ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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「澪さん、すみません。文次郎の奴鍛錬後だったからかやけに気が立っていて…」
「そんなっ、謝らないでください」
申し訳なさそうに頭を下げる留三郎を慌てて止める。
「潮江、さんは、何も間違っていませんから。どうか、このことで彼と不仲になるなんてことは…」
留三郎はその言葉にふいと顔を上げる。申し訳なさそうに引き攣った表情を浮かべる澪は未だに震えていた。握りしめた手も顔も血の気が引いたように真っ白で、ああ、また戻ってしまったと胸が痛む。
違う、貴女は怒っていい。何も間違ったことはしていないんだ。ただ、慣れない生活に必死に順応しようともがいているだけじゃないか。この10日間で荒れてしまった手も、皮膚が擦り切れて血が滲んでいる足も、ずっと見ていたならば気づかないはずがない。
「はやく…帰らなくちゃ、ですよね。私にとっても、この学園の方にとっても、それが一番、」
「でも、分からないのでしょう。」
留三郎の言葉に澪の瞳が揺らいだ。
俺たちは確かに彼女のことをまだ、知らない。けれど、彼女は自分自身が置かれた状況を嫌というほど理解しているのだろう。初めて会った日に見せた、絶望したかのような表情を今でも鮮明に思い出す。あの顔は、絶対に嘘なんかじゃなかった。
帰れるなら、とっくに帰ってる。それができないから今ここにいるんだ。そんなことも分からないほど俺もアイツらも、彼女も、子供じゃない。
「ねぇ、食満さん」
「…この学園の外でも、私は生きていけますか?」
澪はポツリと呟いた。ザアと風が吹いて彼女の髪がたなびき表情を覆い隠す。
その足で町におりるまで何日かかる?山賊や人攫いに出会ってしまったら?何の後ろ盾もなく金もない身一つの女がどう食い繋ぐ?
「…貴女一人では、到底、…」
言いかけた口を閉ざし目を伏せる。
押し黙ってしまった留三郎を見て澪は悲しそうに笑った。どこか悟ったような目をしていて、それが妙に心をざわつかせる。
「学園長先生は澪さんの身の安全を保証すると仰いました。それは、この学園の誰も覆すことはできない。だから、」
「貴女はここにいるべきだ。帰れる、その日まで。」
そうでないときっと貴女は生きられない。
何か言いたげに小さく開いた口は結局何の言葉を発することもなく閉ざされた。ジリジリと照りつける日差しはこのまま彼女を溶かして消してしまいそうで、それが怖くて目が離せなかった。空には雲一つ、なかった。
***
お願いできないなんて、言っている場合じゃない。自分から動かなくちゃ。なに思考停止しているの澪。
留三郎と別れた澪は忙しなく足を動かしていた。学園長がいるであろう庵に向かうその歩みは段々と大股に、走りへと変わってゆく。
まずは今までお世話になった分を返してから?違う。一刻も早くこの場所から立ち去らないといけないんだ。そうすることで、この学園の人々も元の生活を取り戻せる。あんな風に、言い争うことだってなくなる。
自分のせいで仲違いなんてしてほしくない。そんなのあってはならない。元々私がいなくてもこの学園は問題なく機能していた。手伝いなんてそもそも必要ないことなんて分かり切っていた。役に立つだなんて思い上がりも甚だしい。
涙が滲みそうになってぎゅっと目を瞑る。そして右足を踏み込んだその瞬間、不意に地面が崩落して落下感を感じる。
「きゃあ!?」
どさりと前のめりに手をつくも支えきれず倒れ込んだ。バクバクと速まる鼓動を抑えるように胸に片手を押し当てて身体を起こす。地面についた右手を動かすと僅かに痛んだ。
「落とし穴…」
上を見上げてみても、地面の淵は手を伸ばしても到底届きそうにない。少し湿った土の感触が気持ち悪いのに、何だかもう立ち上がる気力さえ湧かない。
なんて、惨めなんだろう。
喉の奥から何かが込み上げてくる。慌てて腕で目元をぎゅっと抑えて上を向く。
