ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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その日は学園長に呼び出されて忍術学園を訪れた。用件を聞けば、各城の動向をそれとなく探って欲しいと。学園長からの頼み事にしてはいささか珍しく、詳しく聞き出そうとしたが多くは語らずはぐらかされて年長者の上手さに白旗をあげたのだった。
「最近、忍術学園で保護している女性がおってのう。」
「はあ」
「松千代先生にも引けを取らぬ緊張しいときた。おかげで儂もまだあまり話ができておらぬのじゃ。」
少し悲しそうに息を吐く学園長に苦笑いを浮かべる。そんな簡単に受け入れてしまって大丈夫なのかと思ったが学園長曰く「健気で良い子」だという。
「ちとばかし怖がらせてしまったのじゃが、ゆっくり茶でも飲みながら話したいものじゃ」
「誘われてはいかがです?学園長のお人柄はさほど怯えるようなものでも…」
「そうじゃろう、そうじゃろう?」と身を乗り出して大きく頷くが、学園長を前にした彼女の様子を事細かに聞かされた。気を緩めたにも関わらずひどく萎縮したままで心が痛んだそうな。
そんな学園長の話を聞かされたものだから一目見てみたいと思ったのだ。事務室や食堂の手伝いをしているらしいので行ってみるかと思ったのも束の間、聞き慣れない女性の悲鳴がかすかに聞こえて思わず口元が緩んだ。
きっと学園長が仰っていた女性に違いない。
声のした方へ向かえば崩れた地面が見え、なるほど穴に落ちたのかと冷静に状況を把握する。穴の淵に足をかけ、覗こうとした時に蚊の鳴くような声がしてピタリと動きを止めた。
「もう、大人でしょ。しっかりしてよ、澪」
自分を叱責するその声は涙ぐんでいた。穴に落ちたくらいでそんなに落ち込むことだろうか?と不思議に思いそうっと覗き込めば女性が一人、ポツンと穴の底に座り込んでいた。差し込む日差しに照らされた髪が艶々と輝いていて、肩から流れ落ちるそれは淡く煌めいた。無性に触れてみたくて、ゆっくりと手を伸ばしたが、彼女の頭に自分の影が差し掛かったところでハッと息を止めた。いやいや、まずは…
「大丈夫ですか?」
声をかけなくては。
穴の底にいる彼女はびくりと飛び上がって返事をする。手を伸ばしても届かないだろうからさっさと穴の中に飛び込めば顔を背けられた。一人で上がるだなんて言っているが、見るからに華奢なその身体つきでは到底ここから抜け出すことはできないだろうと思った。
名を尋ねると驚いたようにこちらに目を向ける。このまま狭い穴の中で話し込むのも変な気がして失礼、と手を伸ばす。逃げ腰の彼女は簡単に腕の中に収まったが、ひどく強張っていた。ひとっ飛びで穴の外に出るとようやく彼女の顔がよく見えた。垂れ目がちな目は大きく見開かれていて背中に添えた手から彼女の速まった鼓動が伝わってくる。なるほど、と思わず笑ってしまい解放してあげればサッと距離を取られた。
なんだか心が疼いてしまい、一歩、また一歩と歩み寄ってそっと彼女の頬に触れた。そのままゆるりと目元を撫で上げると面白いくらいに身体が飛び跳ねる。じっと目を見つめれば色の薄い虹彩が膜張った涙で美しく光った。
空から落ちてきた星粒のような人だと思った。小さく光り輝いていて、そうっと手のひらに閉じ込めて淡い光をただ一人じっと見つめたくなるような。
見たことがない。こんなひとは。
誰も知らない秘密を知ってしまったようで、途端に心が踊り出す。忍術学園の人達が先に彼女を見つけたことに変わりはないが、きっとこの目が、髪がこんなにもきらきらと柔く輝いていることを他の人は知らないだろう、知らないでいてくれと心の奥底で願った。
遠慮がちに伸ばされた彼女の手を逃すまいと掴んで庵へと向かう。幼い自分が顔を覗かせるように、ワクワクした感情がほろりと溢れた。
しかし彼女の手がするりと抜け落ちて、どうしたのかと振り返ったところで冷や水を浴びせられたような気がして立ちすくんだ。俯き顔を覆う彼女からは震える息の音がかすかに聞こえて、手を強く握りすぎたのか、どこか痛むのかとぐるぐる思考する。声をかけあぐねているといつの間にかそこにいたきり丸と半助がどこか冷ややかな目で見つめてくるから余計に焦ってしまう。
何も、していないはず。多分。
いやしかし、知り合って間もない癖に突然肌に触れてしまったのが不味かったのか?
