ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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「澪ちゃん、手首大丈夫?」
「あ、はい…大したことないんですけど、善法寺さんが包帯巻いてくださって」
小松田は事務仕事をしながら澪の右手首を心配そうに見つめて「お大事にねぇ」と呟く。包帯の巻かれた手首をさすりながら困ったように笑う澪は数日前のことを思い返す。
*
学園長と話を終えた澪を待ち構えていたのは利吉で、ニコニコと笑みを浮かべたまま「ささ、こちらへ」と背に手を回された。「え、あ…」と緊張と戸惑いで言葉にならない音を発することしかできず訳が分からないまま連れられて辿り着いたのは医務室。
「利吉さんに澪さん。どうされたんですか?」
部屋には伊作がいて不思議そうにこちらを見つめていた。「彼女右手が痛むようで」と利吉が言えば伊作はハッと真剣な目つきに変わる。驚いて何でもないと手を振り後ずさるも、背後に利吉、前方に伊作と行く手を阻まれ大人しく治療を受けさせられることに。
「お手間をかけてしまって、すみません…そんなに痛まないのでそのままでもだい」
「駄目です。捻挫は癖になるんですよ、ちゃんと処置して治さなきゃ」
「は、はい…申し訳、ありません」
「それにしても落とし穴に落ちるときに手をつくなんて危ないです。ちゃんと受け身を、」
と言いかけた伊作は包帯を巻く手を止めて小さく「すみません」と呟いた。ほんの少しバツの悪そうな顔をする伊作に申し訳なくなって足の指をキュッと丸めた。
処置を終えて医務室を後にすると改めて利吉と向き合う。俯きがちにお礼と謝罪の言葉を囁けば片膝をついて右手を取られ全身に緊張が迸る。
「今日、貴女に会えて良かった。」
「私はもっと貴女のことが知りたい」
この方は、すごく目を見つめてくる。心の奥底まで見透かすようなその目が逸らすことを許すまいと訴えているようで、ただ瞬きをして気を紛らわせることしかできない。
「ぁ、の…」
「また会いに来てもよろしいですか?」
駄目ですとは言えるわけもなく戸惑いながらこくりと小さく頭を縦に振ると利吉は嬉しそうに笑ったのだった。
*
知りたいって、何だろう。出会い方があまりよくなかったから変な第一印象を抱かれていそうで。あ、落とし穴に落ちて怪我した人だなんて会う度思われたらもう、情けなくて顔見られない。
グッと唇を噛み締めて書類の整理を進める。何も顔を見ることができないのは彼一人だけではない。文次郎の言葉が今でも頭の中で鳴り響いている。
『恩を売ってどうする気だ』
そんなつもりはないだなんて、白々しい。あの時頭が真っ白になってしまったのは図星をつかれたからだと思う。だって、私は私のために動いている。この学園で働くことだって、きり丸くんにあげたヘアアクセだって、団蔵くんの記帳を手伝ったことだって。ここでしていること全部が、罪滅ぼしになるんじゃないかと心のどこかでは思ってる。
だって、少しでも良いことをしなくちゃ神様に許してもらえない。ここに来てしまったこと、帰れないことを全部神様のせいにしていて、そして元を辿れば自分が何か悪いことをしたんじゃないかって。今はそう思い込むことしかできないのだ。
そんなことをぐるぐると考えていると、自分がやることなすこと全てが浅ましい行為に思えてきて、ますます顔を上げることができなくなった。
元々、人見知りで引っ込み思案な性格も相まって下を向いていることが多かった。けれど、どれだけ緊張しても頑張って相手の目を見る努力はしてきたし、泣きそうなときは母に言われた言葉を思い出して空を見上げた。決して、今みたいに四六時中俯いてばかりじゃなかったのだ。本当に、今の自分は見るに耐えない程惨めったらしい。
いつの間にか整理された書類の端を握りしめていて、皺が寄ってしまっていた。包帯が巻かれた手首がズキズキと痛む。力を緩めて皺になってしまったところを撫でたが元には戻らなかった。
「あっそうだ!吉野先生から作法委員会に物品を届けてほしいってお願いされてたんだったぁ」