だめよ、絶対泣いちゃだめ。
「もう、大人でしょ。しっかりしてよ、澪」
潤んだ声で自分に言い聞かせる。何度も深呼吸をして空を睨んだ。決して涙を溢さぬよう、精一杯睨んだ。空がいつもよりも遠くて、だのにこんな穴の中にも日の光は目一杯届く。それが無性に悔しくて、ぼやけた視界を手で覆って俯いた。
「大丈夫ですか?」
どれくらい時間が経ったのだろうか。数秒にも数分にも、数十分にも感じたが、突然穴の上から声が降ってきて肩をびくつかせた。「だ、大丈夫です」と慌てて立ちあがろうとするも、それより早く声の主が穴の中に降り立った。驚いて顔を上げてしまったが、涙が滲んでいる顔を見られたくなくてサッと手で覆い顔を背ける。
「すみ、すみません。あの、私何とか、ひ、一人で上がるので、」
「貴女が澪さんですか?」
「え、あ…」
確認するように名前を呼ばれてチラリと目線を向ける。そういえばこの方、学園の生徒の服装じゃない。
「私は…って、穴の中で挨拶するのも何ですよね。少し、失礼します。」
「ひゃっ、」
するりと身体に腕を回されたかと思えば抱き上げられ、その浮遊感に身を硬くした。そして軽く地面を蹴り上げる振動に目を白黒させたがあっという間に先ほどまで立っていた地面に到達する。
「ちょうど近くを通りかかったときに声が聞こえたので良かったです。お怪我はありませんか?」
爽やかな笑顔を携える青年の顔が近くてブワッと汗が吹き出る。それにこの抱えられたままの体勢。心拍数が上がり口をパクパクさせているとその様子に気づいた彼が苦笑いを浮かべながらもそっと下ろしてくれた。数歩下がってパーソナルスペースを確保したところでようやく深く頭を下げる。
「すすすすみません…!あの、ご迷惑おかけ、してしまって、
わた、私、なんとお詫びしたらいいか」
「ハハッ、噂に違わぬお人だ。構いませんよ、そんなに緊張しないでください」
クツクツとひとしきり笑った彼は改めて山田利吉、山田伝蔵の息子だと名乗った。言われてみれば目元がちょっぴり似ている気がする。ほけっと聞いていたらいつの間にか距離を縮められていて彼の手が伸びてくる。咄嗟に目を瞑り肩をすくませた。
「目が、赤いです。泣いておられましたか?やはりどこか怪我を…」
利吉の指先がそっと目尻に触れる。
やだ、見られた
恥ずかしくて、カッと顔が熱くなり手で隠す。
「ちっちがいます、その、えと…目に、っ土が、ちょっと入っちゃって」
そう言って目を擦ろうとしたら「駄目ですよ」と手首を掴まれた。ツキンと痛みが走って一瞬瞼が震えたが、唇を喰んで平常を装う。
「目が傷付いたらいけない。よく見せてください。」
「う、ぁの、」
顔が、目が、近い。目尻に添えられた手から伝わる体温が変に生々しくて息が詰まる。顔面に血が上って、もうこのまま沸騰してしまうんじゃないかという寸前でパッと彼の手が離れた。
「すみません。女人の身体に無闇に触れるべきではありませんね。」
「いえそんな…」と消え入りそうな声で返事をする澪は真っ赤になった顔を隠すように俯いてジリジリと後退りながら逃げの体勢に入る。このまま脱兎の如く逃げ遂せたら万々歳だがそうは問屋が卸さない。方向転換をする前に「どちらへ行かれるのですか?」と問われ固まってしまう。ニコニコと愛想が良くとても親切な人だとは思う。がしかし、いかんせん距離感が非常に近い。人見知りの澪にとってはこの上なく厄介で手強い相手だった。
「が…学園長さまの、庵に…」
向かっています、と縮こまりながら声を絞り出す。
「ではお連れしますよ」
「えっ!?あの、そんな、」
「ここ一体は競合地域でそこかしこに罠が張られているので澪さんお一人では危険だと思いますが…」
利吉の言葉にハッと辺りを見渡し一気に血の気が引いた。
小松田さんが危ないから入っちゃダメって言っていたところだ…
周りを見ずに突っ走っているうちに危険地帯に足を踏み入れていたことにようやく気がつき鳥肌がたった。途端に自分が今立っている場所さえ危険な気がして情けなくも足が震える。
「大丈夫、安心してください。私がついていますので」
