前章

 メリーと王子のダンスは続いている。何か会話をしているのか、楽しげに彼女の唇が動く。アイゼアは強烈な息苦しさを感じ、反射的に視線だけ背けた。

とても直視していられない。

 アイゼアは静かに一度深呼吸し、気持ちを落ち着ける。そして冷静に、自分はこの恋心を諦めない道を貫く決意を固めていた。
 まさかこんな形で恋心を煽られるとは。メリーを振り向かせたい気持ちや対抗心が、諦めようと思う気持ちなんてすっかり塗り潰してしまったのだ。

 そもそも迷っていた時点で諦めるつもりなんて自分には更々なかったのかもしれない。『メリーのことを考えている優しい自分』を自分に対して演じていただけで、本心ではきっと違ったのだろう。

 それでも一つ強く思うことは、想いの押し付けだけはしたくないということだ。諦めない道を選んだからといって、メリーの心に土足で踏み入り、気持ちを無視して物にしてやろうなんて思わない。
 あくまでもメリーに振り向いてもらうための努力に終始する。それだけは忘れないようにしなければ。
 そんなことを考えながらダンスが終わるのを待っていると、背中を軽くつつかれ、横に一人気配が並ぶ。

「アイゼアってホント女運壊滅的だよね〜」
「……サヴァランか」
「はぁーあ、今年こそはと思ったのに結局かっ攫われて一人ぼっちかよ。ま、殿下に太刀打ちなんてできるわけもないんだけど、あまりにも格が違いすぎるからさすがにかわいそうでさぁ……ぅ……何かオレ、泣いちゃいそうかも」
「何でそこでサヴァランが泣くのかな」

 泣きたいのはこっちの方だ、というささくれた心のまま苦笑いを返す。同情的なサヴァランの言葉が傷心のアイゼアの心に痛いくらいに沁み、より惨めな気持ちにさせられた。


 間もなくダンスが終わり、二人は礼を交わすと拍手が起こる。
 国王の閉会の挨拶の言葉は今年の出来事や海を挟んだ隣国スピリアにまで及んだ。同時にこの苦難を乗り越え、無事に建国を祝えたのは人間と霊族が手を取り合い打ち勝ったからだという言葉で締めくくられた。王子やメリーの思いは国王の望むところでもあったというわけだろう。

 挨拶が終わると同時に軽食がすみのテーブルへと供され、給仕がお酒を振る舞い始める。一気に賑やかになったホールへじきに音楽が流れ、若い子息令嬢たちは自由にダンスを踊り始めるだろう。

 メリーは王子と少しだけ会話を交わしてからこちらへと戻ってくる。何とも晴れやかな笑みが、今は心を雑巾ぞうきんのように絞り上げる。

「メリー、立ち振る舞いもダンスも完璧じゃん。初めて会ったときとは別人かと思ったくらい。かなりカッコ良かった!」
「ありがとうございます、サヴァラン様。アイゼア様、私と殿下のダンスはどうでしたか?」
「堂々としてて立派だったよ。本当に綺麗だったし」

 途中から目を逸らしていたヤツが何を言っているのかと内心毒づく。こういう嘘を平然とつける自分が時折に嫌になる。

「それは良かったです……私をここへ招待したアイゼア様の顔に泥を塗らないようにと、本気を出して頑張ったのです。これで少しははくがついたでしょうか」
「へ……? 僕の、ため?」
「むしろそれだけがここにいる理由ではありませんか」

 上品に口元を隠して、くすくすとおかしそうに笑うメリーに、それは狡いよと言いたい気持ちを抑える。自分が嫉妬心に焦がされていたとき、メリーはアイゼアのためにと懸命に役目を果たそうとしてくれていたらしい。とことん自分の浅はかさが晒され、恥ずかしさで消え入りたくなる。

 そもそも恋人でもないメリーに抱くこの嫉妬心は傲慢以外の何物でもないだろう。恋人でもないのに何様のつもりなんだ、と言われても仕方ないくらいだ。

「健気だねー。にしてもアイゼア、良かったじゃん! コイツさ、殿下にキミをかっ攫われてしょぼくれてたんだよねー」
「サヴァラン……でたらめを言わないでほしいんだけど」
「ははっ、冗談だよー。顔怖いなぁ。とにかく、今年こそは日付変更まで頑張れよっ」
「痛っ」

 気合を入れるように思い切り背中を叩かれ、サヴァランはひらひらと手を振りながら同伴していた女性に声をかけて去っていった。


 日付変更まではまだ二時間ほどあり、メリーと軽食を摂ってから、開放されている宮殿の庭を歩く。月明かりと取り付けられた照明が庭の石畳や芝生を柔らかく照らし出している。

