ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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「お帰りなさい。伊作くん、乱太郎くん、きり丸くん」
学園の門を潜ると用箋挟を掲げた青年が小走りで寄ってくる。そして伊作の腕の中の女を見て小首を傾げた。
「怪我がないなんて珍しいと思ったけど…その女の子は一体どうしたの?」
「そうなんです!僕たちこの道中全く不運な目に遭わずに学園まで帰ってくることができたんです!」
「もしかして乱太郎たちの不運をその女の人が全部被っちゃったんじゃねえの?」
「な、何言ってるのきりちゃん!そんなわけ、ない、と…思うけど…」
冗談混じりで茶化したきり丸だったがあながち間違いではないんじゃないかと乱太郎は少し不安になってくる。確かにここまで不運な目に遭わなかったということは自分たちが遭うべきだった不運を他の誰か、もといこの女の方が受けてしまったのか…と考え込んでしまう。
「薬草を採取した草原の近くで倒れていたんです。事情はわからないけど、とにかく医務室で手当をしたくて」
「そっか〜。本来なら入門表にサインをしてもらいたいんだけど、気を失っているようじゃサインできないし…」
「彼女のことは僕が学園長先生に報告するので、サインは彼女が目を覚ましたらしてもらいましょう。」
伊作の言葉になるほど!と納得した小松田は後で保健室に伺うね〜と何だか気が抜けるような調子で手を振り伊作たちを見届けた。
医務室に辿り着いた彼らは薬草を煎じていた校医に声をかける。伊作が抱える女を見た彼は乱太郎たちにいくらか指示を出して床を整えた。布団の上にゆっくりと女を下ろしたところできり丸があっと声を上げる。
「その人の髪飾り、寝かせる前に取っておいた方がいいんじゃ…」
高級そうだし、と善意で言っているのか、銭のために言っているのか何やらゴニョゴニョと呟いている。おそらく後者であろうが、一旦飲み込み飾りに手をかける乱太郎。花飾りはかんざしの様になっていて簡単に引き抜くことができたがキラキラと宝石が散りばめられたような飾りがなかなか取れない。しばらくその飾りをあちこち触り続けていたが、パチンと留め具が外れて無事引き抜くことができた。きり丸が言うように、高級品なのだろうか、手の中にある飾りに思わずほう、と息がついて出る。少しドキドキしながら布団のそばにそれを置いた乱太郎は最後にちょうちょ結びされた絹の様な薄い紐をそっと解いて大きく息をついた。
「きり丸があんなこと言うから、何だか私緊張しちゃったよ…」
乱太郎が一生懸命髪飾りを外している間に校医は女の容態を見立て終わっていた。
「新野先生」
「大丈夫。大きな怪我などは見当たりませんし、直に目を覚ますでしょう。」
その言葉に伊作は良かったと小さく呟き口元を緩めた。布団に寝かしつけ、そっと女の手を取る。指先はひどく冷たく、抱えている時も感じた震えが収まっていない。大丈夫、大丈夫だよと心の中で声をかけ、自分の熱を分け与えるように両手で小さな手のひらを包み込んだ。
「…学園長先生に伝えにいかなくてはね。」
「それじゃあ俺も一緒に行きます。最初に見つけたのは俺だし」
よし、と立ち上がる二人を見て乱太郎は少し慌てたように女の顔と彼らを見比べる。伊作は少し笑って乱太郎に告げた。
「報告は僕たちが済ますから、乱太郎はその間彼女の側に居てあげて。指先が冷たいんだ。温めてあげると、きっと安心するよ。」
