前章
振り返ると、真冬の海のように冷たい目をしたメリーと、少し緊張した面持ちのフィロメナが立っている。異性である二人が来てくれれば、この女性たちを振り切れるかもしれないという期待感と共に希望の光を感じていた。
とにかく現状を理解してもらい、協力してもらう必要がある。だが表立って相談するわけにもいかない。
「やっと戻ってきてくれたんだね、メリー。恋人がいるから食事は無理だって断ってるんだけど……なかなか聞いてもらえなくて」
少々わざとらしくはあるかもしれないが、ギリギリ疑われない線で言葉を選ぶ。フィロメナはともかく、きっとメリーならこれだけで伝わってくれるはずだと信じている。
「ほら、恋人も戻ってきてくれたし、君たちはもう諦めてくれないかな?」
相手に怪しまれないように、そして万が一メリーが気づいてなかったときの保険として、申し訳なく思いつつも肩を抱き寄せる。少し心配になる程の細い肩は、特に驚くでも抵抗するでもなくあっさりと自身の隣に収まった。
女性二人は驚いたように目を見開き、顔を見合わせてから少し憐れみを込めた笑みをこちらへぶつけてくる。
「え、嘘……その子が恋人? 釣り合ってなくない?」
そんな失礼な一言が飛び出すと思っておらず、相手を傷つけることも厭わない不躾な言葉に絶句した。
「初対面で死ぬほど失礼な方ですね。礼儀と常識はお家でお留守番ですか?」
メリーはいつもと何も変わらない様子で、いつもと何も変わらない直球な言葉に少しの嫌味を乗せて切り返す。
「そんな色気のない子よりわたしたちの方が良くない?」
更に重ねられた失礼な言葉と共に、女性二人の嘲笑が色濃くなる。それは無遠慮にメリーへと注がれていた。メリーは怯むでもなく、平然と冷たい目を女性二人へ向けている。
まるで微塵も傷ついていないかのように澄ました横顔は、本当に気にも留めていないのか、傷ついたことを隠し通しているだけなのか。
ただ自身の温い対応が招いた事態によって、メリーは言われなくても良かったはずの暴言をぶつけられていた。それが何とも悔しく、自身の不甲斐 なさと女性二人に対して腹立たしさを覚える。
「君たち、それはメリーに対して失礼じゃ──
「いいんですよ、アイゼア」
「……え?」
遮 るように発された突然の呼び捨てに一瞬ドキッと心臓が跳ね、言葉が詰まる。
「あ、いや……全然良くないと思うけど」
不自然な間になる前に、咄嗟 に言葉を続ける。だが「いいんですよ」というのはどういうことなのか。このまま言われたい放題でも構わないということなのだろうか。
「アイゼアはいつも本当に優しいですね。あなたが私を好きなのはわかってます。ですが」
再びメリーはアイゼアを呼び捨てにした。恋人を演じているのであれば、いつもの「アイゼアさん」では欺けないと判断したのだろう。後に続く言葉までしっかりと疑う隙もなく、愛を信じている恋人らしいものだった。
随分慣れているような、こんなに上手く演技できる器用さもあったのだと初めて知った。
メリーは得意げな笑みを浮かべながら、こちらの眉間に勢いよく人差し指を突きつける。
「そこを吠えても私の負けですから」
「え、えぇー……?」
突拍子もない敗北宣言に、ただただ戸惑いを口にすることしかできない。
困惑したままのアイゼアの腕からメリーは離れていき、フィロメナの手を引いて再び隣に並ぶ。
「お二人に聞きますけど、体目当てならこの子でいいと思いません? 美人で体形も申し分ないほど抜群ですから。お二人も決して悪くはないんですけど……」
メリーは口元に人差し指を当て、値踏みするような視線を送っている。少し目を細めた表情とその仕草はいつもより大人っぽく見えた。
そして視線をわざとらしく足の爪先から頭頂部までを舐めるように往復させた後
「この子の足元にも及びませんよね」
と、清々しい満面の笑みでメリーは言い放ち、フィロメナと共に前へ出る。
女性二人はフィロメナを凝視しながら顔を引きつらせ、凍りついたように固まった。
メリーがフィロメナに劣等感を感じていたように、あの二人もフィロメナに対しては負けを認めてしまっているのだろう。
そうでなければ「わたしたちの方が良くない?」と、メリーにぶつけたのと同じ言葉がこの瞬間に返ってきてもおかしくないはずだ。
「それにあなたたち、アイゼアのことを体だけで簡単に釣れる人だと言ってるようなものですよね? 私、心底不愉快なんですけど」
先程の何倍も冷たく静かな声。責めるような態度は演技なのかそうでないのか判然としない。ただアイゼアの目には本当に怒ってくれているように見えた。
