ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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「三郎なに見てるんだ?」
「おー…」
教室の窓に頬杖をついてぼんやりとしていると背後から声をかけられた。吹き込んでくる風は夏らしく生ぬるくて敵わない。返事もそこそこにため息をついていると「なんだどうした?」と八左ヱ門が側に寄ってくる。
「別になんでもないって」
「別にって…あからさまに元気ないじゃんか」
窓の縁に腰を預けた八左ヱ門が視線の先を追うように外に目をやった。
僅かに顔を顰めて視線を逸らす。そのまま席に着こうかといそいそ身体を捻るも八左ヱ門に呼び止められる。
「三郎お前…澪さんのこと見てたのか?」
コイツ…絶対に面白がってやがる…
ニコニコだか、ニヤニヤだか、とにかくいけすかない表情をしている八左ヱ門をジトリと睨みつければさらに愉快そうに笑った。声をかけてきたのが雷蔵だったら良かったのに、と教室の方を横目に見るも雷蔵の姿はまだない。
重苦しいため息を再び吐いていると八左ヱ門が彼女を見つめながら「そういえば」と話を切り出してきた。
「澪さん元気になってからさ、ちょっと雰囲気変わったって兵助言ってたな。なんかこう、明るくなったっていうか?雰囲気が柔らかくなったらしい。」
「前から気が抜けるほど間抜けな雰囲気じゃないか。平和ボケもいいところだ」
「お前さぁ…んな棘のある言い方やめろよなぁ」
八左ヱ門の苦言を聞き流しながら窓辺に肩を預けて腕を組む。
校庭の隅に見える彼女は何やら資料らしき束を抱えてキョロキョロと辺りを見渡しては草木の隙間やら岩陰に落ちている紙を拾い集めていた。大方、へっぽこ事務員小松田さんの尻拭いでもしているのだろう。
何故校庭なぞで資料をばら撒いてしまうんだ小松田さんは。そして当の本人は風に飛ばされた一枚の紙を追っていつの間にか遠くへ行ってしまう始末だし。アイツ一人でいてはそこらへんの罠に簡単にかかってしまうじゃないか。危なっかしいことこの上ない。
「この間、実習の帰りで昼食食べるの遅くなったんだけどたまたま食堂のおばちゃんが席を外しててさ。澪さんに配膳してもらったんだ。」
へえ、と眉を軽くあげて相槌を打つ。
彼女が食堂の手伝いをするときは決まってこちらに背を向けるように皿洗いだの片付けだのをしている。背中を丸めてできるだけ存在感を消すように息を押し殺している様を見ては窮屈そうだなと傍目に見ていたものだ。そういえば、ついこの間復帰したばかりの彼女の様子はどうだったろうかと記憶を辿る。
「『お残しはダメですよ』って、ちっせぇ声でそう言ったんだよ。おばちゃんの真似って気づいて笑っちまったら澪さんめっちゃ顔真っ赤にして照れてさ。おかずちょっと多めにするから内緒にしてくれって言われたんだ」
「全然話したことなくてどんな人なのかイマイチ掴めてなかったけど、案外お茶目なところあるんだなーって。」
「お茶目ねえ…で、お前は早速約束を破ってる訳だがいいのか。」
「あっやべ、」
阿呆だな…と呆れて腕を組み直した。
金楽寺に行って以降、俺はあの人とまともに会話なんかしていない。ちょっと前までは寝る間も惜しんで監視だってしてたが、それもやめた。
『大丈夫ですから!』
耳にこびりついて離れない、ひどく引き攣った小さな叫び声。
あの日はっきりと、あの人に一線を引かれたと悟った。多分、あそこにいたのが俺でなければ。彼女と共に金楽寺に行ったのが雷蔵だったなら。ああはならなかったのではないだろうか。
「三郎って、澪さんのこと嫌いなのか?
