ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
春の湊
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天の川が見える満天の星空も、澄んだ海に沈んでゆく太陽も、風に揺られる広大な草原や花畑も、泣きたくなるくらい美しかった。
そこはまるで夢のようで。夢ならばいつまでも眺め、微睡んでいたくなるけれど。
どれだけ瞼を閉じて、開けても、変わることのないその風景は夢でないならばあまりにも恐ろしく、ただひとり茫然と立ち尽くすことしかできなくて__
***
昔から、空を眺めるのが好きだった。
寡黙な父に似て口下手で内気な私は、伝えたいことを思うように伝えることができなくてよく朗らかに笑う母に抱きついてはひくりと喉を震わせて泣いていた。大丈夫、大丈夫とおまじないを唱えて頭を優しく撫でる母は涙で濡れじんわりと熱い瞼に口付けてくれた。下を向くと涙が溢れてしまうから、泣きそうになったら空を見上げるのよ、と耳元で囁く母の声に釣られて何度空を見上げただろうか。
そんな小さい頃の記憶をぼんやりと頭に思い浮かべながら、何の障害物もないどこまでも広がる青空を見つめていた。一体どれだけの時間そうしていたのか。日差しのせいでチカチカとする目を右手で覆う。指の隙間から見えるのは鮮やかな緑と小さな花々で、地面に座り込んでいるのだとようやく気がついた。
段々と鈍っていた感覚が冴えてゆく。左手が草に撫でられほのかに地面の温もりを感じる。遠くで鳥が鳴き、木々の葉が擦れる音がする。
全身から血の気が引き、吐く息が震えた。
「どこ、ここ……」
目を覆っていた右手はゆっくりと下がり口元を塞ぐ。目を見開いて、恐々と辺りを見渡すが人工物が一つもない。ただただ豊かで美しい自然がそこには広がっており、それがどうしようもなく気味が悪い。
私はついさっき、神社にいたはず。コンクリートで舗装された道を通って、石畳の階段を登り、赤い鳥居を潜ってお社にお参りをした。
それなのに、そのお社がどこにもない。草花に覆われた地面、草原を取り囲む木々、遠くに見える山々は本当に見覚えのない何か。
「や、やだ…夢…?なん、なんで、」
よろよろと立ち上がり一歩、踏み締める。生あたたかい風が顔を撫でるように吹き、ただそれだけで驚いて足がもつれた。
「わっ…!?」
後ろによろめいて数歩、突然足場がなくなったような感覚に声が出て倒れ込む。足元を見ると右足につっかかっていた下駄が見当たらない。
裸足のまま投げ出された右足の、少し先。
はげた地面とゴツゴツした岩に目をやる。それからゆっくりと這うようにそちらへ近づくと、大きな岩の割れ目があった。ずっとずっと奥底まで続いているのか、その穴は真っ暗で何も見えない。
真っ暗な穴に心臓がバクバクと波打つ。きっと下駄はこの穴底に落ちてしまったのだ。もう訳がわからず涙が滲んでくる。裸足になってしまった右足を摩り、もう一度穴を覗き込んだ。
「どうしよう…」
わなわなと震える唇を噛み締めて呟く。堪らずぽとりとこぼれ落ちた一粒の涙はどこまでも深く、穴の奥へと落ちていった。
瞬間、穴の底から風か、それとも獣の雄叫びかもわからぬ音が響き渡り、空へ突き抜けるように烈風が吹く。悲鳴を上げながら両腕で顔を覆う。ほんの数秒のことだった。穴から吹き上げた強い風は止み、穴の底はしんと静まり返る。
気が動転するには十分すぎた。夢と呼ぶには恐ろしいほどに全てがリアルで、それでいてあまりにも現実味のないこの風景。情報の処理が追いつかず、吐く息がどんどん浅くなっていく。次第に視界が狭く暗くなっていく中、夢ならばどうか、どうか醒めてくれと一心に願うことしかできなかった。
***
「乱太郎〜!早くしろよ〜!」
「待ってよきりちゃん、そんなに慌てないでったら…」
きり丸はお宝お宝〜!と口ずさみながら上機嫌に山道を駆けて行く。その後を追うように一人の少年と青年が背負籠を背負って苦笑いできり丸の背中を追っていた。
