前章

 ケーキを食べ終わり、ティーセットを含む後片付けをアイゼアに任せた。あのケーキがアイゼアの固い心を少しだけ解してくれたのか、暗く鋭い眼差しは僅かに和らいでいる。ほとんど笑いもしないが、敵意を向けてくることもなくなった。
 以前ノーゼンが笑わない時期があったと言っていたが、まさにこの頃のことだろう。


 夕食も共に過ごし、こちらからお願いしたわけでもなく自分から率先して後片付けをしてくれた。お世辞にも素直とは言えないが、少しだけ自分が知っているアイゼアの片鱗を見た気がした。


 シャワーも浴び、夜のゆったりとした時間を過ごす。暇潰しになればと渡した絵のついた薬草図鑑をアイゼアは興味深そうに眺めていた。子供向けの本など一冊もなく、それだけ少し申し訳なく感じる。

 アイゼアはあまり識字できていないらしく、簡単な単語でもわからないものに当たるとメリーに質問し、ほとんど質問攻め状態になっていた。

 植物の名前を教えると、アイゼアはその文字を指でなぞっては何度も小さく復唱している。この年齢から初めて勉強したことは多かっただろう。今のアイゼアは丁寧な言葉遣いで物腰も柔らかく、字もメリーより余程綺麗に書け、更には読書を趣味としているほどなのだ。
 あそこまで身に着けるには相当努力したはずだ。何より図鑑に興味を持ち、本の知識と字の読み方と書き方、全部覚えてやろうという貪欲な姿勢がそれを物語っている。
 ずっと図鑑に視線を落としていたアイゼアがおもむろに顔を上げ、こちらの顔を覗き込んできた。

「あの、俺……まだお前の名前、知らないんだけど」
「言われてみれば。私はメレディス・クランベルカっていいます。略称のメリーで呼んでくれて良いです」
「メリー……さん……」

 アイゼアは元々鋭い感覚を持っており、子供の頃からそうだったのだろうということは何となくわかる。むしろそうでなくてはとても生き抜けなかっただろう。
 だからこそ散々周りの人に呼ばれていたメリーの名など、聞くまでもなく知っていておかしくはない。

 だがアイゼアはあえてこちらに名前を聞いてきた。これまで他を全く寄せつけようとしなかったアイゼアが初めて歩み寄った行動だとも言える。これはいい兆候だ。
 今日一日一緒に過ごしたが、薬の効果が抜けてきた感じはない。明日ももし同じなのであれば、良好な関係を築いておけるかどうかはとても重要だ。

「メリーさん。未来の俺ってどんな人になってんの?」
「あれ、嘘だって決めつけてませんでした?」
「嘘だと思ってる。でもメリーさんはホントだって言い張るから」
「そうですねー」

 どんな人、という漠然とした質問に何と答えるかメリーは悩む。印象をただ列挙するのは簡単だが、今のアイゼアが未来に希望や期待感を持てるような返答の方が望ましいはずだ。

「アイゼアさんは騎士になってますよ。人の痛みのわかる、とても優しい方です。いつも周囲に気を配って、支えて、まとめて、大勢の人に慕われてました。何というか……私にはできないことばかりできる人って印象です」
「……めちゃくちゃ褒めるじゃん」
「万能だとは一言も言ってませんけど」
「ううん、十分盛ってるって俺にはわかるよ。だって俺みたいなヤツがそんな人になってるわけないし」
「どうしてそう思うんですか?」

 アイゼアは何にそんなに後ろめたさを感じているのだろう。生まれのことか何かで自身の未来像に期待が持てないのだろうか。

「……そんなのどうでも良いでしょ。それより、もう一つ教えて。メリーさんは好きに生きてるって言ったけど、どうして俺なんかに親切にするの? この家から何か盗まれるとか少しは考えないわけ?」
「何か欲しいものがあるんですか? あげますよ」
「はぁ? そうじゃなくて、出身のこととか知ってたら普通は物を盗られるとか心配するよね? 嫌がったりとか、怖がったりとか。俺だけじゃない、大人の俺のことだって信用できるようなヤツじゃないでしょ。どう考えても」
「そんなふうに思いませんけどねぇ」

 アイゼアは何を言っても無駄だと理解したのか呆れたような顔をし、不貞腐れてそっぽを向く。子供のアイゼアが内に秘めている苦しみが今は手に取るようにわかる気がした。
 自分もかつては同じだった。黄昏の月だからと恐れられ、白い目で見られ、避けられ、受け入れてもらえない現実に傷つく。孤独と寂しさを抱え、それらを弱さとして切り捨てることで自分を鋭く尖らせていった。メリーにはいつもミュールがいてくれたが、アイゼアはずっと一人だった。その拗らせ方はある意味自分より深刻な気がした。