いやでもその割に色々気にかけてるよな。え、もしかして好きな人にはちょっかいかける的なそういう…?」
「抜かせ。八左ヱ門お前、」
「やめとけって。絶対逆効果だからそれ」
「だから違うと言っているだろうが!!」
こめかみ辺りをピクつかせながら反論してもヘラヘラ笑ったままの八左ヱ門が軽く受け流すものだから眉間に皺が寄る。
好きであってたまるか。そんなんじゃない。
ただひたすらに苛立たしいんだ。あの人を見ていると変に心がざわついて、息が詰まる。大丈夫だと言うのなら、平気だと言うのなら寸分の隙もないくらい完璧に演じて見せろ!あんな、あんなに下手くそな演技に一体誰が騙されるというんだ。
「あっ!澪さあ〜〜〜ん!!」
頭上から降ってきた声にハッと意識が引き戻される。窓から顔を覗かせると一年は組の教室からきり丸たちが身を乗り出して手を降っていた。それからゆっくりと視線を移せば、彼女ははにかみながら胸の辺りで控えめに手を振り返している。
「澪さんって、一年は組の連中に特に心開いているよな」と呟く八左ヱ門に適当に相槌を打ちながら窓の縁に手をかけた。
「澪さーーーん!!受け取ってーーー!!!」
届けーー!というきり丸たちの掛け声と共に何かが空を切った。真っ白なそれは太陽の光を受けて光っているようにも見えて僅かに目を細めた。
あれは紙でできた何かだろうか。
あの人は慌てた様子で資料の束を岩陰に置いてオタオタと紙の行方を見守っている。風に乗ってゆらゆら揺れながらも段々近付いてくるそれを追いかけて右へ左へとうろつく彼女。
小さく開いていた口をきゅっと閉じて窓の縁にかけた手にほんの少しだけ力が入った。彼女は次第に高度を落とす紙をしっかりと見据えながら後ろに下がる。
あと少し。あと少しで届く。
思いがけず吹いた風が真っ白なその紙をふわりと浮き上がらせてた。バランスを崩したそれは明後日の方向に飛んでいく。きり丸達一年は組の教室の方から「あぁ!」だとか「うわぁぁ!」だとか叫び声が聞こえた。
ああ、きっと無理だ
フッと手の力が抜けて小さく息を溢す。目を伏せて身体を傾けたそのとき、視界の端で彼女の髪の毛が多く靡いた。「えっ!?」と八左ヱ門が驚いたように声を上げる。
駆け抜けて、一瞬。
瞬間、鳴り響いた水音と青空に舞う飛沫。
地面をグッと踏み込んだ仕草も、小袖の裾が大きく捲れるほど高く掲げた腕も、舞う髪の隙間から微かに見えた輝いたような瞳も、全てが目に焼きついて離れなかった。
「澪さん!?」
「おっオイ!!アイツ落ちたぞ!!?」
慌てて窓から身を乗り出す。八左ヱ門も同じように身を乗り出すものだから互いに押し合って少し苦しい。けれどそんなこと気にもならないくらい二人はある一点だけを見つめていた。
視線の先にある池は大きな波紋を描いている。ハラハラしながら見守っていると、池の底からゴポリと空気の泡が競り上がってきて水面が揺らいだ。
バシャンと音を立てて水から顔を出した彼女に二人して安堵のため息を漏らした。
「あ、」
高々と腕を掲げる彼女の手の中にあるもの。
水に濡れてシナシナになっているけれど、確かにそれはきり丸が彼女に向けて放った一切れの紙だった。
「…アイツ、受け取れたのか」
あんなにも、嬉しそうに笑っているところを初めて見た。きり丸達下級生を見つめるときの優しげな笑みとも違う、喜悦の情が溢れんばかりのあどけない表情だった。
「届いたよぉ〜!」と澄み透った柔らかな声が聞こえる。目一杯叫んでいるのだろうが、決して大きくはなくて。水面をパシャパシャと揺らしながら池の中で手を振る彼女につい毒気を抜かれる。
「やっぱり変わったんだな」
「え?」
ぽそりと呟いた言葉に八左ヱ門が首を傾げる。
