ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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激しく地面を叩きつける雨音と鋭い雷鳴が聞こえて目が覚める。
薄暗い天井が目に飛び込んできて、引き攣った息を吐き出した。震える両手の甲で顔を覆う。
「目が覚めましたか」
不意に聞こえてきた声に意識が覚醒してハッと飛び起きる。ズキリと頭痛がして身を固め痛みに耐えていると肩に手を添えられた。
「まだ顔色が悪いです。今日は一日休まれてください。」
まさか私は一晩眠りこけていたの?
己の身体の呑気さに眩暈がする。
「ご迷惑おかけしてしまい、本当に申し訳ありません…もう、大丈夫なのでお仕事…」
「駄目ですよ。吉野先生も食堂のおばちゃんからも言づかっていますからどうか今は」
「ダメ、駄目なんです、私ちゃんと出来ます。」
「返さなくちゃ、全部返さなくちゃ、」
数馬の言葉を遮るように澪は小さく囁く。
ああ、まただ。握りしめた手も、俯いたままの顔も血の気が引いて身体は震えっぱなしなのにそれでも立ちあがろうとしている。数馬には伊作のような力があるわけでもないのに、グッと彼女の肩を押せば簡単に押し戻せた。
「…何を、返すというのですか」
雨風が吹きつけて障子がカタカタと音を立てている。
「恩を」
返さなくちゃいけないんです。
滝のように降り続いている雨の音にかき消されそうな弱々しい呟き。
伊作先輩たちに助けてもらったことだろうか、それとも忍術学園に保護してもらっていることだろうか。そんなに焦って、必死になることなんだろうか。そんな身体に鞭打ってまで今、やらなければならないことなのだろうか。
「もう、5日も経ったの。早く帰らないと…」
澪は神に祈るように両手を握りしめてぎゅっと目を瞑る。
キリがいい日数だとは思いませんか。5日目なんです。許してはくれませんか。こんなおかしな経験はもう、十分です。どうか、お願いだからどうか、私を元いた場所に帰してください。
この願いが聞き届けられないということは、きっとまだ神様が許してはいないということなのだろう。
なんで、どうして、という言葉は飲み込んで眉間の皺をキュッと深める。
そういえば。
竹取物語のかぐや姫は、罪を償うために地球に降りたったんだっけ。
昔古典の授業で習った物語を不意に思い出したが、同じ境遇だなんてほんの少しでも思うことさえ烏滸がましい気がしてすぐに頭の片隅に追いやった。
自分の犯した罪なんて、皆目見当もつかないけれど。でもきっと、たくさん働いて、この学園のひとたちに今までかけた迷惑に釣り合うくらいのものを返して。いっぱいいっっぱい良いことをして。
そうしたら、もしかしたら。
全てはわたしの行動次第。
きっとそう。
ううん、絶対に、そうなの。
暗示をかけるように心の中で何度も唱える。
そうと決まれば休んでなんかいられない。返さなければいけない恩 をこれ以上増やすわけにはいかない。だって、わたしは一刻も早く元の場所へ帰らなければならない。そうじゃないと、居場所がなくなってしまう。
「お願いだから、どうか…」
涙が溢れそうで、喉の奥が苦しくてどうしようもなかった。いるかもわからない神様に縋って、希望を捨てたくないばかりにバカみたいな自己暗示をかける。
ああもう、気が狂いそうだ。
握りしめた拳に爪を立てれば襲ってくる痛みが、どうしようもなく現実というものを突きつけてくるばかりだった。
*
数馬は痛ましい澪の声音にただ困惑していた。
数馬にはわからない。何が彼女をそこまで突き動かすのか。
