ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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この場所に来て、10日が経った。
朝、目を開けて真っ先に飛び込んでくる天井や部屋の風景は昨日と全く変わらず毎朝重苦しいため息を吐き1日が幕をあける。一つ変わったことといえば、ちゃんと布団で眠るようになったこと。体調を崩してただ無意味な時間を過ごすことだけはどうしても避けたかった。しかし寝たからといって事態が好転するわけでもなく、落ちたら一貫の終わりの綱渡りをしているかのような精神状態をただただキープしていた。
どうしたらいいの?
常にその言葉が頭の中をぐるぐると回っている。奥歯を噛み締めて片手で顔を覆う。
まずはこの学園でお世話になっている分の恩返し。
それから、それから……
“帰り方を探す”
「ハァ…」
眉間に皺を寄せてぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜる。
何をどう探せばいいの?何一つ手がかりなんてないのに。ああもう、スマホが欲しい…
“タイムスリップ 帰り方”と検索したら何か有効な手段が表示されるのかな、なんて馬鹿げたことを考えてしまう。
ただ、もう一度だけでいいからあの草原に行きたい。何か、ほんの少しでいいから希望が欲しい。ぽすりと布団に倒れ込む。
「でも…お願いなんてできるわけないよ……」
澪のしおらしい声はくぐもり、誰にも聞かれることなく布団の中の綿に吸収されていった。
***
…どうしよう、声をかけるべきか否か。
「ハァ…」
憂鬱な朝から数時間が経った昼下がり、澪は気まずそうに食堂の机を拭いていた。何が気まずいって、それは澪の背後でのそのそとご飯を食べながらため息を幾度となく吐く生徒がいるから。井桁模様の着物を纏う彼は団蔵くん。以前一年は組の質問攻めに合って以来特にお話をすることもなくすれ違えば挨拶をする程度の関係だ。
「ハァ…」
あらら…またため息…何か悩んでるのかな。わかるよ、ため息吐いちゃうその気持ち。何に悩んでいるのかは分からないけど、勝手に出てきちゃうよね…!
心の中で変に団蔵に共感してしまい机を拭く手に力が入った。聞かなかったことにはできないし、と悩みながらも顔を上げる。そしてようやく澪はそろそろと団蔵の側へ歩み寄った。彼が座る椅子の横で膝に手をつき身を屈める。
「…団蔵くん?」
「あ、澪さん…」
小さな声で名前を呼ぶと団蔵は少し驚いたように顔を上げた。以前見た時よりもどこか暗い表情で元気がない。その様子になんだか心が痛くなった澪は少しばかり硬い笑みを浮かべながら「何か、あった?」と尋ねた。
「実は…僕会計委員なんですけど最近仕事が忙しくて。たくさん算盤を弾いて帳簿を付けなきゃいけないのに、計算も遅いし字を書くのも下手くそだから全然仕事が終わらないんです…」
「そっか…大変なんですね。目の下も少し隈が出来ちゃってる。もしかして夜もあまり眠れていないんですか?」
「放課後もやっているけど終わらなくて…焦ると計算も間違えるし字もミミズみたいになっちゃうから他の会計委員よりも時間をかけないといけないんです」
「もっとも、会計委員会委員長の潮江先輩なんて僕よりももっと仕事をしていて何日も徹夜しているのに、僕がこれくらいで根を上げちゃいけないのはわかっているんですけど…ハァ…」
夜眠れない辛さはよくわかる。やらなければいけないことがあるから頑張ってしまうその気持ちもわかる。でも、まだ団蔵くんはこんなにも小さいのに。
「すごく、大変だったんですね。団蔵くんはたくさん頑張っています。」
「そんな、僕なんて全然…」
「他の人と比べる必要なんてないよ。卑下する必要も全くない。団蔵くんは、必死に頑張った自分をしっかり褒めてあげて。」
