前章
メリーの家の裏庭には彼女が採取してきた薬草や樹木などが栽培されており、片隅には小さな温室まである。この前移植した梔子 の木も元気そうだ。最初の何もなかった頃が想像できないくらい今は充実した裏庭になっている。
空を見上げると今日は雲一つない快晴だ。日差しこそ柔らかな暖かさがあるが、冬という季節柄吹く風は身を縮めたくなる冷たさがある。手を摩りながら身震いすると「寒いですか?」と、こちらを気遣うメリーの声がした。
一年の大半が雪と氷で閉ざされた街ノルタンダール、そこがメリーの故郷だ。雪を連れて来ることもないこの北風は、彼女にとって春風のようなものなのかもしれない。
「心配しなくて大丈夫だよ。日差しは暖かいし、晴れててよかった」
「無理は禁物です。一通り確かめて早く中に戻った方がいいですね」
寒さに意識を持っていかれていたが、裏庭に来たのはメリーとダンスをするためだったことを思い出した。
「そうだね。じゃあ、お手をどうぞ」
忘れかけていた緊張を思い出すより早く、平静を装ってゆったりと左手を差し出す。
「よろしくお願いします」
躊躇 いもなく伸ばされるメリーの右手がアイゼアの手に触れる寸前、「あっ」という小さな声と共に引っ込められた。メリーは自身の指先をじっと見つめたまま少し気まずそうにしている。
「何かあった?」
「あぁ……いえ、大したことではないんですけど。薬品のせいで少し指先が荒れてるかもしれません。一応軟膏 で保湿はしてるんですけど、刺さって痛かったらすみません」
メリーは指先を摺り合わせながら、申し訳なさそうにはにかむ。その表情を見た瞬間、何とも言えない感情に強く心臓が反応を示す。胸の奥がじんと熱を帯びて痺 れて、一瞬だけ息の詰まるような、少し苦しくそれでいて心地良い奇妙な感覚だった。
「大丈夫、いつも仕事を頑張ってる手ってことでしょ。謝らないで」
女性らしい繊細な悩みを抱くメリーを励まそうと言葉にしつつ、荒れているという指先を視線が追う。
メリーの手に触れるのは何も今回が初めてではない。だがそれは互いにはめていた手袋越しのやり取りであった。今は室内で過ごしていたそのままで、双方が素手であることに気づく。なぜこうもどうでもいい情報を拾ってしまうのか。
何も特別なことではないと言い聞かせ、改めて手を差し出すと今度こそメリーの手がアイゼアの手に触れた。ダンスをするために、深く絡め取るようにして柔らかく包み込む。控えめに握り返された指先は確かに少しだけカサついている。それでも触れた肌は柔らかく、繊細で華奢 な手だった。
冷えた空気が握られた手の温かさをより強調し、否が応にも意識がそちらへ行ってしまう。空いている右手を肩の下あたりに添えると、メリーの左手もこちらの腕に添えられた。ダンスの距離感はこんなに近かっただろうか、などとという余計な思考になぜか鼓動が早まる。
「アイゼアさん、『せーの』でいきますよ」
「え、うん。わかった」
「じゃあ、せーの……」
メリーの声に合わせて足を踏み出す。
「一、二、三。二、二、三……」
確かめるように三拍子の拍を取るメリーの声に合わせて、足運びを一つ一つ確かめるようにゆっくりと刻んでいく。メリーは自信がないのかずっと俯いて足元ばかり見ている。こちらの足を踏まないように気を使っているようだった。
彼女の緊張がやや強張った体や握られた手の力、そして少し固い足運びから伝わってくる。懸命さは失敗するわけにはいかないという意思の表れだろう。だがこちらへ意識が向いていないことが少しだけ惜しいような気がした。
「メリー、顔を上げて。ちゃんと踊れてるから」
「踊れてますか? 誰かと踊ること自体も初めてなんで、ついていけるか不安で……」
「大丈夫、失敗してもこれは練習だし。もし本番だとしても、そのときは僕が支えるから」
「……ありがとうございます。下を向いてたら確かに様にならないですしね。堂々と踊れなければ意味がありません」
メリーはやっとこちらへと顔を上げた。
その瞬間、ややぎこちなかったメリーの足運びが変わる。こちらを信用して身を委ねるようになったことで、固かった動きが滑らかになっていく。