帰りたいなら帰ったらいいじゃないか。そんな言葉を投げかけてしまいそうになるが、口をつぐんだ。多分、なんとなく、その言葉は絶対に口にしてはいけないと思った。
「…それでも」
「やっぱり、駄目です。
僕は保健委員だから。体調が悪い人を放ってはおけません。」
ポツリと呟いて、畳に視線を落とす。澪から返事は返ってこない。
保健室の中は静まり返り、荒れ狂う雨風や雷鳴の音がやけに大きく聞こえていた。
***
「ほ、本当にもう大丈夫なんです。すっごく元気。」
「……」
「三…か、数馬くん…」
数馬の物言いたげな目にダラダラと冷や汗が流れる。だが澪も今日という今日は譲れず負けじと数馬の目をじっと見つめた。
「結局昨日は日中ずっと起きていたじゃないですか。ちゃんと休んでって言ったのに。」
「あの、あの…!でも、しっかり横になってはいたので、今はこの通りすっかり」
「すっかり元気な人は朝起きてあんなに重々しいため息はつきません。」
「えぇ…それは、そのぅ…数馬くんの聞き間違い、…とか、」
何ですって?とあえて言葉にはしないがジトリ、と澪に視線を向けると肩を揺らしてあからさまに目を逸らされた。
澪さんって、嘘つくの下手くそだなあ。
眉にこめていた力を緩めて息を吐けば、ゆるりと頬が緩んだ。おそるおそる視線を向けてきた澪さんに「まったくもう…」と呆れ気味に笑いかけると、彼女は困ったように小さく笑って肩をすくめたのだった。
ひどく震えて、見えない何かに必死に縋るようにこうべを垂れていた面影は今はない。拳だって、今も握りしめてはいるものの昨日のように血の気が引いて真っ白になるほどではないようなので、ひっそりと安堵の息を吐いた。
昨日澪は結局医務室で1日を過ごした。数馬は授業時間以外医務室に常駐し甲斐甲斐しく澪に付き添っていた。澪にいくら休んでくださいと言い聞かせても不安げに視線を彷徨わせるばかりだったのでいつしか二人はポツポツと会話をするようになった。
澪の学園内での噂について話せばきゅっと顔をすぼめて色の白かった頬がほんのり赤らみ、学園内外で度々起こる保健委員会の不運な出来事を語れば心配そうにパチパチと瞬きをする。癖が強い同級生の話は興味深そうに耳を傾けてくれて、目元と口元が和らいでいた。ついつい喋りすぎてしまい薬草を仕分ける手が止まってしまったと我に返り、少し恥ずかしくなって慌てて作業を再開した。
「とっても素敵なお友達ですね。一緒にいると笑顔が絶えなさそう」
澪の呟きに思わず顔を上げると澪はゆるゆると微笑んでいた。それから彼女は自身の友人について少しだけ語ってくれた。「一緒にいると本当に楽しくて、あっという間に時間が過ぎちゃうんだ」と言う澪の声音はどこか物寂しげで、身体を捩って向こうを向いてしまったから彼女の顔はよく見えなかった。
そういうわけで、二人はほんの少し距離を縮めることができ今に至るのだ。その甲斐あってか、患者という立場の澪に対して遠慮がなくなったのか結構強気な数馬に彼女は内心タジタジだった。
「数馬はすっかり澪さんと仲良くなったんだね」
二人のやりとりを側から見ていた伊作は小さな苦笑いを浮かべてそう呟く。自分もそれなりに澪と過ごしている時間は多いと自負していたが、数馬に対して多少なり心を許しているように見えたのがほんの少しだけ、悲しい気がする。「伊作先輩も仰ってください」と不満げな表情の数馬に話を振られて澪と目が合った。
「うん、確かにまだ本調子というわけじゃ無さそうですね」
「いえ、その…わたしほんとに元気で…」
「また喘息の発作が起こらないとも限らない」
ついには何も言えなくなり、彼女は俯いて布団を握りしめた。
「でもまあ…無理をしないと約束してくださるのならば」
