ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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作法委員会って今で言う風紀委員会みたいなものかと思っていたんだけれど…
澪は部屋の隅にちょこんと座って仙蔵達を物珍しそうに見つめていた。彼らは女装の練習をしている最中だった。小袖を身に纏い髪の毛を下ろせば下級生の子は特にそれらしく見えるもので。澪にとって長髪の男性は見慣れないものなのでついついさらりと揺れる髪の毛を目で追ってしまう。変装の練習だなんて、忍者っぽいな、と思うと頭の中で『忍者ですよ。忍たまだけど』と三郎の声が聞こえた気がして軽く頭を振るった。
ところで、私はいつ頃ここを立ち去っても良いのだろうか。
できるだけ存在感を消して隅っこで固まっているのだが正座でちょっぴり痺れてきた足をモゾモゾと動かしてそんなことを考える。時折伝七がピリピリした視線を送ってくるのも気になってしまう。だが後輩に指南している仙蔵や懸命に化粧をしている兵太夫達に声をかけあぐねて何度も口を開いてはつぐんでを繰り返していた。
「ちょうど良い練習台がいるな。」
後輩の派手な化粧に頭を抱えていた仙蔵が澪を振り返って笑みを浮かべる。仙蔵と目が合い、私のこと…?とパチパチ目を瞬かせていると腕を引かれて部屋の中央に誘導された。
「いいかお前達。化粧は無闇矢鱈に足せば良いってもんじゃないんだ、よく見て覚えろ。」
仙蔵の手が頬に触れて思わず身を引いてしまったが「じっとしていろ」と言われて身を固める。いつの間にか化粧の練習台にされていて目の前に座る仙蔵だけでなく他の生徒達にまでじっと顔を凝視されてブワッと血がのぼってくる。
「なんだ、いつも血の気の引いた顔をしているが随分血色が良くなったじゃないか。まだ化粧はしてないんだぞ」
緊張と恥ずかしさで声が出せず、下を向こうとしたら顎を掬われてしまった。至近距離で目線がかち合い耳の奥で自分の鼓動の音ばかりが響く。耐えきれなくなり唇を噛み締めてぎゅっと目を瞑ったら小さな笑い声が聞こえた気がした。
「力を抜いていろ」
そう言って前髪を軽く左右に払い、澪の瞼にそっと筆をのせる。澪は筆先のくすぐったさにふるりとまつ毛を震わせたが、目尻あたりを優しく撫でるように筆を滑らせる感覚にほんの少しだけ肩の力を抜いた。仙蔵が後輩達にアドバイスをしながら化粧を進めていく。目元、頬ときて、最後に唇に紅をのせる。節目がちに目を開ければ真剣な眼差しで紅をさす仙蔵の顔が飛び込んできた。最後に指先で軽く整えられ、ふに、と唇に触れる硬い指先の感覚が消えなかった。
「…うん、美しいな」
「どうだ、お前達」と振り返った仙蔵はじんわりと頬を染めてほけっと澪を見つめる伝七を見て軽く吹き出した。
「伝七、なんだその顔は」
「あれぇ?伝七もしかして見惚れてる?」
「ハァ!?なっ何言ってるんだ!そんなわけないだろ!!」
兵太夫がニヤニヤしながら伝七の肩を小突いて揶揄うとハッとして猫が威嚇するように声を上げる。うるさいうるさい!と取っ組み合いを始める一年生に呆れたように仙蔵は頭を振った。
澪がポカンとしていると喜八郎が背後に座り髪の毛をいじり始めた。
「お綺麗ですよ。あとは下ろしっぱなしの髪の毛ですね。綺麗な髪なんだからしっかり結えば良いのに」
「か、髪紐じゃ、上手くまとめられなくて…すみません」
「謝らないでください。別に攻めてる訳じゃありません。」
