ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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夕飯時を過ぎて静かになった食堂で澪はひとり桶に溜まった食器と向き合っていた。桶の中の水に揺らめく自分の顔を見つめてひたりと頬に手を添える。ずっと水仕事をしていたせいか指先は冷たく、どこかまだ熱を孕む頬にはその冷たさが心地よかった。肺の中の空気を全て吐き出して目を閉じる。
昼間は思いがけず腹の奥にしまい続けていた感情を吐き出してしまったが、そのおかげかずっしりと沈んでいた心が軽やかになった。そして半助の言葉がずっと頭の中を駆け巡っていて地に足がついていないようなふわふわした気持ちでいる。食堂のおばちゃんは夕飯の手伝いに来た澪の顔を見てほんの少し驚いたような顔をして、けれどすぐに目を細め微笑んだ。何も言わずに澪の手を握ったおばちゃんの目はほんのり潤んでいるように見えた。
「澪ちゃん、もう今日はお上がんなさい」
「いえおばさま、もうあと少しで終わりますので…」
「澪ちゃん」
おばちゃんの声にハッと振り返る。おばちゃんはいつも通りの優しい笑みを浮かべていて、そっと頬に手をあてがった。
「今日は、ゆっくりと休めそう?」
小さく開いた口から息が漏れる。ほんの少し首を傾けるとおばちゃんの手のひらの温かさが伝わってきて、甘えるようにちょっぴりと頬を擦り寄せてしまった。「はい」と囁けばおばちゃんは満足げに笑って大きく頷いた。
*
ふはぁ…
湯気が立ち込めた風呂場にて、湯船に浸かって気の抜けたため息を漏らした。うんと伸びをしたあと足を折って両膝を抱え込み腕の中に顔を埋めた。
私今、すっごく気が抜けてるかもしれない。
いつもならばここでしゃんとしなきゃと気合を入れ直すところだけれど、何だかそんな気にはなれなくて温かい空気を胸いっぱいに吸い込んではゆっくりとそれを吐き出した。
「いつも本当にありがとうね。澪ちゃん」
「澪ちゃんってばもう本当に良い子なんだから、おばちゃんつい甘やかしたくなっちゃうのよ。
どうか、頼ってね。些細なことでもいいの。何だって構わないのよ。」
帰りがけにおばちゃんから言われた言葉が無性に嬉しくてぎゅっと目を瞑り鼻の辺りまでお湯に浸かる。お母さんに褒められたみたいに胸の奥がほわっと温かくて舞い上がってしまいそうな感じがして、つい足の先をパタパタと揺らしてしまう。表情筋も緩み切っていてにやけてしまうからそれを押し殺すようにきゅっと唇を噛み締める。そうしていると浴室の扉が開く音がして慌てて顔をあげた。
「あら、澪さん!」
入ってきたのはくの一教室の生徒であるユキとトモミとおシゲで、パッと目を輝かせた彼女たちは急いで身体を洗って湯船に浸かった。あっという間に少女たちに囲まれた澪は目をパチパチと瞬かせながらちょっぴり気まずそうに身体を縮こませる。
「お先にお風呂頂いちゃって、すみません」
「そんなの全然良いんですよ。それよりも!」
「私達、もっと澪さんとお話ししたかったんです!日中はお手伝いとかされているでしょ?それで、お風呂でなら会えるかもって思っていたのにちっとも会えないから…」
「今度澪さんのお部屋にお邪魔するかくの一長屋へご招待するか三人で話していたところなんでしゅよ」
息の合った様子で彼女たちが次々と口を開く様が何だか一年は組の子達を彷彿とさせて、縮こまっていた身体から力が抜けた。
「ごめんなさい。くの一教室の生徒の子達のお邪魔にならないように、遅い時間にいつも入浴させていただいていたんです。」
「もう、遠慮なんかしないでください!夜遅くじゃお湯だって冷めてるでしょうに…」
「私達だけじゃなくてくの一教室の皆も澪さんとお話したがっているんですよ。だから遠慮せずにいつでも入りにきてください。だって、忍たま達にぜーったいに邪魔されずに澪さんを独り占めできるのはお風呂しかないでしょう?」
「ねー!」と揃って声を上げる彼女達が可愛らしくて笑みが溢れる。
以前シナに連れられてくの一教室がある長屋を訪れ彼女達と面識はあったものの、基本的に事務室と食堂、そして与えられた自室以外にどこかに出向くことがないためくの一教室の生徒との交流はあまりなかったのだ。シナからはくの一長屋は至る所に罠が張っていて一人で歩くのは危険だと言われていたこともあり、他人に付き添いを頼めるはずもなくそちらへ足が向くことはそうそうなかった。
「ね、澪さんってお肌が真っ白で綺麗ですよね。やだ、それにすっごく滑らか!」
「えっあっ、!」
「筋肉はあまりついていないけど、山本先生みたいに上背があってすらりとしているから憧れちゃうわ!」
