前章
昨晩の薬物密売に関する案件の報告書作成に追われ、眠気を飛ばすためにアイゼアはコーヒーを口に含む。定量よりも濃く淹れたコーヒーは思わず眉間にシワが寄るほど苦い。目元を押さえて疲れた目を揉み解 していると斜向 かいの席に座っていた同僚のプルシアが小さく声を上げる。
「何かあった?」
気になり声をかけると、彼女は小さくため息をつきながら紙で指を切ったのだと言う。アイゼアは引き出しから小さな銀色の平たい缶を取り出しプルシアへと差し出した。
「何これ?」
「傷薬だよ」
「ありがと。へぇ、ちょっと良い匂いがするね」
プルシアは傷薬を傷口に塗っていくと、少し首を傾 げた。
「あれ……何かヒリヒリしなくなってきた気がする」
「それ魔法薬だからね。痛みを和らげる作用もあるって」
「即効性なの? いいね、これ私にもちょうだいよ」
「ダメだよ、それもらい物だからね。売ってるお店は教えられるけど」
これはメリーから、少しでも役に立ててくれとお礼としてもらったものだった。アイゼアは傷薬を返してもらいながら、もらった日のことを思い出していた。
以前梔子 の木を譲るという話をし、非番の日である今日、アイゼアの実家へメリーが直接来ることになっている。すぐに応対できるよう、学校へ行くカストルとポルッカを見送ってからずっと庭の椅子 に座っている。ただぼんやりとしているというのも暇 なので、先日買ったばかりの冒険小説を読んで待つことにした。
すっかり夢中になって読み耽 っていたが「アイゼアさん」と名前を呼ぶ声に顔を上げる。
鉄格子の門の向こうから手を振るメリーの姿を見つけ、心の奥がふわりと軽くなるような心地がした。その隣には連れて行くと宣言していた通り、ペシェとミーリャの姿もある。
アイゼアは門の鍵を開け、三人を庭の中へと招き入れた。ペシェとミーリャは物珍しそうに庭の様子を観察している。
「へー……アンタってホントに貴族の坊っちゃんだったのねー。おチビちゃんたちにも『兄様』って呼ばれてたもんねぇ」
「似非 貴族っぽい」
「まぁ、僕はただの養子で元々貴族じゃないしね」
貴族と言っても取り立てて位も高くない。おまけに自分は付け焼き刃みたいなもので、育ちも悪い。貴族に見えないと言われても仕方ないだろう。
「それより、依頼の梔子はどこ?」
「庭の隅 にあるあの木だよ」
ミーリャにせっつかれ、庭の片隅に植わっている梔子の木まで三人を案内した。
「本当に移植する手配とか全くしてないけど大丈夫?」
いつ梔子の木を引き取りに来るか相談したときに、何も準備はしなくてもいいとメリーは言っていた。その言葉通り庭師にも声をかけていない。
「大丈夫です。そのために二人に来てもらったんですから」
「そうそう。前に頼まれた爆弾作りに比べたら平和的だし、こんなのお安い御用よ」
「うん、キミは大人しく見てて。それより、もう始めていい? さっさと終わらせたい」
「あぁ……よろしく頼むよ」
何か物騒 な単語が聞こえたような気がしたが聞かなかったことにしておく。
二人は余程 自信があるらしく、ペシェに至ってはやる気満々で腕捲 りをしていた。
「アイゼアさん、少し離れますよ」
メリーに袖をつんつんと小さく引っぱられ、二人よりも離れたところで様子を見守る。
ペシェとミーリャが手をかざすとミシミシと音がし始め、梔子の木の周囲の地面が割れた。そこから下へ掘るようにみるみる地面が削り出されていく。
何とも豪快なその作業を眺めていると
「アイゼア!他人 の家の庭で何を勝手なことを!!」
という、癇癪 を起こしたような声が屋敷の方から飛んでくる。その一声にペシェとミーリャが作業の手を止めた。
「アンタねぇ、他人 の家の庭ってどういうことよ?」
「ウチ、泥棒は手伝わないけど」
「えぇー……アイゼアさん、どうなってるんです?」
三者三様の感情が込められた視線がアイゼアを刺す。叔母には事前に話を通しておき、了承も得ていたはずだ。
「ごめん、ちょっとうちの事情は複雑で……少し待っててくれないかな?」
アイゼアは叔母と話をつけるべく赴こうとしたが、叔母の方から凄まじい形相でこちらに迫ってきていた。
「叔母様。梔子の木を友人に譲る話はしてあったはずです。一体どういうおつもりですか?」
