ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
お名前をどうぞ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
見知らぬ男性の顔、漢方のような香り、所々ささくれ立った畳の感触
目に飛び込んでくる情報は悲しいかなあまりにもリアルで。夢であれ、次に目覚めたときには元の神社に、自分の家のベッドに戻っていますようになんて願いが全く聞き届けられていないことを痛感させられて目眩がした。
わからない。何もわからない。
この人たちはなんで忍者みたいな服装をしているんだろう。机や、棚や部屋に置いてある家具がまるで昔話に出てくるものみたい。足元に掛かる布団はちょっと薄っぺらくて、ゴワゴワしている。背中に当たる棚か何かは、鉄らしい何かで取っ手ができていて、それが食い込む感覚はもう疑いようがない。
人工物が見当たらない草原もこの古めかしい空間も大掛かりな舞台やセットであればどれだけよかったか。違和感しかないけれど彼らはこの空間に自然と馴染んでいて、自分が、自分だけがこの空間で異質なのだと思い知らされる。
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃に息を詰まらせることしかできなかったが、不意に聞こえてきた男性の声に耳をやる。そうして男性に言われるがまま息をなんとか整えてここはどこかと尋ねれば、学舎だと言う。
手習、学舎。
まるで昔のひとみたいな言葉を使うから、思わず復唱してしまう。学校、今私がいるのは学校なんだ。
ここ近辺に学校なんてなかった。そもそも私が知っている学校とまるで違う。
バカみたいな一つの仮説が脳裏をよぎる。信じたくないけど、多分、間違いない。ぞわりと鳥肌が立って、頭からいっぱいの冷水を被ったみたいに冷たくなる。
夢じゃ、ない。
私の、私がいた、場所じゃない。
波のように押し寄せてくる孤独感と恐怖に飲み込まれて上手く息が吸えない。背中に当たる金属が冷たくて、痛くて、握りしめた手のひらに爪が食い込めば食い込むほど意識が覚醒していく。
「あの」と先ほどとは違う、男性の声が部屋に響いた。
そうだ。人が、いるんだ。私一人じゃない。さっきの声も、今の声も、すごく穏やかな声だ。しっかりしなきゃ。俯いていたらダメだ。
震えて思うように動かない身体に力を入れて前を向く。ゆっくりと目線をあげればこちらの様子を心配そうに伺う青年と目が合った。柔和な笑みを浮かべる彼は気遣いの言葉をかけてくる。
神様は私を見放さなかったんだと思った。見ず知らずの私の身を案じてくれる人が目の前にいる。嘘か本当かなんてそんなことこれっぽっちも疑いもせず、ただ投げかけられる彼の言葉が、声が優しいから。それだけでよかった。
上手く声が出せないから、首を振って答える。
そうして彼は自分と、二人の男性の名前を口にする。なんて古風な名前だろうかと思いながら、ハッと息を呑んだ。彼らに答えるようにどうにか自分の名前を告げた。
「今日の夕方ごろ、澪さんが草原で倒れているのを見かけて、それでここまで運んできたんだ。」
「どうしてあの場所にいたのかとか、色々と聞きたいことはあるんだけれど…きっとまだ澪さんも落ち着かないと思うから。
今日はゆっくり休んで明日、改めて話をしたいんだ」
善法寺さんは端的にここに至るまでの経緯を説明してくれて、混乱しないように、ちゃんと落ち着いて話ができるようにと物腰柔らかに要件を伝えてくれた。見ず知らずの、自分で言うのもなんだがどこか浮いている怪しい人物を一晩泊めてくれるなんて、あまりにも私に都合が良過ぎて落ち着かない。いろんな考えが頭の中をぐるぐるとよぎるもすでにキャパを超えていてまともな思考ができない。
回らない頭でなんとか謝罪と感謝の言葉を搾り出し畳についた指先に額を押し付ける。ただただこの夢のようで夢じゃない現実から抜け出したくて、そのためには今目の前で差し伸ばされた手に縋り付く他ないと思った。
不意に肩に触れた男性の手に全身が強張る。ゆっくりと摩ってくれるその手が温かくて、時期に見合わずかじかむ指先に彼の熱がじんわりと伝わってきて、苦しかった息が、ほんの少しだけ楽になった。
***
ポツンとひとり取り残された部屋で澪は息を吐く。