「はい!」と元気よく、でも大きすぎない声で返事をした乱太郎は女に向き合いそしてひた、と手に触れた。冷たい指先に驚いてきゅっと唇を噛む。まんまるな眼鏡から覗く眼差しは真剣で、小さな手で懸命に女の手を温める乱太郎を見て新野は優しく微笑み目を閉じた。
***
「乱太郎くん、きり丸くん、頭が船を漕いでいますよ。」
「二人とも今日は疲れただろうし、もう部屋に戻ってお休み。」
女の眠る布団のそばでうつらうつらと頭を揺らす二人を見て新野と伊作は小さくい笑った。でも患者さんが…、報酬が…と呂律の回らない口でもそもそ呟く二人の頭を撫でて「彼女が起きたら必ず知らせに行くから」と部屋に帰す。
乱太郎ときり丸がいなくなり静かになった部屋で新野は薬を煎じ、伊作は包帯を巻き取りながら女の様子をうかがっていた。障子の向こうに人の気配を感じて視線を向ける。すう、と開いた障子からのぞいた顔を見て声をかけた。
「留三郎」
よっと小さく片手をあげて静かに保健室に入ってきた彼は伊作の隣に座り込んで眠る女の顔を覗き込んだ。どうしたんだいと問えば顔をあげてじっと伊作を見つめる留三郎。
「いやなに、薬草を取りに行った伊作たちが無傷で帰ってきたかと思えばなにやら医務室に女人を連れ込んでると聞いたもんで。一体どんな美女かと思って様子を見にきたんだ。」
「茶化さないでよ…草原で倒れていたから看病しているだけだ。他意はない」
すまんすまんと軽く笑う留三郎に対して眉を顰めた伊作は包帯を少しばかりキツく巻き、手元に置いた。留三郎の視線は彼女に移り、その視線は自分に向けるものとは違い少しの冷たさを含んでいる。
学園長先生には許可を得ているしここには新野先生もいる。彼女が何者なのかは未だわからないが患者である以上誰にも手出しはさせない。伊作の視線に気づいたのか、留三郎は「別に何もしねえって」と両手をあげてひらひらと振る。
「間者では、ないよ。きっと。」
「へえ」
「武器らしいものはなにも持っていないし、手も指先も細くて豆も傷もなく綺麗で、それに」
「わかった、わかったって」
矢継ぎ早に女を擁護する様なことを口にする伊作に少し呆れたように笑って待ったをかけた。伊作が言わんとしていることは大体分かる。線が細く頼りない体つきは何かを企むには心許ない。さりとて視認できる情報だけを鵜呑みに警戒を全く解くわけにもいかず。
ぴくりと視界の端で動いた女の手にあ、と声をあげる。伊作もそれにつられて女に視線を落とした。まつ毛が小さく震えてゆっくりとその瞼が開く。
「大丈夫で」
すか、と言い終わる前に大きく目を見開いた女は声にならない悲鳴をあげて起き上がり後ろ手に必死に後ずさる。腰が抜けているのか立ちあがろうとはせず、薬棚に背がつくと口元を押さえて過呼吸気味に息を吐く。瞳孔が開き、あちこちに視線を彷徨わせる女の身体はガタガタと震えていていた。
「落ち着いてください。大丈夫、私たちに敵意はありません。」
近寄ろうとした伊作を制止した新野は優しい声音でゆっくりと言葉を紡ぐ。ゆっくり息を吸って、吐いて。と言えばそれに合わせて何度も引き攣った様に呼吸を繰り返してようやく平静を少しだけ取り戻した。見るからに力の入った肩を掻き抱くように腕を回した女は掠れた小さな小さな声で彼らに問う。
「こ、こは、…どこ、ですか…?」
「ここは、子どもたちに手習を教える学舎です。」
てならい、まなびや。がっこう…と虫の囁くようなか細い声で呟いて、女は部屋にいる彼らをじっと見つめる。段々と乱れていく呼吸と、一向に血色の戻らない顔。両目からは今にも涙がこぼれ落ちるのではないかと思うほど薄い膜が張っており、目尻がしっとりと濡れている。
投げ出された膝を抱えるように震える腕を伸ばし、これでもかと身を縮こませた女はひくりと喉をならした。
