ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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星に見蕩れたあの夜
ここに来て初めて、温かな夢を見た。
それはなんてことない日常のひとときで、ただ目が覚めるとカーテンの隙間から朝日がキラキラと漏れていた。階段を降りてリビングへのドアを開けるとお庭の花に水をやっている父が見えて、キッチンでは母が朝ごはんを作っていた。おはようと声をかけると母はにっこりと笑っておはようと返事をする。コーヒーのいい香りがして、深く息を吸い込む。母と肩を並べて朝食の準備をして、パンが焼けたら家族そろって席に着いた。
今日もとっても暑くなるんだろうね。
久々に、家族そろってどこかへ行こうか。
涼しいところがいいなあ。
穏やかな会話を交えながら3人で食べる朝食が美味しくて、ダイニングテーブルの中央に置いてある一輪挿しに飾られた花がきれいで、そんな何気ない朝の時間が涙が出そうなくらいに幸せだと思った。
朝食を食べ終えて、ダイニングテーブルに頬杖をついて目を瞑る。
最後に実家に帰ったのはいつだったっけ。
帰りたいな。お母さんとお父さんに会いたいなあ。
きっと、次に目を開けたときには見慣れてしまったあの天井がそこにあるのだろう。このまま、このままがいい。これが夢じゃなければいいのに。
幸せな夢だったな、と目覚めて涙した。薄っぺらな布団にじわりと涙が滲んで、その染みが乾いていくのをただぼんやりと見ていた。
それからはただひたすらに雑用をこなした。帰るための手立てが何も得られなかったことも、初めて出くわした山賊のことも、思い出すだけで不安で怖くて息が詰まってしまうからとにかく手を動かした。
それでもふとしたときに他人に向けられた刃や邪悪が蘇って立ちすくんでしまった。上手く息が吸えなくて、苦しくて、こんな姿は惨めすぎて誰にも見られたくないのに一人になるのが心底怖かった。
傍にいてほしい、なんて言える人は誰もいない。
日が暮れると夜の闇が無性に怖くて、あんなに綺麗だった星を見ようにも部屋の外に出られなかった。また温かくて幸せな夢を見たくて、目は冴えているのに布団を被っては無理やりその瞳を閉じた。
*
「今日はこれから校外で実習があるんです!」
朝、廊下で偶然出会った金吾がワクワクした様子で教えてくれた。
私はそれを聞いたとき、血の気が引いた。きっと顔も引き攣っていたと思う。
こんなに小さい子達が外に出て、もし悪い人と出くわしてしまったらと想像しただけでゾッとした。彼らにとっては山賊なんて珍しいものではないとしても。対処の仕方を心得ているとしても。もしも。もしも、何かあったらと考えてしまったのだ。
「それじゃあ行ってきますね!」と駆け出そうとした金吾の腕を思わずひっ掴んだ。びっくりして目を丸くする彼に、すぐには言葉が出てこず意味もなくパクパクと口を動かす。
「澪さん?」
前髪で隠れた額には汗が滲んでいて、喉の奥が震えていた。
「気をつけて、行ってらっしゃい。」
どうかこの子達が怖い思いをしませんように。
怪我しませんように。
そう願いながら金吾の小さな手をきゅっと握り締めた。
金吾を見送った後の仕事はどこか力が入らず、お昼時を過ぎて休憩時間を与えられた澪は部屋には戻らず校門前をうろうろしながらは組の子達の帰りを待っていた。照り付ける日差しがじりじりと肌を焦がすようで汗が止まらない。近くの木陰に入ると心地よい風が火照った身体を撫でつける。息を吐いてへなへなとその場にしゃがみこんだ。門を見つめていると嫌な記憶が蘇ってきて鳥肌が立つ。汗と悪寒が気持ち悪くて煩わしそうに両腕を摩った。