虚しいと、そう思ったのだ。何を言っても、何をしても、きっとあの人には届かない。こちらが差し伸べた手を見ても困ったように笑って首を振るだけで、そっと突っぱねてしまう。一人じゃどうしようもないくせに。世間知らずで鈍臭くて怯えてばかりで、本当は誰かに縋りたいくせに。
腹立たしくて仕方がなかった。アイツにとって俺は、俺たちはそんなに頼りなく見えているのかと。
けれど今は違う。あの人は確かに、変わったのだ。
「ようやく…頼れるように、なったのか」
胸の奥でジクジクと膿んでいた何かがさっぱりと洗われるような心地がして肩の力が抜けた。目を瞑って肺の中の空気を一気に吐き出す。そうしてまた新たに新しい空気を吸い込めば、一層気分が晴れたような気がしてうっすらと口角が上がった。
「ったく、いつまで池の中にいるんだあの人は…病み上がりのくせに」
水飛沫をあげて楽しげに笑う彼女の姿が、どうしてかひどく眩しい。
呆れたように笑っていると何やら横から視線を感じてチラリとそちらを見遣った。窓辺に頬杖をつく八左ヱ門と目が合い、顔を顰める。
「なんだよそのニヤケ面は」
「三郎ってさぁ…素直じゃないよなあホントに」
どういうことだと言い返してものらりくらりと受け流されるから眉間の皺がさらに深くなる。
「おい待て。何か勘違いしてないだろうな?別に俺は、」
「あ、澪さんがなんか言ってる」
「話を聞けよ!」
八左ヱ門があらぬ誤解をしているんじゃないかと、ならば早急にその誤解を解かねばならないと思ったのにバッサリと遮られしまった。こちらのことなど気にも留めず彼女の方を見つめる八左ヱ門に思わず青筋を立てた。
「んん…なんだ、“そらみて”?」
「なんだよ空がどうした。それよりも…」
イライラしながらも結局彼女の言うことが気になってしまい、八左ヱ門に釣られるように空を見上げる。
「虹だ!」
上の教室からもワッと驚いたような声が聞こえてくる。
彼女が指差していたのは、太陽のを中心に円を描く光の環だった。
うっすらと虹色に輝くそれが澄んだ青に浮かぶ光景が息を呑むほど幻想的で暫く見蕩れていた。皆が一様に空を見上げる中、ふと気になって視線を下げた。
空ではなく、一年は組の教室の方に目を向ける彼女は笑っていた。なんとも言い難い幸せそうなその笑顔がキラキラと輝いているように見えたのはきっと、滴り落ちる水が太陽の光を反射してたからだと思う。
そうして見つめていると不意に彼女と目が合い、びっくりして肩が揺れた。なんだか気まずくていつ視線を逸らそうかと考えていたら、彼女がニコッと笑いかけてきて、それから空を指差して「見て」と小さな声をあげた。
とんだお人好しだなと思いながらゆっくりと空を見上げた。
なあ、俺はあの日、貴女にかける言葉を間違ったんだよ。和尚さまに泣きついて、そのくせ俺達の前では何事もなかったような顔で笑いかけてきたから、それがどうしようもなくもどかしくて、やるせなくて。
本当は、本当に言いたかったのは______
「三郎、八左ヱ門、何見てるの?」
「おっ雷蔵。来いよ、すげえのが見れるぜ!」
気づけば雷蔵がすぐそばにいて、興味深そうに空を見上げていた。
「わっすごいね!僕こんな虹初めて見たかも…」
「だろだろ!?俺も初めて見たわ!」
無邪気にはしゃぎながら空を見上げる二人の様子にフッと気が抜ける。
「あの人が…澪さんが、教えてくれたんだ」
そう教えたら雷蔵が驚いたように振り向いた。そして嬉しそうに笑って「そっか」と呟いた。なぜか八左ヱ門も雷蔵と同じような顔で笑ってこちらを見つめてくるから気恥ずかしくなった。頭をガシガシとかきながら背を向けて席へと向かう。
「そろそろ授業始まるんだからさっさと席につけよな!」