どうして
夢じゃないの
途切れ途切れに聞こえる震える声は確かにそう呟いていた。
足の指先まできゅう、と縮み上がった彼女に留三郎は戸惑っていた。怯え、恐怖、そして絶望したような表情を見せる女は一体何者なのか。何か邪な心を持っている様には到底見えず、しかしそれが演技だと言うならば天晴れと言いたくなるほどの怯え振りで。なんて、この様子を見て演技などと言ってしまっては己の核たる何かが壊れてしまうというか、尊厳を守ることができなくなるのではないかと感じた。
手のひらがじわりと湿っており、思わず視線を落としてしまう。
「あの」
女の乱れた呼吸だけが響く部屋の中、伊作が声を発した。それからシンと部屋が静まり返る。呼吸を止めた女は身を硬くして恐る恐る顔を上げる。
少しでも威圧感をなくしたいのか、身を屈めて女の顔を見つめる伊作はようやく交わった視線にゆるゆると目を細めて優しく笑った。
「目を覚ましてくれて、嬉しい」
「どこか、痛いところはない?怪我、してない?」
新野に習ってゆったりとした口調で問う伊作の声にほんの少しだけ女の肩の力が抜ける。弱々しく息を吐いた女はゆっくりと首を横に振った。女の反応に伊作は良かったと素直に喜ぶ。
「僕は善法寺伊作。こちらは校医の新野洋一先生。そして僕の同級生の食満留三郎。」
伊作がそれぞれを指して紹介をする。新野はにこりと笑いながら軽く頭を下げ、留三郎ははっと顔を上げて遅れて頭を下げた。
女はビクビクしながらぎこちない動きでなんとか姿勢を正し胸の前で両手をきゅうと握りしめた。小さく口を開けて息を吸い、唇を震わせる。三人の視線に緊張しているのか、強く目を瞑って少し俯きがちになる。
「…月ヶ瀬、澪で、す」
多くの者が寝静まった夜でなければ思わず聞き落としてしまいそうな小さな声に伊作たちは耳を傾けた。
「澪さん、かあ。」
伊作は頬を緩ませてポツリと名前を復唱した。
ようやく名前を知ることができた。でも知りたいこと、聞きたいことが山のようにあって思わず口をついて出そうになるが一息ついて抑える。
焦らず、慎重に。ゆっくりと、落ち着いて。
「今日の夕方ごろ、澪さんが草原で倒れているのを見かけて、それでここまで運んできたんだ。」
「どうしてあの場所にいたのかとか、色々と聞きたいことはあるんだけれど…きっとまだ澪さんも落ち着かないと思うから。
今日はゆっくり休んで明日、改めて話をしたいんだ」
だめかな?と尋ねる伊作に対して澪は何か言いたげに口ごもるが、言葉が見つからないのか視線を彷徨わせて不安そうな表情を浮かべる。
「あ、の…わたし…、ごめ、ごめいわくを、おかけしてしまい、申し訳ありません。
助けていただっ、いただいて、あ、ありがとうございま…」
何度も言葉を詰まらせながら相変わらず絶え入るような声で謝罪と感謝の意を口にする。深々と頭を下げて小さくなる彼女は頭を上げてくれと言われても震えるばかりで伊作は少し困ったように留三郎と目を合わせた。そして躊躇いがちに手を伸ばし、そっと彼女の肩に触れる。びくりと跳ね上がり、力が入った。やってしまった、と思いながらもどうにか落ち着いてほしい一心でゆっくりと摩り、緩く力をこめた。
「謝らないでください。
大丈夫、大丈夫だよ。何も怖いことはないから。」
下級生を宥めるように優しく言い聞かせれば、彼女はどうにか顔を上げてくれた。悲痛な表情を浮かべる彼女の目は赤くなっている。肩から腕へと手をすべらせて、固く握りしめる彼女の手を包み込んだ。ずっと震えたままの冷たい指先から、その強張りが解けてしまいますようにと願い優しく撫で続けたのだった。