「アイゼアさん、よく聞いてください。あなたは私の大切な人なんです。今更何があったところでそれは揺らぎません。信じるかどうかは任せますが」

 見た目が子供になろうと老人になろうと今更知らない情報が開示されようと変わらない。このバケモノじみた本質を知っても、アイゼアは逃げ出すことなく友人として接し、いつでも正面から向き合ってくれている。この目で見たアイゼアの優しさと強さ、そして脆さをメリーは信じている。

「お人好しは馬鹿をみるだけって知らないんだ? かわいそー」
「あはは、それをアイゼアさんに言われるなんて。未来のあなたは私なんかよりずっとお人好しですけどね」
「え、それマジ? あり得ないんだけど。未来の俺は馬鹿なの?」
「さぁ、どうでしょうね」

 少しだけアイゼアと打ち解け、ゆっくりとだが彼の思いが垣間見えてきた気がする。さすがにフランとは全く違い、考え方も現実的だが、それでも子供らしい一面がチラホラと残っていた。


 穏やかに夜は深まっていき、メリーは温めた牛乳でココアを淹れ、アイゼアへと差し出した。以前ココアが好きだと言っていたことを思い出し、その味覚はこの頃のアイゼアにも通じると思ってのことだ。

「これ何?」
「ココアですよ。それを飲んだら、もう子供は寝る時間です」
「……わかった」

 アイゼアはコクリと大人しく頷くと、ココアを冷ましながらゆっくりと飲んでいく。その間に寝室のベッドの傍らへ使い魔を待機させた。万が一何か体に異常が起きたときに報せてくれるようになっている。
 寝る支度を整えたアイゼアと挨拶を交わし、寝室へ向かうのを見送る。メリー自身もいつでも寝られるよう支度をしてからソファで横になり、読みかけの本を読み始めた。




「いっ、痛っ……」
 夜も更けてきたのか、うとうとと微睡み始めたとき、使い魔のくちばしでコツコツと額をつつかれる。
 眠っていても起きられるようにとさえずりではなく、つつくようにしていたのだが、想像していたよりも痛く涙目になった。


 ズキズキと痛む額を摩りながらアイゼアの様子を見に寝室へと向かうと、特別変わった様子もなく眠っているように見える。
 誤作動だろうかと不思議に思っていると、静まり返った部屋に小さくうめく声が響いた。体に変調が表れたのかと思い、急ぎベッドの傍らに寄りアイゼアの様子を覗う。
 どうやら夢にうなされているらしく、うわ言のように謝罪の言葉を繰り返している。彼が一体何に対してそんなに謝っているのかはわからないが、かなり苦しそうだ。

「アイゼアさん、アイゼアさん。大丈夫ですか?」
 体を揺すると、少し冷や汗をかいているのか湿気った温もりが伝わってくる。アイゼアはギュッと渋い顔をしてからゆっくりと目を開き、隙間から赤紫色の瞳が不安げに覗く。
 この表情は見覚えがある。フランも時折怖い夢を見ると、怯えたような目をして震えていた。

「メリー……さん、何で……ここに?」
「怖い夢でも見ましたか?」
「俺……今……」

 少し混乱しているのかぶつぶつと言葉を口にし、体は小さく震えていた。メリーは掛け布団を捲り、アイゼアの隣へと無理矢理潜り込む。広めの一人用ベッドのため、そこまで窮屈にはならないだろう。

「えっ、ちょ、何っ……」

 アイゼアはこちらに気を使ってか、壁際ギリギリまで下がっていく。仕方ないのでこちらからアイゼアとの距離を詰めた。

「そんな寄らないで。狭いっ、潰れる……」
「なら端に行かないでもっとこっち寄ってください。一緒に寝ますよ」
「はぁ? マジ何なの? ねぇ、寝込みを襲われて殺されたらとか考えるでしょ普通……」
「はいはい静かに。早く寝てください」
「こんなん寝られるわけないって!」

 まったく急に元気になりだして困る。子供とはいえ分別のつく年齢ではあるし、もう深夜に近いのだから大人しく寝てほしいところだ。

「まぁ、任せてくださいって。こう見えて妹を何度も寝かしつけてきた歴戦の勇士ですからね」

 アイゼアに寄り添い優しく背中を摩ると、強張っていた体の緊張が解れて震えが収まっていく。フランが怖い夢を見た日はこうして一緒に寝ていた。背中を摩ってあげると安心できるのかすぐに眠りに落ち、穏やかな寝顔を見せてくれていたことを覚えている。

「ホント全然意味わかんない……子供扱いとかやめてよ」
「そもそも子供なんですよねぇ。仕方ないんじゃないですか?」

 拗ねたようなアイゼアの声が少しだけ微笑ましく、くしゃくしゃと頭を撫でた。背中へと手を戻し、子供特有のぽかぽかとした体温と華奢な感触を感じながら摩り続ける。穏やかな温もりはとても心地良く、メリーはゆっくりとまぶたを閉じていった。


「何が歴戦の勇士だよ、嘘つき。俺より先に寝てるくせに……」
 消えそうなほど小さな呟きと、ほんの少しだけアイゼアが体を寄せたことをメリーは知らない。


第35話 寂しさの融点  終
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