ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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多分、彼女はまだ僕達に言えない“何か”を抱えている。
それが何なのかは分からないけれど。
彼女が僕達を欺こうと、隠しているとは思えなかった。きり丸達を呼ぶ時の柔い声色、彼らの拳に重ねたなよやかな手、穏やかに綻ぶ目元や口元…それら全てが、彼女の本質を物語っているようで。確証には乏しいかもしれない。けれど、己の直感は確かなのだとそう思えた。
案ずることはない。僕達はこれから、歩み寄ることができるはずだから。時間や信頼、色々なものを積み重ねたのならば、きっと打ち明けてくれるそのときがやってくるのだろう。
廊下でへたり込んでいる澪を黙って見ていた伊作は、吹き込んできた雨が彼女の着物に僅かな染みを作っているのに気づき立ち上がった。声をかけようと口を開いたそのとき、澪が唐突に自分の頬をパチンと両手で叩いた。
「もうっうじうじしないっ!」
そんな小さな叫び声と共に勢いよく立ち上がった彼女に驚いて、踏み出した足が布団に引っかかる。あっと思ったときにはすでに視界が傾いていた。頭から床に突っ込んでいく最中、視界の端でよろける澪の姿がかすめる。
言わんこっちゃない!
下がったとはいえまだ熱は高いんだから安静にしていなきゃいけないのに。急に立ち上がったりなんかしたら危ないじゃないか!
床に手をつくこともままならない中、それでも彼女を支えたい一心で、必死に伸ばした手が空を切った。
*
「た、大変…!善法寺さんっ血、鼻血がっ」
「あっもう澪さん動かないで!ちゃんと安静にしててください!
ほら、熱測りますからおでこ、」
「そんなことより善法寺さんの手当を先に…あっ垂れて、あわ、」
鼻から鮮やかな赤を流しながら眉間に皺を寄せる伊作と、火照った顔を真っ青にして慌てふためく澪。
「…二人とも落ち着かんか。
伊作、お前はまずその鼻血をどうにかしろ。
澪さんはしっかり休んでください。まだ熱があるのでしょう。」
大きなため息を吐いた仙蔵が呆れたように頭を抱えている。
仙蔵に諭されて二人は我に返ったのか、しゅんと大人しくなって「はい…」と返事をしたのだった。
「いやぁ、それにしても運良く小平太達が通りかかってくれて助かったよ」
「本当にすみません、ご迷惑おかけしてしまって…」
「細かいことは気にするな!澪さんに怪我がなくて何よりだ!」
「まあ伊作は怪我をしてしまったがな!」と豪快に笑い飛ばすのは小平太。
遡ることほんの数刻前、廊下で倒れかけた澪を受け止めたのは他でもない、この小平太だった。澪は事なきを得たが、伊作が盛大にすっ転んで鼻血を垂れ流す事態になってしまったのは蛇足でしかない。
話を戻すと、どうやら小平太は澪の様子を見に来たらしく。
「え?でも小平太って澪さんとそんな面識あったっけ?」
「それは私も気になっていた。正直、小平太と澪さんの相性は文次郎並みに…」
小平太と澪を傍目に伊作と耳打ちをする。そもそも仙蔵が医務室まで来たのは小平太が彼女の見舞いに行くなどと廊下を突っ走っているところを目撃したためなのだ。
あの小平太が?熱を出して臥せっている澪さんの元に見舞いだと?
いや待て、小平太が澪さんと話しているところなんて見たことも聞いたこともないぞ。
向こうみずで歩く破壊神と言っても過言ではないこの男と、控えめで大人しい彼女とで、気が合う訳もないだろうと。今引き合わせてしまったら余計に体調を崩してしまうだろうと。そう思って小平太を引き止めようとしたがその努力も虚しく徒労に終わってしまった訳で。
「澪さん」
ほれっと身を屈めて澪に頭を差し出した小平太を訝しげに見つめる。澪はおずおずと手を伸ばすと、小平太の頭をそっと撫でて結った髪の毛を持ち上げては梳いてを繰り返した。
「んふ、ふふふ…雨だからかな、いつもよりふわふわだねぇ」
「そうか?」
ウリウリと頭を振ってじゃれつく小平太に澪は楽しそうに小さな笑い声をあげている。
そんな様子を見て仙蔵は目をぱちくりと瞬かせていた。
「その、なんだ。二人はいつからそんなに、仲が良かったんだ…?」
意を決して尋ねてみると、顔を上げた小平太が「まあ細かいことは気にするな!」と笑い飛ばすので思わずひくりと口の端が引き攣る。
いや、気にするだろう!何なんだその距離感は!