***
「留三郎は部屋に戻りなよ。僕は今夜は医務室の前にいるから」
「え?ああ…そう、だな」
新野は伊作と澪の様子を静かに見守っており、部屋を出た後は伊作の肩をぽんと軽く叩いて君に任せますと教員長屋へ戻った。それからしばらくして留三郎と一緒に部屋を出た伊作は医務室から少し離れた廊下で立ち止まるとどこか呆けた様子の彼に声をかけた。キレのない返事にどうしたのさ、と問い掛ければ留三郎は長い息を吐いてガシガシと頭を掻いた。
「いや、なんか。…あまりにも、悲しそうな顔するから。疑ってかかったのがなんつーか、ちょっとこう、心にきたというか」
よく後輩を気に掛ける面倒見の良い留三郎のことだ。彼女の様子に絆されてしまったのだろう。眉間に皺を寄せて小さくうめく彼を見てクスクスと笑ってしまう。いついかなる時も冷静に相手の素性を見極めるべきで、何事も疑り深いことに越したことはない。ただ、間者ではないかと疑いながら見ていると何故だかそう思っていることが悪いような、自分の中の良心がそうではないだろうと投げかけてくるような気がして悶々としてしまったのだ。
「鍛錬が、足りてねーのかな…」
こんなことを思ってしまう自分は甘いのだろうか。伊作は留三郎の背中が心なしかしょんぼりしている様に見えて軽く背中を叩いた。
「僕たちはいろんなことを疑ってかからないといけないけどさ、自分の心を信じることも大切だと思うよ」
「僕は、初めて澪さんの手に触れたとき、直感で悪い人じゃないなって思ったし」と宣う伊作に流石にそれは早とちりが過ぎないかと思わず苦笑がこぼれる。
「明日も、同席していいか?」
「なになに、澪さんのことが気になるの?」
「バーカ、他意はねえよ。ただ信じたいだけだ。自分の良心を」
スタスタと歩き出した留三郎はお休みと呟いてさっさと部屋に戻っていく。伊作は小さく肩をすくめてやれやれと笑いながら彼の背中を見送った。そうして姿が見えなくなると、さて、とどこかへ向かって歩き出した。
学園の門を潜ると用箋挟を掲げた青年が小走りで寄ってくる。そして伊作の腕の中の女を見て小首を傾げた。
「怪我がないなんて珍しいと思ったけど…その女の子は一体どうしたの?」
「そうなんです!僕たちこの道中全く不運な目に遭わずに学園まで帰ってくることができたんです!」
「もしかして乱太郎たちの不運をその女の人が全部被っちゃったんじゃねえの?」
「な、何言ってるのきりちゃん!そんなわけ、ない、と…思うけど…」
冗談混じりで茶化したきり丸だったがあながち間違いではないんじゃないかと乱太郎は少し不安になってくる。確かにここまで不運な目に遭わなかったということは自分たちが遭うべきだった不運を他の誰か、もといこの女の方が受けてしまったのか…と考え込んでしまう。
「薬草を採取した草原の近くで倒れていたんです。事情はわからないけど、とにかく医務室で手当をしたくて」
「そっか〜。本来なら入門表にサインをしてもらいたいんだけど、気を失っているようじゃサインできないし…」
「彼女のことは僕が学園長先生に報告するので、サインは彼女が目を覚ましたらしてもらいましょう。」
伊作の言葉になるほど!と納得した小松田は後で保健室に伺うね〜と何だか気が抜けるような調子で手を振り伊作たちを見届けた。
医務室に辿り着いた彼らは薬草を煎じていた校医に声をかける。伊作が抱える女を見た彼は乱太郎たちにいくらか指示を出して床を整えた。布団の上にゆっくりと女を下ろしたところできり丸があっと声を上げる。
「その人の髪飾り、寝かせる前に取っておいた方がいいんじゃ…」
