ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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鳥の鳴く声が聞こえ、ゆっくりと目を開けた。
…知ってた。
心の中で独りごちる。一縷の望みなんて叶うはずもないのだ。別に、期待なんかしてなかった。してなかったんだ。そう自分に言い聞かせて障子に目をやる。朝日が登ってきているんだろう。障子紙が青とオレンジのグラデーションに染まっている。
見知った色だ。私が知っている空のはずだ。
きっとそうなのだと、確かめたくて畳に手をつく。ゆっくりと力を込めて腰を上げる。なんとか立ち上がってその場でたたらを踏んだ。緩慢な動作でようやく障子の前に辿り着く。障子にかけた手が震えていたが、気にせずそのままスライドさせた。
軒から覗く空はやっぱり、私が知る空だった。
別にどうと言うことない景色のはずが、訳がわからないくらい安堵をもたらす。思わず障子に寄りかかってしまいガタリと音を立てて大きく開く。突然傾いた身体をなんとか頽れないように保った。
ふと空から視線を外すと、壁に背を預け、片膝を立てて座り込む伊作と目が合った。「…お、おはようございます」と条件反射で挨拶をすると少しの間を置いて「おはようございます」と返ってきた。
しきりに瞬きを繰り返して、思考。
すぐに障子にへっぴり腰でしがみつく姿勢を正して両手の指を突き合わせた。ひどく吃りながら「もしかして、ずっとそこで起きてました?」と問うた。「ああ、いや」と笑う伊作はこちらに気を遣っているのかはっきりとした返事をくれない。それはもう肯定と受け取れる返事で、澪は眉間に皺を寄せるように目をきゅっと閉じた。
いろんな思いが渦巻くが、兎にも角にも言葉を絞り出す。
「ぁの…まだ、多分お時間、あると思うので、…私のことはその、気にせず、お休みになって…くださ、い…」
多大なるご迷惑をかけてしまった身としてはどんな言い方をしても身の程をわきまえてないようにしか聞こえないお願いである。それでも息も絶え絶えに言い切った澪は俯いて息をひそめた。そんな様子の彼女を見て伊作は慌てて立ち上がり「本当に全然大丈夫ですから!気にしないでください」と声をかける。彼も気まずい空気を入れ替えたいのか少し目線を彷徨わせて何か思いついたように「あ、そうだ」と手を叩いた。
「顔!顔洗いたいですよね。僕水を汲んでくるので澪さんは部屋で待っていてください」
そう言って有無も言わさず走り去っていった伊作の背中をポカンと見つめていた。中途半端に伸ばしたてはあてどなく彷徨い、力が抜ける。追いかけようにもすでに見失ってしまった彼をどうやって見つけ出せばいいのか。縁側に物寂しそうに片っぽだけの下駄が置かれていてものすごくやるせない気持ちになる。
結局断りもなく部屋の外に踏み出すことさえなんだか憚られるので障子を開け放ったまま苦い顔を右へ左へと動かすことしかできなかった。
***
「そういえば、昨夜言っていた後輩がね、水を汲みにいくついでに澪さんが目を覚ましたことを伝えたら一緒に朝餉を食べたいと言い出してきたんだけど…」
「へっ、あっ」
洗顔の次は朝餉だと告げられ、目を白黒させる。いたたまれない。あまりにもいたたまれない。喉がきゅうと閉まるような感覚に気を抜いたら意識が飛んでしまいそうで、素直に喜ぶことも遠慮することもできずにただ身を縮こめることしかできない。一晩、身を休めたら改めて話を聞く。ただそれだけで十二分過ぎるのに、あれよあれよとオプションを追加されて彼らの親切心に対して少し、少しだけ恐怖を感じてしまう。返せないのだ。金目のものはなく、残っているのは身ひとつ。この恩情にどう報いることができるのだろう。しかし縋ってしまった手前引き返せないし、そもそも縋って、掴んだその手を自分から安安と離すことができない。
たらりと首筋に汗が流れる。重く暗い思考が立ち込める。これはいけない。早く切り替えなくてはと思うがその焦りがさらに思考を鈍らせる。
善法寺さんが何かおっしゃってる。なんて、なんて言ってる?