「俺はもうちょっと見てようかな〜」
「僕もそうしようっと」
「…なぜ俺を見るんだ!外を見ろ外を!!」
薄い雲が広がる澄んだ青空にはまだ揺らめくように光の環が浮かんでおり、騒がしくなる教室に柔らかな光を降り注いでいた。
「おー…」
教室の窓に頬杖をついてぼんやりとしていると背後から声をかけられた。吹き込んでくる風は夏らしく生ぬるくて敵わない。返事もそこそこにため息をついていると「なんだどうした?」と八左ヱ門が側に寄ってくる。
「別になんでもないって」
「別にって…あからさまに元気ないじゃんか」
窓の縁に腰を預けた八左ヱ門が視線の先を追うように外に目をやった。
僅かに顔を顰めて視線を逸らす。そのまま席に着こうかといそいそ身体を捻るも八左ヱ門に呼び止められる。
「三郎お前…澪さんのこと見てたのか?」
コイツ…絶対に面白がってやがる…
ニコニコだか、ニヤニヤだか、とにかくいけすかない表情をしている八左ヱ門をジトリと睨みつければさらに愉快そうに笑った。声をかけてきたのが雷蔵だったら良かったのに、と教室の方を横目に見るも雷蔵の姿はまだない。
重苦しいため息を再び吐いていると八左ヱ門が彼女を見つめながら「そういえば」と話を切り出してきた。
「澪さん元気になってからさ、ちょっと雰囲気変わったって兵助言ってたな。なんかこう、明るくなったっていうか?雰囲気が柔らかくなったらしい。」
「前から気が抜けるほど間抜けな雰囲気じゃないか。平和ボケもいいところだ」
「お前さぁ…んな棘のある言い方やめろよなぁ」
八左ヱ門の苦言を聞き流しながら窓辺に肩を預けて腕を組む。
校庭の隅に見える彼女は何やら資料らしき束を抱えてキョロキョロと辺りを見渡しては草木の隙間やら岩陰に落ちている紙を拾い集めていた。大方、へっぽこ事務員小松田さんの尻拭いでもしているのだろう。
何故校庭なぞで資料をばら撒いてしまうんだ小松田さんは。そして当の本人は風に飛ばされた一枚の紙を追っていつの間にか遠くへ行ってしまう始末だし。アイツ一人でいてはそこらへんの罠に簡単にかかってしまうじゃないか。危なっかしいことこの上ない。
「この間、実習の帰りで昼食食べるの遅くなったんだけどたまたま食堂のおばちゃんが席を外しててさ。澪さんに配膳してもらったんだ。」
へえ、と眉を軽くあげて相槌を打つ。
彼女が食堂の手伝いをするときは決まってこちらに背を向けるように皿洗いだの片付けだのをしている。背中を丸めてできるだけ存在感を消すように息を押し殺している様を見ては窮屈そうだなと傍目に見ていたものだ。そういえば、ついこの間復帰したばかりの彼女の様子はどうだったろうかと記憶を辿る。
「『お残しはダメですよ』って、ちっせぇ声でそう言ったんだよ。おばちゃんの真似って気づいて笑っちまったら澪さんめっちゃ顔真っ赤にして照れてさ。おかずちょっと多めにするから内緒にしてくれって言われたんだ」
「全然話したことなくてどんな人なのかイマイチ掴めてなかったけど、案外お茶目なところあるんだなーって。」
「お茶目ねえ…で、お前は早速約束を破ってる訳だがいいのか。」
「あっやべ、」
阿呆だな…と呆れて腕を組み直した。
金楽寺に行って以降、俺はあの人とまともに会話なんかしていない。ちょっと前までは寝る間も惜しんで監視だってしてたが、それもやめた。
『大丈夫ですから!』
耳にこびりついて離れない、ひどく引き攣った小さな叫び声。
あの日はっきりと、あの人に一線を引かれたと悟った。多分、あそこにいたのが俺でなければ。彼女と共に金楽寺に行ったのが雷蔵だったなら。ああはならなかったのではないだろうか。
「三郎って、澪さんのこと嫌いなのか?