どこか間延びした言い方の彼がするすると髪の毛を梳くので首元がくすぐったい。手早くまとめられ、これで完成だと手鏡を渡された。ドキドキしながら鏡を覗く。
目尻が朱に染まっていて頬や唇もほんのりと色づいていた。キラキラしたラメもまつ毛をくるりとあげて伸ばすビューラーもマスカラもないけれど、品良く整えられた自分と目が合う。赤色のアイシャドウなんて使ったことがなかったからちょっぴりふわふわした気持ちになった。小指でそっと唇の紅をなぞると思わず頬が緩む。
「これで幾分か町娘らしくなったと、思ったが…」
仙蔵がうむ…と小さく唸りながら腕を組んだ。どこか浮世離れした顔立ちの澪が化粧をすれば少しでもそこらの町娘に馴染むかと思ったのだが、いかんせん静々とした所作や醸し出す雰囲気が大人しく落ち着いているためやはり浮いているように感じる気がして顎に手を当てながらしげしげと顔面を見つめる。
「なんというか、どこかの城の姫君がお忍びで町娘に変装しているみたいですね」
藤内がポツリとつぶやいた言葉が腑に落ちてなんとも言えない表情を浮かべた。それじゃあ結局浮いてしまうではないかという思いと純粋に美しいと思う気持ちで揺らぐ。頬を染めてあわあわと藤内の言葉を否定する彼女は伏し目がちに鏡を見つめていたときと打って変わって少し幼く見える。
「…というか貴女はいくつなんだ?」
そういえば誰も彼女の歳について話したことはなかった。不躾かもしれないがポロリと疑問が湧いて溢れてしまった。世間知らずな様からして四、五年生と同じくらいだと思い込んでいたが、
「二十歳、です」
「は?」
「えっ、ご、ごめんなさい、?」
思わず声を上げてしまった。内面的な、というか精神的に失礼ながら大人らしいとは思えなかったため想定していた歳よりいくつも上だったことに驚きを隠し得ない。
確かに身体や顔つきは確かに妙齢の女性らしいから納得できなくもないが…利吉さんよりも年上なのに、この物の知らなさは一体何なんだ?
澪を観察し始めてから感じていたチグハグさがさらに深まってしまい眉間に皺が寄る。だがいくら考えてもさっぱりわからず、仙蔵はついに思考を放棄した。もう、この月ヶ瀬澪という人間がそういうものなのだ、と。分からないものは分からない。世の中には解明されていない謎なんていくらでもあるんだ。多分この人間もその謎のうちの一つに過ぎないんだ。
フゥー、と息を吐いている間に澪がコソコソと兵太夫に耳打ちをしている。「あの…ちなみに兵太夫くんのお歳はいくつなんでしょうか?」と。そして兵太夫が歳を答えると目を丸くして口元を覆った。
「一年生が10歳ってことは、六年生の方って、15歳…?」
知らなかったのか。伊作や留三郎とそういう話を一つもしなかったのか。というか他の忍たま達ともそういった話にならなかったのか。誰か一人くらいするだろう!?もう2週間近くいるんだぞ!?どれだけ口下手なんだこの人は!!
心の中で溢れる怒涛のツッコミを喉の奥にグッと抑え込む。
「ご結婚はもうなされているのですか?」
「けけっ結婚だなんてそんな…!お付き合いだって、している方いませんし…」
「20歳なのに?!」
真っ赤になった頬を押さえながらもしょもしょと囁く澪は兵太夫の一言で目をぱちくりさせる。すでに彼女の年齢は子供の一人や二人いてもおかしくない年齢だと聞かせれば、ポカンと口を開けて視線を彷徨わせた。
「そう、そうなんですね…そうですよね、うん、」
澪は何か自分に言い聞かせるように小さく呟く。
まただ。彼女が纏う空気が揺らいだ。どこぞの城の箱入り姫君だとしてもそれくらいは流石に知っているだろう。どこか世間から隔絶されたところででも育てられたのか?