内心冷や汗が止まらずドギマギしながら彼女を見つめると「何でもない」と小さな声で呟いた。それでもなお問い詰めるきり丸は完全に私が悪いと思い込んでいるようで、彼女が宥めるようにきり丸の手を握って弁明してくれた。
何があったんだい
半助からの矢羽音に貴方まで私を疑うんですか…!と思わず口が滑りそうになったが経緯を簡潔に伝える。納得はしてくれたがやはり距離感がよろしくなかったことは釘を刺されてしまい少し反省した。
「駄目よ」
「だって私、大人だもの」
その言葉に思わず顔を上げる。
ストンと腑に落ちた。そうか。彼女は泣くまいと、自分に言い聞かせていたのだ。そして同時に何故?と疑問が溢れてくる。穴から一人這い上がることすらできない、私がいなければあの競合地域を一人で抜け出すことなど到底できない臆病な彼女が何故泣くのを堪えるのだろう。大人だから泣いてはいけないのか?いいじゃないか、泣いてしまえば。むしろあの目から涙がこぼれ落ちる様を見てみたいとすら思う。きっと真珠の粒がこぼれ落ちるように美しいのだろう。
利吉は目の前の、未だかつて見たことのない、出会ったことのない人間に興味が果てなかった。知りたい。この人が今何を考え、何を思っているのか。ひたすらにその心が知りたかった。心の内を暴いた、その中には何があるのだろうか。
利吉は上がった口角を隠すように手を押し当てて、ただじっと澪を見つめていた。
***
「あれ?利吉さんじゃないですか〜」
「利吉さんこんにちは!」
「乱太郎、しんべヱ」
職員室前を訪れた乱太郎としんべヱは利吉を見て駆け寄ってくる。挨拶もそこそこに、縁側で膝を抱えてムスッとした表情を浮かべているきり丸を不思議そうに見つめた。
「きり丸、そう不貞腐れてないで…」
「土井先生、きり丸どうしたんですか?」
しんべヱが首を傾げながら尋ねると半助は苦笑いを浮かべながら先ほどあったことを話す。
きり丸は着物の裾をぎゅっと握りしめて眉間に皺を寄せていた。どうしても澪が言ったことが理解できなかったのだ。何で?どうして?が頭の中でぐるぐると回っている。
大人だから泣いちゃいけないなんて違うよ。だってたくさん見てきた。大人が泣いているところなんて。
ふと土井先生の言葉を思い出す。そういえば忍者は感情を押し殺して忍務を遂行しなければならない時があると仰っていた。でも澪さんは忍者なんかじゃない。それなのにどうしてあんな顔しているのに無理に笑うんだろう。
「…土井先生、何で大人は泣いちゃ駄目なの?」
膝を抱える腕に顔を埋めてポツリと呟いた。
「子供じゃないから、かな」
「土井先生、答えになってませんよそれ。」
「大人には大人の事情があってだな…ううん、難しいなぁ」
利吉のツッコミに参ったな、と頭をかきながら言葉を探す。
大人だから、子供じゃないから。それが泣いてはいけない理由なのか。なんてくだらないんだろう。
「澪さん、怖がりで気が弱いじゃんか。大きい音とかにすぐびっくりするし、いつも不安そうな顔してるのに。それなのに俺たちの前では無理矢理笑ってる。俺、澪さんのあの顔嫌いなんだよ…」
「きり丸…」
「全然楽しそうじゃないのに、きっと泣きそうなのに、我慢してる。なんか良くわからないけど、胸の奥がぎゅうってなって、苦しくなるんだ」
初めて朝餉を一緒に食べたときも、職員室で改めてお礼を言われたときも、図書室に来たときも、髪飾りを見せてもらったときも。最初はあまりよくわからなかったのに、だんだん胸の奥が何かに締め付けられるような感じがしてなんて声をかけたらいいのかわからなくなった。
すごく遠くを見つめるような眼差しとか、何もかも全部飲み込んで口にしないようにきゅっと結ばれた唇とか、少し冷たい指先だとか、目につく彼女の全てが何だかやるせないような気持ちにさせて落ち着かない。
「きり丸。澪さんね、髪飾りを見せてくれたあの日、きり丸を抱えてすごく優しく笑ってたんだよ。ほっぺがほんのり赤くてね、目もとろんってしてて、すごくすごく幸せそうだったんだよ。」
しんべヱがニコニコと笑みを浮かべながらあの日の澪の様子を語った。そんなまさかと唇を尖らせて横目で見るが、乱太郎も同じような表情を浮かべて近寄ってくる。
「本当だよ、私も見たもん。ずぅっとあんな風に笑っててほしいなって思ったの。優しくて、溶けちゃいそうな笑顔!」
「乱太郎としんべヱばっかずるいぞ…」
「だってきりちゃんは特等席に座ってたんだからしょうがないでしょ?」
それはそうだけど、そうじゃない!