不安定に揺らめくメリーの紺の瞳はアイゼアだけを映し込んでいた。深い海の底を思わせる瞳の色に、まるで溺れていくような不思議な感覚に囚われる。顔を上げさせたことを僅かに後悔しながらも、手放し難い感情を抱いた。
一体何考えているんだ、という冷静な自分が歯止めの利かなくなりそうなふわふわとした高揚感を制御しようとする。それでもその瞳から目を逸らせずにいた。
自分の入り乱れた感情に見ないフリをして、振り払うように一歩大きくステップを踏みこんだ。
くるくると世界が大きく回り始める。鼓動に呼応するようにしてステップを刻み、同調するようにして呼吸も逸る。吐く息は白く、陽光に煌めく裏庭の芝や木々の緑が一層眩しく輝き、冬の澄み渡る青空が冷たい美しさで見下ろしている。落ち葉や芝を踏む音が、カサカサと心地よく耳をくすぐった。
「ちょ、あの、アイゼアさんっ……私、目が回っ……」
滑らかに動いていた足が不意にメリーの足と引っかかり縺 れる。倒れると思うと同時に、反射でメリーを庇うため引き寄せた。ふわりと花のような香りと薬品の匂いが甘やかに鼻を掠める。重力に逆らえずアイゼアの体は後ろへ傾き、尻餅をつくように倒れ込んだ。
とりあえずメリーが地面に投げ出されるようなことにならずに済んだことに安堵 した。
「すみませんっ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫。これくらい痛くもなんともないよ」
「ならいいんですけど……」
ダンスに慣れていないメリーは目が回ったのか、少しふらつきながら立ち上がる。すぐにアイゼアも立ち上がり、倒れないように背を支えた。
「それにしてもセントゥーロのダンスがこんなにも速くなるなんて……本番でついていけるかちょっと自信失くしちゃいますね。ちゃんと練習しておきます」
「速さっていうより、僕が調子に乗って振り回し過ぎただけだと思うよ。楽しいかもって思ってたらつい、ね」
自分本意でメリーを振り回して何をやっているんだ、という強い自己嫌悪に襲われる。今の自分は少し、いやかなりどこかがおかしい。混乱した頭はいつも通りには動いてくれず、何とも言えない気まずさにそれ以上何を言えばいいかわからなくなっていた。
そんなアイゼアをよそに、メリーはこちらを見て笑いをこらえるように肩を揺らしている。
「あの慎重派のアイゼアさんでも、うっかり羽目を外すことがあるんですね。珍しいものが見れました」
「あはは……本当にごめん」
怒ったような素振りもなく屈託なく笑うメリーに、アイゼアは内心救われていた。
あの後、体が冷えないようにと熱い紅茶を一杯ご馳走になってから騎士団の寮にある自室へと戻ってきていた。
すっかり夜も更け、寝る支度を整えたアイゼアは就寝するべくベッドで横になる。だがいつまで経っても眠気はやってきそうにない。いつでもどこでも寝られるのがアイゼアの特技の一つでもあったが、どうにも心がざわついて目が冴えてしまう。
窓から差し込む月明かりが妙に眩しく感じられ、手のひらで遮 った。ぼんやりと手の甲を見つめていると、思考が勝手に時間を巻き戻していく。
メリーがあんなふうに穏やかに笑うようになったのはいつからだろう。
かつて諦めるなと差し伸べ、掴んで引き上げてくれた彼女の手は凛々しく力強いものだった。
あの日と変わらないはずの手は、本当は心許なさを感じるほどに華奢な、女性のものだったのだと今日初めて実感した。あの小さな手で、大切なものを守ろうと必死に手を伸ばし続けていたのかと思い知らされる。
少しカサついていた指先の感触を思い出し、そこから辿るようにいろんなものが思い起こされていく。握る手の温度、強張った体の緊張感、懸命に刻むステップ、花と薬品が混ざったような独特な甘い香り、全てが手の届く先にあるかのように生々しく蘇っては思考を埋め尽くしていく。
あの時のふわふわとした胸の内側が浮き上がるような高揚感は経験したことのないものだった。
「思い出すな……考えるから寝れないんじゃないか」
手の甲で目を覆い、静かにため息をついた。思い出した感覚を遮断するように瞼 を閉じる。だが記憶も感覚も、訪れた闇の中まで追いかけてくる。