澪は団蔵の小さな手を取って包み込んだ。団蔵はきゅっと唇を噛み締めて澪をじっと見つめる。ゆっくりと頷けば彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「一人で頑張ると疲れちゃうよね。だからね、…もし、私でよければ、団蔵くんの力になりたいなって、」
緊張しているような表情を浮かべて「ダメかな?」と首を傾げる澪。団蔵は目をシパシパと瞬かせて顔を輝かせた。
「いいんですか?」
「もちろん。私お姉さんだもん、頼ってくれたらすごく嬉しいな」
「ありがとうございます澪さん!」
ニコニコと子供らしい無邪気な笑顔を見せた団蔵に安堵する。よし、と心の中で気合いを入れているうちに団蔵はご飯をかき込んであっという間に平らげた。
「おばちゃん、ごちそうさまでした!」
「はあい、お粗末さまでした。」
そうして団蔵と澪は食堂のおばちゃんの声を背にパタパタと駆け出したのだった。
*
所変わって、澪は団蔵の部屋で帳簿と睨めっこをしていた。
致命的な欠陥に気づいてしまった。
「私…草書読めないんだった…」
ガックリと項垂れる。あまりの落ち込みっぷりに思わず団蔵は苦笑いで背中を撫でて励ましてくれる。頼ってほしいなんて豪語した自分を叩いてやりたい。とにかくこれ以上情けない姿を見せたくなくて思考することコンマ5秒。
「そうだ、団蔵くんは数字を読み上げてくれますか?そうしたら私が計算して教えるので、団蔵くんはゆっくり落ち着いて帳簿を付けることができる…かな?」
「出来ます!すっごく楽になります!!」
「ほ、ほんと?よかった…よし、じゃあ、一緒に頑張ろう」
小さく拳をかかげて笑えば団蔵も「おー!」と声をあげて同じように拳をかかげてくれた。気合いを入れて座り直すと団蔵は「これをどうぞ」と重厚感のある音を立ててあるものを澪の前に置いた。
「こ、これは…」
「会計委員会名物の10キロ算盤です!」
「10きろ」
ポカンと口を開けながら恐る恐るそれに触れる。金属でできているそろばんなんて初めて見た。手に持ってみようとするも正座したままでは持ち上がらずなんだか冷や汗が出てきた。
「団蔵くんは、いつもこれを使っているの…?」
「はい!他の会計委員もみんな使っています。」
「はぇ…すごいねぇ…」
腱鞘炎になりそうだな、と思わず眉を顰めてしまったが軽く頭を振って気を取り直す。
「お気遣いありがとうございます。でも、ごめんなさい。私算盤は使えないの」
「え?それじゃあどうやって計算するんですか?」
「暗算じゃ、ダメかな?計算力はそれなりに自信があるから間違うことはないと思うんだけど…」
団蔵は目をまんまるにして驚く。そして澪の様子をチラチラ気にしながら帳簿の数字を読み上げた。
御破算で願いましては__
では、と目で合図されて結果を述べる。一応最初の確認ということで団蔵に算盤を弾いてもらったらしっかり一致していてホッと胸を撫で下ろした。「澪さんすごい!!」とはしゃぎながら褒める団蔵にちょっぴり気分が良くなって照れくさそうに頬をぽりぽりかく。
「それじゃあ改めて気を取り直して、やっていこっか」
「はい!お願いします!」
こうして二人は二人三脚で帳簿の記帳を進め、数刻が過ぎた。
*
「…よし、終わった〜!!」
団蔵が筆を置いてグッと体を伸ばす。テンポ良く進めることができて予定よりも早く帳簿を付け終わり、団蔵は嬉しそうで何よりだ。
こういう頭の使い方はなんだか久しぶりな感じ。最近は正解があるのかないのかもわからない問いに悶々と頭を悩ませていたからちょっと頭がスッキリした。
キャッキャと喜ぶ団蔵は澪の手を取りニコニコと笑顔を浮かべながら何度も礼を述べる。
「澪さん本当にすごいです!澪さんのおかげでこんなにもあっという間に帳簿を付け終わりました!」
