ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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「おやおや、よくいらっしゃいましたね」
「和尚さまこんにちは」
「こ、こん…こんにちは…はじめ、まして…」
急勾配の長い長い階段をなんとか上りきった澪はガクガクと震える膝に手をついてゼエハアと息も絶え絶えに挨拶する。三郎は相変わらず呆れたような表情で彼女を見る。
それから彼らは和尚に連れられて本堂へと向かった。棒のようになった足で正座するのは辛かったが、なんてことない涼しげな顔でいる年下の子供達を見てギュッと目を瞑りそれはそれはゆっくりと座り込んだのだった。
「学園長から話は伺っておりますよ。まあなに、先ずはお茶でもどうぞ。」
柔和な笑みを浮かべる和尚にほっとして深々と頭を下げた。ありがたくお茶を頂戴している間に三郎は学園長からの文を手渡す。その場でさっと内容を確認した和尚は小さく息を吐き澪を見遣る。
「澪さん、これまでさぞ頑張ったことでしょう。慣れない生活に先の分からぬ不安や恐怖もあったかと思います。ちゃんとご自身を労われていますか?」
三郎は和尚さままでコイツを甘やかすのかと心の中でぶつくさ文句を垂れながら唇を尖らせる。なんとまあいいご身分だこと、と横目に澪の様子を伺うえばどこか引き攣ったような、変な顔をしていて視線を彷徨わせたままあうあうと答えあぐねていた。
「ここは忍術学園ではありません。遠慮も、遜る必要もないのですよ。」
「は、い…」
「相当、気を張って過ごされたのでしょう。大丈夫。どうかここでは、心安らかにあれるようにこの老いぼれめがいくらでも話し相手になりましょう。」
和尚はスス、と澪に近寄り彼女の膝の上できつく結ばれた両手にしわがれた手を当てがった。とん、とんと一定のリズムを刻むように優しく叩くと澪の強張りが徐々に解けていく。
何故、学園長先生も和尚さまも、こんな小娘を気にかけるのだろうか。だってコイツは忍術学園の一年生にすら力及ばない貧弱で世間知らずのただの頼りない女じゃないか。
学園長室で引き留められ、くれぐれもと再三念を押した学園長先生の瞳からは薄っすらと憐憫の念が漏れているような気がした。あれは一体なんだったのか。
「少し、二人きりで話しましょうか」
和尚はそう言うと鉢屋達に軽く視線を送り目を瞑った。
「追い出されちゃったな、俺たち」
「ハハハ、気に食わないって顔してる」
勘右衛門は柱に寄り掛かりながら三郎の顔を見つめた。三郎は階段に座り込み境内を駆け回る庄左ヱ門と彦四郎をぼんやり眺めているが、タンタンと静かに貧乏ゆすりをしている。
「さっぱり分からん。何故誰も彼もアイツに肩入れするんだ」
「なんでだろうねえ。俺も分からないや」
そうと決まれば…と二人は目を合わせてほくそ笑んだ。知らないなら、知ればいい。庄左ヱ門達に気づかれないようにコソコソと本堂に潜り込み聞き耳を立てた。
「…帰り方が、分からないんです。気づいたら、草原に倒れこんでいて、でも私確かに神社にいたんです。なんで…なんであんな場所にいたか本当に分からないんです」
「草原に行けたら、何か、帰る手がかりがあるんじゃないかって思ったけど…いく、戦が、起こりそうだから…行けないって、」
ポツポツとか細い声で話している澪の顔は俯いていてよく見えない。だが切羽詰まったような声音で、時折喉を震わせて言葉を絞り出していた。そして和尚に縋るように頽れる。
「わたしは、なにか間違ったことをしてしまったのでしょうか。悪いことをしてしまったから、神様が怒っているんでしょうか。」
