春の湊

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とある大学生の女の子
ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
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激しく地面を叩きつける雨音と鋭い雷鳴が聞こえて目が覚める。
薄暗い天井が目に飛び込んできて、引き攣った息を吐き出した。震える両手の甲で顔を覆う。

「目が覚めましたか」

不意に聞こえてきた声に意識が覚醒してハッと飛び起きる。ズキリと頭痛がして身を固め痛みに耐えていると肩に手を添えられた。

「まだ顔色が悪いです。今日は一日休まれてください。」

まさか私は一晩眠りこけていたの?
己の身体の呑気さに眩暈がする。

「ご迷惑おかけしてしまい、本当に申し訳ありません…もう、大丈夫なのでお仕事…」
「駄目ですよ。吉野先生も食堂のおばちゃんからも言づかっていますからどうか今は」

「ダメ、駄目なんです、私ちゃんと出来ます。」

「返さなくちゃ、全部返さなくちゃ、」

数馬の言葉を遮るようには小さく囁く。
ああ、まただ。握りしめた手も、俯いたままの顔も血の気が引いて身体は震えっぱなしなのにそれでも立ちあがろうとしている。数馬には伊作のような力があるわけでもないのに、グッと彼女の肩を押せば簡単に押し戻せた。

「…何を、返すというのですか」

雨風が吹きつけて障子がカタカタと音を立てている。

「恩を」

返さなくちゃいけないんです。

滝のように降り続いている雨の音にかき消されそうな弱々しい呟き。

伊作先輩たちに助けてもらったことだろうか、それとも忍術学園に保護してもらっていることだろうか。そんなに焦って、必死になることなんだろうか。そんな身体に鞭打ってまで今、やらなければならないことなのだろうか。

「もう、5日も経ったの。早く帰らないと…」

は神に祈るように両手を握りしめてぎゅっと目を瞑る。

キリがいい日数だとは思いませんか。5日目なんです。もう許してはくれませんか。こんなおかしな経験はもう、もう十分です。
友達との約束を果たせていません。大学の授業もバイトも、私の生活が、そこにあります。5日も何の連絡もなしにいたらきっと心配をかけてしまうんです。
この願いが聞き届けられないということは、きっとまだ神様が許してはいないということなのだろう。
ならば返しましょう。全部、全部のご恩を返します。
きっと返し切ったら帰れるはずなんだ。たくさん働いて、良いことをして、今までかけた迷惑に釣り合うくらいのものを返せたらきっと。休んでなんかいられない。返さなければいけないものをこれ以上増やしたくない。

「お願いだから、どうか…」

涙が溢れそうで、喉の奥が苦しくてどうしようもなかった。

数馬は痛ましいの声音にただ困惑していた。
数馬にはわからない。何が彼女をそこまで突き動かすのか。
帰りたいなら帰ったらいいじゃないか。そんな言葉を投げかけてしまいそうになるが、口をつぐんだ。多分、なんとなく、その言葉は絶対に口にしてはいけないと思った。

「…それでも」

「やっぱり、駄目です。
僕は保健委員だから。体調が悪い人を放ってはおけません。」

ポツリと呟いて、畳に視線を落とす。から返事は返ってこない。
保健室の中は静まり返り、荒れ狂う雨風や雷鳴の音がやけに大きく聞こえていた。

***

「ほ、本当にもう大丈夫なんです。すっごく元気。」
「……」
「三…か、数馬くん…」

数馬の物言いたげな目にダラダラと冷や汗が流れる。だがも今日という今日は譲れず負けじと数馬の目をじっと見つめた。

「結局昨日は日中ずっと起きていたじゃないですか。ちゃんと休んでって言ったのに。」
「あの、あの…!でも、しっかり横になってはいたので、今はこの通りすっかり」
「すっかり元気な人は朝起きてあんなに重々しいため息はつきません。」
「えぇ…それは、そのぅ…聞き間違いだと、思います…」

昨日は結局医務室で1日を過ごした。数馬は授業時間以外医務室に常駐し甲斐甲斐しくに付き添っていた。にいくら休んでくださいと言い聞かせても眉を下げて視線を彷徨わせるばかりだったのでいつしか二人はポツポツと会話をするようになった。
の学園内での噂について話せばきゅっと顔をすぼめて色の白かった頬がほんのり赤らみ、学園内外で度々起こる保健委員会の不運な出来事を語れば心配そうにパチパチと瞬きをする。癖が強い同級生の話は興味深そうに耳を傾けてくれて、目元と口元が和らいでいた。ついつい喋りすぎてしまい薬草を仕分ける手が止まってしまったと我に返り、少し恥ずかしくなって慌てて作業を再開した。

「とっても素敵なお友達ですね。一緒にいると笑顔が絶えなさそう」

の呟きに思わず顔を上げるとはゆるゆると微笑んでいた。それから彼女は自身の友人について少しだけ語ってくれた。「一緒にいると本当に楽しくて、あっという間に時間が過ぎちゃうんだ」と言うの声音はどこか物寂しげで、身体を捩って向こうを向いてしまったから彼女の顔はよく見えなかった。

そういうわけで、二人はほんの少し距離を縮めることができ今に至るのだ。遠慮がなくなったのか結構強気な数馬には内心タジタジだった。

「数馬はすっかりさんと仲良くなったんだね」

二人のやりとりを側から見ていた伊作は小さな苦笑いを浮かべてそう呟く。自分もそれなりにと過ごしている時間は多いと自負していたが、数馬に対して多少なり心を許しているように見えたのがほんのちょっぴり悲しい気がする。「伊作先輩も仰ってください」と不満げな表情の数馬に話を振られてと目が合った。