さあ、と手を差し出す利吉。澪はぎこちなくその手の指先に触れた。瞬間に怖気付いて引っ込めようとしたがパシッと捉えられた。びっくりして目を見開いたが思いの外強引さはなくて、逃げ出そうとすれば解けるくらいの力加減で握られている。地面をぼんやり見つめながら連れられるままに後ろを歩く。あんなところを見られたのが、学園の人じゃなくて良かったような、それでも不甲斐ないことには変わりなくて。
本当に何もできないな
一人で歩くことさえままならない。全部ぜーんぶ、おんぶに抱っこ。
もう、息をすることさえ迷惑なんじゃないか。自分に何の価値があるのか、皆目見当もつかない。
こんなんじゃ、ないのに。私はもっと、
もっと____
足を踏み出せずに、とうとう立ち止まる。引かれていた手はするりと解けて力無く落ちた。
「澪さん?」
俯いた顔をゆっくりと両手で覆う。手のひらに当たる息が震えていた。
帰りたい。私が本当にいるべき場所に、帰りたい。
どうしようもなく悲しくて苦しくて、気を抜いたら慟哭してしまいそうだから必死に喉の奥に押し込んだ。
「あー!利吉さんが澪さん泣かせてる!」
「利吉くん、君…」
「えぇ!?」
利吉は慌てふためきながら声の方に顔を向けた。「いけないんだー!」と眉を寄せるきり丸と何事かとこちらを見つめる半助が駆け足で近づいてくる。
「一体何したんですか利吉さん」
「そんな目で見るな!何もしていない…はずだ、多分!」
きり丸は利吉と澪の間に入りジトッとした目で見つめてくる。両手をあげて焦りながら弁明するが、思い当たる節が全くない訳でもなくてパッとしない返答になりきり丸はますます訝しげな表情になる。利吉は当てにならないと悟ったのか今度は澪に向き合い何をされたのかと問いただす。澪は慌ててぐしぐしと顔を拭い何とか声を発する。
「ごめんなさ、ほん、ほんとに何でもないの」
無理矢理口角をあげて笑って見せる澪に半助は眉を下げた。澪は腰を落としてきり丸の両手を握り、何ともないよとあやすようにその手をゆらゆらと揺らしている。
“何があったんだいと”利吉に矢羽音を飛ばせば瞬時に返答が飛んでくる。利吉の焦りっぷりに少し苦笑を溢してしまったが、まあ利吉のせいではないのだろう。ただ距離感を見誤ったことはいただけないなとちょっぴり釘を刺せば申し訳なさそうに肩をすくめた。
そうして半助は再び澪に視線を戻す。
彼女が子供を見つめる、優しく細められた瞳が半助は好きだ。まだ澪は忍術学園に来て日が浅く話した回数なんて片手の指で収まる程度しかないけれど。この学園の教職員である松千代万並みに恥ずかしがり屋で緊張しいだが、下級生に対してはいくらか気が緩むのか柔く温かい雰囲気が漏れる。きっとその目が自分に向けられることはないのだろうけど、側から見ることができるだけでも心が安らいだ。彼女の強張った肩からほんの少しでも力が抜けていて、ああ良かったと思えるのだ。
今こうしてきり丸を見つめる目も確かに優しいのに、心が落ち着かない。何かを堪えるような声音が、少し赤くなった目元が、引き攣った笑みがそうさせるのか。何があったんですか、どうしてそんな顔をしているんですか、なんて聞いたって絶対に彼女は答えてはくれないのだろう。
信用はされていても、信頼はされていないのだ。それがどうにも悲しく、もどかしい。
「澪さんってさあ…いっつもそんな顔ばっかしてる」
きり丸がため息を吐きながら澪の両頬をぺた、と挟み込む。澪は目をパチパチさせるがきり丸はお構いなく頬をむにむにとこねくり回した。半助はきり丸の突飛な行動にギョッとして一歩足を踏み出した。
「そんな悲しそうな顔で笑わないでよ。俺、澪さんのその顔なんか嫌だ。」
「きり丸くん…」
「泣きたいなら泣けばいいじゃんか。」
子供って恐ろしいな、と半助は思った。簡単には踏み込めない、踏み込んではいけないところにいとも容易く踏み込んでしまう。自分には到底真似できない。触れることだって躊躇ってしまうのに。冷や冷やしながら澪の顔を盗み見ると、目を丸くして固まっていた。そしてきり丸の手に自分の手を重ねて、へらりと困ったように笑った。