 アイゼアの頭をよぎるのは、メリーが王子と何を話していたのかということだった。王子は人間と霊族の友好を目的のためにメリーを誘った。
 だが意図を汲み取った瞬間、メリーに対し明らかに親しみを込めた笑顔になった。少なからず好感を抱いたことは間違いない。気に入られてしまっていたら、という思いが拭えないが、余計な詮索は気味悪がられるだけだ。

 庭の噴水の縁に二人で腰を下ろす。ずっと立ちっぱなしだった足が少しだけ解放されて楽になった。

「メリー、足は大丈夫? 寒くはない?」
「心配してくださりありがとうございます。足は少し疲れましたけど、寒さの方は魔晶石を忍ばせてありますので」

 疲労の色も見せずメリーは相変わらず微笑み続けている。普段ここまで取り繕うことのない彼女が、ありありと普段と違うものを演じている。

「今は誰もいないし、少しだけ気を抜いても良いんじゃないかい?」
「いえ、家に帰るまでは完璧な淑女であらねばなりません。心配してくださりありがとうございます」

 人も少なく穏やかに過ごしていると、正面からこちらへと向かってくる三人の男女の姿があった。一人は二十代半ばの青年、二人は十代後半から二十代くらいの女性だ。近づいてくるにつれ、こちらを睨んでいるのだとわかり、アイゼアは腹を括る。とうとう恐れていたことが起こるのだ、と。

「陛下や殿下を惑わす邪悪な魔女……やっと見つけたわ!」

 一人の令嬢が、腕組みをしてメリーの前に立つ。やはり絡まれた、というげんなりとした思いが心を沈ませていく。
 こちらも立ち上がり、対応するしかない。それにしても王や王子を惑わせたなど言いがかりもはなはだしい。

「おやおや、血も涙もないバケモノくんと魔女殿が仲間だったとは……君たち何を企んでいる?」 
「何も企んでなどいませんよ。僕たちは至って普通に舞踏会に参加しているだけですので」
「人の良さそうな顔をしてよく言う。お前は自分を引き取った親を殺して貴族位を奪い、更に殺しに協力したヤツらを突き出して騎士としても成り上がったそうだな?」
「やっぱり貧民街出身は怖いわ〜! 狡くて卑しくて……」

 静かな庭には似つかわしくない耳障りな笑い声がケタケタと響く。何度説明したってこの手の者たちはアイゼアの言葉に耳を傾けてはくれない。

「それよりアナタ。魔法薬師だと噂に聞きましたけど、もしかして殿下に薬を盛ったのかしら? それとも魔術で惑わせたのかしら?」
「人殺しのアイゼアとつるんでいる者にろくなのがいるわけなかろう。スピリアからの間者か、魔女殿?」

 魔術を使ったか、薬を盛ったのかの否定はメリーでなければできない。アイゼアが何かを言ったところで相手を言いくるめるような説得力はないからだ。
 だがメリーは弁明するわけでもなく無言を通したまま、ただ笑みを崩さずにじっと視線を向け続けている。

「お前のことはよく知っているぞ。人体実験も受けたらしいじゃないか。本当に人か? 人の皮を被ったバケモノなんじゃないのか? あの虐殺者の血を引いてるんだから、元からバケモノかもしれんがね」
「ただの噂だけで『知っている』なんて、よく言えたものだ。根拠のないものを鵜呑みにして人を貶める行為を恥ずかしいと感じないのかい? それに彼女がどんな生まれや過去を持とうが、断じてバケモノではない。バケモノだったら、クランベルカ家の野望を阻止しようとするはずもない」
「ほぅ、バケモノがバケモノを庇うのか。何とも珍妙な光景だ」
「話を逸らさないでいただきたい」

 反論に窮するとすぐに相手を暴言で貶めて見下し、常に優位を保とうとする。見慣れた展開だ。

「あの……」

 小馬鹿にしたような笑い声を上げている青年に、メリーは静かに一歩詰め寄る。変わらない貼り付けたような微笑みは貴族の令嬢そのものなのに、すぐにでも食い殺さんとする鋭い瞳が彼らを縫い付けていた。『静かな殺意』という単語が頭をよぎる。

「言いたいことはそれだけでしょうか? ないならこちらからの反論に転じさせていただきますが」
「反論ですって? やれるもんならやってみなさいな」

 メリーの挑発に令嬢の一人が乗った。わかりやすく煽るということは、メリーには何か反証できるものがあるということだろう。

「殿下はとても聡明な方でいらっしゃいますが、その下についている貴族のあなた方は愚鈍でいらっしゃる。両族の友好以上の意味などないというのに何を焦っておられるのですか? それともあなた方は霊族との戦争をお望みで?」
余所者よそものだから知らんのか、それともとぼけてるのか? 殿下は今年で成人なされた。此度の舞踏会で最初に踊る栄誉が何を意味するのか、そんなもの決まりきっている。それだけが理由のはずもない!」