人がいたら落ち着かないだろうとみんな出払ってしまった。空っぽの頭でもう一度部屋を見渡す。
和箪笥、と言うには棚数が多いそれは多分薬棚。天井に電気はついていなくて、薄明かりは蝋燭によるもの。ちょっぴり祖父母の家の雰囲気を思い出すような、でも決してここまで古めかしくはなかったと思う。
布団に足先を突っ込んで膝を抱える。人工的な明かりがないとここまで心細いのか。きっとこの心細さは明かりがないからってだけじゃないけれど。無性にこの空間が怖くてひたすら腕をさすった。
息苦しくて、胸元に目をやる。
今となっては悲しいくらいに着崩れた浴衣。着慣れないそれはなかなか違和感が拭えず、でもちょっとの息苦しさも風情だと楽しんで、友達と可愛いねと言い合うことができたならそれだけで幸せで全然平気だったのに、今の気分じゃ全身を締め付けるようにしか感じられなくて息がつまる。
「お祭り…」
行くはずだったんだけどなぁ…お腹に巻き付く帯を握りしめる。本来ならば今頃は友人と屋台を巡って会話に花を咲かせていたはずなのだ。お気に入りの柄を見つけて、何度も着付けを練習して、目一杯可愛く着飾って家を飛び出したのに。
何がいけなかったんだろうか。
枕元には髪飾りがご丁寧にお盆の上に置かれていて、おぼつかない手で髪に触れる。唇を噛みながら、ゆっくりとピンとゴムを外して髪を解いてゆく。少し癖のついた髪の毛を無心で撫でて、髪を巻き込んだまま顔を覆った。必死に声を押し殺して、深く息を吸う。へたっぴで何度も喉が震えて情けない声と共に息を吐いた。
「澪さん」
障子の向こうから名前を呼ばれ、驚いて息を潜める。
どうしよう、うるさかった?もしかしてずっと待っていた?さっきまでの感傷がすっ飛んで熱く赤くなっていた顔の熱は急速に冷めてサッと青くなる。慌てて返事をすれば変に声が裏返ってしまい、どうしようもなく情けなくてぎゅっと目を瞑った。
「ゆっくり休んでなんて言ったけど、多分、落ち着かないよね。お茶を淹れてきたんだ。胃に温かいものを少しでも入れたほうがちょっとは気分が落ち着くかなって」
開けてもいい?と問われて駄目ですなんて言うはずもなく、はいと尻すぼみな返事をして急いで軽く身なりを整えた。開いた障子からは淡い月明かりが漏れてほんのりと部屋を照らす。
差し出された湯呑みからは湯気がたちのぼっていて、至れり尽くせりなこの状況に困惑する。手を出し渋っていると彼は特にこちらを伺うこともなくお茶を啜っていたため、ちょっとのいたたまれなさを押し殺しておずおずと湯呑みを引き寄せた。
「…い、ただき、ます…」
ぽそぽそと呟いて湯呑みを両手で包むとその温かさに思わず力が抜ける。そっと唇を湯呑みに触れて、こくりと喉を鳴らす。舌に伝わる熱や鼻腔をくすぐる緑茶の香りにほう、と息がこぼれた。針のように研ぎ澄まされた神経が落ち着きを取り戻していく。
引っ込んでいたはずの涙がたまらず一粒こぼれ落ちて、澪は慌てて目元を押さえた。
「あっ、あの、ごめっ…なさ…」
「大丈夫」
あまりにも気を遣われてばかりで、それでもまだこんなに情けない姿を晒してとにかく謝りたかった。でもそんな謝罪の言葉を彼は遮り、大丈夫、大丈夫だからと何度も何度もそう言った。
いつしかお茶もすっかり冷めて、開けたままの障子の外から聞こえる虫の音だけが部屋を包んでいた。どちらが喋るでもなくシンと静まり返っているが、彼も、私も互いに急かすことなくただこの静寂に耳を傾けていた。そんな中、先にその静寂を破ったのは澪だった。
「…善法寺、さん」
あの、えっと、っと口ごもり、囁くように名を呼ぶ。伊作は「はい」と返事をする。ただその一言の返事が返ってくることもおっかなびっくりしてしまい、性懲りも無く緊張で強張る。特段何か話したいことがあったわけでもないのだが、こうして名を呼んでしまったため、澪はしばらく目線を彷徨わせた。そしてようやく伊作と視線を交わらせると、「ありがとうございます」と頭を下げた。
伊作が小さく噴き出す。彼の笑い声に唇を噛み締めて肩をすくませていると「そんなに何度も畏まらないでください」と声が降ってくる。そんなこと言ったって。もし善法寺さんに見つけてもらわなければ今頃私は何にもない真っ暗な草原に取り残されていたかもしれないのに。感謝せずにはいられないのだ。
「澪さんを見つけたのは僕の後輩なんです。澪さんが目覚めるまで看病していたのは僕だけじゃないんですよ。」