結局自分だけは澪さんの笑った顔を知らないから、仲間外れにされたみたいでちょっぴり悔しくなる。もだもだする感情を発散するように両隣に座った乱太郎としんべヱの肩を小突けば二人は可笑げに笑い声を上げた。
半助はきり丸の機嫌がほんの少し戻って安心したように息を吐く。そして三人の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「まだ不安なことだらけなんだよ。ここでの生活の何もかもが。」
「お前たちにならきっと、澪さんは心を開いてくれるさ。」
きり丸たちの純粋な目に半助は優しく微笑んだ。
「土井先生は?」
「私?」
「土井先生には心を開いてくれないんですか?」
乱太郎から投げかけられた問いに目をパチパチとさせる。何故子供はこうも確信を突くようなことをさらりと口にできるのだろうか。すうと息を吸って困ったように笑いながら目線を彷徨わせる。
私はこの子達のような純粋さを持ち合わせていない。利害だとか損得だとかそういうのを一切気にせず接することができる子供だからこそ、彼女はほんの少しでも緊張の糸を緩めることができるのだろう。純粋に子供が好きということももしかしたらあり得るのかもしれないが。
半助は食堂でほろりと緩んだ笑みを見せた澪を思い出す。今でもあの時彼女が小さな声で紡いだ言葉が胸の中に残っていた。心地の良いものだ。できるならばまた、日向の温さがほんのり残っている柔らかな真綿のような声を、言葉を聞きたい。けれど今はまだ、踏み込むにはいささか早いような気がして。
そうして答えあぐねていると乱太郎達が悲しそうな顔で迫ってくる。
「土井先生は澪さんのこと好きじゃないの?」
「澪さんと仲良くなりたくないんですか?」
「土井先生はあんな顔見て何とも思わないんですか?」
「待て待てお前達!そんな顔するんじゃない!」
「はは、土井先生は意外と薄情でおられる。」
「利吉くんまで!やめなさいったら…」
なぜか乱太郎達に便乗してからかってくる利吉は面白いものを見るような目つきでこちらを見つめている。大きなため息をついてガシガシと頭をかいた。
「…そりゃあ、私だって澪さんには安心してここで過ごしてほしいと思っているよ。」
「も〜勿体ぶらないでくださいよ。土井先生が澪さんのこと嫌いなんじゃないかってヒヤヒヤしちゃったじゃないっすか」
「それじゃあ土井先生も澪さんと一緒に遊びましょうよぉ」
「遊ぶって、しんべヱお前なぁ…」
しんべヱの無邪気な提案に思わず頭を抱える。彼女と遊んでいる自分の姿が微塵も想像できなくて乾いた笑いがこぼれた。彼らの気遣いは嬉しいが、そうじゃないだろうとツッコんでしまいそうで唇を緩く噛む。私じゃまだ怖がらせてしまう。だからゆっくりと時間をかけて、あと数歩分で良いから歩み寄れたらいい。
「私は大人だからね。」
瞼を閉じ頬を緩めてそう呟けばきり丸が顔を顰めて「またそれぇ?」と声を上げる。良いんだ、この子達はまだ分からずとも良い。子供らしく、そのまま純真でひたむきなままでいてくれと願いながら再度彼らの頭を撫でた。
柔らかな新緑が風に揺られて音を立てる。いつしか深緑に染まるであろうそれが、温かく降り注ぐ日差しに照らされていた。
「最近、忍術学園で保護している女性がおってのう。」
「はあ」
「松千代先生にも引けを取らぬ緊張しいときた。おかげで儂もまだあまり話ができておらぬのじゃ。」
少し悲しそうに息を吐く学園長に苦笑いを浮かべる。そんな簡単に受け入れてしまって大丈夫なのかと思ったが学園長曰く「健気で良い子」だという。