「団蔵くんがたくさん頑張ったからですよ。私はちょっとのお手伝いしかしていないもの」
団蔵は「えへへ…」と頬を染めて照れたように笑う。そしてアッと声をあげて澪の手を引き立ち上がった。
「潮江先輩のところに持っていかなくちゃ!澪さん、一緒にいきましょう!」
「えっ、あの、私はっ…!」
断る間もなく駆け出した団蔵にグイグイと引っ張られる。
どうしよう。お手伝いができたらそれで良かったのに。他の人に会うなんて心の準備も無しにどうしたら、と鼓動が速くなる。先ほどまでの朗らかな表情とは一変して澪はどんどん表情が硬くなっていった。
「あっ!潮江せんぱーい!」
しばらく校庭を駆け回った団蔵は件の人物を見つけて大きな声をあげる。ようやく団蔵が立ち止まると、澪は乱れる息を整えようと胸に手を当てる。
「お、澪さん」
俯きがちにそうしていると、声をかけられてチラリと目線を上げた。文次郎の横には留三郎がいて視線が合うと軽く手をあげ笑いかけてくれた。視線を横にずらせばどこか険しい表情でこちらを見据える文次郎と目が合い慌てて頭を下げる。
ああ、多分この目は、私のことをよく思っていない目だ。
なんとなく、自分の直感がそう告げた。今までもいろんな人に様々な視線を向けられてきた。その中でも彼はとりわけその目から嫌悪感が滲み出ているような気がしたのだ。冷水を浴びせられたような感覚に陥り、頭を上げられないでいたが団蔵はこちらに気づいていないのかするりと手を離して文次郎の元へ駆け寄った。物淋しくなった手を自分で握りしめてゴクリと喉を鳴らす。
はやく、はやく終わって。
文次郎が団蔵を褒める声音は優しくて、団蔵の様子からしてもきっと彼はいい先輩なんだろう。でも澪にとっては違う。露骨に向けられた敵意に自分でもびっくりするほど動揺していた。不意に「澪さんが手伝ってくれたおかげなんです」と団蔵が言うものだから思わず顔を上げた。一瞬だけ目が合うもすぐさま逸らして肩をすくめる。手の中が汗でじっとりして気持ち悪い。ぎゅっと目を瞑ってしばらくの間堪えていると、団蔵が「それじゃあ失礼します」と文次郎に向かってお辞儀をしこちらへ向かってくるのでどっと息を吐き出した。団蔵と共にその場を去ろうとしたとき、
「ちょっと待て」
文次郎が声を上げた。
呼吸が止まる。
「あぁ、団蔵はいいんだ。その人と少し話したくてな。お前はもう行ってもいいぞ。」
団蔵はキョトンとするもわかりましたと返事をして走り去って行く。あっという間に遠ざかって行く小さな背中を呆然と見つめていた。
振り向きたくない。このまま私も逃げ出したい。そんな願いは聞き届けられる筈もなく、背中に突き刺さる鋭い視線にひたすら耐えることしかできなかった。
「オイお前」
団蔵にかけた声とはまるで違う、低く冷たい声。身体の震えを止めたくて力を込めても強張るばかりだ。ゆっくり振り返って文次郎と対峙する。
「…お前は一体何者なんだ」
「挨拶もなしになんだよ。澪さんが怖がってんだろ」
「黙っとれ!俺はコイツと話がしたいんだ」
留三郎が間に入ってくるも彼の肩を押し退けて文次郎は澪の前に立ちはだかった。顔に影が落ち、目の前には深緑色が目一杯に広がっている。
「俺は留三郎や伊作のように甘くないぞ。お前、一体何を企んでいる?」
「こうやって恩を売ってどうする気だ!」
団蔵が手渡した帳簿をバシンと叩く。澪はビクリと肩を震わせて目を瞑った。
恩を売るなんてそんなつもりはなかった。ただ、お世話になっている分、迷惑をかけた分を返したかっただけで。
そう伝えたいのに震える喉と唇からは言葉が上手く出てこない。そうしてモダモダしていると一層威圧感が強まり、呼吸すら苦しくなってきた。
「やめろ文次郎」
グイッと肩を引かれ、たたらを踏みながらも後ずさる。震える肩に回された腕は留三郎のものだった。
「何か言ったらどうだ!ああ!?」
「だからやめろって!そんな風に脅しちゃ言えるもんも言えねえだろうが!」