浮世離れとは言い得て妙だと思う。彼女はおよそ世間というものを知らない。可哀想な人だ。赤子同然の世間知らずのくせに間者などと疑われ怪しまれ、それでよくこの2週間近くを過ごせたものだ。疑いをほっぽり出せば何だか同情が湧いてきて感心さえする。それなりに生きてきてはいるからか飲み込みは早い。そういうものなのかと悟り、納得し、理解している。
「…実に面白いな」
こうなったらとことん彼女の謎を解き明かしたいものだ。
仙蔵の呟きは兵太夫達の喧騒に掻き消されて澪の耳に届くことはなかった。
***
「文次郎のこと、どうか許してやってください。」
委員会活動を終えて澪を事務室まで送ると言い出した仙蔵は3歩ほど後ろを歩く彼女に向かって何気なく呟いた。足音が止んで振り返ると困惑した表情で首を傾げる澪と目が合う。何が言いたいのか、とその目が語っている。
「言い過ぎたと、毎日部屋で落ち込んでいるんです。最初のうちは私も慰めていましたが一向に立ち直らないのでほとほと愛想が尽きてしまいまして。」
「許すも何も…潮江さんは、間違ったことは言ってませんので…気に悩む必要なんてないです。」
眉を下げながら足の指先を擦り合わせる彼女を見て仙蔵は少し困ったように笑った。
「良いヤツなんです。だがいかんせん頭が硬くてどうも不器用な男だ。」
「疑い続けるのも気力が削がれるのです。
やめさせて欲しかったんですよ、貴女に。」
本当に呆れたヤツだと思う。どこまでも己を律するあまり踏ん切りがつかなくなってしまったのだろう。ただ求めた相手が悪かった。全て飲み込んでしまうのだ。好意だろうと悪意だろうと関係なく全てを受け止めてしまう柔らかさがこの人にはある。文次郎の言葉然り伝七の言葉然り。敵意に満ち溢れてたとしても否定も反論もせずただ棘のついたそれを飲み込んで、その度に心の内を傷つけているのだろう。文次郎も大概だが彼女も相当不器用な人間だ。
「本当に私は全然気にしていませんので、どうかそう伝えてください。」
「おや、ご自身で伝えるおつもりはないのですか?」
片目を閉じてそう問えば、澪は少し引き攣った笑みを浮かべながら首を摩る。気の弱い彼女のことだ。文次郎の剣幕で迫られればトラウマになったって仕方ない。思っていることがわかりやすく顔に出る彼女を前にするとつい意地の悪いことを言って困らせたくなるのだがここらが引き際かと息を吐いたとき、澪がゆるりと顔を背けて囁くように独りごちた。
「…信じることができないというのは、ほんとうに、辛いですよね」
ぼんやりと遠くを眺める横顔が憂いを帯びているように見えた。
彼女も、何かを疑い続けているのだろうか。
仙蔵はただ黙って見つめることしかできなかった。暫くしてハッと目を見開いた澪は仙蔵の視線に気が付き「すみません」と小さく謝った。
「…ま、思い悩む文次郎を観察するのも一興ですし。気が向いたらで良いのでいつかアイツと話してやってください。」
「具体的に何をお話ししたら…?」
「何でもですよ。」
「…善処、します」
緊張した面持ちで俯きがちにそう呟く澪を見て、仙蔵は徐に両手を伸ばした。
「貴女はいつもそうやって俯いてばかりだ。」
澪の鎖骨と肩甲骨の間辺りに優しく触れるとわかりやすく身体が強張る。両手で軽く押せば胸を張る姿勢になり自然に視線が上がった。
「これほど上背のある女性が下を向くだなんて勿体無い。胸を張って、しっかり前を向いてください。喜八郎にもそう言われたでしょう。」
「は、はい」
「その方が、ずっと美しい。」