「ちとばかし怖がらせてしまったのじゃが、ゆっくり茶でも飲みながら話したいものじゃ」
「誘われてはいかがです?学園長のお人柄はさほど怯えるようなものでも…」
「そうじゃろう、そうじゃろう?」と身を乗り出して大きく頷くが、学園長を前にした彼女の様子を事細かに聞かされた。気を緩めたにも関わらずひどく萎縮したままで心が痛んだそうな。
そんな学園長の話を聞かされたものだから一目見てみたいと思ったのだ。事務室や食堂の手伝いをしているらしいので行ってみるかと思ったのも束の間、聞き慣れない女性の悲鳴がかすかに聞こえて思わず口元が緩んだ。
きっと学園長が仰っていた女性に違いない。
声のした方へ向かえば崩れた地面が見え、なるほど穴に落ちたのかと冷静に状況を把握する。穴の淵に足をかけ、覗こうとした時に蚊の鳴くような声がしてピタリと動きを止めた。
「もう、大人でしょ。しっかりしてよ、澪」
自分を叱責するその声は涙ぐんでいた。穴に落ちたくらいでそんなに落ち込むことだろうか?と不思議に思いそうっと覗き込めば女性が一人、ポツンと穴の底に座り込んでいた。差し込む日差しに照らされた髪が艶々と輝いていて、肩から流れ落ちるそれは淡く煌めいた。無性に触れてみたくて、ゆっくりと手を伸ばしたが、彼女の頭に自分の影が差し掛かったところでハッと息を止めた。いやいや、まずは…
「大丈夫ですか?」
声をかけなくては。
穴の底にいる彼女はびくりと飛び上がって返事をする。手を伸ばしても届かないだろうからさっさと穴の中に飛び込めば顔を背けられた。一人で上がるだなんて言っているが、見るからに華奢なその身体つきでは到底ここから抜け出すことはできないだろうと思った。
名を尋ねると驚いたようにこちらに目を向ける。このまま狭い穴の中で話し込むのも変な気がして失礼、と手を伸ばす。逃げ腰の彼女は簡単に腕の中に収まったが、ひどく強張っていた。ひとっ飛びで穴の外に出るとようやく彼女の顔がよく見えた。垂れ目がちな目は大きく見開かれていて背中に添えた手から彼女の速まった鼓動が伝わってくる。なるほど、と思わず笑ってしまい解放してあげればサッと距離を取られた。
なんだか心が疼いてしまい、一歩、また一歩と歩み寄ってそっと彼女の頬に触れた。そのままゆるりと目元を撫で上げると面白いくらいに身体が飛び跳ねる。じっと目を見つめれば色の薄い虹彩が膜張った涙で美しく光った。
空から落ちてきた星粒のような人だと思った。小さく光り輝いていて、そうっと手のひらに閉じ込めて淡い光をただ一人じっと見つめたくなるような。
見たことがない。こんなひとは。
誰も知らない秘密を知ってしまったようで、途端に心が踊り出す。忍術学園の人達が先に彼女を見つけたことに変わりはないが、きっとこの目が、髪がこんなにもきらきらと柔く輝いていることを他の人は知らないだろう、知らないでいてくれと心の奥底で願った。
遠慮がちに伸ばされた彼女の手を逃すまいと掴んで庵へと向かう。幼い自分が顔を覗かせるように、ワクワクした感情がほろりと溢れた。
しかし彼女の手がするりと抜け落ちて、どうしたのかと振り返ったところで冷や水を浴びせられたような気がして立ちすくんだ。俯き顔を覆う彼女からは震える息の音がかすかに聞こえて、手を強く握りすぎたのか、どこか痛むのかとぐるぐる思考する。声をかけあぐねているといつの間にかそこにいたきり丸と半助がどこか冷ややかな目で見つめてくるから余計に焦ってしまう。
何も、していないはず。多分。
いやしかし、知り合って間もない癖に突然肌に触れてしまったのが不味かったのか?
