ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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手を握ると、控えめだけど確かに握り返してくる。自分よりも一回りくらい大きな手だけどびっくりするくらい柔らかくて、そしていつだってひんやりと冷たい手だった。
廊下に座り込んで何気なく手のひらを掲げて月明かりにかざす。この手が頼もしい手だというのなら、澪さんの手は紛れもなく優しい手だと思う。
ぺたぺたとわかりやすい足音が聞こえて廊下の奥に目をやる。軒から差し込む月明かりに照らされる真っ白で華奢な足首が見えて、ゆっくりと視線を上げた。「きり丸くん?」と名前を呼ばれ勢いをつけて立ち上がり駆け寄る。
「ずっと待ってたんすよ。澪さん」
澪の手を取り一歩踏み出した。彼女の慌てる声が聞こえたけどお構いなしに足を動かす。廊下を駆けている間、きゅっと手を握り返された感覚に思わず口元が緩んだ。心が浮き立って、跳ねるように走る。
「今日のこと、また話そうって約束したでしょ!」
自室の障子を勢いよく開けば見慣れた顔ぶれがそこに待ち構えていた。
*
「あの、あ、きり丸くん…ここ、生徒達の長家で、なのに私」
「何ともないですよっホラ!」
自室には一年は組の忍たま達が揃っていて、三つ並べた布団の上で輪になって駄弁っている。「澪さんが来たぞ〜!」とお互いが肩を寄せ合い二人分の空間を確保する級友を見て満足げに笑うきり丸は、焦りというか戸惑いというか、しどろもどろになって言葉を濁す澪の背中をぐいぐいと押して誘導する。そうしてあれよあれよとされるがままに招かれた澪はきり丸の隣に座り込み、は組の生徒の顔を見渡した。
「本当に、私がここにいても大丈夫なのかな…?夜だし、部外者立ち入り禁止とか、その、先生方に怒られたりしない?」
「澪さんは部外者じゃないじゃん。それに土井先生と山田先生の前であとでお話しましょうねって約束したんだし、何も問題ないっすよ」
「う、うぅん、でも…」
「でももだってもありません!」
腕を組んで首を傾げる澪は何とも言えない表情をしている。きり丸はほんの少し眉間に皺を寄せて隣に座る乱太郎の肩を小突いた。軽く目で合図すると乱太郎は意図を汲み取ったのか澪の方に身を乗り出してしゅんと眉を下げて口を開く。
「澪さんは私達とお話するのが嫌なんですか…?」
「ちっちがうよ!そんなことないよ!」
慌てて大きく首を振った澪は膝の上でもじもじと指を突き合わせながら「私も、みんなとお話したいな」と囁いた。
やっぱり、澪さんって押しに弱いな。頼まれたら断れない性格なんだろうな。なんて考えながらこっそり乱太郎と拳を突き合わせる。
「ま、僕達説教なんて慣れてるからどうってことないよね!」
「そうそう、ちっとも怖くありません!」
喜三太と金吾があっけらかんとして言うものだから、澪は一瞬ポカンとしたものの小さく吹き出して肩を揺らす。
「それじゃあ…もしものときは、一緒に怒られようね。」
くすくすと笑いながらそう呟く彼女の雰囲気はやっぱり昨日までとは違って、ひどく和らいでいる気がした。
それから水練や兵庫水軍のことや、お昼に食べた魚料理の味なんかも話題に上がって夜中だというのに大いに盛り上がった。目を丸くしたり、ハラハラと手を握りしめたりしながら耳を傾ける澪は時折面白そうにほろりと笑みを溢す。きり丸は壁に背を預けて彼女の横顔をぼうっと見つめていた。
「この間兵庫水軍の皆さんがすごい魚の大群を見てからずっと豊漁らしいんですよ。だから今日もたくさんご馳走してもらって。」
「そうなんだ。しんべヱくんがあまりにも美味しそうに話すから私もお腹空いてきちゃうなぁ」
「えへへ…そうだ!今度お魚を分けてもらいに行きましょうよ!そうしたら澪さんも美味しいお魚いっぱい食べられるし」