背筋がピンと伸びてまっすぐ前を見据える澪は凛として見える。
仙蔵は満足げに微笑んで再び歩き出したのだった。
澪は部屋の隅にちょこんと座って仙蔵達を物珍しそうに見つめていた。彼らは女装の練習をしている最中だった。小袖を身に纏い髪の毛を下ろせば下級生の子は特にそれらしく見えるもので。澪にとって長髪の男性は見慣れないものなのでついついさらりと揺れる髪の毛を目で追ってしまう。変装の練習だなんて、忍者っぽいな、と思うと頭の中で『忍者ですよ。忍たまだけど』と三郎の声が聞こえた気がして軽く頭を振るった。
ところで、私はいつ頃ここを立ち去っても良いのだろうか。
できるだけ存在感を消して隅っこで固まっているのだが正座でちょっぴり痺れてきた足をモゾモゾと動かしてそんなことを考える。時折伝七がピリピリした視線を送ってくるのも気になってしまう。だが後輩に指南している仙蔵や懸命に化粧をしている兵太夫達に声をかけあぐねて何度も口を開いてはつぐんでを繰り返していた。
「ちょうど良い練習台がいるな。」
後輩の派手な化粧に頭を抱えていた仙蔵が澪を振り返って笑みを浮かべる。仙蔵と目が合い、私のこと…?とパチパチ目を瞬かせていると腕を引かれて部屋の中央に誘導された。
「いいかお前達。化粧は無闇矢鱈に足せば良いってもんじゃないんだ、よく見て覚えろ。」
仙蔵の手が頬に触れて思わず身を引いてしまったが「じっとしていろ」と言われて身を固める。いつの間にか化粧の練習台にされていて目の前に座る仙蔵だけでなく他の生徒達にまでじっと顔を凝視されてブワッと血がのぼってくる。
「なんだ、いつも血の気の引いた顔をしているが随分血色が良くなったじゃないか。まだ化粧はしてないんだぞ」
緊張と恥ずかしさで声が出せず、下を向こうとしたら顎を掬われてしまった。至近距離で目線がかち合い耳の奥で自分の鼓動の音ばかりが響く。耐えきれなくなり唇を噛み締めてぎゅっと目を瞑ったら小さな笑い声が聞こえた気がした。
「力を抜いていろ」
そう言って前髪を軽く左右に払い、澪の瞼にそっと筆をのせる。澪は筆先のくすぐったさにふるりとまつ毛を震わせたが、目尻あたりを優しく撫でるように筆を滑らせる感覚にほんの少しだけ肩の力を抜いた。仙蔵が後輩達にアドバイスをしながら化粧を進めていく。目元、頬ときて、最後に唇に紅をのせる。節目がちに目を開ければ真剣な眼差しで紅をさす仙蔵の顔が飛び込んできた。最後に指先で軽く整えられ、ふに、と唇に触れる硬い指先の感覚が消えなかった。
「…うん、美しいな」
「どうだ、お前達」と振り返った仙蔵はじんわりと頬を染めてほけっと澪を見つめる伝七を見て軽く吹き出した。
「伝七、なんだその顔は」
「あれぇ?伝七もしかして見惚れてる?」
「ハァ!?なっ何言ってるんだ!そんなわけないだろ!!」
兵太夫がニヤニヤしながら伝七の肩を小突いて揶揄うとハッとして猫が威嚇するように声を上げる。うるさいうるさい!と取っ組み合いを始める一年生に呆れたように仙蔵は頭を振った。
澪がポカンとしていると喜八郎が背後に座り髪の毛をいじり始めた。
「お綺麗ですよ。あとは下ろしっぱなしの髪の毛ですね。綺麗な髪なんだからしっかり結えば良いのに」
「か、髪紐じゃ、上手くまとめられなくて…すみません」
「謝らないでください。別に攻めてる訳じゃありません。」
どこか間延びした言い方の彼がするすると髪の毛を梳くので首元がくすぐったい。手早くまとめられ、これで完成だと手鏡を渡された。ドキドキしながら鏡を覗く。