高級そうだし、と善意で言っているのか、銭のために言っているのか何やらゴニョゴニョと呟いている。おそらく後者であろうが、一旦飲み込み飾りに手をかける乱太郎。花飾りはかんざしの様になっていて簡単に引き抜くことができたがキラキラと宝石が散りばめられたような飾りがなかなか取れない。しばらくその飾りをあちこち触り続けていたが、パチンと留め具が外れて無事引き抜くことができた。きり丸が言うように、高級品なのだろうか、手の中にある飾りに思わずほう、と息がついて出る。少しドキドキしながら布団のそばにそれを置いた乱太郎は最後にちょうちょ結びされた絹の様な薄い紐をそっと解いて大きく息をついた。
「きり丸があんなこと言うから、何だか私緊張しちゃったよ…」
乱太郎が一生懸命髪飾りを外している間に校医は女の容態を見立て終わっていた。
「新野先生」
「大丈夫。大きな怪我などは見当たりませんし、直に目を覚ますでしょう。」
その言葉に伊作は良かったと小さく呟き口元を緩めた。布団に寝かしつけ、そっと女の手を取る。指先はひどく冷たく、抱えている時も感じた震えが収まっていない。大丈夫、大丈夫だよと心の中で声をかけ、自分の熱を分け与えるように両手で小さな手のひらを包み込んだ。
「…学園長先生に伝えにいかなくてはね。」
「それじゃあ俺も一緒に行きます。最初に見つけたのは俺だし」
よし、と立ち上がる二人を見て乱太郎は少し慌てたように女の顔と彼らを見比べる。伊作は少し笑って乱太郎に告げた。
「報告は僕たちが済ますから、乱太郎はその間彼女の側に居てあげて。指先が冷たいんだ。温めてあげると、きっと安心するよ。」
「はい!」と元気よく、でも大きすぎない声で返事をした乱太郎は女に向き合いそしてひた、と手に触れた。冷たい指先に驚いてきゅっと唇を噛む。まんまるな眼鏡から覗く眼差しは真剣で、小さな手で懸命に女の手を温める乱太郎を見て新野は優しく微笑み目を閉じた。
***
「乱太郎くん、きり丸くん、頭が船を漕いでいますよ。」
「二人とも今日は疲れただろうし、もう部屋に戻ってお休み。」
女の眠る布団のそばでうつらうつらと頭を揺らす二人を見て新野と伊作は小さくい笑った。でも患者さんが…、報酬が…と呂律の回らない口でもそもそ呟く二人の頭を撫でて「彼女が起きたら必ず知らせに行くから」と部屋に帰す。
乱太郎ときり丸がいなくなり静かになった部屋で新野は薬を煎じ、伊作は包帯を巻き取りながら女の様子をうかがっていた。障子の向こうに人の気配を感じて視線を向ける。すう、と開いた障子からのぞいた顔を見て声をかけた。
「留三郎」
よっと小さく片手をあげて静かに保健室に入ってきた彼は伊作の隣に座り込んで眠る女の顔を覗き込んだ。どうしたんだいと問えば顔をあげてじっと伊作を見つめる留三郎。
「いやなに、薬草を取りに行った伊作たちが無傷で帰ってきたかと思えばなにやら医務室に女人を連れ込んでると聞いたもんで。一体どんな美女かと思って様子を見にきたんだ。」
「茶化さないでよ…草原で倒れていたから看病しているだけだ。他意はない」
すまんすまんと軽く笑う留三郎に対して眉を顰めた伊作は包帯を少しばかりキツく巻き、手元に置いた。留三郎の視線は彼女に移り、その視線は自分に向けるものとは違い少しの冷たさを含んでいる。
学園長先生には許可を得ているしここには新野先生もいる。彼女が何者なのかは未だわからないが患者である以上誰にも手出しはさせない。伊作の視線に気づいたのか、留三郎は「別に何もしねえって」と両手をあげてひらひらと振る。
「間者では、ないよ。きっと。」
「へえ」
「武器らしいものはなにも持っていないし、手も指先も細くて豆も傷もなく綺麗で、それに」
「わかった、わかったって」