「それ、絶対しんべヱが食べたいだけでしょ」
「バレちゃった!」
ワッと大笑いする皆に混じって澪も控えめながら笑っている。嬉しいはずなのに、一瞬心にチクっと何かが刺さったような感じがして息を吐いた。不意にこちらを振り返った彼女と視線がかち合って投げ出した足の指先がぴくりと震える。変な顔はしてなかったと思う。ちゃんと皆みたいに笑ってるし、別にやましいことを考えていたわけではないが、目が合った瞬間にどうしてか息が詰まってしまった。よくわからない後ろめたさから不自然に目をそらしてしまい唇をつんと尖らせる。
そうしている間によいしょ、と手をついてきり丸の隣に並んだ澪は壁にもたれかかって両膝を抱えて座り直す。騒がしい輪から外れた二人の間に会話はなくて、乱太郎達の喧騒がどこか遠くに感じる。身体の内側がむずむずとこそばゆい感じがして、身を捩りながら膝を立てた。澪の様子を横目で盗み見る。腕に顔を埋めているから口元はよく見えないけど目元を見ただけで分かった。
きっと、あの日乱太郎としんべヱが見た顔だ。
そっか。澪さんってそんな風に笑うんだ。
尖った唇がわなわなと震えて、目の奥にジンと熱がこもった。こくりと喉を鳴らして俯きがちに顔を背けると頬に髪の毛がかかる。心の内側から湧き立つ何かを押さえ込むように足の指に目一杯力を込めて丸めていたら不意に柔らかな声が耳を撫でた。
「楽しいね」
「どうしよう。私いま、すごく楽しいなあ」
それは喧騒にかき消されてしまいそうなほど微かな声で、僅かにくぐもっていた。顔を上げて澪の方を見やれば彼女は腕の中に顔を埋めていた。ゆっくりと手を伸ばし、夜着の裾を摘む。
「澪さん、泣いている?」
埋もれた頭を揺らして静かに否定する澪は緩慢な動作で顔を覗かせた。とろりとした瞳にほんのりと赤らんだ頬。何だか既視感を覚えて小さく首を傾げたけど、ふふ、と笑い声が聞こえて再び視線を戻した。
澪はふにゃふにゃとした笑みを浮かべてこちらを見つめている。そしてゆっくりと右手を伸ばし裾を掴む俺の手に触れた。
「こんなにも幸せなの。夢みたい。」
手の甲から指先をそっと撫でて、爪先を柔く握る。その手つきはやっぱり誰よりも優しくて、つられて頬が緩んだ。
「夢じゃないよ。」
「うん」
「ちゃんと、ここにいるよ。」
「うん」
「澪さんは一人じゃないよ。」
「…うん」
澪の手をやんわりと解いて、しっかりと握り直す。その手は柔らかくて、そして温かくて。それがたまらなく嬉しかった。
「ありがとう、きり丸くん」
ちょっぴり恥ずかしくて「礼なんてやめてよ」と言うけど、澪は繋いだ手に柔く力を込めて「何度だって言いたいの」と笑った。
「きり丸くんは、私のヒーローだね」
「ひーろー?」
「うぅん…恩人とか、憧れとか、…そう、」
澪の口調がいつもよりもゆったりとしていて、見れば瞼が閉じかかっていた。壁に預けた頭がゆらゆらと揺れている。
わたしの、かみさま
ほとんど息みたいな声で澪はそう囁いた。力の抜けた身体が傾いて、トンと肩が触れ合う。
ああ、あれだ。子守りをするとき、子供が眠たそうにしている顔とおんなじだ。
既視感の正体に気づいて目からウロコが落ちた。
「澪さん、寝ちゃった?」
「あ、乱太郎…」
乱太郎の声にそちらを振り返ると、ニコニコと笑いながらこちらを見つめていた。「きり丸、言いたいこと言えたみたいでよかったね」と嬉しそうに呟いた乱太郎は声を落としては組の皆に呼びかける。
「みんなぁ、澪さん寝ちゃったから声の調子落として!」
喧騒が止み寝そべったり頬杖をついていた人も何だ何だと視線を上げる。澪の周りに集まってきた皆は「ほんとだ」「寝ちゃってるね」とヒソヒソ呟きながら寝顔を覗き込む。
こんなに間近で寝顔を見られているなんて知ったら、きっと澪さんは顔を真っ赤にして恥ずかしがるんだろうなと思い、込み上げてきた笑いを何とか押し殺した。
「お前たち!いつまで」