小平太と澪さんが仲が良いだと?!どういう接点があったんだ!なぜこうも真逆の性格の二人がこんなにも打ち解けているのだ!!
怒涛の突っ込みを心の中に何とか押し止めて長い息を吐いた。小平太は頼りにならないため彼女に視線を移す。
「それで、小平太とはいつから?」
「え、えっと、初めて食堂のお手伝いをしたときに小平太くんが井戸水の汲み方を教えてくれて。そこから、ですかね」
「そんな前から?!おい小平太、聞いていないぞ!」
「まあ言ってないからな!」
呑気に笑う小平太を睨みつけ、「いや言えよ!!」とこめかみに青筋を立てながら叫んだ。もちろん心の中で、だ。小平太のことだ。故意に隠していた訳ではないのだろうが、腑に落ちず眉間にシワがよってしまう。
「しかも名前で呼ばれてる…」
伊作がぽそりと呟く。その声に釣られて伊作を見遣ればポカンと間抜けな表情を浮かべていて、さらに鼻に突っ込んだ塵紙のせいで間抜けさが余計に際立っていた。
「七松さんなんて堅苦しい呼ばれ方は嫌だったのでな!名前で呼んでくれと頼んだんだ」
伊作が床に手をついて項垂れている。
なんとなく察しがついた。伊作の場合彼女に気を遣うあまり距離を縮められずにいたのだろう。一方で小平太は呆気なく壁をぶち壊しいつの間にか親しくなっていたのだ。その無遠慮さと勢いだけでこうも仲良くなれるのかと項垂れたくなるのも無理ない。
「…とはいえ、そこまで親しくなるものですか。この小平太と。」
「“この”とは何だ、“この”とは!」
俄には信じられず物言いたげな目で澪を見つめる。すると彼女は照れくさそうに目線を彷徨わせて両手の指を突き合わせた。
「小平太くん、昔祖母のお家で飼っていた犬にどことなく似ていて…
“こた”って呼んでいたんです。おっきくてすごく元気一杯な、ふわふわの毛並みが可愛い子で。」
どうやらそれをポロリと小平太の前で溢してしまった澪は「撫でてもいいぞ」と会う度小平太に頭を差し出されるようになったらしい。小平太の前でオロオロと戸惑う彼女の姿がいとも容易く想像できて、込み上げてくる笑いをなんとか押し殺した。
「なるほど、犬…フッ、ククっ…」
まさか飼い犬に小平太が似ていたなんてきっかけで距離を縮めていたとは。なんとも突拍子もない理由だと驚かされるが、澪が嬉しそうに小平太の頭を撫でる様子を見れば、どこか微笑ましくさえ思えてしまう。
顔を背けてひとしきり笑った後、コホンと一つ咳払いをして息を整えた。
「それにしても、まさかそんな風に小平太と仲良くなっていただなんて…」
伊作のポロリと溢した言葉に、澪が「す、すみません…馴れ馴れしい、ですよね」と焦ったように両手を握りしめるのが目に入った。
「あっ違いますよ!そうじゃなくて、…その、僕も名前で呼んでもらえたら嬉しいなって。ほら、僕達澪さんより年下じゃないですか。だからあまり気負わずに接してほしいというか、何というか…」
伊作が気を遣ってくれていることに気づいたのか、澪は一瞬キョトンとした。けれどすぐに穏やかな微笑みを浮かべて小さく口を開いた。
「それじゃあ、伊作くんって…呼んでもいいですか?」
その柔らかな声に伊作はほんの少しだけ照れくさそうに目を細め、「はい」と答えた。すかさず「では私もぜひ」と身を乗り出せば、おっかなびっくりした様子で「仙蔵くん…?」と名を呼ばれる。満足げに頷いて腕を組んだ。