目尻が朱に染まっていて頬や唇もほんのりと色づいていた。キラキラしたラメもまつ毛をくるりとあげて伸ばすビューラーもマスカラもないけれど、品良く整えられた自分と目が合う。赤色のアイシャドウなんて使ったことがなかったからちょっぴりふわふわした気持ちになった。小指でそっと唇の紅をなぞると思わず頬が緩む。
「これで幾分か町娘らしくなったと、思ったが…」
仙蔵がうむ…と小さく唸りながら腕を組んだ。どこか浮世離れした顔立ちの澪が化粧をすれば少しでもそこらの町娘に馴染むかと思ったのだが、いかんせん静々とした所作や醸し出す雰囲気が大人しく落ち着いているためやはり浮いているように感じる気がして顎に手を当てながらしげしげと顔面を見つめる。
「なんというか、どこかの城の姫君がお忍びで町娘に変装しているみたいですね」
藤内がポツリとつぶやいた言葉が腑に落ちてなんとも言えない表情を浮かべた。それじゃあ結局浮いてしまうではないかという思いと純粋に美しいと思う気持ちで揺らぐ。頬を染めてあわあわと藤内の言葉を否定する彼女は伏し目がちに鏡を見つめていたときと打って変わって少し幼く見える。
「…というか貴女はいくつなんだ?」
そういえば誰も彼女の歳について話したことはなかった。不躾かもしれないがポロリと疑問が湧いて溢れてしまった。世間知らずな様からして四、五年生と同じくらいだと思い込んでいたが、
「二十歳、です」
「は?」
「えっ、ご、ごめんなさい、?」
思わず声を上げてしまった。内面的な、というか精神的に失礼ながら大人らしいとは思えなかったため想定していた歳よりいくつも上だったことに驚きを隠し得ない。
確かに身体や顔つきは確かに妙齢の女性らしいから納得できなくもないが…利吉さんよりも年上なのに、この物の知らなさは一体何なんだ?
澪を観察し始めてから感じていたチグハグさがさらに深まってしまい眉間に皺が寄る。だがいくら考えてもさっぱりわからず、仙蔵はついに思考を放棄した。もう、この月ヶ瀬澪という人間がそういうものなのだ、と。分からないものは分からない。世の中には解明されていない謎なんていくらでもあるんだ。多分この人間もその謎のうちの一つに過ぎないんだ。
フゥー、と息を吐いている間に澪がコソコソと兵太夫に耳打ちをしている。「あの…ちなみに兵太夫くんのお歳はいくつなんでしょうか?」と。そして兵太夫が歳を答えると目を丸くして口元を覆った。
「一年生が10歳ってことは、六年生の方って、15歳…?」
知らなかったのか。伊作や留三郎とそういう話を一つもしなかったのか。というか他の忍たま達ともそういった話にならなかったのか。誰か一人くらいするだろう!?もう2週間近くいるんだぞ!?どれだけ口下手なんだこの人は!!
心の中で溢れる怒涛のツッコミを喉の奥にグッと抑え込む。
「ご結婚はもうなされているのですか?」
「けけっ結婚だなんてそんな…!お付き合いだって、している方いませんし…」
「20歳なのに?!」
真っ赤になった頬を押さえながらもしょもしょと囁く澪は兵太夫の一言で目をぱちくりさせる。すでに彼女の年齢は子供の一人や二人いてもおかしくない年齢だと聞かせれば、ポカンと口を開けて視線を彷徨わせた。
「そう、そうなんですね…そうですよね、うん、」
澪は何か自分に言い聞かせるように小さく呟く。
まただ。彼女が纏う空気が揺らいだ。どこぞの城の箱入り姫君だとしてもそれくらいは流石に知っているだろう。どこか世間から隔絶されたところででも育てられたのか?