許可しましょう、と言うや否や頭を上げた澪は唇をキュッと噛み締めて大きく頭を縦に振る。
「走ったりせず、激しい運動は控えて下さい」
「はい」
「少しでもキツくなったら必ず医務室に戻ってくること」
「はい」
「約束ですよ」
「はい」
澪にしては珍しく食い気味の返事に思わず笑みを浮かべた。
そうして息を吐いて胸を撫で下ろした彼女は「ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました。」と深々頭を下げて保健室を出ていった。障子が閉まるとパタパタと少し慌ただしい足音が遠ざかっていくのが聞こえて「走っちゃダメだって言ったのに…」と数馬は眉を八の字にして呟いた。
「伊作先輩は澪さんに甘いです」
「ううん、確かにそうかもしれないなあ。
…でも澪さん、このまま医務室に留めておくともっと酷くなりそうな気がしないかい?」
苦々しく笑う伊作が言わんとしていることが数馬にもなんとなく分かってしまい口をつぐむ。
「見守ってあげよう。暫くの間は。」
伊作が薬棚に手をかけながらぽそりと囁く。
どこかで蝉の鳴く声が聞こえた。地面を照りつける太陽がじわじわと空気を暖めていく。空はすっかり分厚い雲が過ぎ去り青々としていて、夏の到来を感じさせた。
***
「失礼します、事務室から書類をお届けに参りました…」
緊張した面持ちで恐る恐る声をかける。澪は半助と伝蔵の部屋を訪れていた。部屋から少しの話し声が漏れていたため薄く障子を開いてチラリと部屋の中を覗く。
「澪さん、入っていただいて構いませんよ」
「はっはい!しつれいいたします」
半助から声をかけられて驚き、慌てて返事をするとちょっぴり声が裏返った。前もそうだったなと恥ずかしくなって俯きがちに部屋の中に足を踏み入れる。
「澪さん!」
子供の声がして目線を上げると半助の前には乱太郎、きり丸、しんべヱが座っていた。乱太郎としんべヱは立ち上がると澪の目の前にやってきて心配そうに顔を覗き込む。「大丈夫ですか」と口々に気遣いの言葉をかけてくる彼らを見てスゥと息を吸い込み腰を落とした。
「この通り、すっかり元気です。」
「私昨日は医務室に行けなくて…でもずっと澪さんのことが心配だったんです。」
「心配かけてごめんなさい。でももう、大丈夫、です」
ほら、と右腕に力こぶを入れて小さく笑えば乱太郎の表情はパッと明るくなった。しんべヱが好奇心に満ちた目で澪の力こぶをちょんちょんと突き「澪さんの腕全然固くなーい!」と面白そうに笑うから思わず照れ笑いが漏れる。
「ほら、きり丸もすごく心配してたじゃないか。」
半助がきり丸の背中を押して澪の元へ歩み寄ってくる。「別にィ、そんなんじゃ、ないっすよ…」とゴニョゴニョ呟いているきり丸はおずおずと澪を見てすぐに視線を逸らした。
酷いところを見せてしまったな、と胃が絞られるような痛みをほんの少し感じた。
「きり丸くん、…一昨日は迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。」
「…別に迷惑とかじゃ、ないです。ただ…びっくりして、それで、俺、何もできなくて…」
「ずっと、無理させちゃってたのかなって…」
俺が引き止めなければ…と呟いて俯く。澪はきり丸がいじいじと指先を突き合わせる様子を見つめ、そうっときり丸に手を伸ばした。お互いの指先が触れ合った瞬間、きり丸がおっかなびっくり顔を上げた。
「そんなことないよ。きり丸くんのせいなんかじゃ、絶対にないです。
私、きり丸くんが手を握ってくれてすごく安心しました。」
「ホントに?」
「はい。とっても」
初めはきり丸の小指の先に遠慮がちに触れていただけだったが、ゆっくりと手のひらを添えて彼の手を握った。