ユキたちは澪に詰め寄ると腕やら足やら全身に手を滑らせるので、恥ずかしさやらくすぐったさで上擦った声が漏れてしまう。広い湯船の隅に四人がおしくらまんじゅう状態でいるせいでお湯がちゃぷちゃぷと音を立てている。
それから髪の毛やお肌の手入れの話から忍たまに対する愚痴だったりとあっちこっちに話題が転がりつつも久方ぶりのガールズトークに花を咲かせた。彼女達の話を聞いているとつい長風呂をしてしまい、のぼせ上がる手前で澪の真っ赤な顔に気づいたおシゲが話を切り上げて四人は風呂から上がった。
「澪さん、まだ頬が真っ赤だわ。お部屋まで送りしましょうか?」
「ううん、大丈夫です。お気遣いありがとう、トモミちゃん」
トモミのまつ毛に髪の毛がかかっていたのでそっと払い耳にかけてあげると少し照れくさそうに唇を食み上目遣いにこちらを見つめてくる。ほんの少し膝を折り、彼女達と視線を合わせて頬を緩めた。
「湯冷めしないように、ね。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。澪さん」
ユキ達を見送ってから自室へと向かう。ぺたぺたと廊下を歩きながら両手に抱える着物をぎゅっと抱きしめた。小さな鼻歌交じりに息を吐き出し、板の目地に足の指先を沿わせながらゆっくりと進んでいく。途中、何とはなしに夜空を見上げる。相変わらず小さな星の灯りもはっきりと見える美しい星空が広がっていて、その美しさに目を細めた。
うん。大丈夫。
大丈夫だよ、澪。
目を閉じて胸に手を当てると穏やかな鼓動が夜着越しに伝わってくる。驚くほどに満ち足りていて、今なら何だってできそうな気がした。
人生を楽観できるほど子供じゃないし、達観できるほど大人でもない。
ここでの生活は大変なことだらけで知らないことも不安なこともあるけれど、それでも優しい人々に巡り会うことができて、日々の中では楽しいと感じたり嬉しいと感じることもあった。そしてこんな状況でそういう気持ちになるなんて許されないんじゃないか、そんな場合じゃないだろうと思わずにはいられなかった。
でも、そんなふうに感情を押し殺していたってただ息が詰まって苦しいだけだから。
これからの不安がなくなるわけじゃない。きっと思い悩むし恐怖に足がすくむことだってあるだろうけど、それでも、私は私の心を殺したくない。
だから、いいよね。少しだけ、緩めたって。
息が出来なくなるほど自分を縛り付けなくたって、いいんだよね。
正しいかどうかなんて分からない。けれどひたすらに自分にそう言い聞かせた。
ゆっくりと瞼を開いて空を見上げる。雲間から顔を覗かせた月はまん丸で、とろりとした金色のそれは柔く夜の闇を照らしていた。
昼間は思いがけず腹の奥にしまい続けていた感情を吐き出してしまったが、そのおかげかずっしりと沈んでいた心が軽やかになった。そして半助の言葉がずっと頭の中を駆け巡っていて地に足がついていないようなふわふわした気持ちでいる。食堂のおばちゃんは夕飯の手伝いに来た澪の顔を見てほんの少し驚いたような顔をして、けれどすぐに目を細め微笑んだ。何も言わずに澪の手を握ったおばちゃんの目はほんのり潤んでいるように見えた。
「澪ちゃん、もう今日はお上がんなさい」
「いえおばさま、もうあと少しで終わりますので…」
「澪ちゃん」
おばちゃんの声にハッと振り返る。おばちゃんはいつも通りの優しい笑みを浮かべていて、そっと頬に手をあてがった。
「今日は、ゆっくりと休めそう?」
小さく開いた口から息が漏れる。ほんの少し首を傾けるとおばちゃんの手のひらの温かさが伝わってきて、甘えるようにちょっぴりと頬を擦り寄せてしまった。「はい」と囁けばおばちゃんは満足げに笑って大きく頷いた。
*
ふはぁ…
湯気が立ち込めた風呂場にて、湯船に浸かって気の抜けたため息を漏らした。うんと伸びをしたあと足を折って両膝を抱え込み腕の中に顔を埋めた。
私今、すっごく気が抜けてるかもしれない。
いつもならばここでしゃんとしなきゃと気合を入れ直すところだけれど、何だかそんな気にはなれなくて温かい空気を胸いっぱいに吸い込んではゆっくりとそれを吐き出した。
「いつも本当にありがとうね。澪ちゃん」
「澪ちゃんってばもう本当に良い子なんだから、おばちゃんつい甘やかしたくなっちゃうのよ。
どうか、頼ってね。些細なことでもいいの。何だって構わないのよ。」
帰りがけにおばちゃんから言われた言葉が無性に嬉しくてぎゅっと目を瞑り鼻の辺りまでお湯に浸かる。お母さんに褒められたみたいに胸の奥がほわっと温かくて舞い上がってしまいそうな感じがして、つい足の先をパタパタと揺らしてしまう。表情筋も緩み切っていてにやけてしまうからそれを押し殺すようにきゅっと唇を噛み締める。そうしていると浴室の扉が開く音がして慌てて顔をあげた。