「伊作先輩!お姉さん!おはようございまーす!」
スパンと開け放たれた障子と朗らかで元気な子供の声が響く。パンッと風船が弾け飛ぶように目が冴えた。顔を上げるとニコニコと無邪気な笑顔を浮かべた眼鏡の少年とどこか落ち着かない様子でこちらをじっと見つめる切長の目をした少年と目が合った。
それから辿々しくもなんとか自己紹介を終えた澪は乱太郎たちが持ってきた朝餉を前にして箸とお茶碗を持ったまま固まっていた。艶々の卵焼きやいい焼き色がついた魚の干物、具材がふわふわと浮かぶ味噌汁はどれも食欲をそそる見た目をしていて実際一口食べた卵焼きはとても美味しいのだが。食べ物が、喉を通らない。必死に飲み込んで、つっかえそうになりながら、ようやく卵焼きを一切れ食べた澪はひく、ひくと痙攣する喉を押さえたくて何度も唾を飲み込んだ。
刻々と時間は過ぎ、三人の膳をチラリと見れば皆あと少しで食べ切ってしまうところだ。口をつぐんで、汗ばむ手に力を込める。
「お姉さん、食欲ないんすか?」
きり丸がズズズとお味噌汁を飲み干して澪の膳に視線を落とした。あっと小さく声を上げて、肩をすくめる。
「それなら俺もらっていいすか!」
あれと〜それと〜これも!とキラキラした目でおかずを見つめられて呆けてしまった。そろりと隣に座る伊作の様子を伺うと、何か言いたげな様子だったがうん、と頷いて微笑む。澪はほっと息をついてきり丸と乱太郎で分けて、と膳を差し出した。二人は早速おかずを取り合っているが、澪は俯いて「…ごめんなさい」と囁き、両手でお腹を抑えた。
伊作は目の前でおかず争奪戦を繰り広げる乱太郎たちに呆れながらも隣に座る彼女を盗み見る。硬い表情できゅうと手を握りしめる澪は張り詰めた弓のようで。その糸が何かの拍子にぷつりと切れてしまったら倒れてしまうのではないかと、ひどく危うい状態の彼女をヒヤヒヤしながらただ見守ることしかできなかった。
***
「のう、澪さんといったか。そんなに身を固くせず、どうか年寄りの世間話に付き合うと思って楽にしてくれんか。」
「あの、…ヒクッ、…ご、ヒッ、ごめんなさっ、ック、」
白髪おかっぱ頭のご老人に相対するは顔を真っ青にして口元をギュッと覆す澪。涙目になって必死にしゃっくりを止めようとするが緊張と焦りとその他諸々の感情が入り混じって話どころか息すら危うい。見ていられないほど強張っている澪の後ろに控えるは伊作と留三郎。ご老人の隣に控える新野は彼女にお茶を差し出し背中をさすっていた。
遡ることおよそ四半刻。
乱太郎たちと入れ替わるように留三郎が医務室を訪れた。澪の昨晩からあまり変わらない硬い表情と困った様子の伊作の顔を見比べた。
あれから少しでも打ち解けたのかと思いきや案外そうでもないことに驚いたのだ。彼女は目の前に置かれた誰も座っていない座布団を穴が開きそうなほど見つめている。月ヶ瀬澪という女は一体何者なのか、ただそれを知りたくて昨晩のよしみ(と言っても親しくなるほど言葉を交わしてはいない)で同席した留三郎。
もう少し緊張を和らげてあげたらどうだと伊作に矢羽音を飛ばすがすでに手を尽くしてこれなんだよ!と返された。
しばらくして新野と共にご老人が訪れる。恐々と挨拶や礼を済ませた澪はしばらく無言で学園長と目を合わせた。学園の長たる彼が積み上げてきた研鑽は確かなもので、目を見ればその人となりが大体わかる。ふむ、と目の前の女を見定める彼は威圧感は出していないものの威厳が滲み出ていた。思わず目を逸らしてしまわないように澪は唇をかみしめて学園長をまっすぐ捉えていた。その様子に学園長は満足げに口角をあげてパシリと膝を叩く。
「堅苦しい話は無しじゃ!」
と声高らかに発した途端。
「ヒック」
と息の音ひとつ
皆がその音の発生源に目を向けると、澪は目を見開いて口元を押さえていた。再びクッと喉が鳴り、か細い声でしゃっくり混じりに謝罪を口にした。
そうして話は冒頭の流れに繋がる。