「彼は私の中身を見て選んでくれたんです」
堂々とさも当然と言わんばかりに言い切ると、メリーはこちらへと軽く振り返った。
「ねー、アイゼア?」
視線が合い、微笑みかけながら同意を求めてくる。ある程度ボロが出ないように演技をするには、それなりに仮初の人物の設定を組まなければならない。
まるで本当の恋人なのではないかと錯覚するような演技力を発揮するメリーに、君の中では一体、僕とどんな設定を作り上げているのか、と訪ねたくなるくらいだった。
何だかくすぐったいような、奇妙で面白いような、それでいて少しお茶目にも見えるメリーが可愛らしく見えるのは彼女の演技に自分の方が飲まれているからだろうか。
「うん、そうだよ」
思わずこみ上げる笑みを隠さず、メリーの言葉を肯定した。
女性たちは終始無言のまま顔を見合わせるばかりで、何を言うわけでもなく、立ち去るわけでもなくその場で気まずそうに突っ立っていた。
「というわけですので、これで失礼します」
メリーはこちらの腕を掴んで少し強めに引っ張る。
「行きますよ、アイゼア。エルヴェさんとフィロメナさんも」
メリーは女性二人には一目もくれず、これ以上構ってる暇 などないと言わんばかりの速度で歩き出した。
女性たちは追いかけてくる様子もなく安堵 すると共に、巻き込んだ三人への申し訳なさが強くアイゼアの心を苛 む。
「メリー、僕の芝居に付き合ってくれてありがとう……本当に助かったよ」
「いえ。それよりアイゼアさんが苦戦するなんて珍しいですね」
感謝を口にすると「いえ」というあっさりとした一言で片付けられてしまった。
舌戦は確かに苦手ではなく、今までのことを思えばなぜあの二人に手を拱 いていたのかと疑問に思われてもおかしくはない。だがどうしてもあの手の女性が苦手で苦手で仕方ないのだ。
「とても執念深い方々でした。本当に何を言っても諦めて下さらなくて……アイゼア様を助けられず申し訳ありません」
「いや、エルヴェは何も悪くないよ。巻き込んですまない……メリーとフィロメナも迷惑かけたね」
エルヴェもアイゼアを助けるために二人に反論してくれていた。普段ほとんど否定の主張をしないエルヴェだからこそ、その言葉の重さが理解できる。
「僕はしつこ……押しの強い女性を相手にするのが苦手でね。それが苦戦した理由かな。情けない話だけど」
本当に何と情けなく、不甲斐ない話だろうか。相手を傷つけずに自分を守ろうとし、穏便に事を済ませようとした結果がこの有様だ。無駄なことに付き合わせ、言われなくていい暴言を吐かれ、せっかくの旅行に暗い影を落としてしまう。
「情けないなんて思いませんよ。苦手なことの一つや二つあって当然です。私なんて一つ二つどころではないですし」
アイゼアはその言葉を少しだけ意外に感じていた。歯に衣着せぬ物言いをする彼女なら「まったくその通りですね。そもそもそんな温い対応だから付け込まれるんですよ」と咎められてもおかしくはなかった。
メリーが何を思ってそんなふうに言ってくれたのかはわからなかったが、こちらを励まそうとしてくれているのかもしれないと何となく思った。
「ありがとう。そう言ってもらえると少しだけ気が楽になるよ」
アイゼアは感謝の言葉に、更に言葉を付け足した。
「そんなことよりお腹空きませんか? 私もうぺっこぺこなんですよねー」
お腹を摩り、少し大げさに空腹を訴えるメリーの緩い雰囲気が、沈み込んだままになっていたこの場の空気を払っていく。困ったように笑うメリーに固くなっていた表情が緩んだ。
本当に、感心してしまうほどに、メリーは強い人だ。彼女は守るべきものを守るための覚悟が決まっている。そのためなら自分が傷つくことも、誰かを傷つけることも、恨まれることも恐れてはいない。
自分を守るために後手に回り、メリーが代わりに盾になった。自分が傷つけなくて済んだ代わりに、メリーが手を下した。彼女はそれをまるで当然のことだと言わんばかりに、今も平然としている。
冷静に考えれば、フィロメナと自身を比較して劣等感を抱え、女性二人の心無い言葉に「吠えても負け」だと言い切ったメリーが、あんな言葉をぶつけられて平気なはずもない。
傷ついたことを顔に出さないのは、痛みを隠すことに慣れているのか、感じた痛みを無意識のうちになかったことにしているのか。一体何をやっているのか、という歯痒さを覚える。
たとえ相手が力を持たない一般市民だとしても、言葉というナイフでメリーを刺したのだ。そうなる前に自身が刺され、刺し返せば良かった。