彼女はどこまでも強がりで、でも弱さを完全には隠しきれない不器用なひとだった。
「駄目よ」
「だって私、大人だもの」
「そんなっ、謝らないでください」
申し訳なさそうに頭を下げる留三郎を慌てて止める。
「潮江、さんは、何も間違っていませんから。どうか、このことで彼と不仲になるなんてことは…」
留三郎はその言葉にふいと顔を上げる。申し訳なさそうに引き攣った表情を浮かべる澪は未だに震えていた。握りしめた手も顔も血の気が引いたように真っ白で、ああ、また戻ってしまったと胸が痛む。
違う、貴女は怒っていい。何も間違ったことはしていないんだ。ただ、慣れない生活に必死に順応しようともがいているだけじゃないか。この10日間で荒れてしまった手も、皮膚が擦り切れて血が滲んでいる足も、ずっと見ていたならば気づかないはずがない。
「はやく…帰らなくちゃ、ですよね。私にとっても、この学園の方にとっても、それが一番、」
「でも、分からないのでしょう。」
留三郎の言葉に澪の瞳が揺らいだ。
俺たちは確かに彼女のことをまだ、知らない。けれど、彼女は自分自身が置かれた状況を嫌というほど理解しているのだろう。初めて会った日に見せた、絶望したかのような表情を今でも鮮明に思い出す。あの顔は、絶対に嘘なんかじゃなかった。
帰れるなら、とっくに帰ってる。それができないから今ここにいるんだ。そんなことも分からないほど俺もアイツらも、彼女も、子供じゃない。
「ねぇ、食満さん」
「…この学園の外でも、私は生きていけますか?」
澪はポツリと呟いた。ザアと風が吹いて彼女の髪がたなびき表情を覆い隠す。
その足で町におりるまで何日かかる?山賊や人攫いに出会ってしまったら?何の後ろ盾もなく金もない身一つの女がどう食い繋ぐ?
「…貴女一人では、到底、…」
言いかけた口を閉ざし目を伏せる。
押し黙ってしまった留三郎を見て澪は悲しそうに笑った。どこか悟ったような目をしていて、それが妙に心をざわつかせる。
「学園長先生は澪さんの身の安全を保証すると仰いました。それは、この学園の誰も覆すことはできない。だから、」
「貴女はここにいるべきだ。帰れる、その日まで。」
そうでないときっと貴女は生きられない。
何か言いたげに小さく開いた口は結局何の言葉を発することもなく閉ざされた。ジリジリと照りつける日差しはこのまま彼女を溶かして消してしまいそうで、それが怖くて目が離せなかった。空には雲一つ、なかった。
***
お願いできないなんて、言っている場合じゃない。自分から動かなくちゃ。なに思考停止しているの澪。
留三郎と別れた澪は忙しなく足を動かしていた。学園長がいるであろう庵に向かうその歩みは段々と大股に、走りへと変わってゆく。
まずは今までお世話になった分を返してから?違う。一刻も早くこの場所から立ち去らないといけないんだ。そうすることで、この学園の人々も元の生活を取り戻せる。あんな風に、言い争うことだってなくなる。
自分のせいで仲違いなんてしてほしくない。そんなのあってはならない。元々私がいなくてもこの学園は問題なく機能していた。手伝いなんてそもそも必要ないことなんて分かり切っていた。役に立つだなんて思い上がりも甚だしい。
涙が滲みそうになってぎゅっと目を瞑る。そして右足を踏み込んだその瞬間、不意に地面が崩落して落下感を感じる。
「きゃあ!?」
どさりと前のめりに手をつくも支えきれず倒れ込んだ。バクバクと速まる鼓動を抑えるように胸に片手を押し当てて身体を起こす。地面についた右手を動かすと僅かに痛んだ。
「落とし穴…」
上を見上げてみても、地面の淵は手を伸ばしても到底届きそうにない。少し湿った土の感触が気持ち悪いのに、何だかもう立ち上がる気力さえ湧かない。
なんて、惨めなんだろう。
喉の奥から何かが込み上げてくる。慌てて腕で目元をぎゅっと抑えて上を向く。
だめよ、絶対泣いちゃだめ。
「もう、大人でしょ。しっかりしてよ、澪」
