前章
アイゼアの魔法薬の一件はあれからすぐに収束し、すっかりいつもの日常が戻ってきていた。
だが少し前から、日常そのものが僅かに変化しつつある。これまではどちらかというと家に籠もって作業していることの多いメリーだったが、ここ約一ヶ月の間は外に出かける機会が多くなった。
というのも、トラヴィスが非番の日や夕方に度々訪ねてくるからだ。どうやら彼の部署はアイゼアよりは暇らしい。いや、アイゼアが多忙なだけで、彼自体は普通なのかもしれないが。
自宅でお茶をしながら会話することもあるが、外に連れ出されることもしばしばあり、夕方に訪ねてくるときは外へ夕食を食べに行くこともあった。ここのところ専属傭兵の仕事をいくつか受けていたためトラヴィスとはしばらく会っていなかったが、今日久々に例の如く夕食に誘われた。
新しいものを見たり知ることは好きで毎回楽しんでいるのだが、トラヴィスは静かな場所の方が好きなのか、毎回似たような雰囲気のお店を選ぶ。
たまには少し雰囲気の違う店でも良いのではないかと思いながらトラヴィスと会話しつつ夜の街を歩いていると、ふと香ばしい匂いと共に異国風の香辛料の香りが鼻をくすぐる。店の方を伺うと、お酒を傍らに料理を楽しむ賑やかな光景が飛び込んできた。
自由の国セントゥーロと称されているだけあって、サントルーサは様々な国の物珍しいものが寄り集まっている。入れ替わりもそこそこあり、常に変容していくこの街は歩くのも楽しい。
「トラヴィスさん、今日の夕食はあそこにしませんか?」
興味の赴くままに提案すると、トラヴィスは少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません……今日はもうお店の予約をしてしまってて。次回一緒に行きましょう」
「そうだったんですね。わかりました」
予約しているというのであれば仕方ない。だがわざわざ予約をするということは、トラヴィスの中でも自信を持って紹介できる所ということだろう。メリーは夕飯に期待を膨らませながらトラヴィスについていった。
案内されたお店はやはりというか落ち着いた雰囲気で、控えめな談笑の声で少しだけざわめいている。橙色の明かりが夜のしっとりとした空気感を作り出し、純白のテーブルクロスが高級感を醸し出していた。
料理も文句のつけようがないほどに美味しい。柔らかくとろとろに煮込まれたビーフシチューはまろやかな味わいと風味が絶妙だ。野菜がふんだんに使われたラタトゥイユも柔らかいのに新鮮な歯応えや風味が死んでいない。野菜に力を入れているのか、どの料理も野菜の風味や食感が生き生きとしている。
「どうですか? メリーさん、野菜が好きだって言ってたんでここを予約してみたんですよ」
「そうなんですね。どれもすごく美味しいです」
どうやらこちらの好みからお店を選んでくれていたらしい。トラヴィスはもっとこちらに人となりを知ってほしいのか、自分のことをよく話し、そこからこちらのこともいろいろ聞いてくれている。好物の話もこれまでに話してきた話題の一つだった。
終始和やかな時間を過ごし、帰路につく。送ってくれなくても構わないのだが、トラヴィスは毎度「送りたいから送る」と言って聞かなかった。
会う回数もそれなりにあったおかげか、この一ヶ月でそれなりに親しくなってきたような気もする。彼が実直で真面目な人だということ、仕事では南東区の隊に配属されていること、彼の家族や友人の話、好きなものや嫌いなもの、たくさんのことを聞かせてくれた。それを返すように、メリーも言える範囲の中で選んでトラヴィスに話をしていた。
「メリーさんどうです? 俺とお付き合いする気になりました? 好きになってくれました?」
そしてこれも毎度のやりとりだ。別れ際になると必ずトラヴィスは付き合ってほしいと申し込んでくる。
「あの、まだ出会って一ヶ月ちょっとなんですけど。友人としては好感の持てる人かなって思うんですけど、そういうお付き合いは無理です」