内心冷や汗が止まらずドギマギしながら彼女を見つめると「何でもない」と小さな声で呟いた。それでもなお問い詰めるきり丸は完全に私が悪いと思い込んでいるようで、彼女が宥めるようにきり丸の手を握って弁明してくれた。
何があったんだい
半助からの矢羽音に貴方まで私を疑うんですか…!と思わず口が滑りそうになったが経緯を簡潔に伝える。納得はしてくれたがやはり距離感がよろしくなかったことは釘を刺されてしまい少し反省した。
「駄目よ」
「だって私、大人だもの」
その言葉に思わず顔を上げる。
ストンと腑に落ちた。そうか。彼女は泣くまいと、自分に言い聞かせていたのだ。そして同時に何故?と疑問が溢れてくる。穴から一人這い上がることすらできない、私がいなければあの競合地域を一人で抜け出すことなど到底できない臆病な彼女が何故泣くのを堪えるのだろう。大人だから泣いてはいけないのか?いいじゃないか、泣いてしまえば。むしろあの目から涙がこぼれ落ちる様を見てみたいとすら思う。きっと真珠の粒がこぼれ落ちるように美しいのだろう。
利吉は目の前の、未だかつて見たことのない、出会ったことのない人間に興味が果てなかった。知りたい。この人が今何を考え、何を思っているのか。ひたすらにその心が知りたかった。心の内を暴いた、その中には何があるのだろうか。
利吉は上がった口角を隠すように手を押し当てて、ただじっと澪を見つめていた。
***
「あれ?利吉さんじゃないですか〜」
「利吉さんこんにちは!」
「乱太郎、しんべヱ」
職員室前を訪れた乱太郎としんべヱは利吉を見て駆け寄ってくる。挨拶もそこそこに、縁側で膝を抱えてムスッとした表情を浮かべているきり丸を不思議そうに見つめた。
「きり丸、そう不貞腐れてないで…」
「土井先生、きり丸どうしたんですか?」
しんべヱが首を傾げながら尋ねると半助は苦笑いを浮かべながら先ほどあったことを話す。
きり丸は着物の裾をぎゅっと握りしめて眉間に皺を寄せていた。どうしても澪が言ったことが理解できなかったのだ。何で?どうして?が頭の中でぐるぐると回っている。
大人だから泣いちゃいけないなんて違うよ。だってたくさん見てきた。大人が泣いているところなんて。
ふと土井先生の言葉を思い出す。そういえば忍者は感情を押し殺して忍務を遂行しなければならない時があると仰っていた。でも澪さんは忍者なんかじゃない。それなのにどうしてあんな顔しているのに無理に笑うんだろう。
「…土井先生、何で大人は泣いちゃ駄目なの?」
膝を抱える腕に顔を埋めてポツリと呟いた。
「子供じゃないから、かな」
「土井先生、答えになってませんよそれ。」
「大人には大人の事情があってだな…ううん、難しいなぁ」
利吉のツッコミに参ったな、と頭をかきながら言葉を探す。
大人だから、子供じゃないから。それが泣いてはいけない理由なのか。なんてくだらないんだろう。
「澪さん、怖がりで気が弱いじゃんか。大きい音とかにすぐびっくりするし、いつも不安そうな顔してるのに。それなのに俺たちの前では無理矢理笑ってる。俺、澪さんのあの顔嫌いなんだよ…」
「きり丸…」
「全然楽しそうじゃないのに、きっと泣きそうなのに、我慢してる。なんか良くわからないけど、胸の奥がぎゅうってなって、苦しくなるんだ」
初めて朝餉を一緒に食べたときも、職員室で改めてお礼を言われたときも、図書室に来たときも、髪飾りを見せてもらったときも。最初はあまりよくわからなかったのに、だんだん胸の奥が何かに締め付けられるような感じがしてなんて声をかけたらいいのかわからなくなった。
すごく遠くを見つめるような眼差しとか、何もかも全部飲み込んで口にしないようにきゅっと結ばれた唇とか、少し冷たい指先だとか、目につく彼女の全てが何だかやるせないような気持ちにさせて落ち着かない。
「きり丸。澪さんね、髪飾りを見せてくれたあの日、きり丸を抱えてすごく優しく笑ってたんだよ。ほっぺがほんのり赤くてね、目もとろんってしてて、すごくすごく幸せそうだったんだよ。」
しんべヱがニコニコと笑みを浮かべながらあの日の澪の様子を語った。そんなまさかと唇を尖らせて横目で見るが、乱太郎も同じような表情を浮かべて近寄ってくる。
「本当だよ、私も見たもん。ずぅっとあんな風に笑っててほしいなって思ったの。優しくて、溶けちゃいそうな笑顔!」
「乱太郎としんべヱばっかずるいぞ…」
「だってきりちゃんは特等席に座ってたんだからしょうがないでしょ?」
それはそうだけど、そうじゃない!