その手つきが、ひどく優しいのだ。決して怖がらせまいというように、決して壊すまいというように、大切で尊い何かに触れるように。
きり丸はほんの一瞬、懐かしさに似た何かを感じた。じゅわりと温かいもので胃が満たされるような感覚がして、ほう、と息が漏れた。
そんなきり丸を見て半助はぐりぐりと頭を撫でた。きり丸の強張っていた雰囲気が徐々に和らいでいくのがわかる。そして視線を移せば澪は柔和な表情を浮かべていて、きり丸に向けるその柔い眼差しがやけに印象的だった。
「あっ、と…そうでした。これ、事務室からのお届けものです。」
じっと見つめていたせいか澪が半助の目線に気付き、本来の用事を思い出して抱えていた書類の束を差し出す。
「どうもありがとうございます。」
「すみません、お話の途中でお邪魔してしまって…」
「いえいえそんな。それよりもきり丸がこうして澪さんと話せてよかったです。昨日からずっと元気がなかったんでね」
「土井先生!余計なこと言わなくていいっすから!!」
キャンと吠えるきり丸にくすくす笑ってしまう。これ以上半助に余計なことを言われたくないのかきり丸は無理矢理話題を変える。
「そ、そうだ!俺澪さんのあの髪飾りもう一度見たいっす!」
「え?あ、あぁ髪飾り、」
「僕も見てみたい!きり丸が宝石みたいでとっても綺麗って言ってたから気になってたんだぁ」
どこか戸惑いながらも「いいですよ」と了承した澪の手を素早く握り部屋から連れ出すきり丸。
「それじゃ土井先生!俺たちはこれで失礼します!」
「あっオイお前たち!あまり澪さんを困らせるんじゃないぞ!」
「しっ失礼しました…!」と慌てて振り返りながら会釈する澪に既視感を覚える。
初めて顔を合わせたときも一年は組の良い子達に連れて行かれていたな…落ち着いて話ができたのは食堂での一回っきりだ。
ちょっと残念なような気がして息を吐く。
でもまあ、いいか。
子供たちを優しく見つめる澪の瞳を思い出して、胸がすく。
半助は小さく笑って資料の束を握り、ゆっくりと動き出した。
薄暗い天井が目に飛び込んできて、引き攣った息を吐き出した。震える両手の甲で顔を覆う。
「目が覚めましたか」
不意に聞こえてきた声に意識が覚醒してハッと飛び起きる。ズキリと頭痛がして身を固め痛みに耐えていると肩に手を添えられた。
「まだ顔色が悪いです。今日は一日休まれてください。」
まさか私は一晩眠りこけていたの?
己の身体の呑気さに眩暈がする。
「ご迷惑おかけしてしまい、本当に申し訳ありません…もう、大丈夫なのでお仕事…」
「駄目ですよ。吉野先生も食堂のおばちゃんからも言づかっていますからどうか今は」
「ダメ、駄目なんです、私ちゃんと出来ます。」
「返さなくちゃ、全部返さなくちゃ、」
数馬の言葉を遮るように澪は小さく囁く。
ああ、まただ。握りしめた手も、俯いたままの顔も血の気が引いて身体は震えっぱなしなのにそれでも立ちあがろうとしている。数馬には伊作のような力があるわけでもないのに、グッと彼女の肩を押せば簡単に押し戻せた。
「…何を、返すというのですか」
雨風が吹きつけて障子がカタカタと音を立てている。
「恩を」
返さなくちゃいけないんです。
滝のように降り続いている雨の音にかき消されそうな弱々しい呟き。
伊作先輩たちに助けてもらったことだろうか、それとも忍術学園に保護してもらっていることだろうか。そんなに焦って、必死になることなんだろうか。そんな身体に鞭打ってまで今、やらなければならないことなのだろうか。
「もう、5日も経ったの。早く帰らないと…」
澪は神に祈るように両手を握りしめてぎゅっと目を瞑る。