これもいつもの断り文句だ。なぜそんなに急ぐのか全くわからない。食事や出かけるのが楽しくても、これだけが微妙に足を引っ張っていた。断る方の労力と心労も考えてくれるとありがたいのだが。
いつもなら肩を落として「残念です」とすんなり引き下がるのだが、今日は違い、真剣な眼差しのままこちらを見つめ続けている。
「なぜ俺ではダメなんですか? 何が俺に足りないのか教えてください」
「いやトラヴィスさんがダメなんじゃないんです。足りないものがあるとすれば私の感情の方ですかね?」
「なら、試しに付き合ってみませんか?」
「……ん?」
試しに付き合うとは何なのかよくわからない。付き合うのにお試し期間というものが存在するのだろうか。そんなものは聞いたことがない。少なくともこれまでいくつか読んだ恋愛小説にも、ペシェの話にもなかった。
「俺を恋人として意識して会ってほしいんです。どんな感じかわかったら、結構良いんじゃないかって気持ちに変わるかもしれませんし」
「すみません。何言ってるのか全然わからないです」
「なっ、ならもっと細かく説明を──
「そういうことではなく、私の価値観とは相容れないと言っているんです。ハッキリ言ってトラヴィスさんのそういうとこ苦手です」
今まではすぐに引いてくれていたため明言はしなかったが、ここまでこちらの感情を無視して軽率に踏み込んでくるのならわかりやすく一線を引くしかない。
トラヴィスはマメに会いに来てくれているし、こちらの反応の鈍さが自身の労力に見合わないと焦れているのかもしれない。だがそれは自分には関係ないことで、かなりどうでもいい。こちらの気持ちは全くついていけてないと理解してもらわなければいくら何でも困る。
「すみません。俺、メリーさんに少しも好感を持たれてないんですね」
「好感を持ってないとは言ってません。友人としてと恋愛としてはまた別ですって。どうして混同するんですか」
「なら、少しだけで構わないんです。俺を男として……恋愛対象として意識してもらえませんか?」
「いや、そう言われましても。性別が男性だということは十分理解してますし、そういう対象になる可能性があることもわかっては──
突然、両手で包み込むようにして右手を握られる。柔らかな温かさと共に手の感触が伝わってきた。妙な緊張とほんの僅かな嫌悪に静かに構える。
トラヴィスはそのまま更に距離を詰め、至近距離でこちらを見下ろしてくる。悔しそうな、切羽詰まったような表情だった。
何か危害を加えるつもりなら残念だがここで灰にでもなってもらうしかない。いつのときか、同じような状況で同じようなことを考えた気がする。あれは確か、初めてスイウと出会ったときのことだっただろうか。
メリーは警戒しながらトラヴィスの目を見つめ返す。スッと冷えていく心で灰にした後の言い訳を考え始めた。ここが昔のスピリアなら簡単に片が付くのに、と思わずにはいられない。
「そんな目をしないでください。これ以上何かする気はありません。俺と手を繋いで何も感じませんか? 少しは俺を見てください、メリーさん」
「きちんと視認できてますが? 手は大きさ、骨格や感触からして間違いなく男性のものだと思います」
「そ、それだけですか? この距離感は?」
「明らかに対人距離を侵害し、違和感を感じる距離だと思います。夫婦や恋人、親子の距離感ですから、私とトラヴィスさんの適正距離ではないですよね」
「その返答はわざとですか? やっぱり全然じゃないですかぁ」
こちらは誠実に感じたままを伝えたというのに、トラヴィスはしおしおと項垂れた。彼が何を言っているのか全く意味がわからない。
手は男性のものだと認識しているし、この距離感も本来は恋人同士の距離感だと言った。きちんと意識し認識しているではないか、というのがメリー自身の見解だ。トラヴィスの心底がっかりした様子にもやもやと不満が募った。
ゆるゆるとトラヴィスが顔を上げると、眉尻を下げ少し拗ねたような表情で訪ねてくる。
「……貴女が少しも俺に恋愛的な好意を持ってくれないのは、アイゼアさんが気になるから、ですか?」
なぜそこでアイゼアの名前が出てくるのかわからず、眉間にシワが寄ったまま首を傾げる。
