ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
お名前をどうぞ
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「ここが教員長屋、そして貴女はこの部屋を自由に使ってちょうだいね」
スッキリとよく通る女性の声に澪はまだいくらかドギマギしたまま上擦った返事をした。
学園長との対話後、伊作と留三郎は午後になると授業があるからと保健室をあとにした。しばらくの間新野と共に医務室で過ごしていた澪は忍術学園の一教員である山本シナという女性に連れられて学園を見てまわった。おそらく、同性である彼女を寄越したのは学園長の計らい。話は学園長先生から聞いていますわとウインクをするシナにどこまで知っているのかは聞けなかったがそこに深く触れることなく学園を案内してくれる様子にホッと息をついた。
生徒がいる空間は少し離れた場所から見せてもらい、広い庭ではちらほら生徒が活動していた。物珍しくてついまじまじと見てしまうとシナが上品に笑う。その度唇をかみしめて足元に視線を落とした。
そして自室だと案内された部屋で二人は向かい合い、遠くから聞こえる生徒の声をBGMにお茶を啜っていた。学園の説明は正直現実離れしていてとにかく気の抜けるような返事をするのに必死だった。物事を噛み砕く暇もなく飲み込んではまたさらに大きな何かが迫ってくるような感覚に内心息も絶え絶えだ。そんな中シナから投げかけられた言葉に一際大きく体が震えた。
「この学園には、少なからず貴女をよく思わない人がいるわ。それは生徒であったり、はたまた教師だったり。」
澪の湯呑みの中のお茶が波紋を描く。そうっと湯呑みを置き、太ももの上でその手を握る澪。シナは近くに身を寄せて彼女の手に自分の手を重ねた。「怖がらせたくて言っている訳じゃないの」と言いながらも説得力のなさに眉が下がってしまう。酷い予防線を張っているという自覚はある。しかし、忍術学園で保護するという言葉を信じた彼女が傷つけられてしまったら、どうだろう。圧倒的に強者なのは学園側であり、澪は弱者だ。何も、言えないのだ。
決して憐憫を悟られぬようありったけの善意でそれを覆い隠し言葉を慎重に選ぶ。
「どうかここが貴女の心安らげる場所となりますように。」
自分の心に刻むように目を閉じてそう囁く。
私だけは何があっても彼女の味方でいなければならないと、思う。
「私は、貴女のことを守りましょう。」
「誓いますわ。ここに。」
無事に帰れるその日まで。
学園長の決め事に了承した時点で既に共犯者なのだ。赦されたくて言っているわけではない。恨んでもいいとさえ思う。
彼女は傷つくことになる。分かっていて、でもそれは仕方ないことなのだと、そう飲み込むしかない。だってきっと、それが一番彼女の傷を浅く済ませる唯一の方法なのだ。矛盾は百も承知。
死ななきゃ安い。生きていれさえいれば。
彼女が忍術学園に運ばれてきて、学園長と対話するまで。全てをその目で見てきたシナの心はもう決まっていた。困惑の色、そして緊張や不安を隠せない澪をゆっくりと抱きしめる。線が細く柔らかい身体は少し冷たくて、そしてどうしようもなく震えていた。
***
教員長屋の廊下をそろそろと歩く澪は自分の挙動不審ふりにだらだらと冷や汗を流す。向かう先は土井半助さんと山田伝蔵さんがいらっしゃるお部屋。シナに教えてもらったその場所はなんてことない廊下を真っ直ぐに行けばあるのだが、この学園をたった数メートルとはいえ一人で歩くことが不安で波打つ心臓を両手で押さえ込んで歩いていた。部屋の前にかかった表札はシナの言う通りたくさんの教師の名が書かれている。そうしてようやく探していた名前を見つけた。