カストルとポルッカの生活を保証する約束で土地も財産も全て譲った。だが貴族位や形見に相当するものの所有権、カストルとポルッカの親権は、サヴァランがラウィーニア公爵家お抱えの法律家をつれてきてくれたおかげで交渉の末勝ち取れた。その中に形見の保護義務も含まれているため、今日までこの木は守られてきたのだ。
「木は貴方のものなんだから切るなり焼くなり好きにしてもいいわ。でもね、庭を荒らして無茶苦茶にしていくなんて許さないよ! ここはもう私たちの庭、貴方は余所者で所有権もないの。財産分与のときに貴方も承諾したはずでしょう、わかる?」
「それはもちろんです、叔母様」
癇癪 を起こし捲 し立ててくる叔母に対し、あくまでも冷静に対応する。だが地面は割れ、無残に掘り起こされかけているのは事実だ。
これを元通りにと言われると相当骨が折れるだろう。庭を荒らされて怒り心頭な気持ちはわからなくもない。
「こんな勝手なことして、貴方がきちんと責任取って庭を元通りにしてくれるのよね?」
「えぇ、当然です。承知しておりますよ」
蜂の巣にされかねないほどの勢いで言葉を立て続けに浴びせられる。これを整地するのには相当費用がかかるだろうなという考えがよぎり、気が遠くなった。
「不毛な言い争い。くだらな、もがっ!」
「ちょ、ミーリャ言い方……!」
バッサリと切り捨てるミーリャの口をペシェが慌てて両手で塞ぐ。ぼそっとした小さな声だったが、叔母はしっかりと拾っていたらしくますます眉を吊り上げた。
「不毛ですって? 他人の家の庭を荒らしておいて何て失礼なの! 貧民区育ちの薄汚い人間には程度の低い知り合いしかできないのねっ」
「叔母様! 僕のことは構いませんが友人たちを貶めるのはおやめくだ──
「敷地に立ち入っておきながらご挨拶もせず、大変失礼いたしました」
見かねたのか、アイゼアの言葉を遮 り、矢面に立つようにメリーが叔母の前に進み出る。
「お初お目にかかります。私はアイゼアさんの友人のメリーと申します」
メリーは左手を胸に添えながら右足を引き、膝を軽く曲げてお辞儀する。その淑やかで美しい所作に思わず目を奪われた。
流れるような鮮やかさとまとう風格は、彼女が曲がりなりにも御三家と呼ばれる名家の生まれであったということを証明しているようだった。
「心配されるのも無理はないでしょうが、どうぞご安心ください。まるで最初から木などなかったと思うくらい綺麗に整地してご覧にいれましょう」
できますよね、と声をかけながらメリーはペシェとミーリャへ目配せした。
「当たり前よ、アタシを誰だと思ってんの? そもそも文句言われるの大っ嫌いだし」
「この程度なんてことない」
「……最後まできちんと責任取ってくれるなら文句はないの。見てるからさっさとやってちょうだい」
「はぁ……本当邪魔。誰のせいで中断したと思ってん、むぐ……」
ペシェは笑みを引きつらせながら再びミーリャの口を塞ぎ、引きずるようにして離れていく。二人は手をかざし、中断していた作業を再開した。
「奥様。今、地術で根を傷つけないように土を掘り起こし、風術で掘り起こされた土を払い退ける作業をしております」
「地、術?」
「私たちは霊族なので、魔術が使えるのです」
怒りと不安が入り混じった表情のまま作業を凝視する叔母へ、メリーが何が行われているのかを解説する。アイゼア自身も見ただけでは何がどうなっているのかわからなかったため、かなりありがたい。
やがて梔子の木が根まで露わになると、ゆっくりと空中へ浮かび上がり、少し離れた所へ横たえられる。
「風術で梔子の木を浮かせて根ごと抜きました。ここからは風術で土を戻し、地術で整地していきます。瞬きせず、よくご覧になっていてくださいね」
メリーの説明通り、掘り起こされた穴へと吸い込まれるように土が戻っていき、瞬く間に埋め立てられていった。ぽっかりとそこだけ茶色くなった地面にミーリャが手を触れる。しばらくそうした後、今度は芝生の茂る位置まで移動し、再び地面に手を触れた。
するとその手の先から芝生が育ち、茶色く剥き出しになっていた地面がじわじわと緑に覆われていく。
「草術で芝生の成長を促し、掘り起こした痕跡を消しました。どうですか? 木を抜いたばかりには見えないと思いますが」