「それにしてもきり丸が薬草収集を手伝ってくれるなんて珍しいね。」
「違うんです伊作先輩。きり丸は薬草採取のお手伝いというより…」
「お宝探しっすよ先輩!」
お宝?と首を傾げる伊作に乱太郎はことの経緯を語る。
どうやらきり丸と乱太郎は午後の授業を受けている際、偶然虹色の雲を見かけたらしい。雲は緩やかに流れ、そのうち虹もうっすらとかかったがあっという間に消えてしまったらしい。
「それは彩雲というものだね。吉兆のしるしで、とても縁起がいいとされているんだ。」
「そうなんですね!もしかして私たちがここまで不運なことなく来ることができたのはあの雲を見たおかげなんでしょうか」
不運委員長とも呼ばれる伊作先輩の不運すら跳ね除けるなんて!と興奮気味な乱太郎に何となくいいたたまれない気持ちになる伊作はモゴモゴと口角をあげる。しかしながら、いつもなら道を踏み外し転落したり、山の獣に追われたり、山賊に出くわしたりと本当についてないことが度々起こるのに今日は全くの無傷で済んでいる。
彩雲の幸福パワー、恐るべし。と心の中で自分は見てすらいない彩雲に対して合掌した。
「そんなわけで、きり丸は虹のふもとに埋まったお宝を探しに来たんです。ちょうどここら辺だったんですよ。」
「なるほど、それであの調子なのか」
目に銭を浮かべるきり丸の様子を見て再び苦笑を浮かべた伊作は薬草採取をする場所からあまり離れないようにと声をかける。
それからしばらくして少しひらけた草原に辿り着いた彼らは片や薬草採取、片やお宝探しを始めた。伊作と乱太郎はふんふんと歌を口ずさみながら背負籠に薬草を投げ入れていく。だいぶ吹く風が生ぬるくなってきたな、と季節の変わり目を感じて伊作は目を細めた。
しばらくして十分に薬草を採取できた二人は息をつき、辺りを見渡した。お宝探しをしている彼は一体どこまで行き、いつ帰ってくるのか。空は少しずつ朱に染まりつつある。
「そろそろ学園に帰りたいところだけど、きり丸は…」
「諦めきれずにまだお宝探しているのかもしれないですね。まったくきりちゃんったら」
呆れたようにため息をつく乱太郎はきり丸の名を呼びながら背負籠を担ぎなおした。二人が薬草を採取した草原を通り抜けた先、木々の間を縫うように進むと少し遠くにきり丸の背中が見える。おおい、と声をかけるときり丸は少し慌てたように振り向きこちらへ向かって走ってきた。
「乱太郎!伊作先輩!向こうに、女の人が倒れてて…」
きり丸が言い終わるやいなや伊作は駆け出し、乱太郎ときり丸もすぐにその後を追う。駆けつけた先には確かに一人の女が倒れていた。
伊作は女の肩を軽く揺すり声をかけたが反応はない。そっと顔に掛かった髪を払い顔色をうかがう。真っ白な顔にはほんのりと汗が滲んでいた。
死んでいるんじゃないかとビクビクしていたきり丸に大丈夫だと声をかける。するときり丸はホッと息をついて胸を撫で下ろした。
「伊作先輩、その方…」
「ああ、」
浅い息、頻脈、そして冷たい指先。ここで彼女が目覚めるのを待っていては日が暮れてしまう。
なぜ人里離れたこのような場所に一人倒れていたのか。どこかの城の間諜か。着物の上等さからすると戦から落ち延びたどこぞの姫君か。
害か無害か。敵かそうでないのか。
さまざまな可能性が脳裏を駆け巡るも、目の前の患者を見捨てていくなどという選択肢ははなからなく、女の膝裏と首元にゆっくりと手を差し込みそうして抱き上げた。
「事情はわからないけど、ひとまず学園に連れて行こう。顔色が悪いし、どこか悪いのかもしれない」
ぐったりと弛緩した身体は少し震えている。寒いのだろうか、と少し摩ってしっかりと抱え込んだ伊作は乱太郎ときり丸に声をかけた。
さあ学園へ戻ろう、と言いかけるも二人は地面をキョロキョロと見渡している。
「どうしたんだい?」
「その方、片方履き物がないんです。」
「どっかに落っことしたんかな?俺ここら辺見て回ってたけど下駄なんて落ちてなかったぜ」
下駄だなんて、身分の高い人なのかしらと呟く乱太郎にきり丸がきらりと目を光らせる。身分の高い人を助けたとなればそれ相応の報酬をもらうことができるのではないかと考えているのだろう。