声をかけて障子を開けて仕舞えばそれで終わりなのだが、ギリギリと握りしめた手のひらに滲む汗が澪の緊張を物語っている。一歩、後退り。俯いて深呼吸を繰り返す。人見知りの激しい澪は会話が大の苦手で、ここに来てからというものの情けない姿ばかり晒しているが正直すごく、すごく頑張っているほうだ。自分から訪ねる行為はすなわち逃げるという選択肢が存在する。今までの対話は全て向こうから来るため受け入れるしか無かった。
今度でいいかな、と逃げの気持ちが強くなるが今朝から喉に小骨が引っかかったような痛みに呼吸を潜める。目を強く瞑って自分を鼓舞するようにパチンと両頬を叩いた。
別に特段難しいことではない。職員室に先生を訪ねに行くのと何ら変わらずあっさり入室を許可されるのと一緒なんだから。
「しっ、失礼いたします。月ヶ瀬澪です。今お時間よろしいでしょうか?」
口をついて出た挨拶は恥ずかしくも掠れ、震えているがええいままよと勢いで乗り切った。そしてここからが本当の正念場である。
どうしよう、またしゃっくり出そう…
痙攣しそうな喉に力を込めて息を押し殺す澪は互いに自己紹介を済ませたあと、二人の教師を前に石のように固まっていた。そんな彼女を見て半助と伝蔵は顔を見合わせる。学園長から緊急招集がかかり澪の存在は認知していた。そしてこの学園で保護することも、一悶着あったもののそれはすでに決定事項として教師陣の中で周知の事実なのだ。
噂に違わぬ相当な緊張しいですなぁと呑気な矢羽音を飛ばす伝蔵に苦笑を浮かべる半助。何か伝えたいことがあるんだろう。ええと、と必死に言葉を探す彼女の姿は何だか少しは組の姿を思い出して応援したくなってしまった。いやいや、生徒じゃないんだからと軽く頭を振って雑念を払う。
「土井さんと山田さんの生徒さんの、…乱太郎くん、ときり丸くんに、」
「助けていただいたおっ、お礼、を…!ちゃんと、伝えたくて…」
真っ赤になりながら言葉を紡いだ澪に思わず半助と伝蔵は笑顔を浮かべる。「ああ、よかった。乱太郎もきり丸も、澪さんに会いたがっていたんですよ。」と声をかければ瞬きを繰り返した。
「おおい久々知。そこにいるんだろう」
「はい」
「すまないが乱太郎ときり丸を呼んできてくれないか」
「分かりました」
半助の呼びかけに不意に後ろを振り向けばいつの間にか障子のそばに一人の少年が佇んでいた。一瞬目があったもののすぐに教舎へ走り去ってゆく。
青紫は、五年生。シナに教えてもらった学年の色を思い出したが伝蔵の声かけにハッと驚き視線を戻した。
「すみません…!」
「ああいや、驚かせてしまって申し訳ない。まあそう身を固くせずに。
乱太郎ときり丸が今朝から澪さんの話題で持ちきりなんです。きっとどこかの城の姫君に違いないだとかまったく騒ぎ立てていましてなあ」
「えっええっ…?!いえ、違いま、私そんな…!」
伝蔵の言葉に澪は動揺する。まさかそんなと大きく首を振って否定するも「多分は組の良い子達は噂に尾鰭がついてそれどころではない勘違いをしているんです…申し訳ない」と頭を下げる半助にあわあわすることしかできない。澪と半助は互いにペコペコと頭を下げる様を見て伝蔵はハハハと大きな笑い声をあげた。
それから一刻ほど。乱太郎たちと二度目の対面を果たした澪は改めて静々と感謝の意を示していた。「本当に、本当にありがとうございました。」と頭を深く下げて謝辞を述べる彼女に乱太郎たちは足の裏がちょっぴりくすぐったいようなそんなソワソワした感覚を抱く。大人からここまで敬意を払われるのは滅多にあることじゃない。
そもそも今朝だって初めて言葉を交わした時にすでに昨晩の礼は言われたのだが、彼女曰く他のことを考えていて、心ここにあらずの状態で接してしまっていたことがものすごく心に残っていたと言う。
なんて律儀な人なんだろうと乱太郎は思った。そしてもっと澪のことを知りたいなと純粋に思った。
頬が緩んでふわふわした気持ちの乱太郎は何となく隣のきり丸を見る。
「…ところでぇ、お代の方は…いかように?」
なんてこと言うのきりちゃん。この状況で目に銭を浮かべてエヘエヘと…!