「澪さんのお礼を僕が独り占めしちゃなんだか申し訳なくて。だからどうかその感謝の言葉は後輩たちに聞かせてあげてください。」
きっと、誠実な人なんだと思う。曇り一つない彼の言葉はストンと胸の中に落ちていく。気が動転していた私を落ち着かせるよう声をかけてくれた新野さんももちろん、善法寺さんとお話をすることができて本当によかったと思った。この目は、この声は、この言葉は全部信用できる。
グッと手を握りしめて小さく返事をした。
「お茶もすっかり冷めてしまったし…もう亥の刻をすっかり過ぎてしまってるから、布団に入って少しでも体を休めてください。」
いのこく…とただ音だけを真似る。ちょっとも理解するための頭が働かないけど多分夜遅い時間なんだろう。湯呑みをお盆に乗せて腰をあげた伊作を目で追う。
「僕は医務室を出てすぐそこにいるので、何かあったら呼んでくださいね」
そう言って静かに障子を閉めた。すぐに障子に写っていた影はなくなり、とうとう一人っきりになる。
ヘタリと足を崩して俯いた。お茶を飲んで落ち着きはしたものの頭の中はいろんな情報で溢れかえっていて眠れたものではない。多分、それもわかっていて、彼は「少しでも体を休めて」と言ったんだろう。
全部、見透かされているな。
頬に手を当てて、小指で目尻をそっと撫でる。さらりとしていて、熱もない。
大丈夫。もう、大人なんだ。泣いてばかりいちゃだめだ。
ピクッと震えた頬をぎゅっと押さえる。そして徐に帯に手を添えてゆっくりと結び目を解いてゆく。完全にとってしまうわけにもいかないため、少しばかり緩めて巻きつけ直し、手前で軽く結んだ。そうして息を吸い込むと今までよりも深く息を吸うことができた。
頭に酸素が行き渡れば停止した思考も少しは動きを取り戻すだろう。胸に手を添えて深く、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
考えることを、止めちゃ駄目だ。
大丈夫、大丈夫。
目を閉じて、何度も心の中で唱える。
なんだかざわつくような、肌がヒリヒリするような感覚も、全部全部なんてことないと決め込んで、そのうち眠気が来たのなら布団に倒れ込んで寝てしまおう。
ほんのわずか、次に目を開けた時にはどうか見慣れた風景が飛び込んで来ますようにと望みを託して夜明けを待った。
目に飛び込んでくる情報は悲しいかなあまりにもリアルで。夢であれ、次に目覚めたときには元の神社に、自分の家のベッドに戻っていますようになんて願いが全く聞き届けられていないことを痛感させられて目眩がした。
わからない。何もわからない。
この人たちはなんで忍者みたいな服装をしているんだろう。机や、棚や部屋に置いてある家具がまるで昔話に出てくるものみたい。足元に掛かる布団はちょっと薄っぺらくて、ゴワゴワしている。背中に当たる棚か何かは、鉄らしい何かで取っ手ができていて、それが食い込む感覚はもう疑いようがない。
人工物が見当たらない草原もこの古めかしい空間も大掛かりな舞台やセットであればどれだけよかったか。違和感しかないけれど彼らはこの空間に自然と馴染んでいて、自分が、自分だけがこの空間で異質なのだと思い知らされる。
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃に息を詰まらせることしかできなかったが、不意に聞こえてきた男性の声に耳をやる。そうして男性に言われるがまま息をなんとか整えてここはどこかと尋ねれば、学舎だと言う。
手習、学舎。
まるで昔のひとみたいな言葉を使うから、思わず復唱してしまう。学校、今私がいるのは学校なんだ。
ここ近辺に学校なんてなかった。そもそも私が知っている学校とまるで違う。
バカみたいな一つの仮説が脳裏をよぎる。信じたくないけど、多分、間違いない。ぞわりと鳥肌が立って、頭からいっぱいの冷水を被ったみたいに冷たくなる。
夢じゃ、ない。
私の、私がいた、場所じゃない。
波のように押し寄せてくる孤独感と恐怖に飲み込まれて上手く息が吸えない。背中に当たる金属が冷たくて、痛くて、握りしめた手のひらに爪が食い込めば食い込むほど意識が覚醒していく。
「あの」と先ほどとは違う、男性の声が部屋に響いた。
そうだ。人が、いるんだ。私一人じゃない。さっきの声も、今の声も、すごく穏やかな声だ。しっかりしなきゃ。俯いていたらダメだ。