結局自分だけは澪さんの笑った顔を知らないから、仲間外れにされたみたいでちょっぴり悔しくなる。もだもだする感情を発散するように両隣に座った乱太郎としんべヱの肩を小突けば二人は可笑げに笑い声を上げた。
半助はきり丸の機嫌がほんの少し戻って安心したように息を吐く。そして三人の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「まだ不安なことだらけなんだよ。ここでの生活の何もかもが。」
「お前たちにならきっと、澪さんは心を開いてくれるさ。」
きり丸たちの純粋な目に半助は優しく微笑んだ。
「土井先生は?」
「私?」
「土井先生には心を開いてくれないんですか?」
乱太郎から投げかけられた問いに目をパチパチとさせる。何故子供はこうも確信を突くようなことをさらりと口にできるのだろうか。すうと息を吸って困ったように笑いながら目線を彷徨わせる。
私はこの子達のような純粋さを持ち合わせていない。利害だとか損得だとかそういうのを一切気にせず接することができる子供だからこそ、彼女はほんの少しでも緊張の糸を緩めることができるのだろう。純粋に子供が好きということももしかしたらあり得るのかもしれないが。
半助は食堂でほろりと緩んだ笑みを見せた澪を思い出す。今でもあの時彼女が小さな声で紡いだ言葉が胸の中に残っていた。心地の良いものだ。できるならばまた、日向の温さがほんのり残っている柔らかな真綿のような声を、言葉を聞きたい。けれど今はまだ、踏み込むにはいささか早いような気がして。
そうして答えあぐねていると乱太郎達が悲しそうな顔で迫ってくる。
「土井先生は澪さんのこと好きじゃないの?」
「澪さんと仲良くなりたくないんですか?」
「土井先生はあんな顔見て何とも思わないんですか?」
「待て待てお前達!そんな顔するんじゃない!」
「はは、土井先生は意外と薄情でおられる。」
「利吉くんまで!やめなさいったら…」
なぜか乱太郎達に便乗してからかってくる利吉は面白いものを見るような目つきでこちらを見つめている。大きなため息をついてガシガシと頭をかいた。
「…そりゃあ、私だって澪さんには安心してここで過ごしてほしいと思っているよ。」
「も〜勿体ぶらないでくださいよ。土井先生が澪さんのこと嫌いなんじゃないかってヒヤヒヤしちゃったじゃないっすか」
「それじゃあ土井先生も澪さんと一緒に遊びましょうよぉ」
「遊ぶって、しんべヱお前なぁ…」
しんべヱの無邪気な提案に思わず頭を抱える。彼女と遊んでいる自分の姿が微塵も想像できなくて乾いた笑いがこぼれた。彼らの気遣いは嬉しいが、そうじゃないだろうとツッコんでしまいそうで唇を緩く噛む。私じゃまだ怖がらせてしまう。だからゆっくりと時間をかけて、あと数歩分で良いから歩み寄れたらいい。
「私は大人だからね。」
瞼を閉じ頬を緩めてそう呟けばきり丸が顔を顰めて「またそれぇ?」と声を上げる。良いんだ、この子達はまだ分からずとも良い。子供らしく、そのまま純真でひたむきなままでいてくれと願いながら再度彼らの頭を撫でた。
柔らかな新緑が風に揺られて音を立てる。いつしか深緑に染まるであろうそれが、温かく降り注ぐ日差しに照らされていた。