矢継ぎ早に女を擁護する様なことを口にする伊作に少し呆れたように笑って待ったをかけた。伊作が言わんとしていることは大体分かる。線が細く頼りない体つきは何かを企むには心許ない。さりとて視認できる情報だけを鵜呑みに警戒を全く解くわけにもいかず。
ぴくりと視界の端で動いた女の手にあ、と声をあげる。伊作もそれにつられて女に視線を落とした。まつ毛が小さく震えてゆっくりとその瞼が開く。
「大丈夫で」
すか、と言い終わる前に大きく目を見開いた女は声にならない悲鳴をあげて起き上がり後ろ手に必死に後ずさる。腰が抜けているのか立ちあがろうとはせず、薬棚に背がつくと口元を押さえて過呼吸気味に息を吐く。瞳孔が開き、あちこちに視線を彷徨わせる女の身体はガタガタと震えていていた。
「落ち着いてください。大丈夫、私たちに敵意はありません。」
近寄ろうとした伊作を制止した新野は優しい声音でゆっくりと言葉を紡ぐ。ゆっくり息を吸って、吐いて。と言えばそれに合わせて何度も引き攣った様に呼吸を繰り返してようやく平静を少しだけ取り戻した。見るからに力の入った肩を掻き抱くように腕を回した女は掠れた小さな小さな声で彼らに問う。
「こ、こは、…どこ、ですか…?」
「ここは、子どもたちに手習を教える学舎です。」
てならい、まなびや。がっこう…と虫の囁くようなか細い声で呟いて、女は部屋にいる彼らをじっと見つめる。段々と乱れていく呼吸と、一向に血色の戻らない顔。両目からは今にも涙がこぼれ落ちるのではないかと思うほど薄い膜が張っており、目尻がしっとりと濡れている。
投げ出された膝を抱えるように震える腕を伸ばし、これでもかと身を縮こませた女はひくりと喉をならした。
どうして
夢じゃないの
途切れ途切れに聞こえる震える声は確かにそう呟いていた。
足の指先まできゅう、と縮み上がった彼女に留三郎は戸惑っていた。怯え、恐怖、そして絶望したような表情を見せる女は一体何者なのか。何か邪な心を持っている様には到底見えず、しかしそれが演技だと言うならば天晴れと言いたくなるほどの怯え振りで。なんて、この様子を見て演技などと言ってしまっては己の核たる何かが壊れてしまうというか、尊厳を守ることができなくなるのではないかと感じた。
手のひらがじわりと湿っており、思わず視線を落としてしまう。
「あの」
女の乱れた呼吸だけが響く部屋の中、伊作が声を発した。それからシンと部屋が静まり返る。呼吸を止めた女は身を硬くして恐る恐る顔を上げる。
少しでも威圧感をなくしたいのか、身を屈めて女の顔を見つめる伊作はようやく交わった視線にゆるゆると目を細めて優しく笑った。
「目を覚ましてくれて、嬉しい」
「どこか、痛いところはない?怪我、してない?」
新野に習ってゆったりとした口調で問う伊作の声にほんの少しだけ女の肩の力が抜ける。弱々しく息を吐いた女はゆっくりと首を横に振った。女の反応に伊作は良かったと素直に喜ぶ。
「僕は善法寺伊作。こちらは校医の新野洋一先生。そして僕の同級生の食満留三郎。」
伊作がそれぞれを指して紹介をする。新野はにこりと笑いながら軽く頭を下げ、留三郎ははっと顔を上げて遅れて頭を下げた。
女はビクビクしながらぎこちない動きでなんとか姿勢を正し胸の前で両手をきゅうと握りしめた。小さく口を開けて息を吸い、唇を震わせる。三人の視線に緊張しているのか、強く目を瞑って少し俯きがちになる。
「…月ヶ瀬、澪で、す」
多くの者が寝静まった夜でなければ思わず聞き落としてしまいそうな小さな声に伊作たちは耳を傾けた。
「澪さん、かあ。」
伊作は頬を緩ませてポツリと名前を復唱した。