縮こまった澪に近寄り肩を叩く学園長は幾らか柔らかな声音で話す。
「まだ詳しくお主の言い分を聞いたわけではないが…その様子からすると帰るための算段もついておらんのじゃろう。どこか、頼れるところはあるのかえ?」
澪は悲しげな表情を浮かべて弱々しく首を振った。
「ならば、しばらくの間この学園で過ごすと良い。」
その言葉にどこか戸惑い、小さく口を開けた澪はでも、と何かを言いかけるが学園長はそれを静止して言葉を被せた。
「ここは忍術学園という。その名の通り、忍者を育てる学舎じゃ。」
忍術、忍者。まるで御伽噺のような言葉が飛び出すが、忍者のような格好をしていると思っていたアレは間違いではなかったんだと目をシパシパさせる。善法寺さんや乱太郎くんはこの学園の生徒だという。にわかには信じがたいがタイムスリップらしき何かを経験してしまった今、忍者の存在もそうかと認めてしまえる気がする。
「お主の身の安全は保証しよう。代わりと言ってはなんじゃが、この学園で少しばかり力を尽くしてはくれぬか?」
澪は両手を握りしめ、息を呑んだ。
ちゃんと、元の場所に帰りたい。詳しいことは何もわからないけれど、今、この希望を手放すメリットはない、と思う。正常な判断かなんてまるでわからないけれど、じゃあ断ったとして、私はこれからどうしていくの?
その答えが見つからない時点で結果は火を見るより明らかだった。
「…せい、いっぱい、っ努めてまいります。
どうか、よろしくお願いいたします。」
***
「…決して、その、ふざけていた訳では、なくて」
「うん、大丈夫だよ。わかっているから。」
ちょっと留三郎!いい加減笑ってないで!と伊作が留三郎を小突く。しかし学園長との対話の中で必死に堪えていた反動なのか、なかなか笑いが収まらない留三郎は口を覆って肩を振るわせていた。
学園長が医務室を去ってようやく喉は元の調子を取り戻したというのに縮み上がったままの肩が震えていた。
できる限り部屋の隅へ寄った彼女の声は本当に小さくて、留三郎の笑いは収まらないしこのままじゃ碌に話もできない。ツボに入った彼を恨めしげに睨んで大きなため息を吐く。一方澪は両手の指を突き合わせて指を遊ばせる。えと…と口ごもりなかなか言い出せずにいると、いつの間にか復活した留三郎が口を開いた。
「俺は俺の良心を信じるぜ。なんてったって学園長先生お墨付きだろ。」
澪は何のことやら分からず忙しなく瞼を閉じては開いて首を傾げた。「よろしくな、澪さん」と改めて頭を下げる留三郎に慌てて姿勢を正し深々とお辞儀をする。
「学園長先生も仰っていたけれど、少しずつでいいから澪さんのことを教えてほしいな。」
澪はぎこちない笑みを浮かべて尻すぼみな返事を返した。俯きがちに自分の両手に視線を落とす。握りっぱなしだった手のひらにはうっすら爪が食い込んだ痕が残っている。よかったと思う反面、やっぱりどこか薄ら寒い感覚があとを引く。今朝、無理矢理に蓋をした暗く重たい思考がその蓋をこじ開けてしまいそうで、それを真正面から見てしまえばがんじがらめになってしまいそうで無理矢理目を逸らした。
苦しい。
いつからこんなにも息をするのが下手になってしまったのか。何かに身体の中を握りしめられているような感覚に、思わずお腹を抑えて僅かに身を屈めた。考え続けなければと頭の中では分かっているのに、思考を全て他人に丸投げしているとしか思えない選択をしてしまっている。私は悪手ばかり打っているんだろうか。
もう一度最初からやり直せたら、別の最適解に辿り着けるのだろうか。
いや、たられば話なんて元を辿れば「そもそもタイムスリップなんてしなければ」に行き着くだけであまりにも不毛すぎる。結局どれだけ迷っていても時間は待ってはくれない。
重い頭を何とかもたげて善法寺さんと食満さんを見る。
ケタケタと笑い合う二人の話を聴いている私は側から見たらとてもへたっぴな笑顔を浮かべているんだろうなと、まるで他人事のようにぼんやり考えた。
