春の湊

お名前をどうぞ

とある大学生の女の子
ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
苗字
名前

届け、届けと願う声と共に風に乗って飛んできたそれ。
真っ白で、太陽の光を目一杯に浴びて光り輝いていて、その眩しさに目を瞑りそうになったけれど、それでも必死に目を開けて行方を追った。
慣れない草履で走ったからか、砂利が入ってきて踏み込む度にちょっぴり痛かった。
絶対に逃したくなくて、地面を蹴って。思いっきりジャンプして。太陽と紙飛行機が重なって。

次の瞬間には思いっきり水面に身体が打ち付けられて、口の中からたくさんの空気が一気に溢れ出した。上へ上へと上がっていく気泡が光り輝いていて、水で揺らぐ視界が青く澄んでいた。
慌てて水底を蹴って浮上して、肌が空気にさらされた感覚に安堵した。息を吸う度鼻の奥がツンと痛かった。池の水か、はたまた涙か。ぼやける視界が煩わしくて腕で拭い、ようやく見えたそれに心が震え上がった。

「とどいた…」

水に濡れてカタチが崩れているけれど、確かにそれは彼らから届いた紙飛行機だった。
別になんの変哲もないそれが空を舞う様子はやけにキラキラしていた。絶対、絶対にこの手で掴み取らなければならないと、そう思った。
そして、手の中にある歪な紙飛行機はそれでもやはり輝いていた。

嬉しくて嬉しくて。池の水の冷たさなんか微塵も感じないくらい芯からぶわりと熱が広がっていくような心地がした。身体がうずうずして、舞い上がるような気持ちを唇を噛み締めて堪えた。

「届いたよぉ〜!」

精一杯の声が青い空にこだました。
ワッと喜ぶは組の子達がすごく嬉しそうに笑っているから釣られて笑った。子供達の後ろには大きく口を開けて笑う土井さんがいた。また情けない姿を見られちゃったことが恥ずかしくて、でもあんな風に笑い飛ばしてくれるのならいいかなと思えた。

目を閉じ、紙飛行機を大切に大切に胸に抱えて、高揚感で震える息を深呼吸で整える。私もあの子達に何かをあげたくて、もっともっと喜んで、笑ってほしくて。池に落ちる瞬間偶然見つけた空に浮かぶ光の環、日暈を指差して教えてあげると子供達は窓から身を乗り出してはしゃいでいた。一年は組の教室以外にもちらほらと窓から顔を覗かせる生徒がいて、皆一様にポカンと口を開けて空を見上げているものだから何だか可愛くてちょっぴり笑ってしまった。

そうしてふわふわと宙に浮くような気持ちでいると遠くから鐘の音が聞こえて。

「いつまで池の中にいるつもりだバカタレ!!」

校庭の隅からけたたましい声が響き渡った。浮ついた心を瞬時に撃ち落とされた心地がして、声のした方に顔を向ける。

「し、しおえさん…」

ズンズンと駆け寄ってくる彼の形相に肩を強張らせ慌てて池の淵に手をついた。冷静に考えてみれば、いや、冷静に考えずとも彼のいう通りいつまでも池の中で呑気に笑っているなんておかしなことで。自分の失態に頭を抱えたくもなるが兎にも角にも池から出なければと腕に力を込める。胸下あたりまでの水深とうっすら苔の生えた岩のせいでうまく上がれずにいると、とうとう文次郎が目の前までやって来た。岩にへばりついた情けない状態を鋭い目付きで見下ろされ思わず顔が引き攣る。

「す、すみません…」

息を吐くように謝罪の言葉を口にすると文次郎は眉間に皺を寄せて大きなため息をついた。

「…病み上がりなのでしょう。いつまで池の中にいるおつもりです。」

先程までの勢いはどこへやら、口ごもりながらそう呟いた文次郎にはたまらず目を見開いた。ポカンとした表情のが文次郎を見つめて小さく首を傾げていると、彼は煩わしそうに頭を掻きむしりながら大声をあげる。