浮世離れとは言い得て妙だと思う。彼女はおよそ世間というものを知らない。可哀想な人だ。赤子同然の世間知らずのくせに間者などと疑われ怪しまれ、それでよくこの2週間近くを過ごせたものだ。疑いをほっぽり出せば何だか同情が湧いてきて感心さえする。それなりに生きてきてはいるからか飲み込みは早い。そういうものなのかと悟り、納得し、理解している。
「…実に面白いな」
こうなったらとことん彼女の謎を解き明かしたいものだ。
仙蔵の呟きは兵太夫達の喧騒に掻き消されて澪の耳に届くことはなかった。
***
「文次郎のこと、どうか許してやってください。」
委員会活動を終えて澪を事務室まで送ると言い出した仙蔵は3歩ほど後ろを歩く彼女に向かって何気なく呟いた。足音が止んで振り返ると困惑した表情で首を傾げる澪と目が合う。何が言いたいのか、とその目が語っている。
「言い過ぎたと、毎日部屋で落ち込んでいるんです。最初のうちは私も慰めていましたが一向に立ち直らないのでほとほと愛想が尽きてしまいまして。」
「許すも何も…潮江さんは、間違ったことは言ってませんので…気に悩む必要なんてないです。」
眉を下げながら足の指先を擦り合わせる彼女を見て仙蔵は少し困ったように笑った。
「良いヤツなんです。だがいかんせん頭が硬くてどうも不器用な男だ。」
「疑い続けるのも気力が削がれるのです。
やめさせて欲しかったんですよ、貴女に。」
本当に呆れたヤツだと思う。どこまでも己を律するあまり踏ん切りがつかなくなってしまったのだろう。ただ求めた相手が悪かった。全て飲み込んでしまうのだ。好意だろうと悪意だろうと関係なく全てを受け止めてしまう柔らかさがこの人にはある。文次郎の言葉然り伝七の言葉然り。敵意に満ち溢れてたとしても否定も反論もせずただ棘のついたそれを飲み込んで、その度に心の内を傷つけているのだろう。文次郎も大概だが彼女も相当不器用な人間だ。
「本当に私は全然気にしていませんので、どうかそう伝えてください。」
「おや、ご自身で伝えるおつもりはないのですか?」
片目を閉じてそう問えば、澪は少し引き攣った笑みを浮かべながら首を摩る。気の弱い彼女のことだ。文次郎の剣幕で迫られればトラウマになったって仕方ない。思っていることがわかりやすく顔に出る彼女を前にするとつい意地の悪いことを言って困らせたくなるのだがここらが引き際かと息を吐いたとき、澪がゆるりと顔を背けて囁くように独りごちた。
「…信じることができないというのは、ほんとうに、辛いですよね」
ぼんやりと遠くを眺める横顔が憂いを帯びているように見えた。
彼女も、何かを疑い続けているのだろうか。
仙蔵はただ黙って見つめることしかできなかった。暫くしてハッと目を見開いた澪は仙蔵の視線に気が付き「すみません」と小さく謝った。
「…ま、思い悩む文次郎を観察するのも一興ですし。気が向いたらで良いのでいつかアイツと話してやってください。」
「具体的に何をお話ししたら…?」
「何でもですよ。」
「…善処、します」
緊張した面持ちで俯きがちにそう呟く澪を見て、仙蔵は徐に両手を伸ばした。
「貴女はいつもそうやって俯いてばかりだ。」
澪の鎖骨と肩甲骨の間辺りに優しく触れるとわかりやすく身体が強張る。両手で軽く押せば胸を張る姿勢になり自然に視線が上がった。
「これほど上背のある女性が下を向くだなんて勿体無い。胸を張って、しっかり前を向いてください。喜八郎にもそう言われたでしょう。」
「は、はい」
「その方が、ずっと美しい。」
背筋がピンと伸びてまっすぐ前を見据える澪は凛として見える。
仙蔵は満足げに微笑んで再び歩き出したのだった。