 青年は苛立ちながらふんぞり返り、見下ろすようにしてメリーを睨む。それに対しメリーは、合点がいったと言わんばかりにうなずき、なるほどと小さく呟いていた。

「……今年はセントゥーロとスピリア、大きく見れば人間と霊族の間に亀裂が生じかねない出来事がありました。現実問題、この国は霊族が少ないせいか今回の件で偏見を持った人間も少なからずいるのです。殿下はそれを憂慮し、人間と霊族は手を取り合えるのだとあの場で示されたのです。殿下は我々霊族に手を差し伸べてくださった。私はクランベルカ家の者として、そして霊族の一人として、その一助になればと一曲踊っただけに過ぎません」

 青年は顔を引きつらせ、対照的に女性たちはホッと胸を撫で下ろしている。

「現に殿下は花嫁探しの話など一切なさりませんでした。それをあなた方が勝手に決めつけては殿下の苦労も水の泡でしょう。そもそも社交場は単なるお見合い会場でも遊び場でもないのです。もう少し理性的に立ち振る舞われることをお勧めいたします」

 反論の隙を与えないほど矢継ぎ早に飛び出す言葉が止まると、しんと静寂が訪れる。男性が何か言いかけてまごついているが、やがて反論の言葉を見つけたのか急に強気になって怒鳴る。

「祝いの場に政治を持ち込む無礼者が……陛下や殿下がお許しになったからこそ、お前はここにいられるのだぞ!」
「重々承知しております。陛下、殿下のご配慮あってこそ成し得られたものですから」
「分を弁えない身の程知らずが。そもそもここはお前たちのような平民風情が来ていい場所ではない!」
「僕は招待状を陛下より賜ってここへ参じている。礼儀を語るその口で陛下のご意思を否定するのか。それは無礼で分を弁えない身の程知らずの行いではないのかい?」
「それはっ……!」

 墓穴を掘り、返す言葉をなくしたのか「このバケモノ共が」という捨て台詞を吐いて退散していった。
 騒がしかった庭園に再び夜の静けさが戻り、アイゼアは小さく息を吐いた。

「お見合い会場でも、遊び場でもない……か」
「その言葉には続きがあるんですよ」
「続き?」
「相手に取り入り、時に出し抜き、常に政治的意図を考え、空気、表情、言葉の裏を読め。社交場は戦場、敵に寸分の隙も見せてはならぬ」
「メリー、それって……」

 メリーは教育として、立ち居振る舞いや礼儀作法なども躾けられたという話をしていた。社交界での心構えもそのときに学んだはずだ。おそらく今の言葉はかの元凶、ストーベルの教えなのだろうと直感的に思った。

「それがわからない者は遅かれ早かれ潰されます。カストルさんとポルッカさんにもその辺りをきちんと教えてあげてくださいね」
「そうだね。この世界は綺麗事ばかりじゃ生きてけないし。けど、二人にはあんまり知ってほしくはないなぁ」

 だが貴族位を二人に移譲するならいつかは教えなければならない。綺麗なものだけを見せて育て、突然こんな場所に放り出すのはあまりにも酷だ。

「それにしても……成り上がることばかりの無能を抱える陛下の心労は察するに余りあります」

 ぽそりと風に消えそうなほど小さく呟かれたメリーの言葉に、ギクリと心臓が跳ねた。メリーが花嫁候補として選ばれてしまったのかもしれないと焦っていた自分も、あまり人のことは言えない。

「愚鈍なのは僕もだよ。メリーに言われるまで、殿下の真意に気づけなかった」
「……思い込みは目を曇らせるものですね」

 メリーは呆れたように嘆息して肩を竦め、噴水の縁に再び腰を下ろす。アイゼアもその隣へと座った。

「あなたがなぜ舞踏会で暴言が飛ぶと恐れていたのか、やっと理由がわかりました。ただの悪口ではなく、まさか両親の死の濡れ衣を着せられているなんて」

 メリーはあの貴族たちに対し、アイゼアを庇ったり反論することはなかった。おそらく相手に何を言っても、やったやってないの押し問答にしかならないとわかっているからだろう。実際もう長い年月、アイゼアはその押し問答を繰り返し続けてきた。

「血も涙もないバケモノ……安い言葉で笑ってしまいますね。本物のバケモノがどんなものか、見たことがないのでしょうね。随分と平和なことで結構ですが」

 メリーは今きっと頭の中にそのバケモノを思い浮かべているのだろう。ストーベルの姿をしているのか、それともまた別のものなのかは知らないが、彼女の言葉は見たことがある者のそれだった。

「アイゼア様がバケモノなんてあり得ませんよ」
「……それはどうかな」
「アイゼア様?」
「時々わからなくなるんだ。血も涙もないバケモノだって言われて、もしかしたらそうなのかもって。本当の自分ってなんだろうって」

 この夜の雰囲気に負けたからなのか、心が不安定で弱っているからなのか、誰にも吐いたことのない弱音がぽろりと口をついて零れた。


第22話 君の背は遥か遠く  終
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