「うん、確かにまだ本調子というわけじゃ無さそうですね」
「そんな…わたしほんとに元気で…」
「また喘息の発作が起こらないとも限らない」

がくりと肩を落として悲壮的な雰囲気を醸し出す

「でもまあ…無理をしないと約束してくださるのならば」

許可しましょう、と言えばパァ〜っと効果音が付きそうなくらい目を輝かせる。大きく頭を縦に振るに思わず笑みが溢れる。

「走ったりせず、激しい運動は控えて下さい」
「はい」
「少しでもキツくなったら必ず医務室に戻ってくること」
「はい」
「約束ですよ」
「はい」

コクコクと頷いたは息をついて胸を撫で下ろした。
そうして「ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました。」と深々頭を下げて保健室を出ていく彼女を伊作と数馬は見送る。障子が閉まるとパタパタと少し慌ただしい足音が遠ざかっていくのが聞こえて「走っちゃダメだって言ったのに…」と数馬は眉間に皺を寄せて呟いた。

「伊作先輩は甘いです」
「確かにそうかも…でもさん、このまま医務室に留めておく方が酷くなりそうな気がしないかい?」

苦々しく笑う伊作が言わんとしていることが数馬にも分かって口をつぐむ。

「見守ってあげよう。暫くの間は。」

伊作が薬棚に手をかけながらぽそりと囁く。
どこかで蝉の鳴く声が聞こえた。地面を照りつける太陽がじわじわと空気を暖めていく。空はすっかり分厚い雲が過ぎ去り青々としていて、夏の到来を感じさせた。

***

「失礼します、事務室から書類をお届けに参りました…」

緊張した面持ちで恐る恐る声をかける。は半助と伝蔵の部屋を訪れていた。部屋から少しの話し声が漏れていたため薄く障子を開いてチラリと部屋の中を覗く。

さん、入っていただいて構いませんよ」
「はっはい!しつれいいたします」

半助から声をかけられて驚き、慌てて返事をするとちょっぴり声が裏返った。前もそうだったなと恥ずかしくなって俯きがちに部屋の中に足を踏み入れる。

さん!」

子供の声がして目線を上げると半助の前には乱太郎、きり丸、しんべヱが座っていた。乱太郎としんべヱは立ち上がるとの目の前にやってきて心配そうに顔を覗き込む。「大丈夫ですか」と口々に気遣いの言葉をかけてくる彼らを見てスゥと息を吸い込み腰を落とした。

「この通り、すっかり元気です。」
「私昨日は医務室に行けなくて…でもずっとさんのことが心配だったんです。」
「心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫ですよ」

ほら、と右腕に力こぶを入れて小さく笑えば乱太郎は表情を緩めてホッと息をついた。しんべヱが好奇心に満ちた目での力こぶをちょんちょんと突き「さんの腕全然固くなーい!」と面白そうに笑うから思わず照れ笑いが漏れる。

「ほら、きり丸もすごく心配してたじゃないか。」

半助がきり丸の背中を押しての元へ歩み寄ってくる。「別にそんなんじゃないっすよ…」とゴニョゴニョ呟いているきり丸はおずおずとを見てすぐに視線を逸らした。
酷いところを見せてしまったな、と胃が絞られるような痛みを感じた。

「…きり丸くん、一昨日は迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい。」
「…別に迷惑とかじゃ、ないです。ただ…びっくりして、俺何もできなくて…」

「ずっと、無理させちゃってたのかなって…」

俺が引き止めなければ…と呟いて俯く。は小さく口を開いてそろりときり丸の指先に触れた。一瞬強張った彼の指先を緩く摩りながら握る。

「そんなことないよ。きり丸くんのせいなんかじゃ、絶対にないです。
私、きり丸くんが手を握ってくれてすごく安心しました。」
「ホントに?」
「はい。とっても」

そっか…ときり丸が安堵して肩の力を抜いたのを見て半助はぐりぐりと優しく頭を撫でた。やめて下さいと言っているような気がしたがそれでも撫でた。は柔和な表情を浮かべていて、その柔い眼差しがやけに印象的だった。

「あっ、と…そうでした。これ、事務室からのお届けものです。」

じっと見つめていたせいかが半助の目線に気付き、本来の用事を思い出して抱えていた書類の束を差し出す。

「どうもありがとうございます。」
「すみません、お話の途中でお邪魔してしまって…」
「いえいえそんな。それよりもきり丸がこうしてさんと話せてよかったです。昨日からずっと元気がなかったんでね」
「土井先生!余計なこと言わなくていいっすから!!」

キャンと吠えるきり丸にくすくす笑ってしまう。これ以上半助に余計なことを言われたくないのかきり丸は無理矢理話題を変える。

「そ、そうだ!俺さんのあの髪飾りもう一度見たいっす!」
「え?あ、あぁ髪飾り、」
「僕も見てみたい!きり丸が宝石みたいでとっても綺麗って言ってたから気になってたんだぁ」

どこか戸惑いながらも「いいですよ」と了承したの手を素早く握り部屋から連れ出すきり丸。

「それじゃ土井先生!俺たちはこれで失礼します!」
「あっオイお前たち!あまりさんを困らせるんじゃないぞ!」

「しっ失礼しました…!」と慌てて振り返りながら会釈するに既視感を覚える。
初めて顔を合わせたときも一年は組の良い子達に連れて行かれていたな…落ち着いて話ができたのは食堂での一回っきりだ。
ちょっと残念なような気がして息を吐く。

でもまあ、いいか。

子供たちを優しく見つめるの瞳を思い出して、胸がすく。
半助は小さく笑って資料の束を握り、ゆっくりと動き出した。

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