なぜか誇らしげに、満足そうな笑みをメリーは浮かべていた。叔母は驚いて声も出ないといった様子で、呆然と梔子の木があった場所を見つめている。
「何か気になる所はございますか?」
「……いいえ、何もないわ」
感嘆のため息と共に叔母は呟く。
「メリー! 梔子の木、ちゃっちゃと運ぶよー!」
ペシェは横たえていた梔子の木を風術で浮かせて運びながら、門の方へと歩いていく。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。それでは、私は失礼させていただきます」
メリーは叔母へ軽く会釈 をし離れていく。その颯爽と去りゆく背中には寸分の隙もなく、何とも凛々しい。叔母の非礼に怒ることもなく気丈に振る舞っていた。最後まで誠実に仕事を果たしてくれた三人にアイゼアは心から感謝した。
「叔母様、僕もこれで失礼します」
アイゼアは叔母へ会釈し、三人の背中を追った。
梔子の木を空中に浮かせて歩いていたため、帰路では物凄く注目を浴びることになった。
無事に何事もなくメリーの家へ着くと、早速裏庭で植樹を開始する。地術で土を柔らかくし、風術で穴を掘っていく。そこへ梔子の木を植え込み、再び風術で土を被せていった。最後にミーリャは梔子の木の根本に手を当て、木を土地に馴染ませる。それで移植は終わりらしい。
この木には養父母のヒューゴとラランジャとの思い出が詰まっている。アイゼアとしても思い入れの強い木だ。何よりラランジャはこの木を子供のように大切にしていた。
この梔子の木が場所を変え、新たな持ち主に大切にされ役立てられていく。アイゼアは二人が生きた証とその思い出が奇妙な縁で守られ、生き続けてくれることが嬉しかった。
「メリー、これでいい?」
「二人共忙しいのに協力してくれてありがとうございます」
「いいの、いいの。アタシもアンタの力になれて良かったわ」
「礼の言葉に興味ない。いいから早く報酬」
「わかりました。すぐに準備しますね」
三人はすぐに室内へと戻っていった。
アイゼアが少し遅れて室内へ戻ると、メリーは小さな白い丸いものがたくさん入った瓶を二人に手渡していた。
アイゼアはその丸いものに見覚えがあった。確かポルッカが風邪を引いたときに、サイドテーブルに置いていった瓶の中身によく似ている。
ポルッカはそれをカストルと分け合って少しずつ食べていた。アイゼアももらったことがあったが、不思議な食感の飴のようなものだったと記憶している。ミーリャが要求していた報酬が飴だというのは何とも意外に感じられた。
「それがミーリャの言ってた報酬、だよね?」
「そう。魔法薬師のドロップなんて貴重。これがもらえるならこの程度の頼みいくらでも引き受ける」
あの飴はドロップと呼ばれるものらしく、単なる飴ではないようだ。
「ドロップってのは霊族の民間療法みたいなもんで、滋養に良いから疲れたときとか風邪を引いたときに食べるもんよ。家庭によって配合も違うけど、メリーのは魔法薬みたいに手間をかけて作ってるからその辺のよりずっと効果が高いし、ドロップは市場に出回るようなものでもないしね」
「私のものは、他にも鎮静作用や安息効果も含まれてます。今回のは作業中でも食べられるよう催眠作用は抑えて作ってありますよ」
「へぇ……ポルッカにもらって食べたことあったけど、そんな効果があったんだね」
知らずに食べていたが、確かに素朴で何となくホッとするような味がしたことは覚えている。
「メリー、余ってるもう一瓶ももらってく」
「えっ、待って、それはアイゼアさんへのお礼の分で余ってるわけじゃ……アイゼアさんが良いなら構わないですけど」
チラリとメリーとミーリャの視線がこちらへと向けられる。まさか自分にまでお礼を準備してくれていたとは思っておらず、アイゼアは僅かに驚いた。
「僕の分はミーリャにあげるよ。今回の件、本当に感謝してるから」
「キミ話がわかるね。どうも」
「ったく、図々しいし遠慮ってもんを知らないんだからアンタは……悪いねー、アイゼアくん」
「僕にはもっと図々しい友人がいるから、大したことないよ」
更に上を行く図々しい友人の顔を思い浮かべながら、アイゼアは肩を竦めた。