こちらを見上げる紺色の瞳は、水面のようにアイゼアを映していた。メリーの視界を自分が奪っていたのか、それとも自分の視界がメリーに奪われていたのか。きっとあの瞬間、彼女の深海の色に魅せられ、惹き込まれ、溺れていた。
あの瞳は今、何を映しているのだろう。それが自分の姿ではないことに胸の奥の方で小さく何かがチクリと疼 く。
「……っ」
アイゼアは深く息を吸い、ゆっくりと静かに吐き出す。それを何度か繰り返す。少しずつ落ち着いてくる思考の中、これは相当重症だと認識した。もう引き返せそうもないほど進みすぎてしまった感情に、途方もない気持ちになる。
「恋、か。本当に懲りないね、僕は……やめとけばいいのに」
自分自身を説得するように呟く。こんなことになる前に、もっと早い段階で気づいて芽を摘んでしまえたら良かったのかもしれない。
かつて付きまとわれ、根負けして付き合った女性がいた。だが仕事とカストルとポルッカの世話にかかりきりで彼女のことはどうしても疎かになった。結果、早々に破局した。そのときに凄まじい勢いで殴られたという話は、今でも時折騎士団内でからかわれることがある。
最初こそサヴァランの提案に乗って付き合っただけだった。だがこれだけ想っていてくれるのなら、自分も想いに応えられればと必死に好きになろうと努力した。全く時間の無い中で何とか会える時間を捻出もした。結局自分の気持ちが相手に傾くことはなく、恋心も芽生えないままあの関係は終わった。
それでも自身の軽率さと不誠実さで、つらく寂しい思いをさせたことは反省している。そんなふうに無責任に人を傷つけた自分が、相手を幸せにできるはずもない。恋心を抱く資格もなければ、実らせたところですぐに落ちて腐っていくだけなのではないか。
それでも心はそんな事情なんか無視して、自由で勝手気ままだ。理不尽に湧き上がった想いは簡単に消せるものでもない。
一体自分はいつからメリーに恋していたのだろう。サヴァランにメリーが好きなんじゃないか、と問われたときは恋愛感情は抱いていなかったはずだ。
考えても考えても、結局いつから好きだったのかという問いに答えは出なかった。だが自分は少しずつメリーの知らない面を知りたいと思うようになっていた。
破滅を止める旅の中、メリーはずっと自分をすり減らすようにして戦っていた。そんな彼女が、今では穏やかに笑っている。普通の何気ない表情を見つけては内心ひっそりと喜んでいた。
それは一重に、笑って暮らせる今をメリーが歩んでいることで、仲間の幸せを純粋に嬉しく感じているだけだと思っていたが、どうやら本質は違ったらしい。
メリーを思うのなら、この想いは捨ててしまうべきだろう。きっと彼女の重荷になる。想いを無理矢理押し付けられた経験があるからこそ、この恋心をメリーへ押し付けたくもない。
「あぁ、でも楽しかったな……」
メリーと過ごす時間は純粋に楽しくて、穏やかで、離れ難くて、手放したくない。
心が諦めていいのか、捨ててしまっていいのかとアイゼアに問いかけてくる。
ここで立ち止まれば、いつかメリーは誰か別の人と時間を過ごすようになる。あの手放し難い時間とは決別しなければならないときが必ず来るということだ。
本当にそれでいいのか。このまま何もしなかったら後悔するのではないか。そんな考えが頭をよぎってしまう。
狡いことに、どうしてもメリーの幸せより、自分の恋を叶えたい方向へ思考が傾いてしまう。どこまで行っても自分の本質は利己的で狡猾 で変わりはしないのかと自嘲した。
その証拠に、明日を楽しみにしてしまっている自分がいる。舞踏会まで時間がない関係で、急遽メリーとドレスを一緒に探しに行く約束をしたのだ。
きっとまた今日みたいに楽しい時間になる。明日も会えることが嬉しくて待ち遠しくなる。そんな子供みたいな無邪気な感情に混じるようにして、小さな独占欲が潜んでいる。メリーが明日という時間を自分のために割いてくれるのだと、優越感に似た感情が顔を出す。
自分の恋心はこんなにも浅ましく醜いものだったのだと愕然とした。巷 に溢れる恋愛小説はどれも純粋で無垢な、相手を想う愛情に満ちているというのに、だ。