雷が落ちたかのような衝撃に耐えていると半助の「コラァ!きり丸!」と言うお怒りの声が聞こえた。澪はお代、おだい…と真っ青な顔で呟いている。
「おねえ…澪さん!きりちゃんは守銭奴だけど悪い子じゃないんです!銭のことになると目がなくて!ああと、だからその!」
どこか遠い目をしていた澪は乱太郎の声に意識を引き戻されてはっと息を吸った。きり丸は呆れ顔で叱る半助に柔いほっぺを伸ばされていた。
えっと、と蚊の鳴くような声で呟くと喧騒が止んで視線が集まる。
「本当にごめんなさい。私、何も…持っていないんです。お金も、なにも、」
「…で、でも、何でもします。できること…いえ、できないことも、ちゃんとします。だから…」
着地点がなく言葉尻を濁してしまう。だから、何だと言うのだろう。それで許せ、チャラにしてくれだなんて都合が良すぎる。きり丸に対してだけではない。学園長が言っていた言葉が重くのしかかる。
ここに居させてもらえるだけの己の価値とは。
ぎゅうとお腹の帯を握りしめる。
顔、見れない。
「マジすか?!じゃあいいっすよ」
ケロリと何事もなかったかのようにそう答えるきり丸に乱太郎たちはたまらず体勢を崩した。澪も思わず息が漏れ、そろりと顔を上げた。
「何でもか〜そんじゃ次のアルバイトの…」と何やら指折り数えては嬉しそうに八重歯を覗かせてきり丸は笑う。「いいの…?」とほとんど掠れて空気のような呟きにひょいとこちらを向く。
「勿論ですよ!澪さんにはこれから俺のアルバイトじゃんじゃん手伝ってもらうんで。よろしくお願いしますね!」
「きり丸〜!もう、ダメだからね?!澪さん困っちゃうでしょう!」
すでに言質とったりとしたり顔で笑うきり丸を乱太郎は追い回す。半助と伝蔵はやれやれと頭を抱えていた。
「ふ、ふふ…」
笑顔というにはぎこちなくて、困っているようにも泣きそうな顔にも見えるけど、物音にかき消されそうなくらい小さなそれは確かに澪の笑い声だった。初めて聞いたそれに乱太郎ときり丸は追いかけっこをやめ、半助や伝蔵も目をパチパチさせて見つめる。
きゅっと握ったままの手が口元を隠しているから笑い声は一層小さくなった。
「わ」
「澪さんが笑った!」という乱太郎の声と共に障子が開け放たれてどさどさと人が雪崩れ込む。「お、お前たちは〜!」と嘆く半助の声がもの悲しく部屋にこだまする。澪はというと驚いて小さく飛び退いたのか後ろ手をついたまま固まっていた。そんな彼女の様子を気にすることもなく目を光らせた生徒たちが群がる。
「姫様って本当ですか!」「虹のふもとの宝箱から出てきたって!」「じゃあかぐや姫なの?」「ばか、かぐや姫は竹から生まれたんだよ!」「幸運の女神様じゃないの?!」
矢継ぎ早にあれこれ質問する生徒たちの目はらんらんと光っていて、圧倒されたまま目を白黒させる澪は動けずにいた。このまま押しつぶされてしまうんじゃないかというところで半助に肩を抱かれて生徒の中から救出される。
「質問をいっぺんにしない!困っているでしょうが!」
「ごめんなさ〜い」と間延びした返事に半助は苦虫を噛み潰したような顔をする。生徒たちの代わりに半助に謝られた澪は未だ驚いて飛び跳ねたままの心臓を押さえつけるように胸を押さえて返事をする。
「あっ、すっ、すみません。あの、あのっ」
「怪我はしていませんか?」
「全然、だいじょぶでっ…!」
乱太郎は残念そうな表情でテンパる澪を見つめる。せっかく笑ったのにまた戻っちゃった…と悲しげに眉をひそめる。
「もう皆!私だって澪さんのこと知りたいのに!」
「だってぇ、乱太郎ときり丸は一緒に朝餉を食べたんでしょ?」
「乱太郎たちが先に抜け駆けしてるんじゃないか〜!」
