ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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壁伝いに何とか部屋にたどり着いた澪は後ろ手で障子を閉めてズルズルと座り込んだ。未だに激しく鼓動する心臓はうるさいし、瞼は痙攣して瞬きが止まらない。肺に残っている息を必死に吐き出してゆっくりと息を吸う。
本当に山賊がいる。
誰かを傷つけることに、何の疑問も抱いていないかのように凶器を振るう人がいる。
学園を出発する際に三郎が言っていた言葉が途端に現実味を帯びて、嫌な汗が止まらない。心のどこかでそんな人いるはずがないと思っていた。でも、違った。
馬鹿みたいに震える身体に鞭打って這うように部屋の隅に寄り蹲る。
本当に、私はこの学園から見放されたら死んでしまう。もし鉢屋さんがいなかったら私は固まって動けなくて呆気なく彼らの手中に落ちていただろう。その後どうなったかなんて考えたくもない。この時代に、人間の尊厳を守ってくれる法はまだ確立していないのだ。人を殺したって簡単には裁かれないのだろう。
ひくりと喉が震える。込み上げてくる胃液を肩を震わせて必死に押し戻す。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
私は、ちゃんと“生きて”帰れるのかな。
庄左ヱ門くんや彦四郎くん、それに小松田さんの反応はどこか慣れた様子だった。あんなことに。きっと悪い人に遭遇したのは一度や二度ではないのだろう。だって冷静すぎる。
えずくような咳が出て、口元をキツく抑えた。こめかみを伝い、顎から汗が滴る。キンと耳鳴りがして末端から熱が引いていく。
頑張らなきゃ。耐えなきゃ。
大丈夫よ、きっと大丈夫。
目を瞑って心の中で何度も自分に言い聞かせた。ヒッヒッと変にしゃくりあげる呼吸がいくらか落ち着く頃には着物が肌にペタリと張り付くくらい汗をかいていた。
霞む視界の中手拭いや夜着をひったくって覚束ない足取りで風呂場へ向かう。すっかり夜の帳が下りていて廊下の先は真っ暗だ。いつもはくの一の生徒とできるだけ被らない少し遅い時間帯に風呂をいただくが、おそらくその時間帯はとっくのとうに過ぎているのだろう。こんな暗がりを歩くのは学園に来て初めてだ。怖いはずなのに、全身を押し潰してしまいそうな疲労感と身体の節々の痛みがそれに打ち勝ってしまう。途中何度も立ち止まっては咳を押し殺し、痛みにじっと耐えた。
風呂場に着いても当然明かりは灯っていない。日付を跨ぐような時間帯だから仕方ない。
暗闇の中、足の包帯を外そうと奮闘するも震える指先では硬く結ばれたそれを解くことができずため息を吐いて諦めた。湯船に入らなければ問題ないはず。
汗ばむ着物を剥ぎ取って浴室に足を踏み入れる。水が包帯に染みて皮の剥げた箇所が傷んだ。桶で湯船の湯を汲み取るとほとんど真水と変わらないくらいの水温で、そっと肩に掛ければ鳥肌が立った。格子の隙間から漏れる月明かりだけを頼りに身体を清める。
上がる頃には身体の芯まで冷え切っていた。包帯の水分を念入りに手拭いで吸い取ってから再び部屋へと戻る。冷たくなったおかげか痛覚が少し鈍ってあまり足が痛まない。夜風に当たると夏だと言うのに寒いくらいなので申し訳程度だが手拭いを肩に巻き付けて凌いだ。
ノロノロと足を進める中、何気なく空に目を向けた。
あ、と小さく声を上げる。
視界が段々クリアになっていき目を見張った。
天の川が見える__
とっぷりと夜の色に染まった空には無数の星が瞬いていた。砂粒のように小さいけれど確かにそれは煌めいている。夢を見ているかのような、ひたすらに美しい眺めに目を奪われた。
廊下の縁ギリギリに立ち、すぐ横の柱にもたれかかった。肩に巻いていた手拭いがぱさりと床に滑り落ちる。
「は、はは…綺麗」
乾いた笑いが溢れる。頬がひくりと引き攣って、ちょっぴり視界がぼやけた。今この時だけは、宝石箱をひっくり返したかのようにきらきら光る夜空をこの目で見ることができてよかったと思った。あんなに感じていた恐怖も不安も何もかも放り投げて、この美しい光景をただひたすらに心に刻んだ。