私は、あの門の外に出るのがどうしようもなく怖い。でもこのままずっとここにはいられなくて、はやく帰るための算段を立ててここを出ていかねばならない。考えることを止めちゃいけないと分かっているのに、何も考えたくない。だって、もうこれ以上なにをしたらいいの。何を考えたらいいの。あの草原に行けないのなら少しの手がかりだって見つからない。
ぶんぶんと頭を振って祈るように両手を握り締める。
今は、そんなこと考えるのは止そう。あの子達の帰りをただ、待って居よう。
そうして目を瞑ってじっと待っていたら、午後一の授業の終わりを告げる鐘の音が鳴った。遠くの校庭が少しだけ騒がしくなって、でも門が開く音を聞き逃さぬように耳を澄ませた。暫くすると、学園内ではなく外の方から子供達の声が聞こえてハッと目を開く。すぐさま立ち上がると一瞬眩暈がして視界がぐにゃりと歪んだが、なんとか木に手をついて持ちこたえた。どうにも頭が重くて遅れてやってきた耳鳴りに耐えているといつの間にか門が開かれてぞろぞろと子供達が入ってくる。
は組の子達だ。みんな怪我してない。
ちゃんと、無事に帰ってきた。
きゅうと締まっていた喉が緩んで息が漏れる。心臓がバクバクしていて、視界がほんのちょっぴり潤んだ。子供らしい甲高い笑い声を上げてお互いを小突き合ったり楽しそうにおしゃべりをする彼らの姿が普段通りで、心の中でよかった、よかったと何度も唱えた。安心したせいか力が抜けて足元がふらつく。
「あっ澪さん!」
ぱきりと枝を踏んだ音が響いたからか、こちらに気づいた金吾が大きく手を振ってきた。よろめくように日向へ出て彼らの傍に歩み寄ると「ただいま帰りました!」と元気よく声を上げる。日に焼けたのか頬が赤くなっている子達がちらほらいる。彼らの元気の良さに思わず笑みが零れた。
「おかえりなさい」
ちょっぴり震える声で噛みしめるようにそう囁くとは組の子達がニコニコ笑いながら返事をする。おかえりなさいなんて、この場所で私がその言葉を口にする資格があるのかわからない。けれど、子供達を見てそう言わずにはいられなかった。少し身を屈めて彼らの顔をよく見つめる。着物の袖を掴んだり腰にくっついてきて今日あったことを口々に話してくれるので全部を聞き取るのは難しい。
「今日は兵庫水軍のところに行って水練をしてきたんです!」
「お魚い~~っぱい食べてきましたぁ」
一等はしゃいだ声が聞こえて、かと思えばお腹辺りに強い衝撃を覚える。突進してきたのは喜三太としんべヱで、子供とはいえ二人分の体重を支え切れるはずもなくそのまま後ろに傾いた。頭を打ち付ける前に半助に抱き留められて事なきを得たが、彼に注意された喜三太としんべヱがしょんぼりとしていたのでそっと二人の頭を抱き寄せた。
子供達が纏う海の香りがなんだか新鮮で静かに深呼吸をする。目を閉じてゆるゆると二人の頭を撫でていると少しずつ心が落ち着きを取り戻してきて、かじかんでいた指先がほんのり熱を帯びる。
不意に喜三太としんべヱがぎゅうっと抱き着いてきた。子供らしい少し高めな体温と柔らかさに包まれたとき、どうしてか吐く息が震えた。その心地よさを堪能するように首に回された腕にちょっとだけ顔を埋めていると喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。
駄目だってわかっているのに、もうそれを止めることはできなかった。
堰を切ったように涙が溢れ出して、鼻の奥がツンと痛くて、気を抜いたら声を上げて泣いてしまいそうだった。
ごめんね。ごめんなさい。