メリーはアイゼアをそういう対象としては見ていないだろう。知られればメリーを傷つけてしまう。そんな感情を向けるのは、友人として信頼してくれているメリーへの裏切りなのではないかとさえ思う。
そう理解していながら捨てる勇気がない。想いを捨てるのか、貫くのか、今すぐにはとても決められそうもなかった。
とにかく明日は今まで通りの自分を意識して演じよう、そう心に固く誓う。
「僕は君の『良き友人』のままでいたかったんだけどね……」
すでに破綻してしまった願いは、一人ぼっちの部屋の暗闇に虚しく吸い込まれて消えた。
第15話 君の信頼と僕の裏切り 終
空を見上げると今日は雲一つない快晴だ。日差しこそ柔らかな暖かさがあるが、冬という季節柄吹く風は身を縮めたくなる冷たさがある。手を摩りながら身震いすると「寒いですか?」と、こちらを気遣うメリーの声がした。
一年の大半が雪と氷で閉ざされた街ノルタンダール、そこがメリーの故郷だ。雪を連れて来ることもないこの北風は、彼女にとって春風のようなものなのかもしれない。
「心配しなくて大丈夫だよ。日差しは暖かいし、晴れててよかった」
「無理は禁物です。一通り確かめて早く中に戻った方がいいですね」
寒さに意識を持っていかれていたが、裏庭に来たのはメリーとダンスをするためだったことを思い出した。
「そうだね。じゃあ、お手をどうぞ」
忘れかけていた緊張を思い出すより早く、平静を装ってゆったりと左手を差し出す。
「よろしくお願いします」
「何かあった?」
「あぁ……いえ、大したことではないんですけど。薬品のせいで少し指先が荒れてるかもしれません。一応
メリーは指先を摺り合わせながら、申し訳なさそうにはにかむ。その表情を見た瞬間、何とも言えない感情に強く心臓が反応を示す。胸の奥がじんと熱を帯びて
「大丈夫、いつも仕事を頑張ってる手ってことでしょ。謝らないで」
女性らしい繊細な悩みを抱くメリーを励まそうと言葉にしつつ、荒れているという指先を視線が追う。
メリーの手に触れるのは何も今回が初めてではない。だがそれは互いにはめていた手袋越しのやり取りであった。今は室内で過ごしていたそのままで、双方が素手であることに気づく。なぜこうもどうでもいい情報を拾ってしまうのか。
何も特別なことではないと言い聞かせ、改めて手を差し出すと今度こそメリーの手がアイゼアの手に触れた。ダンスをするために、深く絡め取るようにして柔らかく包み込む。控えめに握り返された指先は確かに少しだけカサついている。それでも触れた肌は柔らかく、繊細で
冷えた空気が握られた手の温かさをより強調し、否が応にも意識がそちらへ行ってしまう。空いている右手を肩の下あたりに添えると、メリーの左手もこちらの腕に添えられた。ダンスの距離感はこんなに近かっただろうか、などとという余計な思考になぜか鼓動が早まる。
「アイゼアさん、『せーの』でいきますよ」
「え、うん。わかった」
「じゃあ、せーの……」
メリーの声に合わせて足を踏み出す。
「一、二、三。二、二、三……」
確かめるように三拍子の拍を取るメリーの声に合わせて、足運びを一つ一つ確かめるようにゆっくりと刻んでいく。メリーは自信がないのかずっと俯いて足元ばかり見ている。こちらの足を踏まないように気を使っているようだった。
彼女の緊張がやや強張った体や握られた手の力、そして少し固い足運びから伝わってくる。懸命さは失敗するわけにはいかないという意思の表れだろう。だがこちらへ意識が向いていないことが少しだけ惜しいような気がした。
「メリー、顔を上げて。ちゃんと踊れてるから」
「踊れてますか? 誰かと踊ること自体も初めてなんで、ついていけるか不安で……」
「大丈夫、失敗してもこれは練習だし。もし本番だとしても、そのときは僕が支えるから」
「……ありがとうございます。下を向いてたら確かに様にならないですしね。堂々と踊れなければ意味がありません」
メリーはやっとこちらへと顔を上げた。
その瞬間、ややぎこちなかったメリーの足運びが変わる。こちらを信用して身を委ねるようになったことで、固かった動きが滑らかになっていく。