「アイゼアさんが貴女に好意を寄せていること、さすがに気づいているんでしょう?」
「あなたはさっきから何を言ってるんですか?」
あまりにも根拠もなく突拍子のない言葉に呆気に取られる。トラヴィスと一緒にいるときに顔を合わせたことのある男友達はアイゼアとペシェだけだが、トラヴィスはおそらくペシェを男性だと認識していない。だから唯一見知っているアイゼアを敵視し、一方的に意識しすぎているのだろう。
「理由だってあるんです。貴女は感謝祭の日、アイゼアさんから橙色のカーネーションを受け取ったのでは?」
「確かにそうですけど。それが何かありました?」
トラヴィスの言う通り、確かにあの日アイゼアが差し出してきたのは橙色のカーネーションだった。それをなぜトラヴィスが知っているのかはわからない。そもそもなぜ橙色であることにそんなに拘るのかすらわからずにいると、トラヴィスは説明を付け足した。
「この国では橙色のカーネーションは夫婦や恋人、片思いの相手に贈るんです。アイゼアさんはその意味を知ってて貴女に渡してるんです。それが意味するところは一つしかないでしょう」
生まれも育ちもセントゥーロのアイゼアは、そのことを知っていても何ら不思議ではない。だからといって、たったそれだけを理由に断言するのは、あまりにも根拠として弱すぎる。
アイゼアが自分に恋愛的な意味で好意を持っているとは到底思えないというのが答えだ。そう思っているはずなのになぜか説明し難い緊張を覚え、鼓動の音がやけに耳についた。
気持ちを落ち着かせ、あの日のことを思い出す。アイゼアはカーネーションを渡すとき、こうも言っていた。
「日頃の感謝を込めて、とアイゼアさんは言ってました。仕事帰りの遅い時間でしたし、橙色しか花屋に残ってなかったんじゃないですか?」
スピリアでも感謝祭の日の『黄緑色のリシアンサス』は定番で非常に人気が高く、植物の生育が芳しくないノルタンダールではあっという間に売り切れてしまっていた。
スピリアでのリシアンサス同様、カーネーションの色に意味があるのなら定番の色は売り切れていてもおかしくはない。この街は植物は育つがそれ以上に人口の多さも圧倒的だ。
アイゼアは白いカーネーションも持っていたが、白が死者への愛情を意味することを考えれば橙色の方がマシだろう。自分でもその二択なら間違いなくそうする。
冷静に状況を整理すれば納得できるだけの理由も見えてくる。よくわからない緊張を感じていた心もいつの間にか落ち着いていた。
「とにかく考えすぎですって。憶測だけで決めつけて……そもそも本人が私を好きだって言ったのを聞いたんですか?」
「それは……! その……」
やはり直接その言葉を聞いたわけではないらしい。敵意を拗らせ、状況を曲解した結果の暴走としか言いようがなかった。
「何でも良いですけど、私が恋愛を意識してないのは、もっとお互いをよく知ってからだと思ってるからです。あなたはまだ私の魔力のことも知らないじゃないですか」
「なら、その魔力を俺に示してください!」
勢いに任せて口をついて出た言葉にトラヴィスは勢いよく食いついてきた。失言だったと気づいた頃にはもう取り返しもつかない。
「……仕方ないですね。わかりました」
これだけ真剣に向き合ってくれているのだ。少しだけ躊躇 われたが、トラヴィスを信じることにした。たとえ恐怖を感じて友の縁が切れても、妙な噂を流したりするような人物ではないと。
メリーは以前見せた魔術よりも大きな力の魔力を纏う。かなり抑えてはいるが、この程度出せば大抵霊族なら十分恐怖と嫌悪を感じる程度の魔力だ。トラヴィスはビクリと体を震わせたが、後退 りはしなかった。一瞬怯 んだ瞳が強いものへと変わる。魔力を離散させると、握られていた手により強い確かな力がかかる。
「メリーさんの魔力、肌で感じました。俺は貴女の魔力ごと全てを愛する自信がある」
「……はい?」
思ってもみなかった言葉に固まり、耳を疑う。さすがに多少恐怖を感じて尻込みするのではないかと思ったが、そんな様子は微塵 も感じられない。