…知ってた。
心の中で独りごちる。一縷の望みなんて叶うはずもないのだ。別に、期待なんかしてなかった。してなかったんだ。そう自分に言い聞かせて障子に目をやる。朝日が登ってきているんだろう。障子紙が青とオレンジのグラデーションに染まっている。
見知った色だ。私が知っている空のはずだ。
きっとそうなのだと、確かめたくて畳に手をつく。ゆっくりと力を込めて腰を上げる。なんとか立ち上がってその場でたたらを踏んだ。緩慢な動作でようやく障子の前に辿り着く。障子にかけた手が震えていたが、気にせずそのままスライドさせた。
軒から覗く空はやっぱり、私が知る空だった。
別にどうと言うことない景色のはずが、訳がわからないくらい安堵をもたらす。思わず障子に寄りかかってしまいガタリと音を立てて大きく開く。突然傾いた身体をなんとか頽れないように保った。
ふと空から視線を外すと、壁に背を預け、片膝を立てて座り込む伊作と目が合った。「…お、おはようございます」と条件反射で挨拶をすると少しの間を置いて「おはようございます」と返ってきた。
しきりに瞬きを繰り返して、思考。
すぐに障子にへっぴり腰でしがみつく姿勢を正して両手の指を突き合わせた。ひどく吃りながら「もしかして、ずっとそこで起きてました?」と問うた。「ああ、いや」と笑う伊作はこちらに気を遣っているのかはっきりとした返事をくれない。それはもう肯定と受け取れる返事で、澪は眉間に皺を寄せるように目をきゅっと閉じた。
いろんな思いが渦巻くが、兎にも角にも言葉を絞り出す。
「ぁの…まだ、多分お時間、あると思うので、…私のことはその、気にせず、お休みになって…くださ、い…」
多大なるご迷惑をかけてしまった身としてはどんな言い方をしても身の程をわきまえてないようにしか聞こえないお願いである。それでも息も絶え絶えに言い切った澪は俯いて息をひそめた。そんな様子の彼女を見て伊作は慌てて立ち上がり「本当に全然大丈夫ですから!気にしないでください」と声をかける。彼も気まずい空気を入れ替えたいのか少し目線を彷徨わせて何か思いついたように「あ、そうだ」と手を叩いた。
「顔!顔洗いたいですよね。僕水を汲んでくるので澪さんは部屋で待っていてください」
そう言って有無も言わさず走り去っていった伊作の背中をポカンと見つめていた。中途半端に伸ばしたてはあてどなく彷徨い、力が抜ける。追いかけようにもすでに見失ってしまった彼をどうやって見つけ出せばいいのか。縁側に物寂しそうに片っぽだけの下駄が置かれていてものすごくやるせない気持ちになる。
結局断りもなく部屋の外に踏み出すことさえなんだか憚られるので障子を開け放ったまま苦い顔を右へ左へと動かすことしかできなかった。
***
「そういえば、昨夜言っていた後輩がね、水を汲みにいくついでに澪さんが目を覚ましたことを伝えたら一緒に朝餉を食べたいと言い出してきたんだけど…」
「へっ、あっ」
洗顔の次は朝餉だと告げられ、目を白黒させる。いたたまれない。あまりにもいたたまれない。喉がきゅうと閉まるような感覚に気を抜いたら意識が飛んでしまいそうで、素直に喜ぶことも遠慮することもできずにただ身を縮こめることしかできない。一晩、身を休めたら改めて話を聞く。ただそれだけで十二分過ぎるのに、あれよあれよとオプションを追加されて彼らの親切心に対して少し、少しだけ恐怖を感じてしまう。返せないのだ。金目のものはなく、残っているのは身ひとつ。この恩情にどう報いることができるのだろう。しかし縋ってしまった手前引き返せないし、そもそも縋って、掴んだその手を自分から安安と離すことができない。
たらりと首筋に汗が流れる。重く暗い思考が立ち込める。これはいけない。早く切り替えなくてはと思うがその焦りがさらに思考を鈍らせる。
善法寺さんが何かおっしゃってる。なんて、なんて言ってる?