「そうやって留三郎や伊作や、他の忍たまをたらしこんで何がしたいんだ!!」
「文次郎!!」
どんどん声を荒げていって、留三郎の呼びかけを最後にその場はシンと静まり返った。
たらし込んでなんか、ただ、帰りたい一心で報いてただけで。
「…たし、そん、な、つもりじゃ…」
蚊の鳴くような声で囁く。澪の顔面は真っ青で視線は地面の方を向いていた。それが面白くないのか文次郎はさらに顔を顰める。
「人には人の事情ってもんがあんだろうが。」
「ハッ、帰れないだのなんだの言っていたが記憶がないわけでもあるまい。ならばさっさと学園から去ってどこへなりとも帰ればいい!」
「頼れる人がいねぇからこうして学園で保護してるんだ。何か不服があるなら学園長先生に直接申せばいいだろ!」
「お前の不満をそうやってぶつけるんじゃねえ。お門違いも甚だしい」と吐き捨てる留三郎に文次郎は青筋を立てる。
何か言わなくちゃいけないのに声が出ない。庇ってくれる留三郎には申し訳なさでいっぱいになる。そして攻め立てる文次郎は決して間違ったことは言っていない。今の私の生活は、善意の上に成り立っている。勝手に彼らの生活に介入してきたのは私で、それをよく思わないはずがない。
一刻も早くここを立ち去るべきなんだ。
「申し訳、ありません…」
たった一言すら言い出すのがやっとで、精一杯頭を下げる。喉はカラカラで、全身から汗が吹き出していて、ただ聴覚だけはひどく冴え渡っていた。どんな言い分も聞き逃しちゃいけない。疑念も不満も全部全部飲み込んで、それでも私は、帰れるまでここにおいてもらわなければならない。
留三郎が謝る必要なんてない、学園長先生も了承しているとフォローしてくれるがそれでも頭を上げることはできなかった。
「文次郎、お前ずっと澪さんのこと見てたんだろ。
見ていて、それか?」
留三郎が静かに問いかける。お前は、そう言う奴じゃないだろうと言いたげな目でじっと文次郎を睨んだ。
すると文次郎は眉間を押さえて大きなため息を吐く。
「…なぜこうも親身になる?なぜそう尽くす?俺にはそいつの行動の真意が、分からんのだ。」
「あのなぁ…学園長先生がそうおっしゃったんだ。忍術学園で保護する代わりに少しばかり力を貸してくれと!それでも理解できないのか!?」
「気色が悪いんだよ!!」
「その厚意の裏には何かあるんじゃないかと思えて仕方がないんだ!」
「なっ…!お前、いい加減に」
留三郎が一歩踏み出そうとしたところを澪が袖口を掴んで引き止める。俯いていて表情は見えないが、袖を握る手はぶるぶると震えていた。
「弁えます」
「ちゃんと、弁えますから、
あと少しだけ…ここにいることを、どうか許してください。」
掠れ切った声は惨めったらしくて、でもそう頼み込むしか澪に道はない。
文次郎はグッと両手を握りしめた。
なぜこの女は反論しない?言いたいことがあるなら言えばいい。何も企んでない、何も怪しいことなどないと、そう断言して欲しかったのだ。そうすればこの場は全て収まるのに。納得できたのに。
学園長先生がこの女を保護する意図は、未だこの学園の誰一人として理解してはいないのだろう。きっと何か並々ならぬ事情があるのだろうが、どれだけ観察しても臆病でビビリでまるで世間を知らないちっぽけな人間にしか見えなかった。それでも必死に仕事をこなし、下級生には甘く、優しく接する姿がやけに鮮烈で。
わかっている。俺だって留三郎のように悪い人ではないと信じたい。今まで善人を騙る悪人など五万と見てきたから区別など簡単につく。だからこそ、信用し切るためには最後に、女の口からキッパリと言って欲しかった。
ただ、それだけだったのだ。
弁える?なぜそうなる。ちゃんと否定しろ。間違ったことはしていないと、断言しろ!でないと俺はこの先もずっとお前の一挙手一投足を疑ってかからねばいけなくなるじゃないか!