いやでもその割に色々気にかけてるよな。え、もしかして好きな人にはちょっかいかける的なそういう…?」
「抜かせ。八左ヱ門お前、」
「やめとけって。絶対逆効果だからそれ」
「だから違うと言っているだろうが!!」
こめかみ辺りをピクつかせながら反論してもヘラヘラ笑ったままの八左ヱ門が軽く受け流すものだから眉間に皺が寄る。
好きであってたまるか。そんなんじゃない。
ただひたすらに苛立たしいんだ。あの人を見ていると変に心がざわついて、息が詰まる。大丈夫だと言うのなら、平気だと言うのなら寸分の隙もないくらい完璧に演じて見せろ!あんな、あんなに下手くそな演技に一体誰が騙されるというんだ。
「あっ!澪さあ〜〜〜ん!!」
頭上から降ってきた声にハッと意識が引き戻される。窓から顔を覗かせると一年は組の教室からきり丸たちが身を乗り出して手を降っていた。それからゆっくりと視線を移せば、彼女ははにかみながら胸の辺りで控えめに手を振り返している。
「澪さんって、一年は組の連中に特に心開いているよな」と呟く八左ヱ門に適当に相槌を打ちながら窓の縁に手をかけた。
「澪さーーーん!!受け取ってーーー!!!」
届けーー!というきり丸たちの掛け声と共に何かが空を切った。真っ白なそれは太陽の光を受けて光っているようにも見えて僅かに目を細めた。
あれは紙でできた何かだろうか。
あの人は慌てた様子で資料の束を岩陰に置いてオタオタと紙の行方を見守っている。風に乗ってゆらゆら揺れながらも段々近付いてくるそれを追いかけて右へ左へとうろつく彼女。
小さく開いていた口をきゅっと閉じて窓の縁にかけた手にほんの少しだけ力が入った。彼女は次第に高度を落とす紙をしっかりと見据えながら後ろに下がる。
あと少し。あと少しで届く。
思いがけず吹いた風が真っ白なその紙をふわりと浮き上がらせてた。バランスを崩したそれは明後日の方向に飛んでいく。きり丸達一年は組の教室の方から「あぁ!」だとか「うわぁぁ!」だとか叫び声が聞こえた。
ああ、きっと無理だ
フッと手の力が抜けて小さく息を溢す。目を伏せて身体を傾けたそのとき、視界の端で彼女の髪の毛が多く靡いた。「えっ!?」と八左ヱ門が驚いたように声を上げる。
駆け抜けて、一瞬。
瞬間、鳴り響いた水音と青空に舞う飛沫。
地面をグッと踏み込んだ仕草も、小袖の裾が大きく捲れるほど高く掲げた腕も、舞う髪の隙間から微かに見えた輝いたような瞳も、全てが目に焼きついて離れなかった。
「澪さん!?」
「おっオイ!!アイツ落ちたぞ!!?」
慌てて窓から身を乗り出す。八左ヱ門も同じように身を乗り出すものだから互いに押し合って少し苦しい。けれどそんなこと気にもならないくらい二人はある一点だけを見つめていた。
視線の先にある池は大きな波紋を描いている。ハラハラしながら見守っていると、池の底からゴポリと空気の泡が競り上がってきて水面が揺らいだ。
バシャンと音を立てて水から顔を出した彼女に二人して安堵のため息を漏らした。
「あ、」
高々と腕を掲げる彼女の手の中にあるもの。
水に濡れてシナシナになっているけれど、確かにそれはきり丸が彼女に向けて放った一切れの紙だった。
「…アイツ、受け取れたのか」
あんなにも、嬉しそうに笑っているところを初めて見た。きり丸達下級生を見つめるときの優しげな笑みとも違う、喜悦の情が溢れんばかりのあどけない表情だった。
「届いたよぉ〜!」と澄み透った柔らかな声が聞こえる。目一杯叫んでいるのだろうが、決して大きくはなくて。水面をパシャパシャと揺らしながら池の中で手を振る彼女につい毒気を抜かれる。
「やっぱり変わったんだな」
「え?」
ぽそりと呟いた言葉に八左ヱ門が首を傾げる。