「澪さん…」
「毎日、毎日懺悔しています。ごめんなさい、許してくださいって。自分にできることはなんだってしてます。ちょっとでも善いこと積み重ねようって、頑張っているつもりです。
でも、きっと届いていないんです。許されてないんです。だって、まだ帰れないんです。違うってことですか?」
「寝ても覚めても目に映るのは見慣れない光景で、何もかも現実で夢なんかじゃなくて、」
「もう私、全然わからないんです…全部、ぜんぶこわい…」
床に臥すように項垂れて全身を震わせる澪の背を和尚はゆっくりと摩る。
毎晩部屋の隅に縮こまるように座り込んで組んだ両手に額を押し当てる様を見ていた。いつまでも部屋の隅に居座るなんてけったいな趣味を持っているものだと鼻で笑っていた。
「澪さん、貴女は十分頑張っています。一所懸命忍術学園に尽くしておられる。それは学園長も認めておいでです。
どうか自分を責めるのはおやめなさい。貴女は決して間違ったことなどしていない。」
「じゃあ、なんで…」
「己が心を信じることも大切なのですよ。」
和尚が澪を諭す穏やかな声音を壁にもたれかかりじっと聞く。和尚の声に彼女の張りつめた呼吸が微かに混じる。
神隠し
和尚はそう呟いた。確証はないが、見知らぬ土地に突然やってきたのが人の仕業ではないのなら或いは、と。
そんなことがあるのだろうか。俄かには信じられない。
神隠しというのは常世に連れていかれることを言うのではないのか?だって彼女は私たちと同じ今この時を生きているじゃないか。血は鮮やかで、触れれば柔く温かく、生を感じられた。アイツはたしかにここにいる。
三郎は自分の手のひらをじっと見つめた。
「仮に、もし、神隠しだとして…私は元の場所に帰ることはできるのでしょうか」
「神隠しから戻ってきたという話は、少なからずあります。
ただ、神隠しというのはあくまでもひとつの可能性に過ぎません。なにせ貴女が、そして私達がいるここは間違いなく現世なのですから。皆、一様に生きております。
貴女は一人ではないということを忘れてはなりませんよ。」
***
あれから和尚は澪と言葉を交わし続けた。なにか問題が解決したかと言われたら何とも言えないが、それでも澪にとっては学園外の人物にすこしでも不安な気持ちを吐露することが出来て、それだけで価値のある時間だった。
空がほんのりと赤らんできた頃、三郎は澪達と共に金楽寺の門前で和尚と向き合っていた。
「澪さん、またいつでもいらっしゃい。」
和尚に深々と頭を下げた澪がゆるりとこちらを振り返る。漸く真正面から彼女の顔を見据えることが出来たが、和尚に対して泣きつく様に縋っていた面影はちっとも感じさせない。いつも通りに下がり気味の眉とほのかに上がった口角。それが三郎の心を変に波立たせた。はく、と小さく口を開けて言葉を探す。
「…忍術学園に、戻るぞ」
そう言い切って、返事も聞かずにすぐさま顔を背けた。じわりと手汗が滲んだ手を握り締めて階段を降りてゆく。ぱたぱたと足音が続くが一人分、いつまでも聞こえないと思ったら和尚の声が静かに響いた。
「澪さん」
「独りは、寂しいでしょう。お辛いでしょう。
もっと周りの人々を頼っても良いのですよ。」
緩慢な動作で見返すと夕日に照らされた澪の背中がふるりと震えた。
「もう、十分過ぎるほど…助けていただいています」
掠れた声は風の音に簡単にかき消されてしまうくらいか細い。
ああ、きっと彼女は今困ったような、下手くそな笑みをその顔に張り付けているんだろう。
何故こうもやるせない気持ちが湧いてくるのだろうか。どうも居心地が悪くて大きなため息を吐いた。一段飛ばしに階段を駆け上がり澪の細腕を掴む。
「さっさと行くぞ。日が暮れてしまう」