とはいえいつまでも履き物を探している訳にもいかず、伊作は二人を連れて山を降りたのだった。
そこはまるで夢のようで。夢ならばいつまでも眺め、微睡んでいたくなるけれど。
どれだけ瞼を閉じて、開けても、変わることのないその風景は夢でないならばあまりにも恐ろしく、ただひとり茫然と立ち尽くすことしかできなくて__
***
昔から、空を眺めるのが好きだった。
寡黙な父に似て口下手で内気な私は、伝えたいことを思うように伝えることができなくてよく朗らかに笑う母に抱きついてはひくりと喉を震わせて泣いていた。大丈夫、大丈夫とおまじないを唱えて頭を優しく撫でる母は涙で濡れじんわりと熱い瞼に口付けてくれた。下を向くと涙が溢れてしまうから、泣きそうになったら空を見上げるのよ、と耳元で囁く母の声に釣られて何度空を見上げただろうか。
そんな小さい頃の記憶をぼんやりと頭に思い浮かべながら、何の障害物もないどこまでも広がる青空を見つめていた。一体どれだけの時間そうしていたのか。日差しのせいでチカチカとする目を右手で覆う。指の隙間から見えるのは鮮やかな緑と小さな花々で、地面に座り込んでいるのだとようやく気がついた。
段々と鈍っていた感覚が冴えてゆく。左手が草に撫でられほのかに地面の温もりを感じる。遠くで鳥が鳴き、木々の葉が擦れる音がする。
全身から血の気が引き、吐く息が震えた。
「どこ、ここ……」
目を覆っていた右手はゆっくりと下がり口元を塞ぐ。目を見開いて、恐々と辺りを見渡すが人工物が一つもない。ただただ豊かで美しい自然がそこには広がっており、それがどうしようもなく気味が悪い。
私はついさっき、神社にいたはず。コンクリートで舗装された道を通って、石畳の階段を登り、赤い鳥居を潜ってお社にお参りをした。
それなのに、そのお社がどこにもない。草花に覆われた地面、草原を取り囲む木々、遠くに見える山々は本当に見覚えのない何か。
「や、やだ…夢…?なん、なんで、」
よろよろと立ち上がり一歩、踏み締める。生あたたかい風が顔を撫でるように吹き、ただそれだけで驚いて足がもつれた。
「わっ…!?」
後ろによろめいて数歩、突然足場がなくなったような感覚に声が出て倒れ込む。足元を見ると右足につっかかっていた下駄が見当たらない。
裸足のまま投げ出された右足の、少し先。
はげた地面とゴツゴツした岩に目をやる。それからゆっくりと這うようにそちらへ近づくと、大きな岩の割れ目があった。ずっとずっと奥底まで続いているのか、その穴は真っ暗で何も見えない。
真っ暗な穴に心臓がバクバクと波打つ。きっと下駄はこの穴底に落ちてしまったのだ。もう訳がわからず涙が滲んでくる。裸足になってしまった右足を摩り、もう一度穴を覗き込んだ。
「どうしよう…」
わなわなと震える唇を噛み締めて呟く。堪らずぽとりとこぼれ落ちた一粒の涙はどこまでも深く、穴の奥へと落ちていった。
瞬間、穴の底から風か、それとも獣の雄叫びかもわからぬ音が響き渡り、空へ突き抜けるように烈風が吹く。悲鳴を上げながら両腕で顔を覆う。ほんの数秒のことだった。穴から吹き上げた強い風は止み、穴の底はしんと静まり返る。
気が動転するには十分すぎた。夢と呼ぶには恐ろしいほどに全てがリアルで、それでいてあまりにも現実味のないこの風景。情報の処理が追いつかず、吐く息がどんどん浅くなっていく。次第に視界が狭く暗くなっていく中、夢ならばどうか、どうか醒めてくれと一心に願うことしかできなかった。
***
「乱太郎〜!早くしろよ〜!」
「待ってよきりちゃん、そんなに慌てないでったら…」
きり丸はお宝お宝〜!と口ずさみながら上機嫌に山道を駆けて行く。その後を追うように一人の少年と青年が背負籠を背負って苦笑いできり丸の背中を追っていた。
「それにしてもきり丸が薬草収集を手伝ってくれるなんて珍しいね。」
「違うんです伊作先輩。きり丸は薬草採取のお手伝いというより…」
「お宝探しっすよ先輩!」
お宝?と首を傾げる伊作に乱太郎はことの経緯を語る。