それなのに、どれだけ待てども女は顔を上げることなく一言も発さない。
文次郎はどこまでも不器用だった。ここで態度を軟化させることも何もできず、自分にも、女にも腹が立って仕方がなかった。
「…もういい。勝手にしろ」
思いとは裏腹に、言葉を吐き捨てる。
文次郎はこの地獄のような雰囲気から一刻も早く抜け出したくて、足早にその場を去ったのだった。
朝、目を開けて真っ先に飛び込んでくる天井や部屋の風景は昨日と全く変わらず毎朝重苦しいため息を吐き1日が幕をあける。一つ変わったことといえば、ちゃんと布団で眠るようになったこと。体調を崩してただ無意味な時間を過ごすことだけはどうしても避けたかった。しかし寝たからといって事態が好転するわけでもなく、落ちたら一貫の終わりの綱渡りをしているかのような精神状態をただただキープしていた。
どうしたらいいの?
常にその言葉が頭の中をぐるぐると回っている。奥歯を噛み締めて片手で顔を覆う。
まずはこの学園でお世話になっている分の恩返し。
それから、それから……
“帰り方を探す”
「ハァ…」
眉間に皺を寄せてぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜる。
何をどう探せばいいの?何一つ手がかりなんてないのに。ああもう、スマホが欲しい…
“タイムスリップ 帰り方”と検索したら何か有効な手段が表示されるのかな、なんて馬鹿げたことを考えてしまう。
ただ、もう一度だけでいいからあの草原に行きたい。何か、ほんの少しでいいから希望が欲しい。ぽすりと布団に倒れ込む。
「でも…お願いなんてできるわけないよ……」
澪のしおらしい声はくぐもり、誰にも聞かれることなく布団の中の綿に吸収されていった。
***
…どうしよう、声をかけるべきか否か。
「ハァ…」
憂鬱な朝から数時間が経った昼下がり、澪は気まずそうに食堂の机を拭いていた。何が気まずいって、それは澪の背後でのそのそとご飯を食べながらため息を幾度となく吐く生徒がいるから。井桁模様の着物を纏う彼は団蔵くん。以前一年は組の質問攻めに合って以来特にお話をすることもなくすれ違えば挨拶をする程度の関係だ。
「ハァ…」
あらら…またため息…何か悩んでるのかな。わかるよ、ため息吐いちゃうその気持ち。何に悩んでいるのかは分からないけど、勝手に出てきちゃうよね…!
心の中で変に団蔵に共感してしまい机を拭く手に力が入った。聞かなかったことにはできないし、と悩みながらも顔を上げる。そしてようやく澪はそろそろと団蔵の側へ歩み寄った。彼が座る椅子の横で膝に手をつき身を屈める。
「…団蔵くん?」
「あ、澪さん…」
小さな声で名前を呼ぶと団蔵は少し驚いたように顔を上げた。以前見た時よりもどこか暗い表情で元気がない。その様子になんだか心が痛くなった澪は少しばかり硬い笑みを浮かべながら「何か、あった?」と尋ねた。
「実は…僕会計委員なんですけど最近仕事が忙しくて。たくさん算盤を弾いて帳簿を付けなきゃいけないのに、計算も遅いし字を書くのも下手くそだから全然仕事が終わらないんです…」
「そっか…大変なんですね。目の下も少し隈が出来ちゃってる。もしかして夜もあまり眠れていないんですか?」
「放課後もやっているけど終わらなくて…焦ると計算も間違えるし字もミミズみたいになっちゃうから他の会計委員よりも時間をかけないといけないんです」
「もっとも、会計委員会委員長の潮江先輩なんて僕よりももっと仕事をしていて何日も徹夜しているのに、僕がこれくらいで根を上げちゃいけないのはわかっているんですけど…ハァ…」
夜眠れない辛さはよくわかる。やらなければいけないことがあるから頑張ってしまうその気持ちもわかる。でも、まだ団蔵くんはこんなにも小さいのに。
「すごく、大変だったんですね。団蔵くんはたくさん頑張っています。」
「そんな、僕なんて全然…」
「他の人と比べる必要なんてないよ。卑下する必要も全くない。団蔵くんは、必死に頑張った自分をしっかり褒めてあげて。」