潤んだ声で自分に言い聞かせる。何度も深呼吸をして空を睨んだ。決して涙を溢さぬよう、精一杯睨んだ。空がいつもよりも遠くて、だのにこんな穴の中にも日の光は目一杯届く。それが無性に悔しくて、ぼやけた視界を手で覆って俯いた。
「大丈夫ですか?」
どれくらい時間が経ったのだろうか。数秒にも数分にも、数十分にも感じたが、突然穴の上から声が降ってきて肩をびくつかせた。「だ、大丈夫です」と慌てて立ちあがろうとするも、それより早く声の主が穴の中に降り立った。驚いて顔を上げてしまったが、涙が滲んでいる顔を見られたくなくてサッと手で覆い顔を背ける。
「すみ、すみません。あの、私何とか、ひ、一人で上がるので、」
「貴女が澪さんですか?」
「え、あ…」
確認するように名前を呼ばれてチラリと目線を向ける。そういえばこの方、学園の生徒の服装じゃない。
「私は…って、穴の中で挨拶するのも何ですよね。少し、失礼します。」
「ひゃっ、」
するりと身体に腕を回されたかと思えば抱き上げられ、その浮遊感に身を硬くした。そして軽く地面を蹴り上げる振動に目を白黒させたがあっという間に先ほどまで立っていた地面に到達する。
「ちょうど近くを通りかかったときに声が聞こえたので良かったです。お怪我はありませんか?」
爽やかな笑顔を携える青年の顔が近くてブワッと汗が吹き出る。それにこの抱えられたままの体勢。心拍数が上がり口をパクパクさせているとその様子に気づいた彼が苦笑いを浮かべながらもそっと下ろしてくれた。数歩下がってパーソナルスペースを確保したところでようやく深く頭を下げる。
「すすすすみません…!あの、ご迷惑おかけ、してしまって、
わた、私、なんとお詫びしたらいいか」
「ハハッ、噂に違わぬお人だ。構いませんよ、そんなに緊張しないでください」
クツクツとひとしきり笑った彼は改めて山田利吉、山田伝蔵の息子だと名乗った。言われてみれば目元がちょっぴり似ている気がする。ほけっと聞いていたらいつの間にか距離を縮められていて彼の手が伸びてくる。咄嗟に目を瞑り肩をすくませた。
「目が、赤いです。泣いておられましたか?やはりどこか怪我を…」
利吉の指先がそっと目尻に触れる。
やだ、見られた
恥ずかしくて、カッと顔が熱くなり手で隠す。
「ちっちがいます、その、えと…目に、っ土が、ちょっと入っちゃって」
そう言って目を擦ろうとしたら「駄目ですよ」と手首を掴まれた。ツキンと痛みが走って一瞬瞼が震えたが、唇を喰んで平常を装う。
「目が傷付いたらいけない。よく見せてください。」
「う、ぁの、」
顔が、目が、近い。目尻に添えられた手から伝わる体温が変に生々しくて息が詰まる。顔面に血が上って、もうこのまま沸騰してしまうんじゃないかという寸前でパッと彼の手が離れた。
「すみません。女人の身体に無闇に触れるべきではありませんね。」
「いえそんな…」と消え入りそうな声で返事をする澪は真っ赤になった顔を隠すように俯いてジリジリと後退りながら逃げの体勢に入る。このまま脱兎の如く逃げ遂せたら万々歳だがそうは問屋が卸さない。方向転換をする前に「どちらへ行かれるのですか?」と問われ固まってしまう。ニコニコと愛想が良くとても親切な人だとは思う。がしかし、いかんせん距離感が非常に近い。人見知りの澪にとってはこの上なく厄介で手強い相手だった。
「が…学園長さまの、庵に…」
向かっています、と縮こまりながら声を絞り出す。
「ではお連れしますよ」
「えっ!?あの、そんな、」
「ここ一体は競合地域でそこかしこに罠が張られているので澪さんお一人では危険だと思いますが…」
利吉の言葉にハッと辺りを見渡し一気に血の気が引いた。
小松田さんが危ないから入っちゃダメって言っていたところだ…
周りを見ずに突っ走っているうちに危険地帯に足を踏み入れていたことにようやく気がつき鳥肌がたった。途端に自分が今立っている場所さえ危険な気がして情けなくも足が震える。
「大丈夫、安心してください。私がついていますので」