突如スパンと障子が開け放たれる音と共に聞き慣れたお説教の声が飛んできて、一斉に振り返ったは組の生徒たちは「しぃーーー!」と口元に人差し指を立てて遮る。廊下に立っていたのは言わずもがな半助で、皆の必死な形相を見てまた厄介ごとか?と眉間に皺を寄せた。腰に手を当てながら部屋に入ってきた半助は生徒が群がる場所に近寄り覗き込む。
「こんな夜遅くにお前たちは一体何を…
って、澪さん?何でここに、」
「土井先生!澪さん起きちゃうかもしれないじゃないですか。声落として下さい!」
「えっ、す、すまない…」
乱太郎が頬を膨らませながら注意すると、気押された半助は目をパチパチとさせながら口元を覆った。庄左ヱ門の説明により事情を把握した半助は大きく息を吐いて口を開いた。
「分かった。とりあえず、もう澪さんも寝てしまったんだからお前達も自分の部屋に戻って寝なさい。」
「はーい」と間延びした返事をする子供達に苦笑いを浮かべる。
暫くして各々が部屋に戻り、きり丸達の部屋はシンと静まり返った。彼らを見送った半助は澪の前にしゃがみ込む。「澪さん」と呼びかけても当然返事は返ってこない。
きり丸は澪の隣で彼女の手を握ったまま半助の様子をじっと伺っていた。名前を呼んだあと、ほんの少し口角が上がって表情が和らいだ気がして目を見開く。
「それじゃあ、彼女は私が部屋に送り届けるから。お前達ももうおやすみ」
そう言って半助は澪の背中と膝裏にそっと手を当てがった。彼女の弛緩した身体を抱えてゆっくりと立ち上がる。
きり丸は名残惜しく感じながら繋いでいた手の力を緩める。
あと少し、もう少しだけ
完全に離れきってしまう寸前で、指先をきゅっと掴まれた。反射的に指先に力を込めて立ち上がり「土井先生!」と声を上げる。
「澪さん、手、握ってるんだ。だから、…」
連れてかないで
俯きながら絞り出した声が部屋の空気を静かに震わせた。言い切ってしまったあとで、何を言っているんだろうと我に返り頬が熱くなった。ハハ…と乾いた笑いが溢れて、口元が引き攣る。
やっぱり何でもないですと言おうと喉に力を込めたそのとき____
「本当だ。こりゃしっかり掴んでいて離れないな。このまま澪さんの部屋まできり丸も一緒に連れて行くのもなんだし…」
「きり丸、今晩は澪さんをお前の布団で寝かせてあげてもいいか?
二人だと少し手狭かもしれないが。」
半助の言葉に勢いよく顔を上げた。ポカンと呆けていると半助は「どうする?」と笑いかけてきたので、半ば強引にブンブンと頭を縦に振って頷いた。
それからあれよあれよという間に布団に寝かされ半助に布団をかけられたきり丸はパチパチと目を瞬かせた。「蹴飛ばしたりしないように」なんて戯けながら言われるものだから少しムッとして「そんなことしないっすよ!」とひそひそ声で抗議した。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
半助はきり丸の頭をポンと一撫でして部屋を後にした。
*
虫の音や木々がざわめく音が微かに響く部屋の中、きり丸は天井を見上げながら繋いだ手の実感を確かめるように力を込めた。澪の手のあたたかさが伝わってきて、心までポカポカと温まる。身を捩って澪の方を向く。「澪さん」と声をかけても聞こえるのは彼女の寝息だけで、きり丸は意を決したように小さく息を吸い込んだ。
「ねえ…」
何かを言いかけて、グッと口をつぐむ。ため息をつき、もう寝ようと目を閉じかけたとき、掛け布団の上に投げ出された澪の左手が目についてひっそりとそれに手を伸ばした。起きないように、ばれないように、そうっと掴んで自分の頬に乗せる。力の入っていない手はいつものように優しく撫でてはくれないけど、でも澪の温かさを全部独り占めしてるんだと思うと心が浮き立った。へへ、と小さく笑いながら澪の両の手を握っていたら、不意に澪が身を捩った。
やばい。起こしちゃった?