どうやらきり丸と乱太郎は午後の授業を受けている際、偶然虹色の雲を見かけたらしい。雲は緩やかに流れ、そのうち虹もうっすらとかかったがあっという間に消えてしまったらしい。
「それは彩雲というものだね。吉兆のしるしで、とても縁起がいいとされているんだ。」
「そうなんですね!もしかして私たちがここまで不運なことなく来ることができたのはあの雲を見たおかげなんでしょうか」
不運委員長とも呼ばれる伊作先輩の不運すら跳ね除けるなんて!と興奮気味な乱太郎に何となくいいたたまれない気持ちになる伊作はモゴモゴと口角をあげる。しかしながら、いつもなら道を踏み外し転落したり、山の獣に追われたり、山賊に出くわしたりと本当についてないことが度々起こるのに今日は全くの無傷で済んでいる。
彩雲の幸福パワー、恐るべし。と心の中で自分は見てすらいない彩雲に対して合掌した。
「そんなわけで、きり丸は虹のふもとに埋まったお宝を探しに来たんです。ちょうどここら辺だったんですよ。」
「なるほど、それであの調子なのか」
目に銭を浮かべるきり丸の様子を見て再び苦笑を浮かべた伊作は薬草採取をする場所からあまり離れないようにと声をかける。
それからしばらくして少しひらけた草原に辿り着いた彼らは片や薬草採取、片やお宝探しを始めた。伊作と乱太郎はふんふんと歌を口ずさみながら背負籠に薬草を投げ入れていく。だいぶ吹く風が生ぬるくなってきたな、と季節の変わり目を感じて伊作は目を細めた。
しばらくして十分に薬草を採取できた二人は息をつき、辺りを見渡した。お宝探しをしている彼は一体どこまで行き、いつ帰ってくるのか。空は少しずつ朱に染まりつつある。
「そろそろ学園に帰りたいところだけど、きり丸は…」
「諦めきれずにまだお宝探しているのかもしれないですね。まったくきりちゃんったら」
呆れたようにため息をつく乱太郎はきり丸の名を呼びながら背負籠を担ぎなおした。二人が薬草を採取した草原を通り抜けた先、木々の間を縫うように進むと少し遠くにきり丸の背中が見える。おおい、と声をかけるときり丸は少し慌てたように振り向きこちらへ向かって走ってきた。
「乱太郎!伊作先輩!向こうに、女の人が倒れてて…」
きり丸が言い終わるやいなや伊作は駆け出し、乱太郎ときり丸もすぐにその後を追う。駆けつけた先には確かに一人の女が倒れていた。
伊作は女の肩を軽く揺すり声をかけたが反応はない。そっと顔に掛かった髪を払い顔色をうかがう。真っ白な顔にはほんのりと汗が滲んでいた。
死んでいるんじゃないかとビクビクしていたきり丸に大丈夫だと声をかける。するときり丸はホッと息をついて胸を撫で下ろした。
「伊作先輩、その方…」
「ああ、」
浅い息、頻脈、そして冷たい指先。ここで彼女が目覚めるのを待っていては日が暮れてしまう。
なぜ人里離れたこのような場所に一人倒れていたのか。どこかの城の間諜か。着物の上等さからすると戦から落ち延びたどこぞの姫君か。
害か無害か。敵かそうでないのか。
さまざまな可能性が脳裏を駆け巡るも、目の前の患者を見捨てていくなどという選択肢ははなからなく、女の膝裏と首元にゆっくりと手を差し込みそうして抱き上げた。
「事情はわからないけど、ひとまず学園に連れて行こう。顔色が悪いし、どこか悪いのかもしれない」
ぐったりと弛緩した身体は少し震えている。寒いのだろうか、と少し摩ってしっかりと抱え込んだ伊作は乱太郎ときり丸に声をかけた。
さあ学園へ戻ろう、と言いかけるも二人は地面をキョロキョロと見渡している。
「どうしたんだい?」
「その方、片方履き物がないんです。」
「どっかに落っことしたんかな?俺ここら辺見て回ってたけど下駄なんて落ちてなかったぜ」
下駄だなんて、身分の高い人なのかしらと呟く乱太郎にきり丸がきらりと目を光らせる。身分の高い人を助けたとなればそれ相応の報酬をもらうことができるのではないかと考えているのだろう。
とはいえいつまでも履き物を探している訳にもいかず、伊作は二人を連れて山を降りたのだった。
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