人苦手なタイプかもしれない…!
羞恥心がキャパオーバーしたは身をすくめて小松田の影に隠れた。そうしていると久々知が三郎を軽く小突いてほら、と促す。流石に気を遣ってくれたのか久々知は三郎を連れて挨拶もそこそこに校庭の方へ戻っていった。
ようやくお仕事再開…とドッと押し寄せる疲れを見ないふりして小松田と歩きだす。

ちゃん泣いちゃったんだね」

「大丈夫、気にすることないよぉ。僕も痛いことあるとたまに泣いちゃうもん」

ニコニコと笑いながらフォローっぽい言葉をかける小松田に小さく唸りながら「泣いていません…」と反論するもその絶え入るような声は彼の耳に届くことはなく廊下には小松田の鼻歌だけが響いていた。

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