慌てて手を離して息を押し殺す。繋いでいた手は離さなきゃよかったな、なんて思っていると頬に乗っかっていた彼女の左手がゆるりと頭を撫でてそのまま腕の中に引き寄せられた。包み込むように抱きしめられ、目を白黒させる。
寝息聞こえるし、起きてはいないっぽい。
よかった。焦ったあ…
穏やかな心音が聞こえて全身の強張りがほぐれていく。目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をしながら擦り寄った。体温が伝わってきて微睡む。縁側で抱き抱えられた記憶を思い出し、頬が緩んだ。
段々と意識が遠のいていく中、澪に出会うよりも、乱太郎達に出会うよりも前の、柔く温かな記憶がぼんやりと浮かんだ気がした。
朧気だけど、涙ぐむほど幸せなそれはきっと_________
廊下に座り込んで何気なく手のひらを掲げて月明かりにかざす。この手が頼もしい手だというのなら、澪さんの手は紛れもなく優しい手だと思う。
ぺたぺたとわかりやすい足音が聞こえて廊下の奥に目をやる。軒から差し込む月明かりに照らされる真っ白で華奢な足首が見えて、ゆっくりと視線を上げた。「きり丸くん?」と名前を呼ばれ勢いをつけて立ち上がり駆け寄る。
「ずっと待ってたんすよ。澪さん」
澪の手を取り一歩踏み出した。彼女の慌てる声が聞こえたけどお構いなしに足を動かす。廊下を駆けている間、きゅっと手を握り返された感覚に思わず口元が緩んだ。心が浮き立って、跳ねるように走る。
「今日のこと、また話そうって約束したでしょ!」
自室の障子を勢いよく開けば見慣れた顔ぶれがそこに待ち構えていた。
*
「あの、あ、きり丸くん…ここ、生徒達の長家で、なのに私」
「何ともないですよっホラ!」
自室には一年は組の忍たま達が揃っていて、三つ並べた布団の上で輪になって駄弁っている。「澪さんが来たぞ〜!」とお互いが肩を寄せ合い二人分の空間を確保する級友を見て満足げに笑うきり丸は、焦りというか戸惑いというか、しどろもどろになって言葉を濁す澪の背中をぐいぐいと押して誘導する。そうしてあれよあれよとされるがままに招かれた澪はきり丸の隣に座り込み、は組の生徒の顔を見渡した。
「本当に、私がここにいても大丈夫なのかな…?夜だし、部外者立ち入り禁止とか、その、先生方に怒られたりしない?」
「澪さんは部外者じゃないじゃん。それに土井先生と山田先生の前であとでお話しましょうねって約束したんだし、何も問題ないっすよ」
「う、うぅん、でも…」
「でももだってもありません!」
腕を組んで首を傾げる澪は何とも言えない表情をしている。きり丸はほんの少し眉間に皺を寄せて隣に座る乱太郎の肩を小突いた。軽く目で合図すると乱太郎は意図を汲み取ったのか澪の方に身を乗り出してしゅんと眉を下げて口を開く。
「澪さんは私達とお話するのが嫌なんですか…?」
「ちっちがうよ!そんなことないよ!」
慌てて大きく首を振った澪は膝の上でもじもじと指を突き合わせながら「私も、みんなとお話したいな」と囁いた。
やっぱり、澪さんって押しに弱いな。頼まれたら断れない性格なんだろうな。なんて考えながらこっそり乱太郎と拳を突き合わせる。
「ま、僕達説教なんて慣れてるからどうってことないよね!」
「そうそう、ちっとも怖くありません!」
喜三太と金吾があっけらかんとして言うものだから、澪は一瞬ポカンとしたものの小さく吹き出して肩を揺らす。
「それじゃあ…もしものときは、一緒に怒られようね。」
くすくすと笑いながらそう呟く彼女の雰囲気はやっぱり昨日までとは違って、ひどく和らいでいる気がした。
それから水練や兵庫水軍のことや、お昼に食べた魚料理の味なんかも話題に上がって夜中だというのに大いに盛り上がった。目を丸くしたり、ハラハラと手を握りしめたりしながら耳を傾ける澪は時折面白そうにほろりと笑みを溢す。きり丸は壁に背を預けて彼女の横顔をぼうっと見つめていた。
「この間兵庫水軍の皆さんがすごい魚の大群を見てからずっと豊漁らしいんですよ。だから今日もたくさんご馳走してもらって。」
「そうなんだ。しんべヱくんがあまりにも美味しそうに話すから私もお腹空いてきちゃうなぁ」
「えへへ…そうだ!今度お魚を分けてもらいに行きましょうよ!そうしたら澪さんも美味しいお魚いっぱい食べられるし」