小松田が目の前に山のように残っている書類と向こうの文机に置かれた木箱をあたふた見比べながら頭を抱えている。澪は小さく口を開いたがすぐさま視線を落としきゅっと唇を結んだ。
「澪ちゃん、もしかしてもう書類整理終わった?」
「はっはい、一応…」
「それじゃあ、あれ作法委員会に届けてくれないかなぁ。今日の委員会で使うらしいんだけど、僕まだ書類の押印確認が終わりそうになくて…」
生徒に、会う方かぁ…と若干目が泳いでしまったが「わかりました」と返事をして立ち上がった。蓋のない木箱の中身を覗いてみると、筆や小さな入れ物が入っていた。何だろう?とまじまじ見つめていると小松田が「それは化粧道具だよ。」と教えてくれた。
何気なく頬に触れる。浴衣に合わせていつもより気合を入れたあの日のメイクは綺麗さっぱり落ちてしまった。シナが年頃でしょうから、といくつかお化粧道具を見繕ってくれたが使うのは何だか気が引けてしまい毎日白粉を申し訳程度はたき眉を少し描き足すくらいで済ませてしまっている。今まで使っていたファンデーションとは違って本当に白いお粉なのでやりすぎると死人のようになってしまうから本当に薄付きで、結果ほぼスッピンと変わらない。
スッピンで、他人と顔を合わせている。
今までそんなことを考えている暇もなかったが、今になって自覚してしまい途端に恥ずかしくなった。
顔をあげられない理由がまた一つ、増えてしまった。
***
重々しいため息を吐きながら億劫そうに足を動かす。委員会ということは当然ながら委員長、つまり上級生がいるんだろう。胃がキュウと痛み、それを紛らわすかのように箱を握りしめる手に力を込めた。小松田が教えてくれた倉庫が遠くに見えてきて唇を噛み締めた。行くしかない、と意を決して一度大きな深呼吸をして倉庫に向かう。
倉庫の戸はほんの少し開いていた。誰か気づいてくれないだろうかと戸の前をウロウロしてみるも人の気配は微塵も感じられず、ノックして囁くように声をかける。
「す、すみません…どなたか、いらっしゃいませんかぁ…」
戸の隙間からチラリと中を覗いてみても、倉庫の中は真っ暗だし返事は返ってこない。古めかしい建物というのは灯りがついていないだけでどこか鳥肌が立つような雰囲気を醸し出している。もしもここに閉じ込められたりなんかしたらひとたまりもないな…と考えてはぶるりと身体が震えた。恐る恐る戸に手をかけて少しだけ隙間を広げる。申し訳なさげに頭を覗かせて薄暗い倉庫を見渡し、棚に視線が入ったところでひゅっと息が止まった。
えっ?
冷や汗とバクバク波打つ心臓と粟立った肌。即座に顔を引っ込めて倉庫の壁に背を預ける。見てはいけないものを見てしまった気がする。暗くてよくわからなかったけれど、あれはまるで、
「ひ、ひとの、首…?」
口にした瞬間一際大きく身体が震えて、壁にもたれかかったままズルズルと座り込んだ。
どうしよう。見なかったことにしたい。今の記憶なくなってくれないかな。
腕の中の箱を抱きしめながらぎゅっと瞼を閉じる。戸が開いたままだと何かいけないものが飛び出してきそうで怖いので、手探りで戸を探して閉めようと強張る腕を何とか動かした。
「私何も見てない…見てない、見てない。生首っぽいものなんて見てない…!」
蚊の鳴くような声でぶつぶつと呟く。戸に触れた感覚がしてひしっと掴み、ありったけの力を込める。
「何をなさっているんです?」
突然倉庫の中からかけられた声に驚いて掠れた悲鳴をあげながらその場にへたり込んだ。正直泡を吹いて気絶してしまいそうなレベルで怖くて逃げ出したかったが身体が言うことを聞かない。壊れたおもちゃのようにギギギと首を動かして声がした方を見遣ると深緑の着物の袖が見えた。
「倉庫に入ってきたら少しばかり驚かそうと思っていたのに中々入ってこないから痺れを切らしてしまったじゃないですか。何故入る前にそれほど…」
座り込む澪に呆れながら「ほら、立ってください」と手を差し伸べてきた彼のさらりとした髪がたなびく。怖怖と手を伸ばし、チョン、と指先が触れてドッと息を吐いた。
「さ、触れる…」
澪の小さな呟きに一瞬キョトンとした彼はすぐに吹き出して大きな笑い声を上げた。