「アイゼアさんは人間だ。貴女より先に死んでしまう。俺なら必ず最期まで貴女を幸せにできます。俺の父は家族を遺して早くに亡くなっていると話したでしょう。貴女に母のような……置いていかれる者の悲しみを味わわせたくないんです」
夏空のような青い瞳は、一切曇りのない真摯 さを伴 ってメリーを見つめる。こちらのことを本気で憂いていることだけは考えなくとも伝わってきた。
「だからアイゼアさんではなく、俺を見てください」
「いや……私の話聞いてました? アイゼアさんは無関係で、全部誤解ですって。とにかくあなたの熱意だけはわかりましたから──
「ほっ本当ですか!?」
「本当です。それと……逃げないでいてくれたことは素直に嬉しかったです」
「……俺、今めちゃくちゃ嬉しいです!」
握られていた手を興奮気味に縦に振られ、更に固く握られる。きらきらと輝く瞳が強烈な印象をもってメリーを射抜いていた。
「また会いに来ます! 信頼できる男になって、次こそは貴女を振り向かせてみせますよ!」
「えぇ? いや、それは……」
「おやすみなさい、メリーさん!」
「はぁ……おやすみなさい……」
先程までの表情が嘘のように夏の日の晴天のような明るい笑みを浮かべる。何度もこちらを振り返って手を振って、意気揚々と帰っていった。笑顔は晴天のようなのに、まるで嵐のようだった。
あの魔力を受けても、魔力ごと愛すると言い切った。そんなことがあり得るのだろうか。正直信じていいのかわからない。
セントゥーロの人々の大半は『黄昏の月』という概念そのものがなく、当然災いをもたらすというくだらない伝承も知らない。だからこそ多少恐ろしく感じても、あまり気にならないのだろうか。
それは僅かに希望の光が差した瞬間でもあった。この魔力も、この国、この街でなら受け入れてもらえるのかもしれない。曰く付きの魔術士と知っても、好感を抱いたままでいてくれる人がいるのかもしれない。普通の当たり前の日常を過ごす人々と遜色 のない生活を送れる日が来るのかもしれない。
そんな夢のような話を信じてもいいのだろうか。少し怖いような気もしたが、膨らんだ期待は留まるところを知らず大きくなっていく。そんな希望を与えてくれたトラヴィスに、メリーは初めて少しだけ感謝した。
第37話 黄昏の居場所 終
だが少し前から、日常そのものが僅かに変化しつつある。これまではどちらかというと家に籠もって作業していることの多いメリーだったが、ここ約一ヶ月の間は外に出かける機会が多くなった。
というのも、トラヴィスが非番の日や夕方に度々訪ねてくるからだ。どうやら彼の部署はアイゼアよりは暇らしい。いや、アイゼアが多忙なだけで、彼自体は普通なのかもしれないが。
自宅でお茶をしながら会話することもあるが、外に連れ出されることもしばしばあり、夕方に訪ねてくるときは外へ夕食を食べに行くこともあった。ここのところ専属傭兵の仕事をいくつか受けていたためトラヴィスとはしばらく会っていなかったが、今日久々に例の如く夕食に誘われた。
新しいものを見たり知ることは好きで毎回楽しんでいるのだが、トラヴィスは静かな場所の方が好きなのか、毎回似たような雰囲気のお店を選ぶ。
たまには少し雰囲気の違う店でも良いのではないかと思いながらトラヴィスと会話しつつ夜の街を歩いていると、ふと香ばしい匂いと共に異国風の香辛料の香りが鼻をくすぐる。店の方を伺うと、お酒を傍らに料理を楽しむ賑やかな光景が飛び込んできた。
自由の国セントゥーロと称されているだけあって、サントルーサは様々な国の物珍しいものが寄り集まっている。入れ替わりもそこそこあり、常に変容していくこの街は歩くのも楽しい。
「トラヴィスさん、今日の夕食はあそこにしませんか?」
興味の赴くままに提案すると、トラヴィスは少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません……今日はもうお店の予約をしてしまってて。次回一緒に行きましょう」
「そうだったんですね。わかりました」
