前章

 受付を済ませ、無事に国王との挨拶も交わし、会場になっている大広間へと通された。

「なぜ陛下があのような場所に立っておられるのですか?」

 大広間の入口には国王と王妃、王子の三人が立ち、訪れる賓客ひんきゃくと挨拶を交わしている姿が見える。メリーの指摘通り、本来王族である王家の者が入口になど立つ必要などない。疑問に思うのは当然だろう。

「陛下自身のご意向で立たれているみたいで。毎年入口で賓客と挨拶を交わすのが慣わしのようになってるんだよ」
「陛下だけでなく妃殿下や殿下も出迎えてくださるなんて、王家の方々は何というか……とても気さくなのですね」
「僕の養父と陛下は騎士学校時代からの友人らしくて、本来はもっと素朴でやんちゃな人だと言ってたよ。僕には想像もつかないけど。そうそう、この舞踏会もダンス好きな陛下の意向でそうなったんだ。その前は昼に行われた式典だけだったみたい」
「王家の方が騎士学校? 随分と破天荒な……よく許可が下りましたね」

 メリーは物珍しそうな視線を入口の方へと向けていた。現国王が型破りな人柄だという話は一応うわさ程度に国民も知っていることではある。

「やぁやぁ、ちゃーんと来たなアイゼア」

 不意に後ろから声をかけられ振り返ると、ふにゃっといつもの抜けたような笑みを浮かべたサヴァランとその隣に対照的なほど凛とした出で立ちの男性、ラウィーニア家の嫡男であるスリーズが立っていた。サヴァランの次兄はこうした場を嫌い滅多に顔を出さないため、アイゼアも会ったことはない。
 そしてこの二人は、アイゼアと普通に接してくれる数少ない貴族でもある。

「久しぶりだな、アイゼア殿」
「ご無沙汰しております、スリーズ様」
「兄上にそんな畏まらなくて良いってのに、毎回律儀だなぁ」

 サヴァランは本気でそう思っていながら、それが許されないということも熟知していて言うのだから、本当に人が悪い。

「メリーもアイゼアの頼みを引き受けてくれてありがとうねー。兄上、この子が前話してたメレディスだよ」
「お初お目にかかります。メレディス・クランベルカと申します」

 メリーはスリーズへ向け、スカートを摘んで膝を軽く曲げて淑やかにお辞儀した。
「私はスリーズ・ラウィーニアだ、よろしく。貴女がかの魔術士殿か。噂はかねがね聞いているが……当てにならないものだな。陛下に直訴したと宰相閣下や貴族たちが青ざめていたものだからどんな豪胆な男かと勝手に思っていたが、可愛らしいお嬢さんだったとは」

 豪胆なのは間違っていないだろう。メリーはぱっと見ただけの印象では穏やかで常識人然とした雰囲気がある。だが、それは見た目の話で中身は全く違っていることをアイゼアはよく知っていた。

 スリーズは当然その事を知るわけもなく、友好的で朗らかな笑みを浮かべている。決して飾っているわけでもないのにどこか品のある笑い方だ。それに対してメリーは少し困ったように口元を隠して笑っている。

「あの、大変申し上げにくいのですが、お嬢さんという年齢ではありませんので……」
「おや、これは失敬。霊族は見た目から年齢の判別ができないことを失念していた」
「え、そうなの? メリーって年いくつだっけ?」
「馬鹿者、女性に年齢を聞くやつがあるかっ」

 その瞬間、サヴァランの頭上にスリーズの拳が容赦なく振り下ろされる。痛みに声を上げ頭頂部を押さえるサヴァランを、スリーズは呆れたと言わんばかりの視線を向けてため息をついた。