ようやく名前を知ることができた。でも知りたいこと、聞きたいことが山のようにあって思わず口をついて出そうになるが一息ついて抑える。
焦らず、慎重に。ゆっくりと、落ち着いて。
「今日の夕方ごろ、澪さんが草原で倒れているのを見かけて、それでここまで運んできたんだ。」
「どうしてあの場所にいたのかとか、色々と聞きたいことはあるんだけれど…きっとまだ澪さんも落ち着かないと思うから。
今日はゆっくり休んで明日、改めて話をしたいんだ」
だめかな?と尋ねる伊作に対して澪は何か言いたげに口ごもるが、言葉が見つからないのか視線を彷徨わせて不安そうな表情を浮かべる。
「あ、の…わたし…、ごめ、ごめいわくを、おかけしてしまい、申し訳ありません。
助けていただっ、いただいて、あ、ありがとうございま…」
何度も言葉を詰まらせながら相変わらず絶え入るような声で謝罪と感謝の意を口にする。深々と頭を下げて小さくなる彼女は頭を上げてくれと言われても震えるばかりで伊作は少し困ったように留三郎と目を合わせた。そして躊躇いがちに手を伸ばし、そっと彼女の肩に触れる。びくりと跳ね上がり、力が入った。やってしまった、と思いながらもどうにか落ち着いてほしい一心でゆっくりと摩り、緩く力をこめた。
「謝らないでください。
大丈夫、大丈夫だよ。何も怖いことはないから。」
下級生を宥めるように優しく言い聞かせれば、彼女はどうにか顔を上げてくれた。悲痛な表情を浮かべる彼女の目は赤くなっている。肩から腕へと手をすべらせて、固く握りしめる彼女の手を包み込んだ。ずっと震えたままの冷たい指先から、その強張りが解けてしまいますようにと願い優しく撫で続けたのだった。
***
「留三郎は部屋に戻りなよ。僕は今夜は医務室の前にいるから」
「え?ああ…そう、だな」
新野は伊作と澪の様子を静かに見守っており、部屋を出た後は伊作の肩をぽんと軽く叩いて君に任せますと教員長屋へ戻った。それからしばらくして留三郎と一緒に部屋を出た伊作は医務室から少し離れた廊下で立ち止まるとどこか呆けた様子の彼に声をかけた。キレのない返事にどうしたのさ、と問い掛ければ留三郎は長い息を吐いてガシガシと頭を掻いた。
「いや、なんか。…あまりにも、悲しそうな顔するから。疑ってかかったのがなんつーか、ちょっとこう、心にきたというか」
よく後輩を気に掛ける面倒見の良い留三郎のことだ。彼女の様子に絆されてしまったのだろう。眉間に皺を寄せて小さくうめく彼を見てクスクスと笑ってしまう。いついかなる時も冷静に相手の素性を見極めるべきで、何事も疑り深いことに越したことはない。ただ、間者ではないかと疑いながら見ていると何故だかそう思っていることが悪いような、自分の中の良心がそうではないだろうと投げかけてくるような気がして悶々としてしまったのだ。
「鍛錬が、足りてねーのかな…」
こんなことを思ってしまう自分は甘いのだろうか。伊作は留三郎の背中が心なしかしょんぼりしている様に見えて軽く背中を叩いた。
「僕たちはいろんなことを疑ってかからないといけないけどさ、自分の心を信じることも大切だと思うよ」
「僕は、初めて澪さんの手に触れたとき、直感で悪い人じゃないなって思ったし」と宣う伊作に流石にそれは早とちりが過ぎないかと思わず苦笑がこぼれる。
「明日も、同席していいか?」
「なになに、澪さんのことが気になるの?」
「バーカ、他意はねえよ。ただ信じたいだけだ。自分の良心を」
スタスタと歩き出した留三郎はお休みと呟いてさっさと部屋に戻っていく。伊作は小さく肩をすくめてやれやれと笑いながら彼の背中を見送った。そうして姿が見えなくなると、さて、とどこかへ向かって歩き出した。