予約しているというのであれば仕方ない。だがわざわざ予約をするということは、トラヴィスの中でも自信を持って紹介できる所ということだろう。メリーは夕飯に期待を膨らませながらトラヴィスについていった。
案内されたお店はやはりというか落ち着いた雰囲気で、控えめな談笑の声で少しだけざわめいている。橙色の明かりが夜のしっとりとした空気感を作り出し、純白のテーブルクロスが高級感を醸し出していた。
料理も文句のつけようがないほどに美味しい。柔らかくとろとろに煮込まれたビーフシチューはまろやかな味わいと風味が絶妙だ。野菜がふんだんに使われたラタトゥイユも柔らかいのに新鮮な歯応えや風味が死んでいない。野菜に力を入れているのか、どの料理も野菜の風味や食感が生き生きとしている。
「どうですか? メリーさん、野菜が好きだって言ってたんでここを予約してみたんですよ」
「そうなんですね。どれもすごく美味しいです」
どうやらこちらの好みからお店を選んでくれていたらしい。トラヴィスはもっとこちらに人となりを知ってほしいのか、自分のことをよく話し、そこからこちらのこともいろいろ聞いてくれている。好物の話もこれまでに話してきた話題の一つだった。
終始和やかな時間を過ごし、帰路につく。送ってくれなくても構わないのだが、トラヴィスは毎度「送りたいから送る」と言って聞かなかった。
会う回数もそれなりにあったおかげか、この一ヶ月でそれなりに親しくなってきたような気もする。彼が実直で真面目な人だということ、仕事では南東区の隊に配属されていること、彼の家族や友人の話、好きなものや嫌いなもの、たくさんのことを聞かせてくれた。それを返すように、メリーも言える範囲の中で選んでトラヴィスに話をしていた。
「メリーさんどうです? 俺とお付き合いする気になりました? 好きになってくれました?」
そしてこれも毎度のやりとりだ。別れ際になると必ずトラヴィスは付き合ってほしいと申し込んでくる。
「あの、まだ出会って一ヶ月ちょっとなんですけど。友人としては好感の持てる人かなって思うんですけど、そういうお付き合いは無理です」
これもいつもの断り文句だ。なぜそんなに急ぐのか全くわからない。食事や出かけるのが楽しくても、これだけが微妙に足を引っ張っていた。断る方の労力と心労も考えてくれるとありがたいのだが。
いつもなら肩を落として「残念です」とすんなり引き下がるのだが、今日は違い、真剣な眼差しのままこちらを見つめ続けている。
「なぜ俺ではダメなんですか? 何が俺に足りないのか教えてください」
「いやトラヴィスさんがダメなんじゃないんです。足りないものがあるとすれば私の感情の方ですかね?」
「なら、試しに付き合ってみませんか?」
「……ん?」
試しに付き合うとは何なのかよくわからない。付き合うのにお試し期間というものが存在するのだろうか。そんなものは聞いたことがない。少なくともこれまでいくつか読んだ恋愛小説にも、ペシェの話にもなかった。
「俺を恋人として意識して会ってほしいんです。どんな感じかわかったら、結構良いんじゃないかって気持ちに変わるかもしれませんし」
「すみません。何言ってるのか全然わからないです」
「なっ、ならもっと細かく説明を──
「そういうことではなく、私の価値観とは相容れないと言っているんです。ハッキリ言ってトラヴィスさんのそういうとこ苦手です」
今まではすぐに引いてくれていたため明言はしなかったが、ここまでこちらの感情を無視して軽率に踏み込んでくるのならわかりやすく一線を引くしかない。
トラヴィスはマメに会いに来てくれているし、こちらの反応の鈍さが自身の労力に見合わないと焦れているのかもしれない。だがそれは自分には関係ないことで、かなりどうでもいい。こちらの気持ちは全くついていけてないと理解してもらわなければいくら何でも困る。
「すみません。俺、メリーさんに少しも好感を持たれてないんですね」
「好感を持ってないとは言ってません。友人としてと恋愛としてはまた別ですって。どうして混同するんですか」
「なら、少しだけで構わないんです。俺を男として……恋愛対象として意識してもらえませんか?」