「本当にすまないな。うちの愚弟は昔からかなり失礼で遠慮がないんだ。悪いやつではないのだが……非礼はどうか私に免じて許してやってくれないだろうか」
「怒っておりませんので、お気になさらないでください。年齢ですが、二十三です。誕生日を迎えたら二十四になります」
「え、オレらと一つ違いじゃん?」
「お前がメレディス殿やアイゼア殿のようになってくれれば、私も父上も苦労はしないんだがな。まったく……いつまで子供のままでいるつもりなのやら」
「っとー、まーた兄上の小言が始まった。ほら、次の挨拶行くぞー。アイゼア、メリー、また後でねー」
「こら、引っ張るんじゃないっ。アイゼア殿、メレディス殿、すまないがこれで失礼する」

 スリーズは会釈えしゃくすると、サヴァランに引っ張られて人混みの中へ消えていった。

「ラウィーニア家の方々はまだあんな者と付き合いを続けているのか」
「皆騙されて殺されたんだ。人をあざむいて取り入るのが上手いんだろ」

 会話のざわめきの中に、ひそひそと嫌な言葉が混じって聞こえてくる。サヴァランたちや国王には届かないような小さな小さな声を拾ってしまう。

「ラウィーニア家は位が高いのですか?」
「公爵家だって言えば伝わるかな?」
「はぁ、なるほど……それで……」

 メリーは納得したように頷く。おそらく彼女の耳にも陰口がいくつか聞こえたのだろう。
 だがそれも大広間内の照明が落ちたことで、ざわめきと共に収束する。いよいよ舞踏会が始まる。

 いつも通りの流れであれば、陛下からの言葉で始まり、国王と王妃のダンスの後、賓客たちのための曲が三曲演奏される。元々招待状で何曲目に踊るかの指定があり、指定通りの回で一度踊る。最後に王子が賓客の女性の中から一人を選び踊る。そこまでが形式的な舞踏会となっている。

 その後の時間からはお酒や軽食の提供が始まり、曲も次から次へと演奏され好きなときに好きな者を誘って踊っていいことになっている。この自由時間は会話や交流を図る時間でもあり、人脈作りや婚約者探しに来た子息令嬢にとってもうってつけなのだ。

 特に今年は王子が成人の十八歳を迎えて初めての年になる。縁談についてもいよいよ本腰を上げて……という風潮に、貴族の令嬢たちは例年以上に色めき立っていた。

 自由な舞踏会が深夜まで続いた後、日付変更の際に建国を祝う。その後はお開きになるまで、終始そんなゆったりとした舞踏会が続く……とサヴァランは言っていた。

 国王から舞踏会開始の言葉が述べられ、すぐに国王と王妃のダンスへと移行する。
 美しい音色が鳴り響き、ダンスが始まった。国王はダンスが好きということもあり、毎度その優雅さに圧巻され目が離せなくなる。素人のアイゼアが見ても一目でわかるほど、完成度の高い優美なものだ。対する王妃もそれに負けず劣らず洗練されているのも毎年のことだ。

 やがて曲が終わり、国王と王妃が奥の席へ戻ると、一曲めが始まる。アイゼアたちの番は三曲めだ。
 いつもはさほど緊張しないにも関わらず、曲が過ぎていく毎に心臓の鼓動が早まっていく。何に対しての緊張なのか、緊張する点が多すぎてどれが理由なのかわからない。

 そうこうしている間に二曲めも終わりを告げ、いよいよ三曲めが始まろうとしている。メリーの手を取り、大広間の中央へと進み出る。
 左手でメリーの右手を握り、右手を肩に添える。アイゼアは緊張を解すように静かに息を吐いた。

「緊張しておられるのですか?」
「うん、少しだけ」
「笑顔をお忘れになられないように」

 メリーはここに来てからずっと笑みを崩していない。その余裕を感じられる様子に緊張が僅かに解れていくような気がした。

 演奏が始まり、足を踏み出す。前に一度試しに踊ってみたときより、メリーの足取りは軽く伸びやかで、自信に満ち溢れている。かといって自分勝手に刻まれているわけではなく、あくまでもこちらに主導権を委ねている動きだ。