さあ、と手を差し出す利吉。澪はぎこちなくその手の指先に触れた。瞬間に怖気付いて引っ込めようとしたがパシッと捉えられた。びっくりして目を見開いたが思いの外強引さはなくて、逃げ出そうとすれば解けるくらいの力加減で握られている。地面をぼんやり見つめながら連れられるままに後ろを歩く。あんなところを見られたのが、学園の人じゃなくて良かったような、それでも不甲斐ないことには変わりなくて。
本当に何もできないな
一人で歩くことさえままならない。全部ぜーんぶ、おんぶに抱っこ。
もう、息をすることさえ迷惑なんじゃないか。自分に何の価値があるのか、皆目見当もつかない。
こんなんじゃ、ないのに。私はもっと、
もっと____
足を踏み出せずに、とうとう立ち止まる。引かれていた手はするりと解けて力無く落ちた。
「澪さん?」
俯いた顔をゆっくりと両手で覆う。手のひらに当たる息が震えていた。
帰りたい。私が本当にいるべき場所に、帰りたい。
どうしようもなく悲しくて苦しくて、気を抜いたら慟哭してしまいそうだから必死に喉の奥に押し込んだ。
「あー!利吉さんが澪さん泣かせてる!」
「利吉くん、君…」
「えぇ!?」
利吉は慌てふためきながら声の方に顔を向けた。「いけないんだー!」と眉を寄せるきり丸と何事かとこちらを見つめる半助が駆け足で近づいてくる。
「一体何したんですか利吉さん」
「そんな目で見るな!何もしていない…はずだ、多分!」
きり丸は利吉と澪の間に入りジトッとした目で見つめてくる。両手をあげて焦りながら弁明するが、思い当たる節が全くない訳でもなくてパッとしない返答になりきり丸はますます訝しげな表情になる。利吉は当てにならないと悟ったのか今度は澪に向き合い何をされたのかと問いただす。澪は慌ててぐしぐしと顔を拭い何とか声を発する。
「ごめんなさ、ほん、ほんとに何でもないの」
無理矢理口角をあげて笑って見せる澪に半助は眉を下げた。澪は腰を落としてきり丸の両手を握り、何ともないよとあやすようにその手をゆらゆらと揺らしている。
“何があったんだいと”利吉に矢羽音を飛ばせば瞬時に返答が飛んでくる。利吉の焦りっぷりに少し苦笑を溢してしまったが、まあ利吉のせいではないのだろう。ただ距離感を見誤ったことはいただけないなとちょっぴり釘を刺せば申し訳なさそうに肩をすくめた。
そうして半助は再び澪に視線を戻す。
彼女が子供を見つめる、優しく細められた瞳が半助は好きだ。まだ澪は忍術学園に来て日が浅く話した回数なんて片手の指で収まる程度しかないけれど。この学園の教職員である松千代万並みに恥ずかしがり屋で緊張しいだが、下級生に対してはいくらか気が緩むのか柔く温かい雰囲気が漏れる。きっとその目が自分に向けられることはないのだろうけど、側から見ることができるだけでも心が安らいだ。彼女の強張った肩からほんの少しでも力が抜けていて、ああ良かったと思えるのだ。
今こうしてきり丸を見つめる目も確かに優しいのに、心が落ち着かない。何かを堪えるような声音が、少し赤くなった目元が、引き攣った笑みがそうさせるのか。何があったんですか、どうしてそんな顔をしているんですか、なんて聞いたって絶対に彼女は答えてはくれないのだろう。
信用はされていても、信頼はされていないのだ。それがどうにも悲しく、もどかしい。
「澪さんってさあ…いっつもそんな顔ばっかしてる」
きり丸がため息を吐きながら澪の両頬をぺた、と挟み込む。澪は目をパチパチさせるがきり丸はお構いなく頬をむにむにとこねくり回した。半助はきり丸の突飛な行動にギョッとして一歩足を踏み出した。
「そんな悲しそうな顔で笑わないでよ。俺、澪さんのその顔なんか嫌だ。」
「きり丸くん…」
「泣きたいなら泣けばいいじゃんか。」
子供って恐ろしいな、と半助は思った。簡単には踏み込めない、踏み込んではいけないところにいとも容易く踏み込んでしまう。自分には到底真似できない。触れることだって躊躇ってしまうのに。冷や冷やしながら澪の顔を盗み見ると、目を丸くして固まっていた。そしてきり丸の手に自分の手を重ねて、へらりと困ったように笑った。
彼女はどこまでも強がりで、でも弱さを完全には隠しきれない不器用なひとだった。
「駄目よ」
「だって私、大人だもの」