一体どれくらい夜空を眺めていたのだろうか。ポヤポヤと微睡んで重い瞼は今にも閉じてしまいそうなのに惜しくて必死でこじ開ける。いつの間にか柱にもたれかかるように座り込んでいて、けれどずっと感じていた寒さがどうしてか少しだけ和らいでいた。
一人は寂しい。一人は辛い。
だから私は、大切な人と温もりを分け合って生きたい。
家族と、友達と。大切なものはほんの少しでいい。両手で抱えられる分だけでいい。そうして抱えた全てを優しく大切に包み込んでいたい。
痛いのも、苦しいのも、怖いのも嫌いだけど、それがあるならきっと何だって耐えられる。
だけど全部、こぼれ落ちちゃった。
拾い集めたいのに、どれだけ探したって欠片もなくて。腕に残っていた僅かな温もりはもう冷め切る手前で、なくならないでと縋ってもその腕は空を切る。
「おかぁさっ、ぎゅうして…」
「あらら…もうお目目真っ赤にしてどうしたの?」
ワンピースが皺くちゃになるくらい握りしめていた手を解いて母の足に抱きつけば、困ったように笑いながら母がしゃがみ込む。そうして私のほっぺたを包み込み、こぼれ落ちる涙を親指で拭ってくれる。ひんやりとした手が熱を冷ましてくれてとっても心地よかった。
「あのねっ、澪ね、がんっ、がんばったんだけどね、」
ヒクヒクと嗚咽しながら蚊の鳴くような声で言葉を必死に紡げば「うん、うん」と優しく相槌を打ってくれた。頑張って頑張って、ついに言葉が出てこなくなって声を上げて泣きじゃくるとぎゅうっと抱きしめて頭を撫でてくれる。母の首に腕を絡めて肩に顔を埋めるとほんのりお花の良い匂いがした。
「澪はあったかいねぇ」
クスクス笑いながら抱き上げてくれて、鼻歌を歌いながら身体を揺らす。
「大丈夫、大丈夫」
母の素敵なおまじない。涙が止まる魔法の仕上げは瞼へのキス。
「ほらっ!もう悲しくないでしょ?」
泣き腫らした目で母を見つめるとニッと歯を見せて笑った。つられてふにゃふにゃ笑うと母が嬉しそうに頬を擦り寄せてくるから負けじと擦り寄った。
なんて懐かしい記憶だろう…とウトウト夢見心地でいると「もうおやすみ」とおまじないのような、耳心地の良い声が聞こえたような気がして堪らず瞼を閉じた。微かに感じる優しい揺れと温かい何かに包まれる感覚がどんどん意識を深い眠りに誘う。じわりと温もりを分け与えられるみたいで思わず緩んだ頬を擦り寄せた。
これが夢ならば、醒めないでほしい。
ずっと求めていた、手放したくないものが今、ここに__
本当に山賊がいる。
誰かを傷つけることに、何の疑問も抱いていないかのように凶器を振るう人がいる。
学園を出発する際に三郎が言っていた言葉が途端に現実味を帯びて、嫌な汗が止まらない。心のどこかでそんな人いるはずがないと思っていた。でも、違った。
馬鹿みたいに震える身体に鞭打って這うように部屋の隅に寄り蹲る。
本当に、私はこの学園から見放されたら死んでしまう。もし鉢屋さんがいなかったら私は固まって動けなくて呆気なく彼らの手中に落ちていただろう。その後どうなったかなんて考えたくもない。この時代に、人間の尊厳を守ってくれる法はまだ確立していないのだ。人を殺したって簡単には裁かれないのだろう。
ひくりと喉が震える。込み上げてくる胃液を肩を震わせて必死に押し戻す。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
私は、ちゃんと“生きて”帰れるのかな。
庄左ヱ門くんや彦四郎くん、それに小松田さんの反応はどこか慣れた様子だった。あんなことに。きっと悪い人に遭遇したのは一度や二度ではないのだろう。だって冷静すぎる。
えずくような咳が出て、口元をキツく抑えた。こめかみを伝い、顎から汗が滴る。キンと耳鳴りがして末端から熱が引いていく。
頑張らなきゃ。耐えなきゃ。
大丈夫よ、きっと大丈夫。
目を瞑って心の中で何度も自分に言い聞かせた。ヒッヒッと変にしゃくりあげる呼吸がいくらか落ち着く頃には着物が肌にペタリと張り付くくらい汗をかいていた。
霞む視界の中手拭いや夜着をひったくって覚束ない足取りで風呂場へ向かう。すっかり夜の帳が下りていて廊下の先は真っ暗だ。いつもはくの一の生徒とできるだけ被らない少し遅い時間帯に風呂をいただくが、おそらくその時間帯はとっくのとうに過ぎているのだろう。こんな暗がりを歩くのは学園に来て初めてだ。怖いはずなのに、全身を押し潰してしまいそうな疲労感と身体の節々の痛みがそれに打ち勝ってしまう。途中何度も立ち止まっては咳を押し殺し、痛みにじっと耐えた。