震えて思うように動かない身体に力を入れて前を向く。ゆっくりと目線をあげればこちらの様子を心配そうに伺う青年と目が合った。柔和な笑みを浮かべる彼は気遣いの言葉をかけてくる。
神様は私を見放さなかったんだと思った。見ず知らずの私の身を案じてくれる人が目の前にいる。嘘か本当かなんてそんなことこれっぽっちも疑いもせず、ただ投げかけられる彼の言葉が、声が優しいから。それだけでよかった。
上手く声が出せないから、首を振って答える。
そうして彼は自分と、二人の男性の名前を口にする。なんて古風な名前だろうかと思いながら、ハッと息を呑んだ。彼らに答えるようにどうにか自分の名前を告げた。
「今日の夕方ごろ、澪さんが草原で倒れているのを見かけて、それでここまで運んできたんだ。」
「どうしてあの場所にいたのかとか、色々と聞きたいことはあるんだけれど…きっとまだ澪さんも落ち着かないと思うから。
今日はゆっくり休んで明日、改めて話をしたいんだ」
善法寺さんは端的にここに至るまでの経緯を説明してくれて、混乱しないように、ちゃんと落ち着いて話ができるようにと物腰柔らかに要件を伝えてくれた。見ず知らずの、自分で言うのもなんだがどこか浮いている怪しい人物を一晩泊めてくれるなんて、あまりにも私に都合が良過ぎて落ち着かない。いろんな考えが頭の中をぐるぐるとよぎるもすでにキャパを超えていてまともな思考ができない。
回らない頭でなんとか謝罪と感謝の言葉を搾り出し畳についた指先に額を押し付ける。ただただこの夢のようで夢じゃない現実から抜け出したくて、そのためには今目の前で差し伸ばされた手に縋り付く他ないと思った。
不意に肩に触れた男性の手に全身が強張る。ゆっくりと摩ってくれるその手が温かくて、時期に見合わずかじかむ指先に彼の熱がじんわりと伝わってきて、苦しかった息が、ほんの少しだけ楽になった。
***
ポツンとひとり取り残された部屋で澪は息を吐く。
人がいたら落ち着かないだろうとみんな出払ってしまった。空っぽの頭でもう一度部屋を見渡す。
和箪笥、と言うには棚数が多いそれは多分薬棚。天井に電気はついていなくて、薄明かりは蝋燭によるもの。ちょっぴり祖父母の家の雰囲気を思い出すような、でも決してここまで古めかしくはなかったと思う。
布団に足先を突っ込んで膝を抱える。人工的な明かりがないとここまで心細いのか。きっとこの心細さは明かりがないからってだけじゃないけれど。無性にこの空間が怖くてひたすら腕をさすった。
息苦しくて、胸元に目をやる。
今となっては悲しいくらいに着崩れた浴衣。着慣れないそれはなかなか違和感が拭えず、でもちょっとの息苦しさも風情だと楽しんで、友達と可愛いねと言い合うことができたならそれだけで幸せで全然平気だったのに、今の気分じゃ全身を締め付けるようにしか感じられなくて息がつまる。
「お祭り…」
行くはずだったんだけどなぁ…お腹に巻き付く帯を握りしめる。本来ならば今頃は友人と屋台を巡って会話に花を咲かせていたはずなのだ。お気に入りの柄を見つけて、何度も着付けを練習して、目一杯可愛く着飾って家を飛び出したのに。
何がいけなかったんだろうか。
枕元には髪飾りがご丁寧にお盆の上に置かれていて、おぼつかない手で髪に触れる。唇を噛みながら、ゆっくりとピンとゴムを外して髪を解いてゆく。少し癖のついた髪の毛を無心で撫でて、髪を巻き込んだまま顔を覆った。必死に声を押し殺して、深く息を吸う。へたっぴで何度も喉が震えて情けない声と共に息を吐いた。
「澪さん」
障子の向こうから名前を呼ばれ、驚いて息を潜める。
どうしよう、うるさかった?もしかしてずっと待っていた?さっきまでの感傷がすっ飛んで熱く赤くなっていた顔の熱は急速に冷めてサッと青くなる。慌てて返事をすれば変に声が裏返ってしまい、どうしようもなく情けなくてぎゅっと目を瞑った。
「ゆっくり休んでなんて言ったけど、多分、落ち着かないよね。お茶を淹れてきたんだ。胃に温かいものを少しでも入れたほうがちょっとは気分が落ち着くかなって」
開けてもいい?と問われて駄目ですなんて言うはずもなく、はいと尻すぼみな返事をして急いで軽く身なりを整えた。開いた障子からは淡い月明かりが漏れてほんのりと部屋を照らす。