「いや、そう言われましても。性別が男性だということは十分理解してますし、そういう対象になる可能性があることもわかっては──
突然、両手で包み込むようにして右手を握られる。柔らかな温かさと共に手の感触が伝わってきた。妙な緊張とほんの僅かな嫌悪に静かに構える。
トラヴィスはそのまま更に距離を詰め、至近距離でこちらを見下ろしてくる。悔しそうな、切羽詰まったような表情だった。
何か危害を加えるつもりなら残念だがここで灰にでもなってもらうしかない。いつのときか、同じような状況で同じようなことを考えた気がする。あれは確か、初めてスイウと出会ったときのことだっただろうか。
メリーは警戒しながらトラヴィスの目を見つめ返す。スッと冷えていく心で灰にした後の言い訳を考え始めた。ここが昔のスピリアなら簡単に片が付くのに、と思わずにはいられない。
「そんな目をしないでください。これ以上何かする気はありません。俺と手を繋いで何も感じませんか? 少しは俺を見てください、メリーさん」
「きちんと視認できてますが? 手は大きさ、骨格や感触からして間違いなく男性のものだと思います」
「そ、それだけですか? この距離感は?」
「明らかに対人距離を侵害し、違和感を感じる距離だと思います。夫婦や恋人、親子の距離感ですから、私とトラヴィスさんの適正距離ではないですよね」
「その返答はわざとですか? やっぱり全然じゃないですかぁ」
こちらは誠実に感じたままを伝えたというのに、トラヴィスはしおしおと項垂れた。彼が何を言っているのか全く意味がわからない。
手は男性のものだと認識しているし、この距離感も本来は恋人同士の距離感だと言った。きちんと意識し認識しているではないか、というのがメリー自身の見解だ。トラヴィスの心底がっかりした様子にもやもやと不満が募った。
ゆるゆるとトラヴィスが顔を上げると、眉尻を下げ少し拗ねたような表情で訪ねてくる。
「……貴女が少しも俺に恋愛的な好意を持ってくれないのは、アイゼアさんが気になるから、ですか?」
なぜそこでアイゼアの名前が出てくるのかわからず、眉間にシワが寄ったまま首を傾げる。
「アイゼアさんが貴女に好意を寄せていること、さすがに気づいているんでしょう?」
「あなたはさっきから何を言ってるんですか?」
あまりにも根拠もなく突拍子のない言葉に呆気に取られる。トラヴィスと一緒にいるときに顔を合わせたことのある男友達はアイゼアとペシェだけだが、トラヴィスはおそらくペシェを男性だと認識していない。だから唯一見知っているアイゼアを敵視し、一方的に意識しすぎているのだろう。
「理由だってあるんです。貴女は感謝祭の日、アイゼアさんから橙色のカーネーションを受け取ったのでは?」
「確かにそうですけど。それが何かありました?」
トラヴィスの言う通り、確かにあの日アイゼアが差し出してきたのは橙色のカーネーションだった。それをなぜトラヴィスが知っているのかはわからない。そもそもなぜ橙色であることにそんなに拘るのかすらわからずにいると、トラヴィスは説明を付け足した。
「この国では橙色のカーネーションは夫婦や恋人、片思いの相手に贈るんです。アイゼアさんはその意味を知ってて貴女に渡してるんです。それが意味するところは一つしかないでしょう」
生まれも育ちもセントゥーロのアイゼアは、そのことを知っていても何ら不思議ではない。だからといって、たったそれだけを理由に断言するのは、あまりにも根拠として弱すぎる。
アイゼアが自分に恋愛的な意味で好意を持っているとは到底思えないというのが答えだ。そう思っているはずなのになぜか説明し難い緊張を覚え、鼓動の音がやけに耳についた。
気持ちを落ち着かせ、あの日のことを思い出す。アイゼアはカーネーションを渡すとき、こうも言っていた。
「日頃の感謝を込めて、とアイゼアさんは言ってました。仕事帰りの遅い時間でしたし、橙色しか花屋に残ってなかったんじゃないですか?」
スピリアでも感謝祭の日の『黄緑色のリシアンサス』は定番で非常に人気が高く、植物の生育が芳しくないノルタンダールではあっという間に売り切れてしまっていた。