風呂場に着いても当然明かりは灯っていない。日付を跨ぐような時間帯だから仕方ない。
暗闇の中、足の包帯を外そうと奮闘するも震える指先では硬く結ばれたそれを解くことができずため息を吐いて諦めた。湯船に入らなければ問題ないはず。
汗ばむ着物を剥ぎ取って浴室に足を踏み入れる。水が包帯に染みて皮の剥げた箇所が傷んだ。桶で湯船の湯を汲み取るとほとんど真水と変わらないくらいの水温で、そっと肩に掛ければ鳥肌が立った。格子の隙間から漏れる月明かりだけを頼りに身体を清める。
上がる頃には身体の芯まで冷え切っていた。包帯の水分を念入りに手拭いで吸い取ってから再び部屋へと戻る。冷たくなったおかげか痛覚が少し鈍ってあまり足が痛まない。夜風に当たると夏だと言うのに寒いくらいなので申し訳程度だが手拭いを肩に巻き付けて凌いだ。
ノロノロと足を進める中、何気なく空に目を向けた。
あ、と小さく声を上げる。
視界が段々クリアになっていき目を見張った。
天の川が見える__
とっぷりと夜の色に染まった空には無数の星が瞬いていた。砂粒のように小さいけれど確かにそれは煌めいている。夢を見ているかのような、ひたすらに美しい眺めに目を奪われた。
廊下の縁ギリギリに立ち、すぐ横の柱にもたれかかった。肩に巻いていた手拭いがぱさりと床に滑り落ちる。
「は、はは…綺麗」
乾いた笑いが溢れる。頬がひくりと引き攣って、ちょっぴり視界がぼやけた。今この時だけは、宝石箱をひっくり返したかのようにきらきら光る夜空をこの目で見ることができてよかったと思った。あんなに感じていた恐怖も不安も何もかも放り投げて、この美しい光景をただひたすらに心に刻んだ。
一体どれくらい夜空を眺めていたのだろうか。ポヤポヤと微睡んで重い瞼は今にも閉じてしまいそうなのに惜しくて必死でこじ開ける。いつの間にか柱にもたれかかるように座り込んでいて、けれどずっと感じていた寒さがどうしてか少しだけ和らいでいた。
一人は寂しい。一人は辛い。
だから私は、大切な人と温もりを分け合って生きたい。
家族と、友達と。大切なものはほんの少しでいい。両手で抱えられる分だけでいい。そうして抱えた全てを優しく大切に包み込んでいたい。
痛いのも、苦しいのも、怖いのも嫌いだけど、それがあるならきっと何だって耐えられる。
だけど全部、こぼれ落ちちゃった。
拾い集めたいのに、どれだけ探したって欠片もなくて。腕に残っていた僅かな温もりはもう冷め切る手前で、なくならないでと縋ってもその腕は空を切る。
「おかぁさっ、ぎゅうして…」
「あらら…もうお目目真っ赤にしてどうしたの?」
ワンピースが皺くちゃになるくらい握りしめていた手を解いて母の足に抱きつけば、困ったように笑いながら母がしゃがみ込む。そうして私のほっぺたを包み込み、こぼれ落ちる涙を親指で拭ってくれる。ひんやりとした手が熱を冷ましてくれてとっても心地よかった。
「あのねっ、澪ね、がんっ、がんばったんだけどね、」
ヒクヒクと嗚咽しながら蚊の鳴くような声で言葉を必死に紡げば「うん、うん」と優しく相槌を打ってくれた。頑張って頑張って、ついに言葉が出てこなくなって声を上げて泣きじゃくるとぎゅうっと抱きしめて頭を撫でてくれる。母の首に腕を絡めて肩に顔を埋めるとほんのりお花の良い匂いがした。
「澪はあったかいねぇ」
クスクス笑いながら抱き上げてくれて、鼻歌を歌いながら身体を揺らす。
「大丈夫、大丈夫」
母の素敵なおまじない。涙が止まる魔法の仕上げは瞼へのキス。
「ほらっ!もう悲しくないでしょ?」
泣き腫らした目で母を見つめるとニッと歯を見せて笑った。つられてふにゃふにゃ笑うと母が嬉しそうに頬を擦り寄せてくるから負けじと擦り寄った。
なんて懐かしい記憶だろう…とウトウト夢見心地でいると「もうおやすみ」とおまじないのような、耳心地の良い声が聞こえたような気がして堪らず瞼を閉じた。微かに感じる優しい揺れと温かい何かに包まれる感覚がどんどん意識を深い眠りに誘う。じわりと温もりを分け与えられるみたいで思わず緩んだ頬を擦り寄せた。
これが夢ならば、醒めないでほしい。
ずっと求めていた、手放したくないものが今、ここに__