きっと彼女にとって名前だろうが苗字だろうが、呼び方に他意はなかったのだろう。言われた通りに呼んでいるだけで何も特別なことではなかったのだろうが、それでも目の前で呼び分けられてしまうと特別な距離を見せつけられているように感じてしまう。初めて彼女と言葉を交わし看病や手当てをしてきた伊作にとっては尚のことそうなのだろう。嬉しさを噛み締めるように顔を綻ばせている伊作を見ているとこちらの頬まで緩んでくる。
ふはっと咳き込むように笑って足を崩す。
作法委員会の活動に招いたあの日以来、ただただ彼女を静観していた。しゃんと背筋を伸ばして前を見据える彼女を見ることができたのはたった数日で、初めて学園の外に出て帰ってきてからはどこか様子がおかしかった。聞けば山賊に出くわしたらしいが、それも上手く撒いて事なきを得たという。それなのにあの変わり様は一体何なのかと首を傾げたものだ。
紙のように真っ白な顔色、浅い呼吸に強張った身体。それを無理矢理動かしてひたすら雑用をこなす彼女は自身の異様さに気づいてはいなかったのだろう。倒れるのは時間の問題だと思っていた。そして案の定、こうして臥せってしまったのだ。
きっと酷い顔をしているのだろうと、思っていた。
だが、どうだろう。
彼女は今、こんなにも穏やかな顔で微笑んでいるではないか。
伊作や小平太と共に笑い合う澪はどこまでも麗かな雰囲気を醸し出していて、きっとそれがこの学園の人々を惹きつけるのだろうと思った。
汚れひとつない真っ白で柔らかな真綿が、陽光に照らされてほんのりとあたたかさを帯びているかのような。
この手に触れることができたのなら。埋もれることができたのなら。
それはきっと、大層心地良く、手放し難いものとなるのだろう。
「仙蔵くん」
不意に名前を呼ばれて伏せていた瞼をゆっくりと開いた。凛とした、けれど柔らかさを孕んだ眼差しがしっかりとこちらを捉えていて、自然と背筋が伸びた。
「私、今度こそちゃんと、前を向けると思います。」
か細くも芯のある声音でそう囁いた彼女を見て、胸がすくような思いがした。
「…そうですか。」
あの日の言葉が、ようやく彼女の心に届いたのだ。
よかった。貴女のその言葉を聞けて、本当によかった。
眩しいものを見るように目を細め、薄い唇には微笑を携えて静かにそう呟いたのだった。
それが何なのかは分からないけれど。
彼女が僕達を欺こうと、隠しているとは思えなかった。きり丸達を呼ぶ時の柔い声色、彼らの拳に重ねたなよやかな手、穏やかに綻ぶ目元や口元…それら全てが、彼女の本質を物語っているようで。確証には乏しいかもしれない。けれど、己の直感は確かなのだとそう思えた。
案ずることはない。僕達はこれから、歩み寄ることができるはずだから。時間や信頼、色々なものを積み重ねたのならば、きっと打ち明けてくれるそのときがやってくるのだろう。
廊下でへたり込んでいる澪を黙って見ていた伊作は、吹き込んできた雨が彼女の着物に僅かな染みを作っているのに気づき立ち上がった。声をかけようと口を開いたそのとき、澪が唐突に自分の頬をパチンと両手で叩いた。
「もうっうじうじしないっ!」
そんな小さな叫び声と共に勢いよく立ち上がった彼女に驚いて、踏み出した足が布団に引っかかる。あっと思ったときにはすでに視界が傾いていた。頭から床に突っ込んでいく最中、視界の端でよろける澪の姿がかすめる。
言わんこっちゃない!
下がったとはいえまだ熱は高いんだから安静にしていなきゃいけないのに。急に立ち上がったりなんかしたら危ないじゃないか!
床に手をつくこともままならない中、それでも彼女を支えたい一心で、必死に伸ばした手が空を切った。
*
「た、大変…!善法寺さんっ血、鼻血がっ」
「あっもう澪さん動かないで!ちゃんと安静にしててください!