スピリアでのリシアンサス同様、カーネーションの色に意味があるのなら定番の色は売り切れていてもおかしくはない。この街は植物は育つがそれ以上に人口の多さも圧倒的だ。
アイゼアは白いカーネーションも持っていたが、白が死者への愛情を意味することを考えれば橙色の方がマシだろう。自分でもその二択なら間違いなくそうする。
冷静に状況を整理すれば納得できるだけの理由も見えてくる。よくわからない緊張を感じていた心もいつの間にか落ち着いていた。
「とにかく考えすぎですって。憶測だけで決めつけて……そもそも本人が私を好きだって言ったのを聞いたんですか?」
「それは……! その……」
やはり直接その言葉を聞いたわけではないらしい。敵意を拗らせ、状況を曲解した結果の暴走としか言いようがなかった。
「何でも良いですけど、私が恋愛を意識してないのは、もっとお互いをよく知ってからだと思ってるからです。あなたはまだ私の魔力のことも知らないじゃないですか」
「なら、その魔力を俺に示してください!」
勢いに任せて口をついて出た言葉にトラヴィスは勢いよく食いついてきた。失言だったと気づいた頃にはもう取り返しもつかない。
「……仕方ないですね。わかりました」
これだけ真剣に向き合ってくれているのだ。少しだけ
メリーは以前見せた魔術よりも大きな力の魔力を纏う。かなり抑えてはいるが、この程度出せば大抵霊族なら十分恐怖と嫌悪を感じる程度の魔力だ。トラヴィスはビクリと体を震わせたが、
「メリーさんの魔力、肌で感じました。俺は貴女の魔力ごと全てを愛する自信がある」
「……はい?」
思ってもみなかった言葉に固まり、耳を疑う。さすがに多少恐怖を感じて尻込みするのではないかと思ったが、そんな様子は
「アイゼアさんは人間だ。貴女より先に死んでしまう。俺なら必ず最期まで貴女を幸せにできます。俺の父は家族を遺して早くに亡くなっていると話したでしょう。貴女に母のような……置いていかれる者の悲しみを味わわせたくないんです」
夏空のような青い瞳は、一切曇りのない
「だからアイゼアさんではなく、俺を見てください」
「いや……私の話聞いてました? アイゼアさんは無関係で、全部誤解ですって。とにかくあなたの熱意だけはわかりましたから──
「ほっ本当ですか!?」
「本当です。それと……逃げないでいてくれたことは素直に嬉しかったです」
「……俺、今めちゃくちゃ嬉しいです!」
握られていた手を興奮気味に縦に振られ、更に固く握られる。きらきらと輝く瞳が強烈な印象をもってメリーを射抜いていた。
「また会いに来ます! 信頼できる男になって、次こそは貴女を振り向かせてみせますよ!」
「えぇ? いや、それは……」
「おやすみなさい、メリーさん!」
「はぁ……おやすみなさい……」
先程までの表情が嘘のように夏の日の晴天のような明るい笑みを浮かべる。何度もこちらを振り返って手を振って、意気揚々と帰っていった。笑顔は晴天のようなのに、まるで嵐のようだった。
あの魔力を受けても、魔力ごと愛すると言い切った。そんなことがあり得るのだろうか。正直信じていいのかわからない。
セントゥーロの人々の大半は『黄昏の月』という概念そのものがなく、当然災いをもたらすというくだらない伝承も知らない。だからこそ多少恐ろしく感じても、あまり気にならないのだろうか。
それは僅かに希望の光が差した瞬間でもあった。この魔力も、この国、この街でなら受け入れてもらえるのかもしれない。曰く付きの魔術士と知っても、好感を抱いたままでいてくれる人がいるのかもしれない。普通の当たり前の日常を過ごす人々と
そんな夢のような話を信じてもいいのだろうか。少し怖いような気もしたが、膨らんだ期待は留まるところを知らず大きくなっていく。そんな希望を与えてくれたトラヴィスに、メリーは初めて少しだけ感謝した。
第37話 黄昏の居場所 終
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