「あら、澪さん!」
入ってきたのはくの一教室の生徒であるユキとトモミとおシゲで、パッと目を輝かせた彼女たちは急いで身体を洗って湯船に浸かった。あっという間に少女たちに囲まれた澪は目をパチパチと瞬かせながらちょっぴり気まずそうに身体を縮こませる。
「お先にお風呂頂いちゃって、すみません」
「そんなの全然良いんですよ。それよりも!」
「私達、もっと澪さんとお話ししたかったんです!日中はお手伝いとかされているでしょ?それで、お風呂でなら会えるかもって思っていたのにちっとも会えないから…」
「今度澪さんのお部屋にお邪魔するかくの一長屋へご招待するか三人で話していたところなんでしゅよ」
息の合った様子で彼女たちが次々と口を開く様が何だか一年は組の子達を彷彿とさせて、縮こまっていた身体から力が抜けた。
「ごめんなさい。くの一教室の生徒の子達のお邪魔にならないように、遅い時間にいつも入浴させていただいていたんです。」
「もう、遠慮なんかしないでください!夜遅くじゃお湯だって冷めてるでしょうに…」
「私達だけじゃなくてくの一教室の皆も澪さんとお話したがっているんですよ。だから遠慮せずにいつでも入りにきてください。だって、忍たま達にぜーったいに邪魔されずに澪さんを独り占めできるのはお風呂しかないでしょう?」
「ねー!」と揃って声を上げる彼女達が可愛らしくて笑みが溢れる。
以前シナに連れられてくの一教室がある長屋を訪れ彼女達と面識はあったものの、基本的に事務室と食堂、そして与えられた自室以外にどこかに出向くことがないためくの一教室の生徒との交流はあまりなかったのだ。シナからはくの一長屋は至る所に罠が張っていて一人で歩くのは危険だと言われていたこともあり、他人に付き添いを頼めるはずもなくそちらへ足が向くことはそうそうなかった。
「ね、澪さんってお肌が真っ白で綺麗ですよね。やだ、それにすっごく滑らか!」
「えっあっ、!」
「筋肉はあまりついていないけど、山本先生みたいに上背があってすらりとしているから憧れちゃうわ!」
ユキたちは澪に詰め寄ると腕やら足やら全身に手を滑らせるので、恥ずかしさやらくすぐったさで上擦った声が漏れてしまう。広い湯船の隅に四人がおしくらまんじゅう状態でいるせいでお湯がちゃぷちゃぷと音を立てている。
それから髪の毛やお肌の手入れの話から忍たまに対する愚痴だったりとあっちこっちに話題が転がりつつも久方ぶりのガールズトークに花を咲かせた。彼女達の話を聞いているとつい長風呂をしてしまい、のぼせ上がる手前で澪の真っ赤な顔に気づいたおシゲが話を切り上げて四人は風呂から上がった。
「澪さん、まだ頬が真っ赤だわ。お部屋まで送りしましょうか?」
「ううん、大丈夫です。お気遣いありがとう、トモミちゃん」
トモミのまつ毛に髪の毛がかかっていたのでそっと払い耳にかけてあげると少し照れくさそうに唇を食み上目遣いにこちらを見つめてくる。ほんの少し膝を折り、彼女達と視線を合わせて頬を緩めた。
「湯冷めしないように、ね。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。澪さん」
ユキ達を見送ってから自室へと向かう。ぺたぺたと廊下を歩きながら両手に抱える着物をぎゅっと抱きしめた。小さな鼻歌交じりに息を吐き出し、板の目地に足の指先を沿わせながらゆっくりと進んでいく。途中、何とはなしに夜空を見上げる。相変わらず小さな星の灯りもはっきりと見える美しい星空が広がっていて、その美しさに目を細めた。
うん。大丈夫。
大丈夫だよ、澪。
目を閉じて胸に手を当てると穏やかな鼓動が夜着越しに伝わってくる。驚くほどに満ち足りていて、今なら何だってできそうな気がした。
人生を楽観できるほど子供じゃないし、達観できるほど大人でもない。
ここでの生活は大変なことだらけで知らないことも不安なこともあるけれど、それでも優しい人々に巡り会うことができて、日々の中では楽しいと感じたり嬉しいと感じることもあった。そしてこんな状況でそういう気持ちになるなんて許されないんじゃないか、そんな場合じゃないだろうと思わずにはいられなかった。
でも、そんなふうに感情を押し殺していたってただ息が詰まって苦しいだけだから。
これからの不安がなくなるわけじゃない。きっと思い悩むし恐怖に足がすくむことだってあるだろうけど、それでも、私は私の心を殺したくない。
だから、いいよね。少しだけ、緩めたって。
息が出来なくなるほど自分を縛り付けなくたって、いいんだよね。
正しいかどうかなんて分からない。けれどひたすらに自分にそう言い聞かせた。
ゆっくりと瞼を開いて空を見上げる。雲間から顔を覗かせた月はまん丸で、とろりとした金色のそれは柔く夜の闇を照らしていた。