ほら、熱測りますからおでこ、」
「そんなことより善法寺さんの手当を先に…あっ垂れて、あわ、」
鼻から鮮やかな赤を流しながら眉間に皺を寄せる伊作と、火照った顔を真っ青にして慌てふためく澪。
「…二人とも落ち着かんか。
伊作、お前はまずその鼻血をどうにかしろ。
澪さんはしっかり休んでください。まだ熱があるのでしょう。」
大きなため息を吐いた仙蔵が呆れたように頭を抱えている。
仙蔵に諭されて二人は我に返ったのか、しゅんと大人しくなって「はい…」と返事をしたのだった。
「いやぁ、それにしても運良く小平太達が通りかかってくれて助かったよ」
「本当にすみません、ご迷惑おかけしてしまって…」
「細かいことは気にするな!澪さんに怪我がなくて何よりだ!」
「まあ伊作は怪我をしてしまったがな!」と豪快に笑い飛ばすのは小平太。
遡ることほんの数刻前、廊下で倒れかけた澪を受け止めたのは他でもない、この小平太だった。澪は事なきを得たが、伊作が盛大にすっ転んで鼻血を垂れ流す事態になってしまったのは蛇足でしかない。
話を戻すと、どうやら小平太は澪の様子を見に来たらしく。
「え?でも小平太って澪さんとそんな面識あったっけ?」
「それは私も気になっていた。正直、小平太と澪さんの相性は文次郎並みに…」
小平太と澪を傍目に伊作と耳打ちをする。そもそも仙蔵が医務室まで来たのは小平太が彼女の見舞いに行くなどと廊下を突っ走っているところを目撃したためなのだ。
あの小平太が?熱を出して臥せっている澪さんの元に見舞いだと?
いや待て、小平太が澪さんと話しているところなんて見たことも聞いたこともないぞ。
向こうみずで歩く破壊神と言っても過言ではないこの男と、控えめで大人しい彼女とで、気が合う訳もないだろうと。今引き合わせてしまったら余計に体調を崩してしまうだろうと。そう思って小平太を引き止めようとしたがその努力も虚しく徒労に終わってしまった訳で。
「澪さん」
ほれっと身を屈めて澪に頭を差し出した小平太を訝しげに見つめる。澪はおずおずと手を伸ばすと、小平太の頭をそっと撫でて結った髪の毛を持ち上げては梳いてを繰り返した。
「んふ、ふふふ…雨だからかな、いつもよりふわふわだねぇ」
「そうか?」
ウリウリと頭を振ってじゃれつく小平太に澪は楽しそうに小さな笑い声をあげている。
そんな様子を見て仙蔵は目をぱちくりと瞬かせていた。
「その、なんだ。二人はいつからそんなに、仲が良かったんだ…?」
意を決して尋ねてみると、顔を上げた小平太が「まあ細かいことは気にするな!」と笑い飛ばすので思わずひくりと口の端が引き攣る。
いや、気にするだろう!何なんだその距離感は!
小平太と澪さんが仲が良いだと?!どういう接点があったんだ!なぜこうも真逆の性格の二人がこんなにも打ち解けているのだ!!
怒涛の突っ込みを心の中に何とか押し止めて長い息を吐いた。小平太は頼りにならないため彼女に視線を移す。
「それで、小平太とはいつから?」
「え、えっと、初めて食堂のお手伝いをしたときに小平太くんが井戸水の汲み方を教えてくれて。そこから、ですかね」
「そんな前から?!おい小平太、聞いていないぞ!」
「まあ言ってないからな!」
呑気に笑う小平太を睨みつけ、「いや言えよ!!」とこめかみに青筋を立てながら叫んだ。もちろん心の中で、だ。小平太のことだ。故意に隠していた訳ではないのだろうが、腑に落ちず眉間にシワがよってしまう。
「しかも名前で呼ばれてる…」
伊作がぽそりと呟く。その声に釣られて伊作を見遣ればポカンと間抜けな表情を浮かべていて、さらに鼻に突っ込んだ塵紙のせいで間抜けさが余計に際立っていた。
「七松さんなんて堅苦しい呼ばれ方は嫌だったのでな!名前で呼んでくれと頼んだんだ」
伊作が床に手をついて項垂れている。
なんとなく察しがついた。伊作の場合彼女に気を遣うあまり距離を縮められずにいたのだろう。一方で小平太は呆気なく壁をぶち壊しいつの間にか親しくなっていたのだ。その無遠慮さと勢いだけでこうも仲良くなれるのかと項垂れたくなるのも無理ない。
「…とはいえ、そこまで親しくなるものですか。この小平太と。」
「“この”とは何だ、“この”とは!」