彼女の腕を掴んだままゆっくりと階段を下ってゆく。勘右衛門達はあっという間に下りきっているのに、三郎と澪はまだ中腹辺りを一段一段踏みしめていた。時折強い風が吹くと足が止まりその場で固まってしまうが、それでも三郎は黙って澪の歩調に合わせて足を進めた。
そうして金楽寺の階段を下りきった後も三郎は澪の腕を引き続けた。林の小道は行きよりも薄暗く人気がない。風に乗って血の匂いが鼻をかすめる。きっと彼女の足に巻いた包帯は赤く染まっているのだろう。
だが、それじゃない。もっと薄汚れた別の匂い。
勘右衛門と目が合い、無言で合図した。ガサリと茂みの奥から音が鳴り複数の人影が立ちはだかる。三郎は澪を、勘右衛門は庄左ヱ門と彦四郎を後ろ手に隠す。
「オイ、死にたくなけりゃ金目のモン置いていきな」
錆びて刃こぼれした刀の峰を肩に預けながら下卑た笑みを浮かべる連中が道を阻みながらじりじりと近づいてくる。
「おっなんだ女がいるじゃねェか。それに随分整った顔してやがる。どうだ、ソイツを置いていくなら男共は見逃してやるぞ」
三郎の背後に隠れる澪を覗き込むように首を伸ばす薄汚い男がひとり。刀や着物には血がこびり付いており見るに堪えない。澪の腕がビクリと強張った。
「生憎だがコイツは渡せないね」
嘲笑いながらそう言ってのけると山賊どもは舌舐めずりをして刀を構える。そうして一気に切りかかってくるが、勘右衛門が素早く懐に手を突っ込み煙玉を地面に向かって叩きつけた。煙幕で相手が怯んだ隙に三郎は澪を抱えて勢いよく駆け出す。
「このまま学園まで一気に走り抜けるぞ!」
「しっかりついて来いよ、庄左ヱ門、彦四郎!」
庄左ヱ門と彦四郎の返事に混じって背後から山賊の怒号が響く。煙を吸い込んでしまいケホケホとむせる澪に「しっかり掴まっていろ」と声をかけると震える腕が首元に控えめに絡まる。澪の華奢な身体をしっかりと抱いて地面を強く蹴った。木の枝に飛び移った三郎がついさっきまで走っていたところには複数の矢が突き刺さり、飛んできた石を勘右衛門が苦無で器用にはじく。
澪は頭に響く不快な金属音に強く目を瞑り身を竦める。三郎は庄左ヱ門達と並走しながらちらりと彼女を見て、耳元を塞ぐように手を回し自分の肩に彼女の頭を押し付けた。
「そのまま目を瞑っていろ。お前は見なくていい」
勘右衛門が山賊の攻撃を軽くいなし続けていると徐々に距離が開いていく。「なんてことないな」と余裕綽綽に笑う勘右衛門はどこか物足りないような目で走り抜けた道を振り返った。
「上手く撒けたな」
速度を落としながらも三郎達はそのまま走り続け、森を抜けると忍術学園の正門が遠くに見えてきた。門の前に辿り着き戸を叩けば「はぁ~い」と間延びした小松田の声が聞こえて中から顔を覗かせる。
「おかえりなさい。あれ、澪ちゃんどうしたの?」
「ただいま戻りました。帰り際に山賊に襲われたもので…走って撒いてきたんです」
「あらら、大変だったね。お疲れ様」
着いたぞ、と澪の身体を軽くゆすると彼女は詰まった息を吐きだした。しかし呼吸というよりも、コホ、と小さく咳き込んでは引き攣ったように息を吸い込むので全身の強張りが腕から伝わってくる。身をよじって降りようとする澪を抑えるように抱え込み三郎は歩き出した。
「あれ、三郎どこ行くんだ?」
「医務室。どうせコイツ一人じゃ遠慮して足のケガ治療しに行かないだろうから」
「じゃあ俺達は学園長に報告に行ってくるぞ」
「ああ、頼んだ」
そうして医務室に向かうが、「すみません」「もう大丈夫ですから」と蚊の鳴くような声で澪が囁く。だったらその身体の震えを止めたらどうだと心の中で毒づくも口には出さずスタスタと廊下を歩き続けた。医務室で三郎達を出迎えたのは薬草を仕分けしていた伊作だった。