「伊作先輩!お姉さん!おはようございまーす!」
スパンと開け放たれた障子と朗らかで元気な子供の声が響く。パンッと風船が弾け飛ぶように目が冴えた。顔を上げるとニコニコと無邪気な笑顔を浮かべた眼鏡の少年とどこか落ち着かない様子でこちらをじっと見つめる切長の目をした少年と目が合った。
それから辿々しくもなんとか自己紹介を終えた澪は乱太郎たちが持ってきた朝餉を前にして箸とお茶碗を持ったまま固まっていた。艶々の卵焼きやいい焼き色がついた魚の干物、具材がふわふわと浮かぶ味噌汁はどれも食欲をそそる見た目をしていて実際一口食べた卵焼きはとても美味しいのだが。食べ物が、喉を通らない。必死に飲み込んで、つっかえそうになりながら、ようやく卵焼きを一切れ食べた澪はひく、ひくと痙攣する喉を押さえたくて何度も唾を飲み込んだ。
刻々と時間は過ぎ、三人の膳をチラリと見れば皆あと少しで食べ切ってしまうところだ。口をつぐんで、汗ばむ手に力を込める。
「お姉さん、食欲ないんすか?」
きり丸がズズズとお味噌汁を飲み干して澪の膳に視線を落とした。あっと小さく声を上げて、肩をすくめる。
「それなら俺もらっていいすか!」
あれと〜それと〜これも!とキラキラした目でおかずを見つめられて呆けてしまった。そろりと隣に座る伊作の様子を伺うと、何か言いたげな様子だったがうん、と頷いて微笑む。澪はほっと息をついてきり丸と乱太郎で分けて、と膳を差し出した。二人は早速おかずを取り合っているが、澪は俯いて「…ごめんなさい」と囁き、両手でお腹を抑えた。
伊作は目の前でおかず争奪戦を繰り広げる乱太郎たちに呆れながらも隣に座る彼女を盗み見る。硬い表情できゅうと手を握りしめる澪は張り詰めた弓のようで。その糸が何かの拍子にぷつりと切れてしまったら倒れてしまうのではないかと、ひどく危うい状態の彼女をヒヤヒヤしながらただ見守ることしかできなかった。
***
「のう、澪さんといったか。そんなに身を固くせず、どうか年寄りの世間話に付き合うと思って楽にしてくれんか。」
「あの、…ヒクッ、…ご、ヒッ、ごめんなさっ、ック、」
白髪おかっぱ頭のご老人に相対するは顔を真っ青にして口元をギュッと覆す澪。涙目になって必死にしゃっくりを止めようとするが緊張と焦りとその他諸々の感情が入り混じって話どころか息すら危うい。見ていられないほど強張っている澪の後ろに控えるは伊作と留三郎。ご老人の隣に控える新野は彼女にお茶を差し出し背中をさすっていた。
遡ることおよそ四半刻。
乱太郎たちと入れ替わるように留三郎が医務室を訪れた。澪の昨晩からあまり変わらない硬い表情と困った様子の伊作の顔を見比べた。
あれから少しでも打ち解けたのかと思いきや案外そうでもないことに驚いたのだ。彼女は目の前に置かれた誰も座っていない座布団を穴が開きそうなほど見つめている。月ヶ瀬澪という女は一体何者なのか、ただそれを知りたくて昨晩のよしみ(と言っても親しくなるほど言葉を交わしてはいない)で同席した留三郎。
もう少し緊張を和らげてあげたらどうだと伊作に矢羽音を飛ばすがすでに手を尽くしてこれなんだよ!と返された。
しばらくして新野と共にご老人が訪れる。恐々と挨拶や礼を済ませた澪はしばらく無言で学園長と目を合わせた。学園の長たる彼が積み上げてきた研鑽は確かなもので、目を見ればその人となりが大体わかる。ふむ、と目の前の女を見定める彼は威圧感は出していないものの威厳が滲み出ていた。思わず目を逸らしてしまわないように澪は唇をかみしめて学園長をまっすぐ捉えていた。その様子に学園長は満足げに口角をあげてパシリと膝を叩く。
「堅苦しい話は無しじゃ!」
と声高らかに発した途端。
「ヒック」
と息の音ひとつ
皆がその音の発生源に目を向けると、澪は目を見開いて口元を押さえていた。再びクッと喉が鳴り、か細い声でしゃっくり混じりに謝罪を口にした。
そうして話は冒頭の流れに繋がる。