「どうですか? 前よりも上手に踊れていると思いませんか?」
「練習した?」

 メリーは小さく頷き、まっすぐにアイゼアの目を見て微笑む。普段ではありえない距離の近さにふわふわとした高揚感を覚える。この日のために練習していてくれてい健気さが胸をくすぐって止まない。

「すごく上手になってて驚いたよ」

 いつもなら踊っているときにすら聞こえる陰口の類が聞こえてこない。誰にも陰口を叩かれていないというわけではないだろう。きっとそれ以上に今が楽しくて、どうでもいいと感じているのだ。

 自然と余計な雑音がかき消され、やけに早い自身の心音と互いの呼吸、優雅に奏でられる音楽だけが心地良く耳に届く。

 楽しい。舞踏会の場でそんなふうに思えるのは初めてだった。不安も緊張も取り払われていく。メリーといるだけで、こんなにも世界は違って見えるものなのかと胸が熱くなった。
 今だけと言わずずっと傍にいてくれたらいいのに、という図々しい感情が湧き上がる。メリーがそれを望む望まない関係なく、この心はお構いなしだ。

 くるりと回るたびに山吹色のドレスの裾が優雅に翻り、微かに梔子の花の香がしたような気がした。赤い絨毯、色とりどりのドレスの観衆、眩い程の照明のせいか周囲がキラキラと鮮やかに輝いて見える。

 間近で見るメリーはやはり綺麗だった。化粧もかなり丁寧に施されているのがわかる。深海色の瞳に明かりが映り込み、まるで星空を映す水面のように煌めく。近くで見れば見るほどいつもと違う雰囲気に当てられ、幸せな夢でも見ているかのように胸が高鳴った。

君はその作られた笑みの後ろで何を思っているのだろう。

 同じように楽しいと感じてくれていたらと願わずにはいられなかった。
 夢のような時間はあっという間に終わりを告げ、メリーの手を引いて壁際へと捌ける。薄い手袋越しに感じていた手の温もりが離れ、チリチリと胸の内側が燻った。
 メリーは一仕事終えたといったふうに、清々しい笑顔でホッと胸を撫でおろす。

「一つやり遂げましたね、アイゼア様。終わったというのに今更ドキドキしてきてしまいました」

 呼吸を落ち着けるように、白い手袋をはめた手が胸元に当てられる。興奮気味に目を丸くし、こちらを見上げる瞳は変わらず星空を閉じ込めたような光を宿していた。

 次の王子のダンスで形式的な舞踏会は終わる。貴族の令嬢の大半が期待のこもった熱い眼差しを王子へと向けており、積極的な者は前へ前へと出ていく。

 王子は立ち上がると、大広間の中央へ向けて静かに歩き出す。やがて令嬢たちの間をすり抜け、迷いなくまっすぐにこちらへ向かってくる。
 ハニーブロンドの美しい短髪を揺らし、日差しを受けた木々の葉のように輝く深い緑の瞳が一人の女性を見つめて止まる。そして気品溢れる所作で手を差し出した。

「メレディス・クランベルカ殿、私と一曲踊っていただけませんか?」

 自身の胸の奥にズキッと痛みが走り、会場中がざわめきに包まれた。なぜ彼女が王子に選ばれたのか、あれがあの噂の魔術士『メレディス・クランベルカ』なのか、男ではなかったのか、と観衆が口にしている。

 アイゼアはというと理解が追いつかずに完全に凍りついていた。なぜ王子がメリーを選んだのかはわからない。だが、もやもやとした嫌な感情を抱いている。それは焦燥のような、嫌悪のような、惨めなような、一言では言い表し難い何かであった。

 そしてこの後、メリーは間違いなく王子と一曲踊ることになる。王子の申し出を断るなんてことはまずできるはずもないからだ。そんなことは自分なんかよりずっと社交界を知っていそうなメリーの方がよくわかっているだろう。