澪は団蔵の小さな手を取って包み込んだ。団蔵はきゅっと唇を噛み締めて澪をじっと見つめる。ゆっくりと頷けば彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「一人で頑張ると疲れちゃうよね。だからね、…もし、私でよければ、団蔵くんの力になりたいなって、」
緊張しているような表情を浮かべて「ダメかな?」と首を傾げる澪。団蔵は目をシパシパと瞬かせて顔を輝かせた。
「いいんですか?」
「もちろん。私お姉さんだもん、頼ってくれたらすごく嬉しいな」
「ありがとうございます澪さん!」
ニコニコと子供らしい無邪気な笑顔を見せた団蔵に安堵する。よし、と心の中で気合いを入れているうちに団蔵はご飯をかき込んであっという間に平らげた。
「おばちゃん、ごちそうさまでした!」
「はあい、お粗末さまでした。」
そうして団蔵と澪は食堂のおばちゃんの声を背にパタパタと駆け出したのだった。
*
所変わって、澪は団蔵の部屋で帳簿と睨めっこをしていた。
致命的な欠陥に気づいてしまった。
「私…草書読めないんだった…」
ガックリと項垂れる。あまりの落ち込みっぷりに思わず団蔵は苦笑いで背中を撫でて励ましてくれる。頼ってほしいなんて豪語した自分を叩いてやりたい。とにかくこれ以上情けない姿を見せたくなくて思考することコンマ5秒。
「そうだ、団蔵くんは数字を読み上げてくれますか?そうしたら私が計算して教えるので、団蔵くんはゆっくり落ち着いて帳簿を付けることができる…かな?」
「出来ます!すっごく楽になります!!」
「ほ、ほんと?よかった…よし、じゃあ、一緒に頑張ろう」
小さく拳をかかげて笑えば団蔵も「おー!」と声をあげて同じように拳をかかげてくれた。気合いを入れて座り直すと団蔵は「これをどうぞ」と重厚感のある音を立ててあるものを澪の前に置いた。
「こ、これは…」
「会計委員会名物の10キロ算盤です!」
「10きろ」
ポカンと口を開けながら恐る恐るそれに触れる。金属でできているそろばんなんて初めて見た。手に持ってみようとするも正座したままでは持ち上がらずなんだか冷や汗が出てきた。
「団蔵くんは、いつもこれを使っているの…?」
「はい!他の会計委員もみんな使っています。」
「はぇ…すごいねぇ…」
腱鞘炎になりそうだな、と思わず眉を顰めてしまったが軽く頭を振って気を取り直す。
「お気遣いありがとうございます。でも、ごめんなさい。私算盤は使えないの」
「え?それじゃあどうやって計算するんですか?」
「暗算じゃ、ダメかな?計算力はそれなりに自信があるから間違うことはないと思うんだけど…」
団蔵は目をまんまるにして驚く。そして澪の様子をチラチラ気にしながら帳簿の数字を読み上げた。
御破算で願いましては__
では、と目で合図されて結果を述べる。一応最初の確認ということで団蔵に算盤を弾いてもらったらしっかり一致していてホッと胸を撫で下ろした。「澪さんすごい!!」とはしゃぎながら褒める団蔵にちょっぴり気分が良くなって照れくさそうに頬をぽりぽりかく。
「それじゃあ改めて気を取り直して、やっていこっか」
「はい!お願いします!」
こうして二人は二人三脚で帳簿の記帳を進め、数刻が過ぎた。
*
「…よし、終わった〜!!」
団蔵が筆を置いてグッと体を伸ばす。テンポ良く進めることができて予定よりも早く帳簿を付け終わり、団蔵は嬉しそうで何よりだ。
こういう頭の使い方はなんだか久しぶりな感じ。最近は正解があるのかないのかもわからない問いに悶々と頭を悩ませていたからちょっと頭がスッキリした。
キャッキャと喜ぶ団蔵は澪の手を取りニコニコと笑顔を浮かべながら何度も礼を述べる。
「澪さん本当にすごいです!澪さんのおかげでこんなにもあっという間に帳簿を付け終わりました!」
「団蔵くんがたくさん頑張ったからですよ。私はちょっとのお手伝いしかしていないもの」
団蔵は「えへへ…」と頬を染めて照れたように笑う。そしてアッと声をあげて澪の手を引き立ち上がった。