「ハハハッ!当たり前でしょう、私が幽霊だとでもお思いでしたか?」
ツボに入ってしまったのか腹を抱えてヒイヒイ笑っている。そして倉庫の中に向かってもういいぞと声をかけると続々と人が出てきた。気配なんて全くしなかったのに、こんなに潜んでいたの?と目をパチパチさせる。
「澪さん大丈夫ですか?」
「兵太夫くん…」
見知った顔に安堵のため息がもれる。泣きつきたい気持ちを抑えてへたっぴな笑みを浮かべながら小さく頷いた。
私が見てしまったモノは所謂生首フィギュアというものらしく。もっと近くで見ますか?と尋ねる兵太夫に全力で首を横に振った。彼らが具体的に何をどうやって驚かそうとしていたのかは知らないが、多分倉庫に足を踏み入れていたらそれこそ泡を吹いて気絶したと思う。冗談抜きで。
何とか息を整えて手元の品を差し出す。お邪魔にならないようにさっさと退散しようと立ち上がったが、馬鹿みたいに足が震えて咄嗟に壁にしがみついた。
「足、震えてますよ。ビビりすぎです。」
「お、おっしゃる通りです……」
仙蔵に指摘されて恥ずかしくなりしゅんと肩をすくませる。
「これからこの化粧道具を使って作法を勉強するところだったんです。せっかくですから見学ついでに休まれていかれては?」
「えっいえそんな、私はこれで、」
「何仰ってるんですか立花先輩!こんな怪しい女を連れてくなんて絶対ダメです!」
伝七の尖った叫び声にびくりと肩を揺らす。挨拶してくれた時も彼は訝しげにじっと見つめてきた。そりゃ、何もなしに事が済むとは思っていなかったが、居た堪れなくなって俯き視線を彷徨わせる。自分でも自分のことを不審者みたいだとは思っていた。けれども、こうもどストレートに怪しい女と言われると案外心にくるものがあった。
「いいじゃないですか。ほら、行きましょう。」
「わっ!?」
「あっ、ちょっと綾部先輩!」
突然腕を掴まれたかと思うとグイグイ引っ張られて連れて行かれる。もつれそうになる足を何とか動かし腕を引く喜八郎に目をやった。
「伝七、心配する事ないよ。だってこんなにも臆病な人なんだから。」
「喜八郎の言う通りだな。あれしきのことで腰を抜かすようなお方だ。なんてことないさ」
何もできるはずがないと断言する喜八郎と仙蔵。彼の物言いに思わずきゅ、と口をすぼませた。
確かに、何もするつもりはないし、極力空気に徹したいところだけど…何だろう、すごく、すごく突き刺さる…
彼らの歳は知らないけれど、多分おそらく仙蔵含め皆年下であろうはずなのにそんな彼らに自分でも気にしていることを何ともなしに指摘されて色んな意味で胸が痛む。
しばらく連れられるがまま歩いていたが、不意に喜八郎が立ち止まってくるりと振り返った。急に止まる事ができず一歩踏み出してしまい顔が近づく。目を見開いて慌てて後ずさるも右腕を掴まれて固まってしまう。
既視感。どうしてここの人たちはこんなにも距離が近いのだろう。最低でも2メートルくらいはパーソナルスペースを保っていたい澪だが、皆一様にその領域にいとも容易く足を踏み入れてくる。いつまで経っても気が休まらないのはこの距離感のせいじゃないかと頭の片隅で考えてしまう。
「穴に落ちて捻挫したと聞きました。」
そう言って包帯が巻かれた手首をするりと撫でる。
「あの穴は僕が掘ったものです。」
「そう、なんですね」
「ご自分で這い上がれなかったとも聞きました。」
中々手を離そうとしない喜八郎はじっと目を見つめてくる。どうしようもなく気まずくて、すみませんと小さく呟いた。
「あなたは鈍臭いので、きっとまた穴に落ちたら怪我すると思います。」
「どんくさ…」
「なので穴に落ちないよう気をつけてください。」
「は、はぃ、すみません…」
尻すぼみに返事をする澪にようやく満足したのか喜八郎はまた遠慮なしに手を握って歩き出した。彼の手のひらはきり丸たちよりもずっと硬くて皮が分厚い。そういえば善法寺さんが学園中に穴を掘りまくる穴掘り小僧とか言っていたような。
「足元ばかり見ていないで。」
「俯いているとまた罠に気づかず落ちてしまいますよ。」
喜八郎が握る手に力を込める。