 メリーは驚きこそすれ、動じることなく凛とした佇まいのまま王子をまっすぐに見つめている。その目が戸惑いをもってこちらへ向くことはない。気圧されず、怯まず、堂々とした姿は誰から見ても非の打ち所のない淑女のそれだった。

「……殿下、私でよろしいのでしょうか?」

 メリーはすぐに受けず、確かめるように落ち着いた様子で尋ねる。これだけでも相当な失礼に当たり、にわかに会場中がざわめいた。
 無礼ではないかという憤りの声、その影に隠れて令嬢の嫉妬や自分の娘が見初められなかった親の苛立ち、恐ろしい魔術士なのではないかという謂れのない陰口がひそひそと渦巻く。

「舞踏会に参加しておられると知り、今年踊る相手は貴女以上に相応しい方はいないと考えました」

 そのざわめきを意に介すことなく笑みを浮かべたまま告げられた王子の言葉に、アイゼアは愕然としていた。同じことを思った者もいたようで嘆くように俯く令嬢がちらほら見える。

 無理もない。今年は王子が成人して初めての年の舞踏会だ。ここで指名されるのは真っ先に花嫁候補になったも同然ということになる。式典でのダンスは、この後の自由な舞踏会で踊るのとは一段格が違うのだから。

 メリーが王子の年齢を知らなければその事実には気づけないが、気づいたところでどの道踊ることは確定事項だ。それでも、断われないと理解していてなお、アイゼアは行かないでくれと引き止めたくてたまらなかった。

「謹んでお受けいたします。いえ、私の方からもお願いいたします。どうか、人間と霊族の友好を願って」

 メリーの凛とした声が一際強く鋭く会場に響く。それは令嬢のものというよりは騎士のような堅さだった。

 放たれた言葉の内容に思考が一瞬停止する。周囲のざわめきまでもがまるで波が引くようにしてほとんど静まり返っていた。

「私も人間と霊族は手を取り合っていけると信じています。両族の架け橋となれるのなら、私も嬉しい」

 王子の貼り付けたような微笑が、少し幼さの残る柔らかなものへ変わり、深くなった。

 差し出された手にメリーの手が重ねられる。ゆっくりと前へ歩みだしたメリーの背が少しずつ離れて小さくなっていく。二度と手の届かない、気安く会話することも許されないような、遠くの存在になっていくような心地だった。

 花嫁候補にされてしまうのではないかと先走った短慮な自分の思考を恥じながら、メリーの背を見つめることしかできない。
 大広間の中央で向かい合わせになり、形式に従って互いが一礼を交わす。メリーの完璧な所作は、本当に舞踏会が初めてなのかと確かめたくなるくらいだ。

 手を握り、肩に手が添えられ、音楽と共にダンスが始まる。メリーの足運びはしなやかで、立派な淑女然としている。王子と並んでも釣り合っていると思えるほど、彼女の姿は洗練されていた。
 だからこそ浮き彫りになる。自分はメリーには相応しくないのだと。だがなぜか不思議と諦めなくてはという気持ちはすっかり湧かなくなっていた。

 メリーが別の人の手を取った瞬間、物凄く嫌だと感じた。諦めるということは、今の自分の立場に甘んじるということに他ならない。その選択をした自分に待つ未来は確定的に決まっている。

別の誰かとの楽しかった話を聞かされる日が来る。
恋人ができたのだと別の誰かを紹介される日が来る。
結婚を祝福しなければならない日が来る。
彼女が信じて疑わない『良き友人の仮面』を貼り付けて、その下で泣くしかない。

 悟られず上手くやる自信はある。良き友人を演じ続けることはできる。だがこれはそういう問題ではない。何もせずこうしてただ手をこまねいているのがもどかしくて、歯痒くて、悔しい。良き友人なんて真っ平御免だ、と心が叫んでいた。


第20話 温もりも微笑みもすり抜けて  終
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