そう理解はしていても、きっと彼女と同等の覚悟を持つことはできない。きっと心のどこかで傷つけずに済むのならそうしたいと自分は思ってしまうのだろう。
それでも、もしメリーが窮地 に立ったとき、傷つくことも傷つけることも恐れず守ってあげられる存在でありたいと願う。そうでなければ、たった一人恐れも知らず戦うメリーを誰が守るのだろうか、と。
第8.5話 君を傷つける僕の甘さ 終
とにかく現状を理解してもらい、協力してもらう必要がある。だが表立って相談するわけにもいかない。
「やっと戻ってきてくれたんだね、メリー。恋人がいるから食事は無理だって断ってるんだけど……なかなか聞いてもらえなくて」
少々わざとらしくはあるかもしれないが、ギリギリ疑われない線で言葉を選ぶ。フィロメナはともかく、きっとメリーならこれだけで伝わってくれるはずだと信じている。
「ほら、恋人も戻ってきてくれたし、君たちはもう諦めてくれないかな?」
相手に怪しまれないように、そして万が一メリーが気づいてなかったときの保険として、申し訳なく思いつつも肩を抱き寄せる。少し心配になる程の細い肩は、特に驚くでも抵抗するでもなくあっさりと自身の隣に収まった。
女性二人は驚いたように目を見開き、顔を見合わせてから少し憐れみを込めた笑みをこちらへぶつけてくる。
「え、嘘……その子が恋人? 釣り合ってなくない?」
そんな失礼な一言が飛び出すと思っておらず、相手を傷つけることも厭わない不躾な言葉に絶句した。
「初対面で死ぬほど失礼な方ですね。礼儀と常識はお家でお留守番ですか?」
メリーはいつもと何も変わらない様子で、いつもと何も変わらない直球な言葉に少しの嫌味を乗せて切り返す。
「そんな色気のない子よりわたしたちの方が良くない?」
更に重ねられた失礼な言葉と共に、女性二人の嘲笑が色濃くなる。それは無遠慮にメリーへと注がれていた。メリーは怯むでもなく、平然と冷たい目を女性二人へ向けている。
まるで微塵も傷ついていないかのように澄ました横顔は、本当に気にも留めていないのか、傷ついたことを隠し通しているだけなのか。
ただ自身の温い対応が招いた事態によって、メリーは言われなくても良かったはずの暴言をぶつけられていた。それが何とも悔しく、自身の
「君たち、それはメリーに対して失礼じゃ──
「いいんですよ、アイゼア」
「……え?」
「あ、いや……全然良くないと思うけど」
不自然な間になる前に、
「アイゼアはいつも本当に優しいですね。あなたが私を好きなのはわかってます。ですが」
再びメリーはアイゼアを呼び捨てにした。恋人を演じているのであれば、いつもの「アイゼアさん」では欺けないと判断したのだろう。後に続く言葉までしっかりと疑う隙もなく、愛を信じている恋人らしいものだった。
随分慣れているような、こんなに上手く演技できる器用さもあったのだと初めて知った。
メリーは得意げな笑みを浮かべながら、こちらの眉間に勢いよく人差し指を突きつける。
「そこを吠えても私の負けですから」
「え、えぇー……?」
突拍子もない敗北宣言に、ただただ戸惑いを口にすることしかできない。
困惑したままのアイゼアの腕からメリーは離れていき、フィロメナの手を引いて再び隣に並ぶ。
「お二人に聞きますけど、体目当てならこの子でいいと思いません? 美人で体形も申し分ないほど抜群ですから。お二人も決して悪くはないんですけど……」
メリーは口元に人差し指を当て、値踏みするような視線を送っている。少し目を細めた表情とその仕草はいつもより大人っぽく見えた。
そして視線をわざとらしく足の爪先から頭頂部までを舐めるように往復させた後
「この子の足元にも及びませんよね」
と、清々しい満面の笑みでメリーは言い放ち、フィロメナと共に前へ出る。
女性二人はフィロメナを凝視しながら顔を引きつらせ、凍りついたように固まった。
メリーがフィロメナに劣等感を感じていたように、あの二人もフィロメナに対しては負けを認めてしまっているのだろう。
そうでなければ「わたしたちの方が良くない?」と、メリーにぶつけたのと同じ言葉がこの瞬間に返ってきてもおかしくないはずだ。
「それにあなたたち、アイゼアのことを体だけで簡単に釣れる人だと言ってるようなものですよね? 私、心底不愉快なんですけど」
先程の何倍も冷たく静かな声。責めるような態度は演技なのかそうでないのか判然としない。ただアイゼアの目には本当に怒ってくれているように見えた。