「随分擦れちゃいましたね。こんなに皮も剥けて…相当痛かったでしょう。」
「はち、鉢屋さんが、っ途中で…包帯を、巻いて、くださったので…」
「ああそれと、ソイツさっきから呼吸が変なんです」
靴擦れの処置をしていた伊作は三郎の言葉を聞いてバッと顔を上げた。澪はぎょっとして三郎を見た後伊作と目が合い、口を噤んで何でもないですと手を振った。それでも伊作は手早く包帯を巻き終えて彼女の口元に耳を寄せる。
「喘鳴…やっぱり喘息の発作じゃないですか」
「ちょっと、驚いただけで…!すぐ、治まるので、」
「三郎、お茶を持ってきてくれるかい」
「分かりました」
そう言って立ち上がった三郎の袴を咄嗟に掴んで引き攣ったような小さな叫び声を上げた。
「大丈夫ですから!」
シンとした部屋に澪の呼吸音が響く。決して大きくはないけれど、ここまで張った澪の声は聴いたことがなくて三郎と伊作は僅かに目を見開いた。三郎が澪を見下げると彼女は真っ青になった顔を歪めている。
「本当にもう、十分です。ご迷惑おかけして…申し訳ありません。ありがとうございました。」
吐息混じりに言葉を絞り出す澪はぐっと身体を折って頭を下げる。それからよたよたと立ち上がり、廊下に飛び出て再び三郎と伊作に頭を下げると壁に手をつきながら逃げるように去って行った。
伊作は呼び止めようと中途半端に伸ばした手をゆっくりと引っ込めて澪の血が付着した包帯に視線を落とした。保健室に常備している使い古した布の包帯とは違い、まっさらなそれをそっと水に漬ける。
「アイツ、和尚さまには泣きついていたくせに」
三郎が立ち尽くしながらぽつりと呟いた。
桶の中の水がほんのりと色づいていくのを見つめながら伊作は徐に口を開いた。
「…頼ってもらえないというのは、悲しいね」
もう十分過ぎるほど助けていただいています
三郎の頭の中で澪の言葉が響く。
すっかり日が暮れた空の色がやけに重たげに見える。欠けた月には雲がかかっていてぼんやりと霞んでいた。
「和尚さまこんにちは」
「こ、こん…こんにちは…はじめ、まして…」
急勾配の長い長い階段をなんとか上りきった澪はガクガクと震える膝に手をついてゼエハアと息も絶え絶えに挨拶する。三郎は相変わらず呆れたような表情で彼女を見る。
それから彼らは和尚に連れられて本堂へと向かった。棒のようになった足で正座するのは辛かったが、なんてことない涼しげな顔でいる年下の子供達を見てギュッと目を瞑りそれはそれはゆっくりと座り込んだのだった。
「学園長から話は伺っておりますよ。まあなに、先ずはお茶でもどうぞ。」
柔和な笑みを浮かべる和尚にほっとして深々と頭を下げた。ありがたくお茶を頂戴している間に三郎は学園長からの文を手渡す。その場でさっと内容を確認した和尚は小さく息を吐き澪を見遣る。
「澪さん、これまでさぞ頑張ったことでしょう。慣れない生活に先の分からぬ不安や恐怖もあったかと思います。ちゃんとご自身を労われていますか?」
三郎は和尚さままでコイツを甘やかすのかと心の中でぶつくさ文句を垂れながら唇を尖らせる。なんとまあいいご身分だこと、と横目に澪の様子を伺うえばどこか引き攣ったような、変な顔をしていて視線を彷徨わせたままあうあうと答えあぐねていた。
「ここは忍術学園ではありません。遠慮も、遜る必要もないのですよ。」
「は、い…」
「相当、気を張って過ごされたのでしょう。大丈夫。どうかここでは、心安らかにあれるようにこの老いぼれめがいくらでも話し相手になりましょう。」
和尚はスス、と澪に近寄り彼女の膝の上できつく結ばれた両手にしわがれた手を当てがった。とん、とんと一定のリズムを刻むように優しく叩くと澪の強張りが徐々に解けていく。