彼の言葉にゆるりと視線を上げる。目の先には高く結われた薄紫の髪の毛がゆらゆらと揺れていて、陽の光にさらされてきらめく様は絹糸のようだった。
「あ、はい…大したことないんですけど、善法寺さんが包帯巻いてくださって」
小松田は事務仕事をしながら澪の右手首を心配そうに見つめて「お大事にねぇ」と呟く。包帯の巻かれた手首をさすりながら困ったように笑う澪は数日前のことを思い返す。
*
学園長と話を終えた澪を待ち構えていたのは利吉で、ニコニコと笑みを浮かべたまま「ささ、こちらへ」と背に手を回された。「え、あ…」と緊張と戸惑いで言葉にならない音を発することしかできず訳が分からないまま連れられて辿り着いたのは医務室。
「利吉さんに澪さん。どうされたんですか?」
部屋には伊作がいて不思議そうにこちらを見つめていた。「彼女右手が痛むようで」と利吉が言えば伊作はハッと真剣な目つきに変わる。驚いて何でもないと手を振り後ずさるも、背後に利吉、前方に伊作と行く手を阻まれ大人しく治療を受けさせられることに。
「お手間をかけてしまって、すみません…そんなに痛まないのでそのままでもだい」
「駄目です。捻挫は癖になるんですよ、ちゃんと処置して治さなきゃ」
「は、はい…申し訳、ありません」
「それにしても落とし穴に落ちるときに手をつくなんて危ないです。ちゃんと受け身を、」
と言いかけた伊作は包帯を巻く手を止めて小さく「すみません」と呟いた。ほんの少しバツの悪そうな顔をする伊作に申し訳なくなって足の指をキュッと丸めた。
処置を終えて医務室を後にすると改めて利吉と向き合う。俯きがちにお礼と謝罪の言葉を囁けば片膝をついて右手を取られ全身に緊張が迸る。
「今日、貴女に会えて良かった。」
「私はもっと貴女のことが知りたい」
この方は、すごく目を見つめてくる。心の奥底まで見透かすようなその目が逸らすことを許すまいと訴えているようで、ただ瞬きをして気を紛らわせることしかできない。
「ぁ、の…」
「また会いに来てもよろしいですか?」
駄目ですとは言えるわけもなく戸惑いながらこくりと小さく頭を縦に振ると利吉は嬉しそうに笑ったのだった。
*
知りたいって、何だろう。出会い方があまりよくなかったから変な第一印象を抱かれていそうで。あ、落とし穴に落ちて怪我した人だなんて会う度思われたらもう、情けなくて顔見られない。
グッと唇を噛み締めて書類の整理を進める。何も顔を見ることができないのは彼一人だけではない。文次郎の言葉が今でも頭の中で鳴り響いている。
『恩を売ってどうする気だ』
そんなつもりはないだなんて、白々しい。あの時頭が真っ白になってしまったのは図星をつかれたからだと思う。だって、私は私のために動いている。この学園で働くことだって、きり丸くんにあげたヘアアクセだって、団蔵くんの記帳を手伝ったことだって。ここでしていること全部が、罪滅ぼしになるんじゃないかと心のどこかでは思ってる。
だって、少しでも良いことをしなくちゃ神様に許してもらえない。ここに来てしまったこと、帰れないことを全部神様のせいにしていて、そして元を辿れば自分が何か悪いことをしたんじゃないかって。今はそう思い込むことしかできないのだ。
そんなことをぐるぐると考えていると、自分がやることなすこと全てが浅ましい行為に思えてきて、ますます顔を上げることができなくなった。
元々、人見知りで引っ込み思案な性格も相まって下を向いていることが多かった。けれど、どれだけ緊張しても頑張って相手の目を見る努力はしてきたし、泣きそうなときは母に言われた言葉を思い出して空を見上げた。決して、今みたいに四六時中俯いてばかりじゃなかったのだ。本当に、今の自分は見るに耐えない程惨めったらしい。
いつの間にか整理された書類の端を握りしめていて、皺が寄ってしまっていた。包帯が巻かれた手首がズキズキと痛む。力を緩めて皺になってしまったところを撫でたが元には戻らなかった。
「あっそうだ!吉野先生から作法委員会に物品を届けてほしいってお願いされてたんだったぁ」
小松田が目の前に山のように残っている書類と向こうの文机に置かれた木箱をあたふた見比べながら頭を抱えている。澪は小さく口を開いたがすぐさま視線を落としきゅっと唇を結んだ。