キリがいい日数だとは思いませんか。5日目なんです。許してはくれませんか。こんなおかしな経験はもう、十分です。どうか、お願いだからどうか、私を元いた場所に帰してください。
この願いが聞き届けられないということは、きっとまだ神様が許してはいないということなのだろう。
なんで、どうして、という言葉は飲み込んで眉間の皺をキュッと深める。
そういえば。
竹取物語のかぐや姫は、罪を償うために地球に降りたったんだっけ。
昔古典の授業で習った物語を不意に思い出したが、同じ境遇だなんてほんの少しでも思うことさえ烏滸がましい気がしてすぐに頭の片隅に追いやった。
自分の犯した罪なんて、皆目見当もつかないけれど。でもきっと、たくさん働いて、この学園のひとたちに今までかけた迷惑に釣り合うくらいのものを返して。いっぱいいっっぱい良いことをして。
そうしたら、もしかしたら。
全てはわたしの行動次第。
きっとそう。
ううん、絶対に、そうなの。
暗示をかけるように心の中で何度も唱える。
そうと決まれば休んでなんかいられない。返さなければいけない
「お願いだから、どうか…」
涙が溢れそうで、喉の奥が苦しくてどうしようもなかった。いるかもわからない神様に縋って、希望を捨てたくないばかりにバカみたいな自己暗示をかける。
ああもう、気が狂いそうだ。
握りしめた拳に爪を立てれば襲ってくる痛みが、どうしようもなく現実というものを突きつけてくるばかりだった。
*
数馬は痛ましい澪の声音にただ困惑していた。
数馬にはわからない。何が彼女をそこまで突き動かすのか。
帰りたいなら帰ったらいいじゃないか。そんな言葉を投げかけてしまいそうになるが、口をつぐんだ。多分、なんとなく、その言葉は絶対に口にしてはいけないと思った。
「…それでも」
「やっぱり、駄目です。
僕は保健委員だから。体調が悪い人を放ってはおけません。」
ポツリと呟いて、畳に視線を落とす。澪から返事は返ってこない。
保健室の中は静まり返り、荒れ狂う雨風や雷鳴の音がやけに大きく聞こえていた。
***
「ほ、本当にもう大丈夫なんです。すっごく元気。」
「……」
「三…か、数馬くん…」
数馬の物言いたげな目にダラダラと冷や汗が流れる。だが澪も今日という今日は譲れず負けじと数馬の目をじっと見つめた。
「結局昨日は日中ずっと起きていたじゃないですか。ちゃんと休んでって言ったのに。」
「あの、あの…!でも、しっかり横になってはいたので、今はこの通りすっかり」
「すっかり元気な人は朝起きてあんなに重々しいため息はつきません。」
「えぇ…それは、そのぅ…数馬くんの聞き間違い、…とか、」
何ですって?とあえて言葉にはしないがジトリ、と澪に視線を向けると肩を揺らしてあからさまに目を逸らされた。
澪さんって、嘘つくの下手くそだなあ。
眉にこめていた力を緩めて息を吐けば、ゆるりと頬が緩んだ。おそるおそる視線を向けてきた澪さんに「まったくもう…」と呆れ気味に笑いかけると、彼女は困ったように小さく笑って肩をすくめたのだった。
ひどく震えて、見えない何かに必死に縋るようにこうべを垂れていた面影は今はない。拳だって、今も握りしめてはいるものの昨日のように血の気が引いて真っ白になるほどではないようなので、ひっそりと安堵の息を吐いた。
昨日澪は結局医務室で1日を過ごした。数馬は授業時間以外医務室に常駐し甲斐甲斐しく澪に付き添っていた。澪にいくら休んでくださいと言い聞かせても不安げに視線を彷徨わせるばかりだったのでいつしか二人はポツポツと会話をするようになった。