何故、学園長先生も和尚さまも、こんな小娘を気にかけるのだろうか。だってコイツは忍術学園の一年生にすら力及ばない貧弱で世間知らずのただの頼りない女じゃないか。
学園長室で引き留められ、くれぐれもと再三念を押した学園長先生の瞳からは薄っすらと憐憫の念が漏れているような気がした。あれは一体なんだったのか。
「少し、二人きりで話しましょうか」
和尚はそう言うと鉢屋達に軽く視線を送り目を瞑った。
「追い出されちゃったな、俺たち」
「ハハハ、気に食わないって顔してる」
勘右衛門は柱に寄り掛かりながら三郎の顔を見つめた。三郎は階段に座り込み境内を駆け回る庄左ヱ門と彦四郎をぼんやり眺めているが、タンタンと静かに貧乏ゆすりをしている。
「さっぱり分からん。何故誰も彼もアイツに肩入れするんだ」
「なんでだろうねえ。俺も分からないや」
そうと決まれば…と二人は目を合わせてほくそ笑んだ。知らないなら、知ればいい。庄左ヱ門達に気づかれないようにコソコソと本堂に潜り込み聞き耳を立てた。
「…帰り方が、分からないんです。気づいたら、草原に倒れこんでいて、でも私確かに神社にいたんです。なんで…なんであんな場所にいたか本当に分からないんです」
「草原に行けたら、何か、帰る手がかりがあるんじゃないかって思ったけど…いく、戦が、起こりそうだから…行けないって、」
ポツポツとか細い声で話している澪の顔は俯いていてよく見えない。だが切羽詰まったような声音で、時折喉を震わせて言葉を絞り出していた。そして和尚に縋るように頽れる。
「わたしは、なにか間違ったことをしてしまったのでしょうか。悪いことをしてしまったから、神様が怒っているんでしょうか。」
「澪さん…」
「毎日、毎日懺悔しています。ごめんなさい、許してくださいって。自分にできることはなんだってしてます。ちょっとでも善いこと積み重ねようって、頑張っているつもりです。
でも、きっと届いていないんです。許されてないんです。だって、まだ帰れないんです。違うってことですか?」
「寝ても覚めても目に映るのは見慣れない光景で、何もかも現実で夢なんかじゃなくて、」
「もう私、全然わからないんです…全部、ぜんぶこわい…」
床に臥すように項垂れて全身を震わせる澪の背を和尚はゆっくりと摩る。
毎晩部屋の隅に縮こまるように座り込んで組んだ両手に額を押し当てる様を見ていた。いつまでも部屋の隅に居座るなんてけったいな趣味を持っているものだと鼻で笑っていた。
「澪さん、貴女は十分頑張っています。一所懸命忍術学園に尽くしておられる。それは学園長も認めておいでです。
どうか自分を責めるのはおやめなさい。貴女は決して間違ったことなどしていない。」
「じゃあ、なんで…」
「己が心を信じることも大切なのですよ。」
和尚が澪を諭す穏やかな声音を壁にもたれかかりじっと聞く。和尚の声に彼女の張りつめた呼吸が微かに混じる。
神隠し
和尚はそう呟いた。確証はないが、見知らぬ土地に突然やってきたのが人の仕業ではないのなら或いは、と。
そんなことがあるのだろうか。俄かには信じられない。
神隠しというのは常世に連れていかれることを言うのではないのか?だって彼女は私たちと同じ今この時を生きているじゃないか。血は鮮やかで、触れれば柔く温かく、生を感じられた。アイツはたしかにここにいる。
三郎は自分の手のひらをじっと見つめた。
「仮に、もし、神隠しだとして…私は元の場所に帰ることはできるのでしょうか」
「神隠しから戻ってきたという話は、少なからずあります。
ただ、神隠しというのはあくまでもひとつの可能性に過ぎません。なにせ貴女が、そして私達がいるここは間違いなく現世なのですから。皆、一様に生きております。