俄には信じられず物言いたげな目で澪を見つめる。すると彼女は照れくさそうに目線を彷徨わせて両手の指を突き合わせた。
「小平太くん、昔祖母のお家で飼っていた犬にどことなく似ていて…
“こた”って呼んでいたんです。おっきくてすごく元気一杯な、ふわふわの毛並みが可愛い子で。」
どうやらそれをポロリと小平太の前で溢してしまった澪は「撫でてもいいぞ」と会う度小平太に頭を差し出されるようになったらしい。小平太の前でオロオロと戸惑う彼女の姿がいとも容易く想像できて、込み上げてくる笑いをなんとか押し殺した。
「なるほど、犬…フッ、ククっ…」
まさか飼い犬に小平太が似ていたなんてきっかけで距離を縮めていたとは。なんとも突拍子もない理由だと驚かされるが、澪が嬉しそうに小平太の頭を撫でる様子を見れば、どこか微笑ましくさえ思えてしまう。
顔を背けてひとしきり笑った後、コホンと一つ咳払いをして息を整えた。
「それにしても、まさかそんな風に小平太と仲良くなっていただなんて…」
伊作のポロリと溢した言葉に、澪が「す、すみません…馴れ馴れしい、ですよね」と焦ったように両手を握りしめるのが目に入った。
「あっ違いますよ!そうじゃなくて、…その、僕も名前で呼んでもらえたら嬉しいなって。ほら、僕達澪さんより年下じゃないですか。だからあまり気負わずに接してほしいというか、何というか…」
伊作が気を遣ってくれていることに気づいたのか、澪は一瞬キョトンとした。けれどすぐに穏やかな微笑みを浮かべて小さく口を開いた。
「それじゃあ、伊作くんって…呼んでもいいですか?」
その柔らかな声に伊作はほんの少しだけ照れくさそうに目を細め、「はい」と答えた。すかさず「では私もぜひ」と身を乗り出せば、おっかなびっくりした様子で「仙蔵くん…?」と名を呼ばれる。満足げに頷いて腕を組んだ。
きっと彼女にとって名前だろうが苗字だろうが、呼び方に他意はなかったのだろう。言われた通りに呼んでいるだけで何も特別なことではなかったのだろうが、それでも目の前で呼び分けられてしまうと特別な距離を見せつけられているように感じてしまう。初めて彼女と言葉を交わし看病や手当てをしてきた伊作にとっては尚のことそうなのだろう。嬉しさを噛み締めるように顔を綻ばせている伊作を見ているとこちらの頬まで緩んでくる。
ふはっと咳き込むように笑って足を崩す。
作法委員会の活動に招いたあの日以来、ただただ彼女を静観していた。しゃんと背筋を伸ばして前を見据える彼女を見ることができたのはたった数日で、初めて学園の外に出て帰ってきてからはどこか様子がおかしかった。聞けば山賊に出くわしたらしいが、それも上手く撒いて事なきを得たという。それなのにあの変わり様は一体何なのかと首を傾げたものだ。
紙のように真っ白な顔色、浅い呼吸に強張った身体。それを無理矢理動かしてひたすら雑用をこなす彼女は自身の異様さに気づいてはいなかったのだろう。倒れるのは時間の問題だと思っていた。そして案の定、こうして臥せってしまったのだ。
きっと酷い顔をしているのだろうと、思っていた。
だが、どうだろう。
彼女は今、こんなにも穏やかな顔で微笑んでいるではないか。
伊作や小平太と共に笑い合う澪はどこまでも麗かな雰囲気を醸し出していて、きっとそれがこの学園の人々を惹きつけるのだろうと思った。
汚れひとつない真っ白で柔らかな真綿が、陽光に照らされてほんのりとあたたかさを帯びているかのような。
この手に触れることができたのなら。埋もれることができたのなら。
それはきっと、大層心地良く、手放し難いものとなるのだろう。
「仙蔵くん」
不意に名前を呼ばれて伏せていた瞼をゆっくりと開いた。凛とした、けれど柔らかさを孕んだ眼差しがしっかりとこちらを捉えていて、自然と背筋が伸びた。
「私、今度こそちゃんと、前を向けると思います。」
か細くも芯のある声音でそう囁いた彼女を見て、胸がすくような思いがした。
「…そうですか。」
あの日の言葉が、ようやく彼女の心に届いたのだ。
よかった。貴女のその言葉を聞けて、本当によかった。
眩しいものを見るように目を細め、薄い唇には微笑を携えて静かにそう呟いたのだった。