「だから!さっさと上がる!!」
「はっはい!すみません!」

文次郎の気迫に気押されたは慌てて這い上がろうとする。そんな中、ズイと差し出された文次郎の手の平が視界に飛び込んできた。動きを止めて彼の手と彼の顔を見比べる。
岩についた手が僅かに震えた。けれど、ゆっくりとその手を伸ばして差し出された手のひらに自分のそれを重ねた。

力強く引っ張られて池から上がると水を吸った着物が地面の色を変えた。ぽたぽたと落ち続ける水滴をそぞろに眺める。不意に握りしめた文次郎の手が緩んだ気がしてハッと顔を上げた。

「あ、ありがとうございました。すみません、迷惑、かけてしまって」

地べたに座り込むに合わせるように片膝をついた文次郎は一瞬だけ視線を交わらせるも、すぐに逸らしてしまった。

「…怪我は」
「いえっ、特に、ありません…」

二人の間に気まずい空気が流れ会話が途切れる。
緊張感が漂う中、意を決したが口を開いたそのとき。

「っくしゅ、」

この空気感を打破したくて開いたはずの口から漏れたのはまさかのくしゃみ。池の水で濡れそぼっているのに、ドッと冷や汗が吹き出してきた。

や、やってしまった…!
なんて間の悪い…!!

絞り出すような声で「すみません…」と謝罪するも沈黙は深まるばかりだった。両手を握り締めれば濡れた手に砂がジャリジャリと引っ付く。
息を潜めて俯いていると、文次郎が頭巾を解いてそれを手渡してきた。

「今はこれしかないので勘弁してください。」
「いえ、そんな!濡れてしまうので…!」
「それが濡れるよりも貴女にまた体調を崩される方が面倒なんです。
軽く拭いたら着替えに。」

文次郎のごもっともな意見にぐうの根もでず、「ありがとうございます」と素直に受け取った。サッと水気を拭き取り立ち上がるも着物から延々と水が滴り落ちる。裾を絞れば足元にはあっという間に水溜りができた。たまらず苦笑が溢れてしまう。

「あ、着替え…」

シナに手渡された着物は三着。うち一着はこの通りびしょ濡れで、残り二着は今朝方洗濯したばかりだったことに気づいた。

「替えがないんですか」
「えっ、と、その、…洗濯中で。
あの、でもとりあえずそれに着替えるので!すみません本当に…」

あまりのタイミングの悪さに心の中で嘆きながら口早に述べ文次郎の方に向き直った。けれど文次郎はこちらに背を向けて立ってる。腕を組んだ彼はため息をついて僅かに首を動かして呟いた。

「…致し方ないか。文句は言わないでくださいよ」


***


「仙蔵入るぞ」
「なんだ文次郎、随分早いお帰りだな。もう鍛錬はいいの、か…」

つい数刻前に鍛錬だと出て行った同室の男を茶化すように出迎えた仙蔵が目にしたのは全身ずぶ濡れのだった。

「文次郎お前まさか…ついに手まで…」

眉を寄せて引いたような表情を浮かべれば、「バカタレ!」と怒声が飛んできた。

「んなわけあるか!そこまで落ちぶれてねえよ!」
「ま、そりゃそうか。」

ケロリとして文次郎の怒りを受け流せば拍子抜けした彼がこれでもかと目尻を釣り上げて恨めしそうに睨むものだから、大層愉快でつい声を上げて笑ってしまう。

「いやあ、まさかお前がさんを連れてくるだなんて思ってもいなかったから。ついいじりたくなってしまった。」
「仙蔵お前…」
「ほら何してる。どうせさんに着替えでも貸そうと連れてきたんだろう。さっさとしないと彼女が風邪を引いてしまうぞ」