貴女は一人ではないということを忘れてはなりませんよ。」
***
あれから和尚は澪と言葉を交わし続けた。なにか問題が解決したかと言われたら何とも言えないが、それでも澪にとっては学園外の人物にすこしでも不安な気持ちを吐露することが出来て、それだけで価値のある時間だった。
空がほんのりと赤らんできた頃、三郎は澪達と共に金楽寺の門前で和尚と向き合っていた。
「澪さん、またいつでもいらっしゃい。」
和尚に深々と頭を下げた澪がゆるりとこちらを振り返る。漸く真正面から彼女の顔を見据えることが出来たが、和尚に対して泣きつく様に縋っていた面影はちっとも感じさせない。いつも通りに下がり気味の眉とほのかに上がった口角。それが三郎の心を変に波立たせた。はく、と小さく口を開けて言葉を探す。
「…忍術学園に、戻るぞ」
そう言い切って、返事も聞かずにすぐさま顔を背けた。じわりと手汗が滲んだ手を握り締めて階段を降りてゆく。ぱたぱたと足音が続くが一人分、いつまでも聞こえないと思ったら和尚の声が静かに響いた。
「澪さん」
「独りは、寂しいでしょう。お辛いでしょう。
もっと周りの人々を頼っても良いのですよ。」
緩慢な動作で見返すと夕日に照らされた澪の背中がふるりと震えた。
「もう、十分過ぎるほど…助けていただいています」
掠れた声は風の音に簡単にかき消されてしまうくらいか細い。
ああ、きっと彼女は今困ったような、下手くそな笑みをその顔に張り付けているんだろう。
何故こうもやるせない気持ちが湧いてくるのだろうか。どうも居心地が悪くて大きなため息を吐いた。一段飛ばしに階段を駆け上がり澪の細腕を掴む。
「さっさと行くぞ。日が暮れてしまう」
彼女の腕を掴んだままゆっくりと階段を下ってゆく。勘右衛門達はあっという間に下りきっているのに、三郎と澪はまだ中腹辺りを一段一段踏みしめていた。時折強い風が吹くと足が止まりその場で固まってしまうが、それでも三郎は黙って澪の歩調に合わせて足を進めた。
そうして金楽寺の階段を下りきった後も三郎は澪の腕を引き続けた。林の小道は行きよりも薄暗く人気がない。風に乗って血の匂いが鼻をかすめる。きっと彼女の足に巻いた包帯は赤く染まっているのだろう。
だが、それじゃない。もっと薄汚れた別の匂い。
勘右衛門と目が合い、無言で合図した。ガサリと茂みの奥から音が鳴り複数の人影が立ちはだかる。三郎は澪を、勘右衛門は庄左ヱ門と彦四郎を後ろ手に隠す。
「オイ、死にたくなけりゃ金目のモン置いていきな」
錆びて刃こぼれした刀の峰を肩に預けながら下卑た笑みを浮かべる連中が道を阻みながらじりじりと近づいてくる。
「おっなんだ女がいるじゃねェか。それに随分整った顔してやがる。どうだ、ソイツを置いていくなら男共は見逃してやるぞ」
三郎の背後に隠れる澪を覗き込むように首を伸ばす薄汚い男がひとり。刀や着物には血がこびり付いており見るに堪えない。澪の腕がビクリと強張った。
「生憎だがコイツは渡せないね」
嘲笑いながらそう言ってのけると山賊どもは舌舐めずりをして刀を構える。そうして一気に切りかかってくるが、勘右衛門が素早く懐に手を突っ込み煙玉を地面に向かって叩きつけた。煙幕で相手が怯んだ隙に三郎は澪を抱えて勢いよく駆け出す。
「このまま学園まで一気に走り抜けるぞ!」
「しっかりついて来いよ、庄左ヱ門、彦四郎!」
庄左ヱ門と彦四郎の返事に混じって背後から山賊の怒号が響く。煙を吸い込んでしまいケホケホとむせる澪に「しっかり掴まっていろ」と声をかけると震える腕が首元に控えめに絡まる。澪の華奢な身体をしっかりと抱いて地面を強く蹴った。木の枝に飛び移った三郎がついさっきまで走っていたところには複数の矢が突き刺さり、飛んできた石を勘右衛門が苦無で器用にはじく。