縮こまった澪に近寄り肩を叩く学園長は幾らか柔らかな声音で話す。
「まだ詳しくお主の言い分を聞いたわけではないが…その様子からすると帰るための算段もついておらんのじゃろう。どこか、頼れるところはあるのかえ?」
澪は悲しげな表情を浮かべて弱々しく首を振った。
「ならば、しばらくの間この学園で過ごすと良い。」
その言葉にどこか戸惑い、小さく口を開けた澪はでも、と何かを言いかけるが学園長はそれを静止して言葉を被せた。
「ここは忍術学園という。その名の通り、忍者を育てる学舎じゃ。」
忍術、忍者。まるで御伽噺のような言葉が飛び出すが、忍者のような格好をしていると思っていたアレは間違いではなかったんだと目をシパシパさせる。善法寺さんや乱太郎くんはこの学園の生徒だという。にわかには信じがたいがタイムスリップらしき何かを経験してしまった今、忍者の存在もそうかと認めてしまえる気がする。
「お主の身の安全は保証しよう。代わりと言ってはなんじゃが、この学園で少しばかり力を尽くしてはくれぬか?」
澪は両手を握りしめ、息を呑んだ。
ちゃんと、元の場所に帰りたい。詳しいことは何もわからないけれど、今、この希望を手放すメリットはない、と思う。正常な判断かなんてまるでわからないけれど、じゃあ断ったとして、私はこれからどうしていくの?
その答えが見つからない時点で結果は火を見るより明らかだった。
「…せい、いっぱい、っ努めてまいります。
どうか、よろしくお願いいたします。」
***
「…決して、その、ふざけていた訳では、なくて」
「うん、大丈夫だよ。わかっているから。」
ちょっと留三郎!いい加減笑ってないで!と伊作が留三郎を小突く。しかし学園長との対話の中で必死に堪えていた反動なのか、なかなか笑いが収まらない留三郎は口を覆って肩を振るわせていた。
学園長が医務室を去ってようやく喉は元の調子を取り戻したというのに縮み上がったままの肩が震えていた。
できる限り部屋の隅へ寄った彼女の声は本当に小さくて、留三郎の笑いは収まらないしこのままじゃ碌に話もできない。ツボに入った彼を恨めしげに睨んで大きなため息を吐く。一方澪は両手の指を突き合わせて指を遊ばせる。えと…と口ごもりなかなか言い出せずにいると、いつの間にか復活した留三郎が口を開いた。
「俺は俺の良心を信じるぜ。なんてったって学園長先生お墨付きだろ。」
澪は何のことやら分からず忙しなく瞼を閉じては開いて首を傾げた。「よろしくな、澪さん」と改めて頭を下げる留三郎に慌てて姿勢を正し深々とお辞儀をする。
「学園長先生も仰っていたけれど、少しずつでいいから澪さんのことを教えてほしいな。」
澪はぎこちない笑みを浮かべて尻すぼみな返事を返した。俯きがちに自分の両手に視線を落とす。握りっぱなしだった手のひらにはうっすら爪が食い込んだ痕が残っている。よかったと思う反面、やっぱりどこか薄ら寒い感覚があとを引く。今朝、無理矢理に蓋をした暗く重たい思考がその蓋をこじ開けてしまいそうで、それを真正面から見てしまえばがんじがらめになってしまいそうで無理矢理目を逸らした。
苦しい。
いつからこんなにも息をするのが下手になってしまったのか。何かに身体の中を握りしめられているような感覚に、思わずお腹を抑えて僅かに身を屈めた。考え続けなければと頭の中では分かっているのに、思考を全て他人に丸投げしているとしか思えない選択をしてしまっている。私は悪手ばかり打っているんだろうか。
もう一度最初からやり直せたら、別の最適解に辿り着けるのだろうか。
いや、たられば話なんて元を辿れば「そもそもタイムスリップなんてしなければ」に行き着くだけであまりにも不毛すぎる。結局どれだけ迷っていても時間は待ってはくれない。
重い頭を何とかもたげて善法寺さんと食満さんを見る。
ケタケタと笑い合う二人の話を聴いている私は側から見たらとてもへたっぴな笑顔を浮かべているんだろうなと、まるで他人事のようにぼんやり考えた。