泣いちゃってごめんなさい。情けなくてごめんなさい。
だって、あったかかったの。
「大丈夫ですよ。大丈夫ですから。」
優しい声音でそう呟く彼は大きな手で私の背中をゆっくりと摩ってくれて。不思議と土井さんの声は耳馴染みがよくて、心地が良かった。
きり丸くんは、どうして泣いているのかと聞いてきた。何かできることはないかと言ってくれた。
何もしてくれなくてもいいの。
いいの__
その気持ちだけで嬉しいから。私きっと頑張れる。
草原に行けないのならなにか別の方法を考えよう。門の外が怖いのなら何があるのかをもっと知ろう。
ちゃんと見よう。前を向いて、しっかり向き合おう。もしそうあれたら、私は少しだけ私を見直すことができる気がする。
「皆、好きなひとには笑っていてほしいんですよ。」
星がはじけるような音が響いた気がした。目の前がキラキラと光って見えて、温かくて爽やかな風が心に吹き込んだ。
私も好き。この子達が、好き。
笑っていてほしいよ。
そうだよ。怖いことだけじゃない。不安なことだけじゃない。私、この学園にいる人たちの温かさを知ってる。優しさを、知ってる。
「約束して。
これからは我慢しないって、隠さないって、ちゃんと約束して。」
どうしよう。心がふわふわして、ぽかぽかとあったかい。
きり丸くんが立てた小指にそっと自分の小指を絡める。
「…うん。約束、するね。」
***
それから暫くして、は組の良い子達が水浴びしに行くのを見送り半助と澪は校門に二人きりとなった。後でたくさんお話しましょうねと約束をし、何度も何度も振り返り手を振る子供達をずっとずっと見ていた。彼らの背中が見えなくなったころ、隣から感じた視線に気づいて顔を上げた。
「あ、あの、土井さん…」
「はい、澪さん」
笑みを浮かべながら首を傾げる半助と目が合って、顔が熱くなった。なんて言おうかすごく迷って無言の時間が続くから焦って鼓動が速くなる。視線を彷徨わせてしまって、意を決してもう一度彼の目を見た。ふわりと細まった目が優し気で、口には出さないけれど“焦らなくていいんだよ”と言っているようで、ふっと肩の力が抜けた。
「ありがとう、ございます」
自然と、口から紡がれた感謝の言葉。
支えてくれて、大丈夫だと言ってくれて、背中を摩ってくれて。
他にもたくさんのありがとうを伝えたかった。
「ありがとうございます。土井さん」
涙の跡とか腫れた目とか顔はぐしゃぐしゃで、それなのに笑っているからすごく変な顔をしているんだろう。半助は少し驚いたような顔をしていて、ほんのり頬が赤らんでいた。
そのあとはなんだか気恥ずかしくて、どうやってこの会話を終わらせるべきなのか分からず足元を見ながらゆっくりと身を捩って方向転換を試みる。
「あの、えと…、それじゃあ、」
「…たしは、澪さんの、」
半助が何かを言いかける。最後までよく聞こえなくて顔を上げたけれど、半助は口元を覆って少し俯いていたので続きを聞くことはできなかった。突然彼がこちらを向いてキッと力強く見つめてくるから小さく肩が揺れた。
「澪さんは、貴女が思っているよりもずっと周りの人に好かれています。」
「だから少しずつでいいので、貴女の本当の気持ちを打ち明けてみてください。笑ってあげて、ください。」
「きっとあの子達はそれだけで嬉しいはずだから。」と呟く彼の眼差しは真剣で、でもすごくすごく優しい表情をしていた。もしかして夢でも見てるんじゃないかなと握り締めた手の甲をつねってみた。
夢じゃないや。
こんなにも胸の奥があったかくて、幸せで。
これは紛れもない現実なんだ。
「嬉しい…」