「それ、絶対しんべヱが食べたいだけでしょ」
「バレちゃった!」
ワッと大笑いする皆に混じって澪も控えめながら笑っている。嬉しいはずなのに、一瞬心にチクっと何かが刺さったような感じがして息を吐いた。不意にこちらを振り返った彼女と視線がかち合って投げ出した足の指先がぴくりと震える。変な顔はしてなかったと思う。ちゃんと皆みたいに笑ってるし、別にやましいことを考えていたわけではないが、目が合った瞬間にどうしてか息が詰まってしまった。よくわからない後ろめたさから不自然に目をそらしてしまい唇をつんと尖らせる。
そうしている間によいしょ、と手をついてきり丸の隣に並んだ澪は壁にもたれかかって両膝を抱えて座り直す。騒がしい輪から外れた二人の間に会話はなくて、乱太郎達の喧騒がどこか遠くに感じる。身体の内側がむずむずとこそばゆい感じがして、身を捩りながら膝を立てた。澪の様子を横目で盗み見る。腕に顔を埋めているから口元はよく見えないけど目元を見ただけで分かった。
きっと、あの日乱太郎としんべヱが見た顔だ。
そっか。澪さんってそんな風に笑うんだ。
尖った唇がわなわなと震えて、目の奥にジンと熱がこもった。こくりと喉を鳴らして俯きがちに顔を背けると頬に髪の毛がかかる。心の内側から湧き立つ何かを押さえ込むように足の指に目一杯力を込めて丸めていたら不意に柔らかな声が耳を撫でた。
「楽しいね」
「どうしよう。私いま、すごく楽しいなあ」
それは喧騒にかき消されてしまいそうなほど微かな声で、僅かにくぐもっていた。顔を上げて澪の方を見やれば彼女は腕の中に顔を埋めていた。ゆっくりと手を伸ばし、夜着の裾を摘む。
「澪さん、泣いている?」
埋もれた頭を揺らして静かに否定する澪は緩慢な動作で顔を覗かせた。とろりとした瞳にほんのりと赤らんだ頬。何だか既視感を覚えて小さく首を傾げたけど、ふふ、と笑い声が聞こえて再び視線を戻した。
澪はふにゃふにゃとした笑みを浮かべてこちらを見つめている。そしてゆっくりと右手を伸ばし裾を掴む俺の手に触れた。
「こんなにも幸せなの。夢みたい。」
手の甲から指先をそっと撫でて、爪先を柔く握る。その手つきはやっぱり誰よりも優しくて、つられて頬が緩んだ。
「夢じゃないよ。」
「うん」
「ちゃんと、ここにいるよ。」
「うん」
「澪さんは一人じゃないよ。」
「…うん」
澪の手をやんわりと解いて、しっかりと握り直す。その手は柔らかくて、そして温かくて。それがたまらなく嬉しかった。
「ありがとう、きり丸くん」
ちょっぴり恥ずかしくて「礼なんてやめてよ」と言うけど、澪は繋いだ手に柔く力を込めて「何度だって言いたいの」と笑った。
「きり丸くんは、私のヒーローだね」
「ひーろー?」
「うぅん…恩人とか、憧れとか、…そう、」
澪の口調がいつもよりもゆったりとしていて、見れば瞼が閉じかかっていた。壁に預けた頭がゆらゆらと揺れている。
わたしの、かみさま
ほとんど息みたいな声で澪はそう囁いた。力の抜けた身体が傾いて、トンと肩が触れ合う。
ああ、あれだ。子守りをするとき、子供が眠たそうにしている顔とおんなじだ。
既視感の正体に気づいて目からウロコが落ちた。
「澪さん、寝ちゃった?」
「あ、乱太郎…」
乱太郎の声にそちらを振り返ると、ニコニコと笑いながらこちらを見つめていた。「きり丸、言いたいこと言えたみたいでよかったね」と嬉しそうに呟いた乱太郎は声を落としては組の皆に呼びかける。
「みんなぁ、澪さん寝ちゃったから声の調子落として!」
喧騒が止み寝そべったり頬杖をついていた人も何だ何だと視線を上げる。澪の周りに集まってきた皆は「ほんとだ」「寝ちゃってるね」とヒソヒソ呟きながら寝顔を覗き込む。
こんなに間近で寝顔を見られているなんて知ったら、きっと澪さんは顔を真っ赤にして恥ずかしがるんだろうなと思い、込み上げてきた笑いを何とか押し殺した。
「お前たち!いつまで」
突如スパンと障子が開け放たれる音と共に聞き慣れたお説教の声が飛んできて、一斉に振り返ったは組の生徒たちは「しぃーーー!」と口元に人差し指を立てて遮る。廊下に立っていたのは言わずもがな半助で、皆の必死な形相を見てまた厄介ごとか?と眉間に皺を寄せた。腰に手を当てながら部屋に入ってきた半助は生徒が群がる場所に近寄り覗き込む。
「こんな夜遅くにお前たちは一体何を…