澪の学園内での噂について話せばきゅっと顔をすぼめて色の白かった頬がほんのり赤らみ、学園内外で度々起こる保健委員会の不運な出来事を語れば心配そうにパチパチと瞬きをする。癖が強い同級生の話は興味深そうに耳を傾けてくれて、目元と口元が和らいでいた。ついつい喋りすぎてしまい薬草を仕分ける手が止まってしまったと我に返り、少し恥ずかしくなって慌てて作業を再開した。
「とっても素敵なお友達ですね。一緒にいると笑顔が絶えなさそう」
澪の呟きに思わず顔を上げると澪はゆるゆると微笑んでいた。それから彼女は自身の友人について少しだけ語ってくれた。「一緒にいると本当に楽しくて、あっという間に時間が過ぎちゃうんだ」と言う澪の声音はどこか物寂しげで、身体を捩って向こうを向いてしまったから彼女の顔はよく見えなかった。
そういうわけで、二人はほんの少し距離を縮めることができ今に至るのだ。その甲斐あってか、患者という立場の澪に対して遠慮がなくなったのか結構強気な数馬に彼女は内心タジタジだった。
「数馬はすっかり澪さんと仲良くなったんだね」
二人のやりとりを側から見ていた伊作は小さな苦笑いを浮かべてそう呟く。自分もそれなりに澪と過ごしている時間は多いと自負していたが、数馬に対して多少なり心を許しているように見えたのがほんの少しだけ、悲しい気がする。「伊作先輩も仰ってください」と不満げな表情の数馬に話を振られて澪と目が合った。
「うん、確かにまだ本調子というわけじゃ無さそうですね」
「いえ、その…わたしほんとに元気で…」
「また喘息の発作が起こらないとも限らない」
ついには何も言えなくなり、彼女は俯いて布団を握りしめた。
「でもまあ…無理をしないと約束してくださるのならば」
許可しましょう、と言うや否や頭を上げた澪は唇をキュッと噛み締めて大きく頭を縦に振る。
「走ったりせず、激しい運動は控えて下さい」
「はい」
「少しでもキツくなったら必ず医務室に戻ってくること」
「はい」
「約束ですよ」
「はい」
澪にしては珍しく食い気味の返事に思わず笑みを浮かべた。
そうして息を吐いて胸を撫で下ろした彼女は「ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました。」と深々頭を下げて保健室を出ていった。障子が閉まるとパタパタと少し慌ただしい足音が遠ざかっていくのが聞こえて「走っちゃダメだって言ったのに…」と数馬は眉を八の字にして呟いた。
「伊作先輩は澪さんに甘いです」
「ううん、確かにそうかもしれないなあ。
…でも澪さん、このまま医務室に留めておくともっと酷くなりそうな気がしないかい?」
苦々しく笑う伊作が言わんとしていることが数馬にもなんとなく分かってしまい口をつぐむ。
「見守ってあげよう。暫くの間は。」
伊作が薬棚に手をかけながらぽそりと囁く。
どこかで蝉の鳴く声が聞こえた。地面を照りつける太陽がじわじわと空気を暖めていく。空はすっかり分厚い雲が過ぎ去り青々としていて、夏の到来を感じさせた。
***
「失礼します、事務室から書類をお届けに参りました…」
緊張した面持ちで恐る恐る声をかける。澪は半助と伝蔵の部屋を訪れていた。部屋から少しの話し声が漏れていたため薄く障子を開いてチラリと部屋の中を覗く。
「澪さん、入っていただいて構いませんよ」
「はっはい!しつれいいたします」
半助から声をかけられて驚き、慌てて返事をするとちょっぴり声が裏返った。前もそうだったなと恥ずかしくなって俯きがちに部屋の中に足を踏み入れる。
「澪さん!」
子供の声がして目線を上げると半助の前には乱太郎、きり丸、しんべヱが座っていた。乱太郎としんべヱは立ち上がると澪の目の前にやってきて心配そうに顔を覗き込む。「大丈夫ですか」と口々に気遣いの言葉をかけてくる彼らを見てスゥと息を吸い込み腰を落とした。