ぎゅうと目を瞑って喜びを噛みしめる。なんだかもう胸がいっぱいで、両手で解きほぐされたくん、とくんと高鳴る鼓動が手のひらに伝わる。柔らかくときほぐされた心が漸く、熱を持った気がした。
ここに来て初めて、温かな夢を見た。
それはなんてことない日常のひとときで、ただ目が覚めるとカーテンの隙間から朝日がキラキラと漏れていた。階段を降りてリビングへのドアを開けるとお庭の花に水をやっている父が見えて、キッチンでは母が朝ごはんを作っていた。おはようと声をかけると母はにっこりと笑っておはようと返事をする。コーヒーのいい香りがして、深く息を吸い込む。母と肩を並べて朝食の準備をして、パンが焼けたら家族そろって席に着いた。
今日もとっても暑くなるんだろうね。
久々に、家族そろってどこかへ行こうか。
涼しいところがいいなあ。
穏やかな会話を交えながら3人で食べる朝食が美味しくて、ダイニングテーブルの中央に置いてある一輪挿しに飾られた花がきれいで、そんな何気ない朝の時間が涙が出そうなくらいに幸せだと思った。
朝食を食べ終えて、ダイニングテーブルに頬杖をついて目を瞑る。
最後に実家に帰ったのはいつだったっけ。
帰りたいな。お母さんとお父さんに会いたいなあ。
きっと、次に目を開けたときには見慣れてしまったあの天井がそこにあるのだろう。このまま、このままがいい。これが夢じゃなければいいのに。
幸せな夢だったな、と目覚めて涙した。薄っぺらな布団にじわりと涙が滲んで、その染みが乾いていくのをただぼんやりと見ていた。
それからはただひたすらに雑用をこなした。帰るための手立てが何も得られなかったことも、初めて出くわした山賊のことも、思い出すだけで不安で怖くて息が詰まってしまうからとにかく手を動かした。
それでもふとしたときに他人に向けられた刃や邪悪が蘇って立ちすくんでしまった。上手く息が吸えなくて、苦しくて、こんな姿は惨めすぎて誰にも見られたくないのに一人になるのが心底怖かった。
傍にいてほしい、なんて言える人は誰もいない。
日が暮れると夜の闇が無性に怖くて、あんなに綺麗だった星を見ようにも部屋の外に出られなかった。また温かくて幸せな夢を見たくて、目は冴えているのに布団を被っては無理やりその瞳を閉じた。
*
「今日はこれから校外で実習があるんです!」
朝、廊下で偶然出会った金吾がワクワクした様子で教えてくれた。
私はそれを聞いたとき、血の気が引いた。きっと顔も引き攣っていたと思う。
こんなに小さい子達が外に出て、もし悪い人と出くわしてしまったらと想像しただけでゾッとした。彼らにとっては山賊なんて珍しいものではないとしても。対処の仕方を心得ているとしても。もしも。もしも、何かあったらと考えてしまったのだ。
「それじゃあ行ってきますね!」と駆け出そうとした金吾の腕を思わずひっ掴んだ。びっくりして目を丸くする彼に、すぐには言葉が出てこず意味もなくパクパクと口を動かす。
「澪さん?」
前髪で隠れた額には汗が滲んでいて、喉の奥が震えていた。
「気をつけて、行ってらっしゃい。」
どうかこの子達が怖い思いをしませんように。
怪我しませんように。
そう願いながら金吾の小さな手をきゅっと握り締めた。
金吾を見送った後の仕事はどこか力が入らず、お昼時を過ぎて休憩時間を与えられた澪は部屋には戻らず校門前をうろうろしながらは組の子達の帰りを待っていた。照り付ける日差しがじりじりと肌を焦がすようで汗が止まらない。近くの木陰に入ると心地よい風が火照った身体を撫でつける。息を吐いてへなへなとその場にしゃがみこんだ。門を見つめていると嫌な記憶が蘇ってきて鳥肌が立つ。汗と悪寒が気持ち悪くて煩わしそうに両腕を摩った。