って、澪さん?何でここに、」
「土井先生!澪さん起きちゃうかもしれないじゃないですか。声落として下さい!」
「えっ、す、すまない…」
乱太郎が頬を膨らませながら注意すると、気押された半助は目をパチパチとさせながら口元を覆った。庄左ヱ門の説明により事情を把握した半助は大きく息を吐いて口を開いた。
「分かった。とりあえず、もう澪さんも寝てしまったんだからお前達も自分の部屋に戻って寝なさい。」
「はーい」と間延びした返事をする子供達に苦笑いを浮かべる。
暫くして各々が部屋に戻り、きり丸達の部屋はシンと静まり返った。彼らを見送った半助は澪の前にしゃがみ込む。「澪さん」と呼びかけても当然返事は返ってこない。
きり丸は澪の隣で彼女の手を握ったまま半助の様子をじっと伺っていた。名前を呼んだあと、ほんの少し口角が上がって表情が和らいだ気がして目を見開く。
「それじゃあ、彼女は私が部屋に送り届けるから。お前達ももうおやすみ」
そう言って半助は澪の背中と膝裏にそっと手を当てがった。彼女の弛緩した身体を抱えてゆっくりと立ち上がる。
きり丸は名残惜しく感じながら繋いでいた手の力を緩める。
あと少し、もう少しだけ
完全に離れきってしまう寸前で、指先をきゅっと掴まれた。反射的に指先に力を込めて立ち上がり「土井先生!」と声を上げる。
「澪さん、手、握ってるんだ。だから、…」
連れてかないで
俯きながら絞り出した声が部屋の空気を静かに震わせた。言い切ってしまったあとで、何を言っているんだろうと我に返り頬が熱くなった。ハハ…と乾いた笑いが溢れて、口元が引き攣る。
やっぱり何でもないですと言おうと喉に力を込めたそのとき____
「本当だ。こりゃしっかり掴んでいて離れないな。このまま澪さんの部屋まできり丸も一緒に連れて行くのもなんだし…」
「きり丸、今晩は澪さんをお前の布団で寝かせてあげてもいいか?
二人だと少し手狭かもしれないが。」
半助の言葉に勢いよく顔を上げた。ポカンと呆けていると半助は「どうする?」と笑いかけてきたので、半ば強引にブンブンと頭を縦に振って頷いた。
それからあれよあれよという間に布団に寝かされ半助に布団をかけられたきり丸はパチパチと目を瞬かせた。「蹴飛ばしたりしないように」なんて戯けながら言われるものだから少しムッとして「そんなことしないっすよ!」とひそひそ声で抗議した。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
半助はきり丸の頭をポンと一撫でして部屋を後にした。
*
虫の音や木々がざわめく音が微かに響く部屋の中、きり丸は天井を見上げながら繋いだ手の実感を確かめるように力を込めた。澪の手のあたたかさが伝わってきて、心までポカポカと温まる。身を捩って澪の方を向く。「澪さん」と声をかけても聞こえるのは彼女の寝息だけで、きり丸は意を決したように小さく息を吸い込んだ。
「ねえ…」
何かを言いかけて、グッと口をつぐむ。ため息をつき、もう寝ようと目を閉じかけたとき、掛け布団の上に投げ出された澪の左手が目についてひっそりとそれに手を伸ばした。起きないように、ばれないように、そうっと掴んで自分の頬に乗せる。力の入っていない手はいつものように優しく撫でてはくれないけど、でも澪の温かさを全部独り占めしてるんだと思うと心が浮き立った。へへ、と小さく笑いながら澪の両の手を握っていたら、不意に澪が身を捩った。
やばい。起こしちゃった?
慌てて手を離して息を押し殺す。繋いでいた手は離さなきゃよかったな、なんて思っていると頬に乗っかっていた彼女の左手がゆるりと頭を撫でてそのまま腕の中に引き寄せられた。包み込むように抱きしめられ、目を白黒させる。
寝息聞こえるし、起きてはいないっぽい。
よかった。焦ったあ…
穏やかな心音が聞こえて全身の強張りがほぐれていく。目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をしながら擦り寄った。体温が伝わってきて微睡む。縁側で抱き抱えられた記憶を思い出し、頬が緩んだ。
段々と意識が遠のいていく中、澪に出会うよりも、乱太郎達に出会うよりも前の、柔く温かな記憶がぼんやりと浮かんだ気がした。
朧気だけど、涙ぐむほど幸せなそれはきっと_________