不安定に揺らめくメリーの紺の瞳はアイゼアだけを映し込んでいた。深い海の底を思わせる瞳の色に、まるで溺れていくような不思議な感覚に囚われる。顔を上げさせたことを僅かに後悔しながらも、手放し難い感情を抱いた。
一体何考えているんだ、という冷静な自分が歯止めの利かなくなりそうなふわふわとした高揚感を制御しようとする。それでもその瞳から目を逸らせずにいた。
自分の入り乱れた感情に見ないフリをして、振り払うように一歩大きくステップを踏みこんだ。
くるくると世界が大きく回り始める。鼓動に呼応するようにしてステップを刻み、同調するようにして呼吸も逸る。吐く息は白く、陽光に煌めく裏庭の芝や木々の緑が一層眩しく輝き、冬の澄み渡る青空が冷たい美しさで見下ろしている。落ち葉や芝を踏む音が、カサカサと心地よく耳をくすぐった。
「ちょ、あの、アイゼアさんっ……私、目が回っ……」
滑らかに動いていた足が不意にメリーの足と引っかかり
とりあえずメリーが地面に投げ出されるようなことにならずに済んだことに
「すみませんっ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫。これくらい痛くもなんともないよ」
「ならいいんですけど……」
ダンスに慣れていないメリーは目が回ったのか、少しふらつきながら立ち上がる。すぐにアイゼアも立ち上がり、倒れないように背を支えた。
「それにしてもセントゥーロのダンスがこんなにも速くなるなんて……本番でついていけるかちょっと自信失くしちゃいますね。ちゃんと練習しておきます」
「速さっていうより、僕が調子に乗って振り回し過ぎただけだと思うよ。楽しいかもって思ってたらつい、ね」
自分本意でメリーを振り回して何をやっているんだ、という強い自己嫌悪に襲われる。今の自分は少し、いやかなりどこかがおかしい。混乱した頭はいつも通りには動いてくれず、何とも言えない気まずさにそれ以上何を言えばいいかわからなくなっていた。
そんなアイゼアをよそに、メリーはこちらを見て笑いをこらえるように肩を揺らしている。
「あの慎重派のアイゼアさんでも、うっかり羽目を外すことがあるんですね。珍しいものが見れました」
「あはは……本当にごめん」
怒ったような素振りもなく屈託なく笑うメリーに、アイゼアは内心救われていた。
あの後、体が冷えないようにと熱い紅茶を一杯ご馳走になってから騎士団の寮にある自室へと戻ってきていた。
すっかり夜も更け、寝る支度を整えたアイゼアは就寝するべくベッドで横になる。だがいつまで経っても眠気はやってきそうにない。いつでもどこでも寝られるのがアイゼアの特技の一つでもあったが、どうにも心がざわついて目が冴えてしまう。
窓から差し込む月明かりが妙に眩しく感じられ、手のひらで
メリーがあんなふうに穏やかに笑うようになったのはいつからだろう。
かつて諦めるなと差し伸べ、掴んで引き上げてくれた彼女の手は凛々しく力強いものだった。
あの日と変わらないはずの手は、本当は心許なさを感じるほどに華奢な、女性のものだったのだと今日初めて実感した。あの小さな手で、大切なものを守ろうと必死に手を伸ばし続けていたのかと思い知らされる。
少しカサついていた指先の感触を思い出し、そこから辿るようにいろんなものが思い起こされていく。握る手の温度、強張った体の緊張感、懸命に刻むステップ、花と薬品が混ざったような独特な甘い香り、全てが手の届く先にあるかのように生々しく蘇っては思考を埋め尽くしていく。
あの時のふわふわとした胸の内側が浮き上がるような高揚感は経験したことのないものだった。
「思い出すな……考えるから寝れないんじゃないか」
手の甲で目を覆い、静かにため息をついた。思い出した感覚を遮断するように
こちらを見上げる紺色の瞳は、水面のようにアイゼアを映していた。メリーの視界を自分が奪っていたのか、それとも自分の視界がメリーに奪われていたのか。きっとあの瞬間、彼女の深海の色に魅せられ、惹き込まれ、溺れていた。
あの瞳は今、何を映しているのだろう。それが自分の姿ではないことに胸の奥の方で小さく何かがチクリと
「……っ」