私は、あの門の外に出るのがどうしようもなく怖い。でもこのままずっとここにはいられなくて、はやく帰るための算段を立ててここを出ていかねばならない。考えることを止めちゃいけないと分かっているのに、何も考えたくない。だって、もうこれ以上なにをしたらいいの。何を考えたらいいの。あの草原に行けないのなら少しの手がかりだって見つからない。
ぶんぶんと頭を振って祈るように両手を握り締める。
今は、そんなこと考えるのは止そう。あの子達の帰りをただ、待って居よう。
そうして目を瞑ってじっと待っていたら、午後一の授業の終わりを告げる鐘の音が鳴った。遠くの校庭が少しだけ騒がしくなって、でも門が開く音を聞き逃さぬように耳を澄ませた。暫くすると、学園内ではなく外の方から子供達の声が聞こえてハッと目を開く。すぐさま立ち上がると一瞬眩暈がして視界がぐにゃりと歪んだが、なんとか木に手をついて持ちこたえた。どうにも頭が重くて遅れてやってきた耳鳴りに耐えているといつの間にか門が開かれてぞろぞろと子供達が入ってくる。
は組の子達だ。みんな怪我してない。
ちゃんと、無事に帰ってきた。
きゅうと締まっていた喉が緩んで息が漏れる。心臓がバクバクしていて、視界がほんのちょっぴり潤んだ。子供らしい甲高い笑い声を上げてお互いを小突き合ったり楽しそうにおしゃべりをする彼らの姿が普段通りで、心の中でよかった、よかったと何度も唱えた。安心したせいか力が抜けて足元がふらつく。
「あっ澪さん!」
ぱきりと枝を踏んだ音が響いたからか、こちらに気づいた金吾が大きく手を振ってきた。よろめくように日向へ出て彼らの傍に歩み寄ると「ただいま帰りました!」と元気よく声を上げる。日に焼けたのか頬が赤くなっている子達がちらほらいる。彼らの元気の良さに思わず笑みが零れた。
「おかえりなさい」
ちょっぴり震える声で噛みしめるようにそう囁くとは組の子達がニコニコ笑いながら返事をする。おかえりなさいなんて、この場所で私がその言葉を口にする資格があるのかわからない。けれど、子供達を見てそう言わずにはいられなかった。少し身を屈めて彼らの顔をよく見つめる。着物の袖を掴んだり腰にくっついてきて今日あったことを口々に話してくれるので全部を聞き取るのは難しい。
「今日は兵庫水軍のところに行って水練をしてきたんです!」
「お魚い~~っぱい食べてきましたぁ」
一等はしゃいだ声が聞こえて、かと思えばお腹辺りに強い衝撃を覚える。突進してきたのは喜三太としんべヱで、子供とはいえ二人分の体重を支え切れるはずもなくそのまま後ろに傾いた。頭を打ち付ける前に半助に抱き留められて事なきを得たが、彼に注意された喜三太としんべヱがしょんぼりとしていたのでそっと二人の頭を抱き寄せた。
子供達が纏う海の香りがなんだか新鮮で静かに深呼吸をする。目を閉じてゆるゆると二人の頭を撫でていると少しずつ心が落ち着きを取り戻してきて、かじかんでいた指先がほんのり熱を帯びる。
不意に喜三太としんべヱがぎゅうっと抱き着いてきた。子供らしい少し高めな体温と柔らかさに包まれたとき、どうしてか吐く息が震えた。その心地よさを堪能するように首に回された腕にちょっとだけ顔を埋めていると喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。
駄目だってわかっているのに、もうそれを止めることはできなかった。
堰を切ったように涙が溢れ出して、鼻の奥がツンと痛くて、気を抜いたら声を上げて泣いてしまいそうだった。
ごめんね。ごめんなさい。
泣いちゃってごめんなさい。情けなくてごめんなさい。
だって、あったかかったの。
「大丈夫ですよ。大丈夫ですから。」