差し出された湯呑みからは湯気がたちのぼっていて、至れり尽くせりなこの状況に困惑する。手を出し渋っていると彼は特にこちらを伺うこともなくお茶を啜っていたため、ちょっとのいたたまれなさを押し殺しておずおずと湯呑みを引き寄せた。
「…い、ただき、ます…」
ぽそぽそと呟いて湯呑みを両手で包むとその温かさに思わず力が抜ける。そっと唇を湯呑みに触れて、こくりと喉を鳴らす。舌に伝わる熱や鼻腔をくすぐる緑茶の香りにほう、と息がこぼれた。針のように研ぎ澄まされた神経が落ち着きを取り戻していく。
引っ込んでいたはずの涙がたまらず一粒こぼれ落ちて、澪は慌てて目元を押さえた。
「あっ、あの、ごめっ…なさ…」
「大丈夫」
あまりにも気を遣われてばかりで、それでもまだこんなに情けない姿を晒してとにかく謝りたかった。でもそんな謝罪の言葉を彼は遮り、大丈夫、大丈夫だからと何度も何度もそう言った。
いつしかお茶もすっかり冷めて、開けたままの障子の外から聞こえる虫の音だけが部屋を包んでいた。どちらが喋るでもなくシンと静まり返っているが、彼も、私も互いに急かすことなくただこの静寂に耳を傾けていた。そんな中、先にその静寂を破ったのは澪だった。
「…善法寺、さん」
あの、えっと、っと口ごもり、囁くように名を呼ぶ。伊作は「はい」と返事をする。ただその一言の返事が返ってくることもおっかなびっくりしてしまい、性懲りも無く緊張で強張る。特段何か話したいことがあったわけでもないのだが、こうして名を呼んでしまったため、澪はしばらく目線を彷徨わせた。そしてようやく伊作と視線を交わらせると、「ありがとうございます」と頭を下げた。
伊作が小さく噴き出す。彼の笑い声に唇を噛み締めて肩をすくませていると「そんなに何度も畏まらないでください」と声が降ってくる。そんなこと言ったって。もし善法寺さんに見つけてもらわなければ今頃私は何にもない真っ暗な草原に取り残されていたかもしれないのに。感謝せずにはいられないのだ。
「澪さんを見つけたのは僕の後輩なんです。澪さんが目覚めるまで看病していたのは僕だけじゃないんですよ。」
「澪さんのお礼を僕が独り占めしちゃなんだか申し訳なくて。だからどうかその感謝の言葉は後輩たちに聞かせてあげてください。」
きっと、誠実な人なんだと思う。曇り一つない彼の言葉はストンと胸の中に落ちていく。気が動転していた私を落ち着かせるよう声をかけてくれた新野さんももちろん、善法寺さんとお話をすることができて本当によかったと思った。この目は、この声は、この言葉は全部信用できる。
グッと手を握りしめて小さく返事をした。
「お茶もすっかり冷めてしまったし…もう亥の刻をすっかり過ぎてしまってるから、布団に入って少しでも体を休めてください。」
いのこく…とただ音だけを真似る。ちょっとも理解するための頭が働かないけど多分夜遅い時間なんだろう。湯呑みをお盆に乗せて腰をあげた伊作を目で追う。
「僕は医務室を出てすぐそこにいるので、何かあったら呼んでくださいね」
そう言って静かに障子を閉めた。すぐに障子に写っていた影はなくなり、とうとう一人っきりになる。
ヘタリと足を崩して俯いた。お茶を飲んで落ち着きはしたものの頭の中はいろんな情報で溢れかえっていて眠れたものではない。多分、それもわかっていて、彼は「少しでも体を休めて」と言ったんだろう。
全部、見透かされているな。
頬に手を当てて、小指で目尻をそっと撫でる。さらりとしていて、熱もない。
大丈夫。もう、大人なんだ。泣いてばかりいちゃだめだ。
ピクッと震えた頬をぎゅっと押さえる。そして徐に帯に手を添えてゆっくりと結び目を解いてゆく。完全にとってしまうわけにもいかないため、少しばかり緩めて巻きつけ直し、手前で軽く結んだ。そうして息を吸い込むと今までよりも深く息を吸うことができた。
頭に酸素が行き渡れば停止した思考も少しは動きを取り戻すだろう。胸に手を添えて深く、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
考えることを、止めちゃ駄目だ。
大丈夫、大丈夫。
目を閉じて、何度も心の中で唱える。
なんだかざわつくような、肌がヒリヒリするような感覚も、全部全部なんてことないと決め込んで、そのうち眠気が来たのなら布団に倒れ込んで寝てしまおう。
ほんのわずか、次に目を開けた時にはどうか見慣れた風景が飛び込んで来ますようにと望みを託して夜明けを待った。