虚しいと、そう思ったのだ。何を言っても、何をしても、きっとあの人には届かない。こちらが差し伸べた手を見ても困ったように笑って首を振るだけで、そっと突っぱねてしまう。一人じゃどうしようもないくせに。世間知らずで鈍臭くて怯えてばかりで、本当は誰かに縋りたいくせに。
腹立たしくて仕方がなかった。アイツにとって俺は、俺たちはそんなに頼りなく見えているのかと。
けれど今は違う。あの人は確かに、変わったのだ。
「ようやく…頼れるように、なったのか」
胸の奥でジクジクと膿んでいた何かがさっぱりと洗われるような心地がして肩の力が抜けた。目を瞑って肺の中の空気を一気に吐き出す。そうしてまた新たに新しい空気を吸い込めば、一層気分が晴れたような気がしてうっすらと口角が上がった。
「ったく、いつまで池の中にいるんだあの人は…病み上がりのくせに」
水飛沫をあげて楽しげに笑う彼女の姿が、どうしてかひどく眩しい。
呆れたように笑っていると何やら横から視線を感じてチラリとそちらを見遣った。窓辺に頬杖をつく八左ヱ門と目が合い、顔を顰める。
「なんだよそのニヤケ面は」
「三郎ってさぁ…素直じゃないよなあホントに」
どういうことだと言い返してものらりくらりと受け流されるから眉間の皺がさらに深くなる。
「おい待て。何か勘違いしてないだろうな?別に俺は、」
「あ、澪さんがなんか言ってる」
「話を聞けよ!」
八左ヱ門があらぬ誤解をしているんじゃないかと、ならば早急にその誤解を解かねばならないと思ったのにバッサリと遮られしまった。こちらのことなど気にも留めず彼女の方を見つめる八左ヱ門に思わず青筋を立てた。
「んん…なんだ、“そらみて”?」
「なんだよ空がどうした。それよりも…」
イライラしながらも結局彼女の言うことが気になってしまい、八左ヱ門に釣られるように空を見上げる。
「虹だ!」
上の教室からもワッと驚いたような声が聞こえてくる。
彼女が指差していたのは、太陽のを中心に円を描く光の環だった。
うっすらと虹色に輝くそれが澄んだ青に浮かぶ光景が息を呑むほど幻想的で暫く見蕩れていた。皆が一様に空を見上げる中、ふと気になって視線を下げた。
空ではなく、一年は組の教室の方に目を向ける彼女は笑っていた。なんとも言い難い幸せそうなその笑顔がキラキラと輝いているように見えたのはきっと、滴り落ちる水が太陽の光を反射してたからだと思う。
そうして見つめていると不意に彼女と目が合い、びっくりして肩が揺れた。なんだか気まずくていつ視線を逸らそうかと考えていたら、彼女がニコッと笑いかけてきて、それから空を指差して「見て」と小さな声をあげた。
とんだお人好しだなと思いながらゆっくりと空を見上げた。
なあ、俺はあの日、貴女にかける言葉を間違ったんだよ。和尚さまに泣きついて、そのくせ俺達の前では何事もなかったような顔で笑いかけてきたから、それがどうしようもなくもどかしくて、やるせなくて。
本当は、本当に言いたかったのは______
「三郎、八左ヱ門、何見てるの?」
「おっ雷蔵。来いよ、すげえのが見れるぜ!」
気づけば雷蔵がすぐそばにいて、興味深そうに空を見上げていた。
「わっすごいね!僕こんな虹初めて見たかも…」
「だろだろ!?俺も初めて見たわ!」
無邪気にはしゃぎながら空を見上げる二人の様子にフッと気が抜ける。
「あの人が…澪さんが、教えてくれたんだ」
そう教えたら雷蔵が驚いたように振り向いた。そして嬉しそうに笑って「そっか」と呟いた。なぜか八左ヱ門も雷蔵と同じような顔で笑ってこちらを見つめてくるから気恥ずかしくなった。頭をガシガシとかきながら背を向けて席へと向かう。
「そろそろ授業始まるんだからさっさと席につけよな!」
「俺はもうちょっと見てようかな〜」
「僕もそうしようっと」
「…なぜ俺を見るんだ!外を見ろ外を!!」
薄い雲が広がる澄んだ青空にはまだ揺らめくように光の環が浮かんでおり、騒がしくなる教室に柔らかな光を降り注いでいた。