澪は頭に響く不快な金属音に強く目を瞑り身を竦める。三郎は庄左ヱ門達と並走しながらちらりと彼女を見て、耳元を塞ぐように手を回し自分の肩に彼女の頭を押し付けた。
「そのまま目を瞑っていろ。お前は見なくていい」
勘右衛門が山賊の攻撃を軽くいなし続けていると徐々に距離が開いていく。「なんてことないな」と余裕綽綽に笑う勘右衛門はどこか物足りないような目で走り抜けた道を振り返った。
「上手く撒けたな」
速度を落としながらも三郎達はそのまま走り続け、森を抜けると忍術学園の正門が遠くに見えてきた。門の前に辿り着き戸を叩けば「はぁ~い」と間延びした小松田の声が聞こえて中から顔を覗かせる。
「おかえりなさい。あれ、澪ちゃんどうしたの?」
「ただいま戻りました。帰り際に山賊に襲われたもので…走って撒いてきたんです」
「あらら、大変だったね。お疲れ様」
着いたぞ、と澪の身体を軽くゆすると彼女は詰まった息を吐きだした。しかし呼吸というよりも、コホ、と小さく咳き込んでは引き攣ったように息を吸い込むので全身の強張りが腕から伝わってくる。身をよじって降りようとする澪を抑えるように抱え込み三郎は歩き出した。
「あれ、三郎どこ行くんだ?」
「医務室。どうせコイツ一人じゃ遠慮して足のケガ治療しに行かないだろうから」
「じゃあ俺達は学園長に報告に行ってくるぞ」
「ああ、頼んだ」
そうして医務室に向かうが、「すみません」「もう大丈夫ですから」と蚊の鳴くような声で澪が囁く。だったらその身体の震えを止めたらどうだと心の中で毒づくも口には出さずスタスタと廊下を歩き続けた。医務室で三郎達を出迎えたのは薬草を仕分けしていた伊作だった。
「随分擦れちゃいましたね。こんなに皮も剥けて…相当痛かったでしょう。」
「はち、鉢屋さんが、っ途中で…包帯を、巻いて、くださったので…」
「ああそれと、ソイツさっきから呼吸が変なんです」
靴擦れの処置をしていた伊作は三郎の言葉を聞いてバッと顔を上げた。澪はぎょっとして三郎を見た後伊作と目が合い、口を噤んで何でもないですと手を振った。それでも伊作は手早く包帯を巻き終えて彼女の口元に耳を寄せる。
「喘鳴…やっぱり喘息の発作じゃないですか」
「ちょっと、驚いただけで…!すぐ、治まるので、」
「三郎、お茶を持ってきてくれるかい」
「分かりました」
そう言って立ち上がった三郎の袴を咄嗟に掴んで引き攣ったような小さな叫び声を上げた。
「大丈夫ですから!」
シンとした部屋に澪の呼吸音が響く。決して大きくはないけれど、ここまで張った澪の声は聴いたことがなくて三郎と伊作は僅かに目を見開いた。三郎が澪を見下げると彼女は真っ青になった顔を歪めている。
「本当にもう、十分です。ご迷惑おかけして…申し訳ありません。ありがとうございました。」
吐息混じりに言葉を絞り出す澪はぐっと身体を折って頭を下げる。それからよたよたと立ち上がり、廊下に飛び出て再び三郎と伊作に頭を下げると壁に手をつきながら逃げるように去って行った。
伊作は呼び止めようと中途半端に伸ばした手をゆっくりと引っ込めて澪の血が付着した包帯に視線を落とした。保健室に常備している使い古した布の包帯とは違い、まっさらなそれをそっと水に漬ける。
「アイツ、和尚さまには泣きついていたくせに」
三郎が立ち尽くしながらぽつりと呟いた。
桶の中の水がほんのりと色づいていくのを見つめながら伊作は徐に口を開いた。
「…頼ってもらえないというのは、悲しいね」
もう十分過ぎるほど助けていただいています
三郎の頭の中で澪の言葉が響く。
すっかり日が暮れた空の色がやけに重たげに見える。欠けた月には雲がかかっていてぼんやりと霞んでいた。