ふんふんと鼻息荒く言い争う子供達は我先にと澪の手を取り引っ張る。「校庭でお話しましょ〜!」とニコニコ顔で迫られて「えっ?あ、わ」と声を上げるも外へと連れ出された。「困らせるんじゃないぞー!」と叫ぶ半助と伝蔵の方を振り向くも生徒を止める気はないようで、澪は困った顔のまま一年は組になすがままにされるのだった。
***
どんどん遠ざかって行く一年は組の良い子達と澪の背中を見て半助はふうと息を吐いた。
澪が訪ねてくるよりも前、シナから大体の話は聞いていた。「どうか見守ってあげてくださいね。彼女、とってもいい子ですから。」と目を細めていた彼女の言葉を改めて理解する。
学園長の緊急招集であった一悶着。
素性の知れない女がこの学園に害をもたらしたら、巧妙に騙し演じているのでは、と反対意見が上がるも「儂の見立てに不服を申すか」と片目だけでも鋭い眼光に反対派が押し黙ったのは記憶に新しい。学園長の突然の思いつきとはどこか違うような、それでも学園長の本心は誰も分からない。彼女の学園での立場は決まり、ただ彼女をどうとるかは各々の判断に委ねられた。
「子供の純粋さとは時に鋭く、人の良し悪しをいとも簡単に見抜くからな。さて…良い子達は澪さんをどうとるか、見ものだな」
伝蔵の呟きにそうですね、と小さく頷く。
伝蔵は学園長に是非を問わずただ黙って聞いていた。
お前はどうなんだ、と自分に問いかける。
部屋の前で立ち往生しながら深呼吸を繰り返す彼女も、きり丸たちに礼を尽くす彼女も、辿々しい笑顔を浮かべる彼女も全部本物だと感じた。
うん、悪い人ではない。
あっさりと結論を出してしまうなんて性急すぎるだろうかと思いつつ伝蔵を盗み見るが彼の顔に答えなど書いているはずもない。
ただ…長い間一緒に過ごした訳でもないだろうに。シナのどこか慈しむようでいて翳りのある微笑みを思い出して首を捻ったのだった。
スッキリとよく通る女性の声に澪はまだいくらかドギマギしたまま上擦った返事をした。
学園長との対話後、伊作と留三郎は午後になると授業があるからと保健室をあとにした。しばらくの間新野と共に医務室で過ごしていた澪は忍術学園の一教員である山本シナという女性に連れられて学園を見てまわった。おそらく、同性である彼女を寄越したのは学園長の計らい。話は学園長先生から聞いていますわとウインクをするシナにどこまで知っているのかは聞けなかったがそこに深く触れることなく学園を案内してくれる様子にホッと息をついた。
生徒がいる空間は少し離れた場所から見せてもらい、広い庭ではちらほら生徒が活動していた。物珍しくてついまじまじと見てしまうとシナが上品に笑う。その度唇をかみしめて足元に視線を落とした。
そして自室だと案内された部屋で二人は向かい合い、遠くから聞こえる生徒の声をBGMにお茶を啜っていた。学園の説明は正直現実離れしていてとにかく気の抜けるような返事をするのに必死だった。物事を噛み砕く暇もなく飲み込んではまたさらに大きな何かが迫ってくるような感覚に内心息も絶え絶えだ。そんな中シナから投げかけられた言葉に一際大きく体が震えた。
「この学園には、少なからず貴女をよく思わない人がいるわ。それは生徒であったり、はたまた教師だったり。」
澪の湯呑みの中のお茶が波紋を描く。そうっと湯呑みを置き、太ももの上でその手を握る澪。シナは近くに身を寄せて彼女の手に自分の手を重ねた。「怖がらせたくて言っている訳じゃないの」と言いながらも説得力のなさに眉が下がってしまう。酷い予防線を張っているという自覚はある。しかし、忍術学園で保護するという言葉を信じた彼女が傷つけられてしまったら、どうだろう。圧倒的に強者なのは学園側であり、澪は弱者だ。何も、言えないのだ。
決して憐憫を悟られぬようありったけの善意でそれを覆い隠し言葉を慎重に選ぶ。