優しい声音でそう呟く彼は大きな手で私の背中をゆっくりと摩ってくれて。不思議と土井さんの声は耳馴染みがよくて、心地が良かった。
きり丸くんは、どうして泣いているのかと聞いてきた。何かできることはないかと言ってくれた。
何もしてくれなくてもいいの。
いいの__
その気持ちだけで嬉しいから。私きっと頑張れる。
草原に行けないのならなにか別の方法を考えよう。門の外が怖いのなら何があるのかをもっと知ろう。
ちゃんと見よう。前を向いて、しっかり向き合おう。もしそうあれたら、私は少しだけ私を見直すことができる気がする。
「皆、好きなひとには笑っていてほしいんですよ。」
星がはじけるような音が響いた気がした。目の前がキラキラと光って見えて、温かくて爽やかな風が心に吹き込んだ。
私も好き。この子達が、好き。
笑っていてほしいよ。
そうだよ。怖いことだけじゃない。不安なことだけじゃない。私、この学園にいる人たちの温かさを知ってる。優しさを、知ってる。
「約束して。
これからは我慢しないって、隠さないって、ちゃんと約束して。」
どうしよう。心がふわふわして、ぽかぽかとあったかい。
きり丸くんが立てた小指にそっと自分の小指を絡める。
「…うん。約束、するね。」
***
それから暫くして、は組の良い子達が水浴びしに行くのを見送り半助と澪は校門に二人きりとなった。後でたくさんお話しましょうねと約束をし、何度も何度も振り返り手を振る子供達をずっとずっと見ていた。彼らの背中が見えなくなったころ、隣から感じた視線に気づいて顔を上げた。
「あ、あの、土井さん…」
「はい、澪さん」
笑みを浮かべながら首を傾げる半助と目が合って、顔が熱くなった。なんて言おうかすごく迷って無言の時間が続くから焦って鼓動が速くなる。視線を彷徨わせてしまって、意を決してもう一度彼の目を見た。ふわりと細まった目が優し気で、口には出さないけれど“焦らなくていいんだよ”と言っているようで、ふっと肩の力が抜けた。
「ありがとう、ございます」
自然と、口から紡がれた感謝の言葉。
支えてくれて、大丈夫だと言ってくれて、背中を摩ってくれて。
他にもたくさんのありがとうを伝えたかった。
「ありがとうございます。土井さん」
涙の跡とか腫れた目とか顔はぐしゃぐしゃで、それなのに笑っているからすごく変な顔をしているんだろう。半助は少し驚いたような顔をしていて、ほんのり頬が赤らんでいた。
そのあとはなんだか気恥ずかしくて、どうやってこの会話を終わらせるべきなのか分からず足元を見ながらゆっくりと身を捩って方向転換を試みる。
「あの、えと…、それじゃあ、」
「…たしは、澪さんの、」
半助が何かを言いかける。最後までよく聞こえなくて顔を上げたけれど、半助は口元を覆って少し俯いていたので続きを聞くことはできなかった。突然彼がこちらを向いてキッと力強く見つめてくるから小さく肩が揺れた。
「澪さんは、貴女が思っているよりもずっと周りの人に好かれています。」
「だから少しずつでいいので、貴女の本当の気持ちを打ち明けてみてください。笑ってあげて、ください。」
「きっとあの子達はそれだけで嬉しいはずだから。」と呟く彼の眼差しは真剣で、でもすごくすごく優しい表情をしていた。もしかして夢でも見てるんじゃないかなと握り締めた手の甲をつねってみた。
夢じゃないや。
こんなにも胸の奥があったかくて、幸せで。
これは紛れもない現実なんだ。
「嬉しい…」
ぎゅうと目を瞑って喜びを噛みしめる。なんだかもう胸がいっぱいで、両手で解きほぐされたくん、とくんと高鳴る鼓動が手のひらに伝わる。柔らかくときほぐされた心が漸く、熱を持った気がした。