「潮江先輩のところに持っていかなくちゃ!澪さん、一緒にいきましょう!」
「えっ、あの、私はっ…!」
断る間もなく駆け出した団蔵にグイグイと引っ張られる。
どうしよう。お手伝いができたらそれで良かったのに。他の人に会うなんて心の準備も無しにどうしたら、と鼓動が速くなる。先ほどまでの朗らかな表情とは一変して澪はどんどん表情が硬くなっていった。
「あっ!潮江せんぱーい!」
しばらく校庭を駆け回った団蔵は件の人物を見つけて大きな声をあげる。ようやく団蔵が立ち止まると、澪は乱れる息を整えようと胸に手を当てる。
「お、澪さん」
俯きがちにそうしていると、声をかけられてチラリと目線を上げた。文次郎の横には留三郎がいて視線が合うと軽く手をあげ笑いかけてくれた。視線を横にずらせばどこか険しい表情でこちらを見据える文次郎と目が合い慌てて頭を下げる。
ああ、多分この目は、私のことをよく思っていない目だ。
なんとなく、自分の直感がそう告げた。今までもいろんな人に様々な視線を向けられてきた。その中でも彼はとりわけその目から嫌悪感が滲み出ているような気がしたのだ。冷水を浴びせられたような感覚に陥り、頭を上げられないでいたが団蔵はこちらに気づいていないのかするりと手を離して文次郎の元へ駆け寄った。物淋しくなった手を自分で握りしめてゴクリと喉を鳴らす。
はやく、はやく終わって。
文次郎が団蔵を褒める声音は優しくて、団蔵の様子からしてもきっと彼はいい先輩なんだろう。でも澪にとっては違う。露骨に向けられた敵意に自分でもびっくりするほど動揺していた。不意に「澪さんが手伝ってくれたおかげなんです」と団蔵が言うものだから思わず顔を上げた。一瞬だけ目が合うもすぐさま逸らして肩をすくめる。手の中が汗でじっとりして気持ち悪い。ぎゅっと目を瞑ってしばらくの間堪えていると、団蔵が「それじゃあ失礼します」と文次郎に向かってお辞儀をしこちらへ向かってくるのでどっと息を吐き出した。団蔵と共にその場を去ろうとしたとき、
「ちょっと待て」
文次郎が声を上げた。
呼吸が止まる。
「あぁ、団蔵はいいんだ。その人と少し話したくてな。お前はもう行ってもいいぞ。」
団蔵はキョトンとするもわかりましたと返事をして走り去って行く。あっという間に遠ざかって行く小さな背中を呆然と見つめていた。
振り向きたくない。このまま私も逃げ出したい。そんな願いは聞き届けられる筈もなく、背中に突き刺さる鋭い視線にひたすら耐えることしかできなかった。
「オイお前」
団蔵にかけた声とはまるで違う、低く冷たい声。身体の震えを止めたくて力を込めても強張るばかりだ。ゆっくり振り返って文次郎と対峙する。
「…お前は一体何者なんだ」
「挨拶もなしになんだよ。澪さんが怖がってんだろ」
「黙っとれ!俺はコイツと話がしたいんだ」
留三郎が間に入ってくるも彼の肩を押し退けて文次郎は澪の前に立ちはだかった。顔に影が落ち、目の前には深緑色が目一杯に広がっている。
「俺は留三郎や伊作のように甘くないぞ。お前、一体何を企んでいる?」
「こうやって恩を売ってどうする気だ!」
団蔵が手渡した帳簿をバシンと叩く。澪はビクリと肩を震わせて目を瞑った。
恩を売るなんてそんなつもりはなかった。ただ、お世話になっている分、迷惑をかけた分を返したかっただけで。
そう伝えたいのに震える喉と唇からは言葉が上手く出てこない。そうしてモダモダしていると一層威圧感が強まり、呼吸すら苦しくなってきた。
「やめろ文次郎」
グイッと肩を引かれ、たたらを踏みながらも後ずさる。震える肩に回された腕は留三郎のものだった。
「何か言ったらどうだ!ああ!?」
「だからやめろって!そんな風に脅しちゃ言えるもんも言えねえだろうが!」
「そうやって留三郎や伊作や、他の忍たまをたらしこんで何がしたいんだ!!」
「文次郎!!」
どんどん声を荒げていって、留三郎の呼びかけを最後にその場はシンと静まり返った。
たらし込んでなんか、ただ、帰りたい一心で報いてただけで。