「どうかここが貴女の心安らげる場所となりますように。」
自分の心に刻むように目を閉じてそう囁く。
私だけは何があっても彼女の味方でいなければならないと、思う。
「私は、貴女のことを守りましょう。」
「誓いますわ。ここに。」
無事に帰れるその日まで。
学園長の決め事に了承した時点で既に共犯者なのだ。赦されたくて言っているわけではない。恨んでもいいとさえ思う。
彼女は傷つくことになる。分かっていて、でもそれは仕方ないことなのだと、そう飲み込むしかない。だってきっと、それが一番彼女の傷を浅く済ませる唯一の方法なのだ。矛盾は百も承知。
死ななきゃ安い。生きていれさえいれば。
彼女が忍術学園に運ばれてきて、学園長と対話するまで。全てをその目で見てきたシナの心はもう決まっていた。困惑の色、そして緊張や不安を隠せない澪をゆっくりと抱きしめる。線が細く柔らかい身体は少し冷たくて、そしてどうしようもなく震えていた。
***
教員長屋の廊下をそろそろと歩く澪は自分の挙動不審ふりにだらだらと冷や汗を流す。向かう先は土井半助さんと山田伝蔵さんがいらっしゃるお部屋。シナに教えてもらったその場所はなんてことない廊下を真っ直ぐに行けばあるのだが、この学園をたった数メートルとはいえ一人で歩くことが不安で波打つ心臓を両手で押さえ込んで歩いていた。部屋の前にかかった表札はシナの言う通りたくさんの教師の名が書かれている。そうしてようやく探していた名前を見つけた。
声をかけて障子を開けて仕舞えばそれで終わりなのだが、ギリギリと握りしめた手のひらに滲む汗が澪の緊張を物語っている。一歩、後退り。俯いて深呼吸を繰り返す。人見知りの激しい澪は会話が大の苦手で、ここに来てからというものの情けない姿ばかり晒しているが正直すごく、すごく頑張っているほうだ。自分から訪ねる行為はすなわち逃げるという選択肢が存在する。今までの対話は全て向こうから来るため受け入れるしか無かった。
今度でいいかな、と逃げの気持ちが強くなるが今朝から喉に小骨が引っかかったような痛みに呼吸を潜める。目を強く瞑って自分を鼓舞するようにパチンと両頬を叩いた。
別に特段難しいことではない。職員室に先生を訪ねに行くのと何ら変わらずあっさり入室を許可されるのと一緒なんだから。
「しっ、失礼いたします。月ヶ瀬澪です。今お時間よろしいでしょうか?」
口をついて出た挨拶は恥ずかしくも掠れ、震えているがええいままよと勢いで乗り切った。そしてここからが本当の正念場である。
どうしよう、またしゃっくり出そう…
痙攣しそうな喉に力を込めて息を押し殺す澪は互いに自己紹介を済ませたあと、二人の教師を前に石のように固まっていた。そんな彼女を見て半助と伝蔵は顔を見合わせる。学園長から緊急招集がかかり澪の存在は認知していた。そしてこの学園で保護することも、一悶着あったもののそれはすでに決定事項として教師陣の中で周知の事実なのだ。
噂に違わぬ相当な緊張しいですなぁと呑気な矢羽音を飛ばす伝蔵に苦笑を浮かべる半助。何か伝えたいことがあるんだろう。ええと、と必死に言葉を探す彼女の姿は何だか少しは組の姿を思い出して応援したくなってしまった。いやいや、生徒じゃないんだからと軽く頭を振って雑念を払う。
「土井さんと山田さんの生徒さんの、…乱太郎くん、ときり丸くんに、」
「助けていただいたおっ、お礼、を…!ちゃんと、伝えたくて…」
真っ赤になりながら言葉を紡いだ澪に思わず半助と伝蔵は笑顔を浮かべる。「ああ、よかった。乱太郎もきり丸も、澪さんに会いたがっていたんですよ。」と声をかければ瞬きを繰り返した。
「おおい久々知。そこにいるんだろう」
「はい」