「彼は私の中身を見て選んでくれたんです」
堂々とさも当然と言わんばかりに言い切ると、メリーはこちらへと軽く振り返った。
「ねー、アイゼア?」
視線が合い、微笑みかけながら同意を求めてくる。ある程度ボロが出ないように演技をするには、それなりに仮初の人物の設定を組まなければならない。
まるで本当の恋人なのではないかと錯覚するような演技力を発揮するメリーに、君の中では一体、僕とどんな設定を作り上げているのか、と訪ねたくなるくらいだった。
何だかくすぐったいような、奇妙で面白いような、それでいて少しお茶目にも見えるメリーが可愛らしく見えるのは彼女の演技に自分の方が飲まれているからだろうか。
「うん、そうだよ」
思わずこみ上げる笑みを隠さず、メリーの言葉を肯定した。
女性たちは終始無言のまま顔を見合わせるばかりで、何を言うわけでもなく、立ち去るわけでもなくその場で気まずそうに突っ立っていた。
「というわけですので、これで失礼します」
メリーはこちらの腕を掴んで少し強めに引っ張る。
「行きますよ、アイゼア。エルヴェさんとフィロメナさんも」
メリーは女性二人には一目もくれず、これ以上構ってる
女性たちは追いかけてくる様子もなく
「メリー、僕の芝居に付き合ってくれてありがとう……本当に助かったよ」
「いえ。それよりアイゼアさんが苦戦するなんて珍しいですね」
感謝を口にすると「いえ」というあっさりとした一言で片付けられてしまった。
舌戦は確かに苦手ではなく、今までのことを思えばなぜあの二人に手を
「とても執念深い方々でした。本当に何を言っても諦めて下さらなくて……アイゼア様を助けられず申し訳ありません」
「いや、エルヴェは何も悪くないよ。巻き込んですまない……メリーとフィロメナも迷惑かけたね」
エルヴェもアイゼアを助けるために二人に反論してくれていた。普段ほとんど否定の主張をしないエルヴェだからこそ、その言葉の重さが理解できる。
「僕はしつこ……押しの強い女性を相手にするのが苦手でね。それが苦戦した理由かな。情けない話だけど」
本当に何と情けなく、不甲斐ない話だろうか。相手を傷つけずに自分を守ろうとし、穏便に事を済ませようとした結果がこの有様だ。無駄なことに付き合わせ、言われなくていい暴言を吐かれ、せっかくの旅行に暗い影を落としてしまう。
「情けないなんて思いませんよ。苦手なことの一つや二つあって当然です。私なんて一つ二つどころではないですし」
アイゼアはその言葉を少しだけ意外に感じていた。歯に衣着せぬ物言いをする彼女なら「まったくその通りですね。そもそもそんな温い対応だから付け込まれるんですよ」と咎められてもおかしくはなかった。
メリーが何を思ってそんなふうに言ってくれたのかはわからなかったが、こちらを励まそうとしてくれているのかもしれないと何となく思った。
「ありがとう。そう言ってもらえると少しだけ気が楽になるよ」
アイゼアは感謝の言葉に、更に言葉を付け足した。
「そんなことよりお腹空きませんか? 私もうぺっこぺこなんですよねー」
お腹を摩り、少し大げさに空腹を訴えるメリーの緩い雰囲気が、沈み込んだままになっていたこの場の空気を払っていく。困ったように笑うメリーに固くなっていた表情が緩んだ。
本当に、感心してしまうほどに、メリーは強い人だ。彼女は守るべきものを守るための覚悟が決まっている。そのためなら自分が傷つくことも、誰かを傷つけることも、恨まれることも恐れてはいない。
自分を守るために後手に回り、メリーが代わりに盾になった。自分が傷つけなくて済んだ代わりに、メリーが手を下した。彼女はそれをまるで当然のことだと言わんばかりに、今も平然としている。
冷静に考えれば、フィロメナと自身を比較して劣等感を抱え、女性二人の心無い言葉に「吠えても負け」だと言い切ったメリーが、あんな言葉をぶつけられて平気なはずもない。
傷ついたことを顔に出さないのは、痛みを隠すことに慣れているのか、感じた痛みを無意識のうちになかったことにしているのか。一体何をやっているのか、という歯痒さを覚える。
たとえ相手が力を持たない一般市民だとしても、言葉というナイフでメリーを刺したのだ。そうなる前に自身が刺され、刺し返せば良かった。
そう理解はしていても、きっと彼女と同等の覚悟を持つことはできない。きっと心のどこかで傷つけずに済むのならそうしたいと自分は思ってしまうのだろう。
それでも、もしメリーが
第8.5話 君を傷つける僕の甘さ 終