「…たし、そん、な、つもりじゃ…」
蚊の鳴くような声で囁く。澪の顔面は真っ青で視線は地面の方を向いていた。それが面白くないのか文次郎はさらに顔を顰める。
「人には人の事情ってもんがあんだろうが。」
「ハッ、帰れないだのなんだの言っていたが記憶がないわけでもあるまい。ならばさっさと学園から去ってどこへなりとも帰ればいい!」
「頼れる人がいねぇからこうして学園で保護してるんだ。何か不服があるなら学園長先生に直接申せばいいだろ!」
「お前の不満をそうやってぶつけるんじゃねえ。お門違いも甚だしい」と吐き捨てる留三郎に文次郎は青筋を立てる。
何か言わなくちゃいけないのに声が出ない。庇ってくれる留三郎には申し訳なさでいっぱいになる。そして攻め立てる文次郎は決して間違ったことは言っていない。今の私の生活は、善意の上に成り立っている。勝手に彼らの生活に介入してきたのは私で、それをよく思わないはずがない。
一刻も早くここを立ち去るべきなんだ。
「申し訳、ありません…」
たった一言すら言い出すのがやっとで、精一杯頭を下げる。喉はカラカラで、全身から汗が吹き出していて、ただ聴覚だけはひどく冴え渡っていた。どんな言い分も聞き逃しちゃいけない。疑念も不満も全部全部飲み込んで、それでも私は、帰れるまでここにおいてもらわなければならない。
留三郎が謝る必要なんてない、学園長先生も了承しているとフォローしてくれるがそれでも頭を上げることはできなかった。
「文次郎、お前ずっと澪さんのこと見てたんだろ。
見ていて、それか?」
留三郎が静かに問いかける。お前は、そう言う奴じゃないだろうと言いたげな目でじっと文次郎を睨んだ。
すると文次郎は眉間を押さえて大きなため息を吐く。
「…なぜこうも親身になる?なぜそう尽くす?俺にはそいつの行動の真意が、分からんのだ。」
「あのなぁ…学園長先生がそうおっしゃったんだ。忍術学園で保護する代わりに少しばかり力を貸してくれと!それでも理解できないのか!?」
「気色が悪いんだよ!!」
「その厚意の裏には何かあるんじゃないかと思えて仕方がないんだ!」
「なっ…!お前、いい加減に」
留三郎が一歩踏み出そうとしたところを澪が袖口を掴んで引き止める。俯いていて表情は見えないが、袖を握る手はぶるぶると震えていた。
「弁えます」
「ちゃんと、弁えますから、
あと少しだけ…ここにいることを、どうか許してください。」
掠れ切った声は惨めったらしくて、でもそう頼み込むしか澪に道はない。
文次郎はグッと両手を握りしめた。
なぜこの女は反論しない?言いたいことがあるなら言えばいい。何も企んでない、何も怪しいことなどないと、そう断言して欲しかったのだ。そうすればこの場は全て収まるのに。納得できたのに。
学園長先生がこの女を保護する意図は、未だこの学園の誰一人として理解してはいないのだろう。きっと何か並々ならぬ事情があるのだろうが、どれだけ観察しても臆病でビビリでまるで世間を知らないちっぽけな人間にしか見えなかった。それでも必死に仕事をこなし、下級生には甘く、優しく接する姿がやけに鮮烈で。
わかっている。俺だって留三郎のように悪い人ではないと信じたい。今まで善人を騙る悪人など五万と見てきたから区別など簡単につく。だからこそ、信用し切るためには最後に、女の口からキッパリと言って欲しかった。
ただ、それだけだったのだ。
弁える?なぜそうなる。ちゃんと否定しろ。間違ったことはしていないと、断言しろ!でないと俺はこの先もずっとお前の一挙手一投足を疑ってかからねばいけなくなるじゃないか!
それなのに、どれだけ待てども女は顔を上げることなく一言も発さない。
文次郎はどこまでも不器用だった。ここで態度を軟化させることも何もできず、自分にも、女にも腹が立って仕方がなかった。
「…もういい。勝手にしろ」
思いとは裏腹に、言葉を吐き捨てる。
文次郎はこの地獄のような雰囲気から一刻も早く抜け出したくて、足早にその場を去ったのだった。