「澪ちゃん、もしかしてもう書類整理終わった?」
「はっはい、一応…」
「それじゃあ、あれ作法委員会に届けてくれないかなぁ。今日の委員会で使うらしいんだけど、僕まだ書類の押印確認が終わりそうになくて…」
生徒に、会う方かぁ…と若干目が泳いでしまったが「わかりました」と返事をして立ち上がった。蓋のない木箱の中身を覗いてみると、筆や小さな入れ物が入っていた。何だろう?とまじまじ見つめていると小松田が「それは化粧道具だよ。」と教えてくれた。
何気なく頬に触れる。浴衣に合わせていつもより気合を入れたあの日のメイクは綺麗さっぱり落ちてしまった。シナが年頃でしょうから、といくつかお化粧道具を見繕ってくれたが使うのは何だか気が引けてしまい毎日白粉を申し訳程度はたき眉を少し描き足すくらいで済ませてしまっている。今まで使っていたファンデーションとは違って本当に白いお粉なのでやりすぎると死人のようになってしまうから本当に薄付きで、結果ほぼスッピンと変わらない。
スッピンで、他人と顔を合わせている。
今までそんなことを考えている暇もなかったが、今になって自覚してしまい途端に恥ずかしくなった。
顔をあげられない理由がまた一つ、増えてしまった。
***
重々しいため息を吐きながら億劫そうに足を動かす。委員会ということは当然ながら委員長、つまり上級生がいるんだろう。胃がキュウと痛み、それを紛らわすかのように箱を握りしめる手に力を込めた。小松田が教えてくれた倉庫が遠くに見えてきて唇を噛み締めた。行くしかない、と意を決して一度大きな深呼吸をして倉庫に向かう。
倉庫の戸はほんの少し開いていた。誰か気づいてくれないだろうかと戸の前をウロウロしてみるも人の気配は微塵も感じられず、ノックして囁くように声をかける。
「す、すみません…どなたか、いらっしゃいませんかぁ…」
戸の隙間からチラリと中を覗いてみても、倉庫の中は真っ暗だし返事は返ってこない。古めかしい建物というのは灯りがついていないだけでどこか鳥肌が立つような雰囲気を醸し出している。もしもここに閉じ込められたりなんかしたらひとたまりもないな…と考えてはぶるりと身体が震えた。恐る恐る戸に手をかけて少しだけ隙間を広げる。申し訳なさげに頭を覗かせて薄暗い倉庫を見渡し、棚に視線が入ったところでひゅっと息が止まった。
えっ?
冷や汗とバクバク波打つ心臓と粟立った肌。即座に顔を引っ込めて倉庫の壁に背を預ける。見てはいけないものを見てしまった気がする。暗くてよくわからなかったけれど、あれはまるで、
「ひ、ひとの、首…?」
口にした瞬間一際大きく身体が震えて、壁にもたれかかったままズルズルと座り込んだ。
どうしよう。見なかったことにしたい。今の記憶なくなってくれないかな。
腕の中の箱を抱きしめながらぎゅっと瞼を閉じる。戸が開いたままだと何かいけないものが飛び出してきそうで怖いので、手探りで戸を探して閉めようと強張る腕を何とか動かした。
「私何も見てない…見てない、見てない。生首っぽいものなんて見てない…!」
蚊の鳴くような声でぶつぶつと呟く。戸に触れた感覚がしてひしっと掴み、ありったけの力を込める。
「何をなさっているんです?」
突然倉庫の中からかけられた声に驚いて掠れた悲鳴をあげながらその場にへたり込んだ。正直泡を吹いて気絶してしまいそうなレベルで怖くて逃げ出したかったが身体が言うことを聞かない。壊れたおもちゃのようにギギギと首を動かして声がした方を見遣ると深緑の着物の袖が見えた。
「倉庫に入ってきたら少しばかり驚かそうと思っていたのに中々入ってこないから痺れを切らしてしまったじゃないですか。何故入る前にそれほど…」
座り込む澪に呆れながら「ほら、立ってください」と手を差し伸べてきた彼のさらりとした髪がたなびく。怖怖と手を伸ばし、チョン、と指先が触れてドッと息を吐いた。
「さ、触れる…」
澪の小さな呟きに一瞬キョトンとした彼はすぐに吹き出して大きな笑い声を上げた。
「ハハハッ!当たり前でしょう、私が幽霊だとでもお思いでしたか?」