アイゼアは深く息を吸い、ゆっくりと静かに吐き出す。それを何度か繰り返す。少しずつ落ち着いてくる思考の中、これは相当重症だと認識した。もう引き返せそうもないほど進みすぎてしまった感情に、途方もない気持ちになる。
「恋、か。本当に懲りないね、僕は……やめとけばいいのに」
自分自身を説得するように呟く。こんなことになる前に、もっと早い段階で気づいて芽を摘んでしまえたら良かったのかもしれない。
かつて付きまとわれ、根負けして付き合った女性がいた。だが仕事とカストルとポルッカの世話にかかりきりで彼女のことはどうしても疎かになった。結果、早々に破局した。そのときに凄まじい勢いで殴られたという話は、今でも時折騎士団内でからかわれることがある。
最初こそサヴァランの提案に乗って付き合っただけだった。だがこれだけ想っていてくれるのなら、自分も想いに応えられればと必死に好きになろうと努力した。全く時間の無い中で何とか会える時間を捻出もした。結局自分の気持ちが相手に傾くことはなく、恋心も芽生えないままあの関係は終わった。
それでも自身の軽率さと不誠実さで、つらく寂しい思いをさせたことは反省している。そんなふうに無責任に人を傷つけた自分が、相手を幸せにできるはずもない。恋心を抱く資格もなければ、実らせたところですぐに落ちて腐っていくだけなのではないか。
それでも心はそんな事情なんか無視して、自由で勝手気ままだ。理不尽に湧き上がった想いは簡単に消せるものでもない。
一体自分はいつからメリーに恋していたのだろう。サヴァランにメリーが好きなんじゃないか、と問われたときは恋愛感情は抱いていなかったはずだ。
考えても考えても、結局いつから好きだったのかという問いに答えは出なかった。だが自分は少しずつメリーの知らない面を知りたいと思うようになっていた。
破滅を止める旅の中、メリーはずっと自分をすり減らすようにして戦っていた。そんな彼女が、今では穏やかに笑っている。普通の何気ない表情を見つけては内心ひっそりと喜んでいた。
それは一重に、笑って暮らせる今をメリーが歩んでいることで、仲間の幸せを純粋に嬉しく感じているだけだと思っていたが、どうやら本質は違ったらしい。
メリーを思うのなら、この想いは捨ててしまうべきだろう。きっと彼女の重荷になる。想いを無理矢理押し付けられた経験があるからこそ、この恋心をメリーへ押し付けたくもない。
「あぁ、でも楽しかったな……」
メリーと過ごす時間は純粋に楽しくて、穏やかで、離れ難くて、手放したくない。
心が諦めていいのか、捨ててしまっていいのかとアイゼアに問いかけてくる。
ここで立ち止まれば、いつかメリーは誰か別の人と時間を過ごすようになる。あの手放し難い時間とは決別しなければならないときが必ず来るということだ。
本当にそれでいいのか。このまま何もしなかったら後悔するのではないか。そんな考えが頭をよぎってしまう。
狡いことに、どうしてもメリーの幸せより、自分の恋を叶えたい方向へ思考が傾いてしまう。どこまで行っても自分の本質は利己的で
その証拠に、明日を楽しみにしてしまっている自分がいる。舞踏会まで時間がない関係で、急遽メリーとドレスを一緒に探しに行く約束をしたのだ。
きっとまた今日みたいに楽しい時間になる。明日も会えることが嬉しくて待ち遠しくなる。そんな子供みたいな無邪気な感情に混じるようにして、小さな独占欲が潜んでいる。メリーが明日という時間を自分のために割いてくれるのだと、優越感に似た感情が顔を出す。
自分の恋心はこんなにも浅ましく醜いものだったのだと愕然とした。
メリーはアイゼアをそういう対象としては見ていないだろう。知られればメリーを傷つけてしまう。そんな感情を向けるのは、友人として信頼してくれているメリーへの裏切りなのではないかとさえ思う。
そう理解していながら捨てる勇気がない。想いを捨てるのか、貫くのか、今すぐにはとても決められそうもなかった。
とにかく明日は今まで通りの自分を意識して演じよう、そう心に固く誓う。
「僕は君の『良き友人』のままでいたかったんだけどね……」
すでに破綻してしまった願いは、一人ぼっちの部屋の暗闇に虚しく吸い込まれて消えた。
第15話 君の信頼と僕の裏切り 終