「すまないが乱太郎ときり丸を呼んできてくれないか」
「分かりました」
半助の呼びかけに不意に後ろを振り向けばいつの間にか障子のそばに一人の少年が佇んでいた。一瞬目があったもののすぐに教舎へ走り去ってゆく。
青紫は、五年生。シナに教えてもらった学年の色を思い出したが伝蔵の声かけにハッと驚き視線を戻した。
「すみません…!」
「ああいや、驚かせてしまって申し訳ない。まあそう身を固くせずに。
乱太郎ときり丸が今朝から澪さんの話題で持ちきりなんです。きっとどこかの城の姫君に違いないだとかまったく騒ぎ立てていましてなあ」
「えっええっ…?!いえ、違いま、私そんな…!」
伝蔵の言葉に澪は動揺する。まさかそんなと大きく首を振って否定するも「多分は組の良い子達は噂に尾鰭がついてそれどころではない勘違いをしているんです…申し訳ない」と頭を下げる半助にあわあわすることしかできない。澪と半助は互いにペコペコと頭を下げる様を見て伝蔵はハハハと大きな笑い声をあげた。
それから一刻ほど。乱太郎たちと二度目の対面を果たした澪は改めて静々と感謝の意を示していた。「本当に、本当にありがとうございました。」と頭を深く下げて謝辞を述べる彼女に乱太郎たちは足の裏がちょっぴりくすぐったいようなそんなソワソワした感覚を抱く。大人からここまで敬意を払われるのは滅多にあることじゃない。
そもそも今朝だって初めて言葉を交わした時にすでに昨晩の礼は言われたのだが、彼女曰く他のことを考えていて、心ここにあらずの状態で接してしまっていたことがものすごく心に残っていたと言う。
なんて律儀な人なんだろうと乱太郎は思った。そしてもっと澪のことを知りたいなと純粋に思った。
頬が緩んでふわふわした気持ちの乱太郎は何となく隣のきり丸を見る。
「…ところでぇ、お代の方は…いかように?」
なんてこと言うのきりちゃん。この状況で目に銭を浮かべてエヘエヘと…!
雷が落ちたかのような衝撃に耐えていると半助の「コラァ!きり丸!」と言うお怒りの声が聞こえた。澪はお代、おだい…と真っ青な顔で呟いている。
「おねえ…澪さん!きりちゃんは守銭奴だけど悪い子じゃないんです!銭のことになると目がなくて!ああと、だからその!」
どこか遠い目をしていた澪は乱太郎の声に意識を引き戻されてはっと息を吸った。きり丸は呆れ顔で叱る半助に柔いほっぺを伸ばされていた。
えっと、と蚊の鳴くような声で呟くと喧騒が止んで視線が集まる。
「本当にごめんなさい。私、何も…持っていないんです。お金も、なにも、」
「…で、でも、何でもします。できること…いえ、できないことも、ちゃんとします。だから…」
着地点がなく言葉尻を濁してしまう。だから、何だと言うのだろう。それで許せ、チャラにしてくれだなんて都合が良すぎる。きり丸に対してだけではない。学園長が言っていた言葉が重くのしかかる。
ここに居させてもらえるだけの己の価値とは。
ぎゅうとお腹の帯を握りしめる。
顔、見れない。
「マジすか?!じゃあいいっすよ」
ケロリと何事もなかったかのようにそう答えるきり丸に乱太郎たちはたまらず体勢を崩した。澪も思わず息が漏れ、そろりと顔を上げた。
「何でもか〜そんじゃ次のアルバイトの…」と何やら指折り数えては嬉しそうに八重歯を覗かせてきり丸は笑う。「いいの…?」とほとんど掠れて空気のような呟きにひょいとこちらを向く。
「勿論ですよ!澪さんにはこれから俺のアルバイトじゃんじゃん手伝ってもらうんで。よろしくお願いしますね!」
「きり丸〜!もう、ダメだからね?!澪さん困っちゃうでしょう!」
すでに言質とったりとしたり顔で笑うきり丸を乱太郎は追い回す。半助と伝蔵はやれやれと頭を抱えていた。
「ふ、ふふ…」