ツボに入ってしまったのか腹を抱えてヒイヒイ笑っている。そして倉庫の中に向かってもういいぞと声をかけると続々と人が出てきた。気配なんて全くしなかったのに、こんなに潜んでいたの?と目をパチパチさせる。
「澪さん大丈夫ですか?」
「兵太夫くん…」
見知った顔に安堵のため息がもれる。泣きつきたい気持ちを抑えてへたっぴな笑みを浮かべながら小さく頷いた。
私が見てしまったモノは所謂生首フィギュアというものらしく。もっと近くで見ますか?と尋ねる兵太夫に全力で首を横に振った。彼らが具体的に何をどうやって驚かそうとしていたのかは知らないが、多分倉庫に足を踏み入れていたらそれこそ泡を吹いて気絶したと思う。冗談抜きで。
何とか息を整えて手元の品を差し出す。お邪魔にならないようにさっさと退散しようと立ち上がったが、馬鹿みたいに足が震えて咄嗟に壁にしがみついた。
「足、震えてますよ。ビビりすぎです。」
「お、おっしゃる通りです……」
仙蔵に指摘されて恥ずかしくなりしゅんと肩をすくませる。
「これからこの化粧道具を使って作法を勉強するところだったんです。せっかくですから見学ついでに休まれていかれては?」
「えっいえそんな、私はこれで、」
「何仰ってるんですか立花先輩!こんな怪しい女を連れてくなんて絶対ダメです!」
伝七の尖った叫び声にびくりと肩を揺らす。挨拶してくれた時も彼は訝しげにじっと見つめてきた。そりゃ、何もなしに事が済むとは思っていなかったが、居た堪れなくなって俯き視線を彷徨わせる。自分でも自分のことを不審者みたいだとは思っていた。けれども、こうもどストレートに怪しい女と言われると案外心にくるものがあった。
「いいじゃないですか。ほら、行きましょう。」
「わっ!?」
「あっ、ちょっと綾部先輩!」
突然腕を掴まれたかと思うとグイグイ引っ張られて連れて行かれる。もつれそうになる足を何とか動かし腕を引く喜八郎に目をやった。
「伝七、心配する事ないよ。だってこんなにも臆病な人なんだから。」
「喜八郎の言う通りだな。あれしきのことで腰を抜かすようなお方だ。なんてことないさ」
何もできるはずがないと断言する喜八郎と仙蔵。彼の物言いに思わずきゅ、と口をすぼませた。
確かに、何もするつもりはないし、極力空気に徹したいところだけど…何だろう、すごく、すごく突き刺さる…
彼らの歳は知らないけれど、多分おそらく仙蔵含め皆年下であろうはずなのにそんな彼らに自分でも気にしていることを何ともなしに指摘されて色んな意味で胸が痛む。
しばらく連れられるがまま歩いていたが、不意に喜八郎が立ち止まってくるりと振り返った。急に止まる事ができず一歩踏み出してしまい顔が近づく。目を見開いて慌てて後ずさるも右腕を掴まれて固まってしまう。
既視感。どうしてここの人たちはこんなにも距離が近いのだろう。最低でも2メートルくらいはパーソナルスペースを保っていたい澪だが、皆一様にその領域にいとも容易く足を踏み入れてくる。いつまで経っても気が休まらないのはこの距離感のせいじゃないかと頭の片隅で考えてしまう。
「穴に落ちて捻挫したと聞きました。」
そう言って包帯が巻かれた手首をするりと撫でる。
「あの穴は僕が掘ったものです。」
「そう、なんですね」
「ご自分で這い上がれなかったとも聞きました。」
中々手を離そうとしない喜八郎はじっと目を見つめてくる。どうしようもなく気まずくて、すみませんと小さく呟いた。
「あなたは鈍臭いので、きっとまた穴に落ちたら怪我すると思います。」
「どんくさ…」
「なので穴に落ちないよう気をつけてください。」
「は、はぃ、すみません…」
尻すぼみに返事をする澪にようやく満足したのか喜八郎はまた遠慮なしに手を握って歩き出した。彼の手のひらはきり丸たちよりもずっと硬くて皮が分厚い。そういえば善法寺さんが学園中に穴を掘りまくる穴掘り小僧とか言っていたような。
「足元ばかり見ていないで。」
「俯いているとまた罠に気づかず落ちてしまいますよ。」
喜八郎が握る手に力を込める。
彼の言葉にゆるりと視線を上げる。目の先には高く結われた薄紫の髪の毛がゆらゆらと揺れていて、陽の光にさらされてきらめく様は絹糸のようだった。