誰のせいで余計な口を聞いてると思っているんだ、と言いたげな文次郎は荒く足音を立てながら押し入れの方に向かっていく。そんな彼を横目にの様子をチラリと窺えば、彼女は緊張した面持ちでキョロキョロと視線を彷徨わせていた。

「是非とも何があったのか聞かせてくださいね」
「えっ」

目を瞬かせて戸惑うの様子にくつくつと笑いが込み上げてくる。
こんな面白そうな状況、みすみす見逃してたまるものかと心の中でほくそ笑みながらと文次郎を見比べた。

「無いよりはマシでしょう。これに着替えてください」
「何から何までありがとうございます…すみません、お手間ばかりとらせてしまって」

何度も頭を下げながら文次郎から着物を受け取った彼女はそれを見つめたままはた、と動きを止める。するとそんな彼女を見て何を思ったのか文次郎が慌てて声を荒げた。

「それは忍務用のもので!決して俺の趣味なんかじゃないぞ!?」
「えっあっはいっ存じております…!」
「動揺しまくりで逆に怪しいぞ文次郎」
「だああ仙蔵お前は黙っとれ!」

飛びかかってくる文次郎を器用に避け部屋の外に出る。

「文次郎、お前がそこにいてはさんがいつまで経っても着替えられないじゃないか。早く出たらどうだ」
「だから誰のせいで!クソっ!」

実にいじりがいのある男だ。まだまだ物足りないところだがいつまでも彼女をびしょ濡れのままいさせるわけにもいかないのでこのくらいにしておこう。

そうして廊下で立ち往生していた彼女を部屋に押し込んだ文次郎は戸を閉め長い長いため息を吐いた。廊下の縁に座りながらそんな彼の様子を観察しているとギロリと睨まれる。

「仙蔵…お前面白がってるだろ」
「そりゃあ、面白がらずにはいられまいよ。で、何があったんだ?」
「知らん。彼女にでも聞け。俺は鍛錬に戻る」

フンとそっぽを向いて廊下を歩き出した文次郎を呆れたような目で見つめる。

「まだ意地を張る気か」

そう投げかけると文次郎はピタリと足を止めた。

「いい加減ちゃんとさんと向き合え。いい機会だろう」

「…彼女は、俺のことが苦手なんだろう。
苦手な奴とわざわざ対峙する必要もあるまい。」

「初対面で啖呵を切ってくるような奴を好く物好きはそうそういない」

頬杖をつきながらそう呟けば顔を顰めた文次郎がこちらを振り返る。

「嫌味か」
「ああ、嫌味だ。」

「お前のため息を聞くのはほとほと飽きたんだ。陰気臭いお前は気持ちが悪くて仕方がない。さっさとその悩みの種を解決してくれ。」

誰だって、この男のようになり得たのだ。
突如として現れた身元不明の彼女を疑わずにはいられない。そもそも、学園長先生は全生徒の前で公に彼女を保護するとは仰っていない。おそらくは意図してやったこと。決して彼女を監視することを禁じたりはしなかったのは己の目で見て判断せよということなのではないか。
自分だってきっかけさえあれば、あるいは。

だからこそ、と言うのは何か違うのかもしれない。
ただ、この不器用で頭が硬いこの男だけが勘違いされたままというのは純粋に嫌だと思ったのだ。

「安心しろ。お前だけじゃ気の利いた一言も言えやしないんだからこの私が同席してやる。」

バツの悪そうな表情を浮かべる文次郎に歩み寄る。

「いつまでも面白がりやがって…そのニヤケ面をどうにかしろよ」
「何を。ここまでお膳立てしてやって、間まで取り持ってやるんだ。感謝して欲しいくらいなんだがね」

「ハア…もう何とでも言え…」

眉間を抑えながら項垂れる文次郎をよそに仙蔵は息を吐いて軒から覗く空を見上げ、僅かに目を見張り、そしてゆるりと目を細めた。

31/31ページ
スキ