「この通り、すっかり元気です。」
「私昨日は医務室に行けなくて…でもずっと澪さんのことが心配だったんです。」
「心配かけてごめんなさい。でももう、大丈夫、です」
ほら、と右腕に力こぶを入れて小さく笑えば乱太郎の表情はパッと明るくなった。しんべヱが好奇心に満ちた目で澪の力こぶをちょんちょんと突き「澪さんの腕全然固くなーい!」と面白そうに笑うから思わず照れ笑いが漏れる。
「ほら、きり丸もすごく心配してたじゃないか。」
半助がきり丸の背中を押して澪の元へ歩み寄ってくる。「別にィ、そんなんじゃ、ないっすよ…」とゴニョゴニョ呟いているきり丸はおずおずと澪を見てすぐに視線を逸らした。
酷いところを見せてしまったな、と胃が絞られるような痛みをほんの少し感じた。
「きり丸くん、…一昨日は迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。」
「…別に迷惑とかじゃ、ないです。ただ…びっくりして、それで、俺、何もできなくて…」
「ずっと、無理させちゃってたのかなって…」
俺が引き止めなければ…と呟いて俯く。澪はきり丸がいじいじと指先を突き合わせる様子を見つめ、そうっときり丸に手を伸ばした。お互いの指先が触れ合った瞬間、きり丸がおっかなびっくり顔を上げた。
「そんなことないよ。きり丸くんのせいなんかじゃ、絶対にないです。
私、きり丸くんが手を握ってくれてすごく安心しました。」
「ホントに?」
「はい。とっても」
初めはきり丸の小指の先に遠慮がちに触れていただけだったが、ゆっくりと手のひらを添えて彼の手を握った。
その手つきが、ひどく優しいのだ。決して怖がらせまいというように、決して壊すまいというように、大切で尊い何かに触れるように。
きり丸はほんの一瞬、懐かしさに似た何かを感じた。じゅわりと温かいもので胃が満たされるような感覚がして、ほう、と息が漏れた。
そんなきり丸を見て半助はぐりぐりと頭を撫でた。きり丸の強張っていた雰囲気が徐々に和らいでいくのがわかる。そして視線を移せば澪は柔和な表情を浮かべていて、きり丸に向けるその柔い眼差しがやけに印象的だった。
「あっ、と…そうでした。これ、事務室からのお届けものです。」
じっと見つめていたせいか澪が半助の目線に気付き、本来の用事を思い出して抱えていた書類の束を差し出す。
「どうもありがとうございます。」
「すみません、お話の途中でお邪魔してしまって…」
「いえいえそんな。それよりもきり丸がこうして澪さんと話せてよかったです。昨日からずっと元気がなかったんでね」
「土井先生!余計なこと言わなくていいっすから!!」
キャンと吠えるきり丸にくすくす笑ってしまう。これ以上半助に余計なことを言われたくないのかきり丸は無理矢理話題を変える。
「そ、そうだ!俺澪さんのあの髪飾りもう一度見たいっす!」
「え?あ、あぁ髪飾り、」
「僕も見てみたい!きり丸が宝石みたいでとっても綺麗って言ってたから気になってたんだぁ」
どこか戸惑いながらも「いいですよ」と了承した澪の手を素早く握り部屋から連れ出すきり丸。
「それじゃ土井先生!俺たちはこれで失礼します!」
「あっオイお前たち!あまり澪さんを困らせるんじゃないぞ!」
「しっ失礼しました…!」と慌てて振り返りながら会釈する澪に既視感を覚える。
初めて顔を合わせたときも一年は組の良い子達に連れて行かれていたな…落ち着いて話ができたのは食堂での一回っきりだ。
ちょっと残念なような気がして息を吐く。
でもまあ、いいか。
子供たちを優しく見つめる澪の瞳を思い出して、胸がすく。
半助は小さく笑って資料の束を握り、ゆっくりと動き出した。