笑顔というにはぎこちなくて、困っているようにも泣きそうな顔にも見えるけど、物音にかき消されそうなくらい小さなそれは確かに澪の笑い声だった。初めて聞いたそれに乱太郎ときり丸は追いかけっこをやめ、半助や伝蔵も目をパチパチさせて見つめる。
きゅっと握ったままの手が口元を隠しているから笑い声は一層小さくなった。
「わ」
「澪さんが笑った!」という乱太郎の声と共に障子が開け放たれてどさどさと人が雪崩れ込む。「お、お前たちは〜!」と嘆く半助の声がもの悲しく部屋にこだまする。澪はというと驚いて小さく飛び退いたのか後ろ手をついたまま固まっていた。そんな彼女の様子を気にすることもなく目を光らせた生徒たちが群がる。
「姫様って本当ですか!」「虹のふもとの宝箱から出てきたって!」「じゃあかぐや姫なの?」「ばか、かぐや姫は竹から生まれたんだよ!」「幸運の女神様じゃないの?!」
矢継ぎ早にあれこれ質問する生徒たちの目はらんらんと光っていて、圧倒されたまま目を白黒させる澪は動けずにいた。このまま押しつぶされてしまうんじゃないかというところで半助に肩を抱かれて生徒の中から救出される。
「質問をいっぺんにしない!困っているでしょうが!」
「ごめんなさ〜い」と間延びした返事に半助は苦虫を噛み潰したような顔をする。生徒たちの代わりに半助に謝られた澪は未だ驚いて飛び跳ねたままの心臓を押さえつけるように胸を押さえて返事をする。
「あっ、すっ、すみません。あの、あのっ」
「怪我はしていませんか?」
「全然、だいじょぶでっ…!」
乱太郎は残念そうな表情でテンパる澪を見つめる。せっかく笑ったのにまた戻っちゃった…と悲しげに眉をひそめる。
「もう皆!私だって澪さんのこと知りたいのに!」
「だってぇ、乱太郎ときり丸は一緒に朝餉を食べたんでしょ?」
「乱太郎たちが先に抜け駆けしてるんじゃないか〜!」
ふんふんと鼻息荒く言い争う子供達は我先にと澪の手を取り引っ張る。「校庭でお話しましょ〜!」とニコニコ顔で迫られて「えっ?あ、わ」と声を上げるも外へと連れ出された。「困らせるんじゃないぞー!」と叫ぶ半助と伝蔵の方を振り向くも生徒を止める気はないようで、澪は困った顔のまま一年は組になすがままにされるのだった。
***
どんどん遠ざかって行く一年は組の良い子達と澪の背中を見て半助はふうと息を吐いた。
澪が訪ねてくるよりも前、シナから大体の話は聞いていた。「どうか見守ってあげてくださいね。彼女、とってもいい子ですから。」と目を細めていた彼女の言葉を改めて理解する。
学園長の緊急招集であった一悶着。
素性の知れない女がこの学園に害をもたらしたら、巧妙に騙し演じているのでは、と反対意見が上がるも「儂の見立てに不服を申すか」と片目だけでも鋭い眼光に反対派が押し黙ったのは記憶に新しい。学園長の突然の思いつきとはどこか違うような、それでも学園長の本心は誰も分からない。彼女の学園での立場は決まり、ただ彼女をどうとるかは各々の判断に委ねられた。
「子供の純粋さとは時に鋭く、人の良し悪しをいとも簡単に見抜くからな。さて…良い子達は澪さんをどうとるか、見ものだな」
伝蔵の呟きにそうですね、と小さく頷く。
伝蔵は学園長に是非を問わずただ黙って聞いていた。
お前はどうなんだ、と自分に問いかける。
部屋の前で立ち往生しながら深呼吸を繰り返す彼女も、きり丸たちに礼を尽くす彼女も、辿々しい笑顔を浮かべる彼女も全部本物だと感じた。
うん、悪い人ではない。
あっさりと結論を出してしまうなんて性急すぎるだろうかと思いつつ伝蔵を盗み見るが彼の顔に答えなど書いているはずもない。
ただ…長い間一緒に過ごした訳でもないだろうに。シナのどこか慈しむようでいて翳りのある微笑みを思い出して首を捻ったのだった。