「ならいいけど……? あぁ、それよりアタシ、店をフィロメナちゃんに任せちゃってるからそろそろ戻るわ。またね、メリー」
「ウチも帰る。試作品がもうすぐ完成しそうだし」
「今日はありがとう。また遊びに来てくださいね」
「うん。また今度暇なとき来る」
メリーに返事を返しながら、二人はそれぞれ帰っていった。メリーは二人の後ろ姿を最後まで見送り、こちらへ振り返る。
「アイゼアさん、何か代わりのお礼を用意するんで少し待っててください」
「え、あっ、待って、僕は別に……って、聞いてないね」
メリーはさっさと作業部屋へと入ってしまい、あっという間に一人取り残された。部屋に静寂が訪れ、作業部屋で何かしている音だけが聞こえてくる。
二人きりになり、僅かな緊張を覚えている自分がいることに気付く。その理由を自身に問いかけるよりも前に、メリーが作業部屋から戻ってきた。
その手には小さな平たい缶と二人に渡した物より一回りほど小さな大きさの瓶を持っている。
「ドロップの入りきらなかった余りが少し残っていたのでそれを。あとこれは塗る傷薬で、消炎作用だけでなく鎮痛作用もあります。少しでも何かの役に立ててもらえたら嬉しいです」
「ありがとう。でもまさかお礼をしてもらえるなんて思ってなかったよ。僕から打診した話だし、むしろ感謝してるくらいだったのに」
ありのままの思いを口にすると、メリーは少しだけ困ったように笑った。逡巡 するように目を逸らし、少しの沈黙の後ぽつりと呟いた。
「少し心配だったんです。お礼というのはただの口実かもしれませんね」
「心配?」
「以前、徹夜が続いて思考がまともでない時期があったと話してましたよね。体は一度壊してしまうとなかなか戻りませんし、私に何かできることはないかと思ったんです」
前にサヴァランやブリットルと共に交わした会話を覚えていたようだ。あまり良い話ではないので忘れてほしい気もするが。
職務の方は今でこそ落ち着いてはいるが、騎士という仕事は状況によっては過酷な労働や任務を命ぜられることもある。メリーはどうやらそんなアイゼアの働き方や環境を憂いていたらしい。心配させてしまったのは本意ではないが、気遣ってくれたことに喜びを感じてしまうのは不謹慎だろうか。
「理由なく押し付けたら、ちょっとお節介かなーと……」
申し訳なさそうに苦笑しながら俯 くメリーに、もやもやとした感情を抱く。
純粋に、素直に嬉しかった。だからそんな顔をしないでほしい、と無意識に手を伸ばしかけ、慌てて引っ込める。
「お節介だなんて思わないよ。心配してくれてありがとう」
アイゼアは動揺を悟られないよう、努めて普段通りにお礼を述べた。そんな外面とは裏腹に内側では鼓動が早鐘を打っている。
今、自分はメリーに何をしようとしていた?
頭を撫でて励まそうとしてはいなかったか?
メリーはカストルやポルッカとは違い、気安く触れていい相手ではない。親しい友人とはいえ許されない一線はあるし、しかも相手は女性だ。大いに問題がある。
それにしても一体いつからカストルやポルッカと似たような距離感をメリーに対して錯覚をするようになったのか。
メリーは胸を撫で下ろし「それなら良かったです」と何も知らずに笑いかけてくる。その姿に引っ込めて下ろしたはずの手がどうにもそわそわとして落ち着かず、一抹のもどかしさのようなものを覚えた。
冷静に考えられる今になって思うが、自分はメリーに対してカストルやポルッカへ向けるような親近感を抱いているわけではないだろう。親しみは感じているが、彼女はカストルとポルッカに比べてずっと自立した人で、少なくとも兄妹のような感覚はない。
凛々しく、頼もしく、強く、それでいて危うくてどこか目が離せない……共に旅をしていたことでメリーのことをよく知ったような気でいた。
だがメリーは会う度に旅の間には見せなかった一面や表情をいくつも見せてくれる。いつからか彼女の知らなかった部分を知るのが楽しくなっている自分がいた。
結局なぜ触れようとしたのか、その理由に答えは出ない。だがもしあの時メリーに触れていたらどんな反応をしただろうか、という疑問が湧き上がる。怒っただろうか、窘められただろうか、それともまた違う反応を示すのだろうか。
見てみたい。そんな好奇心と興味を密かに抱いた。
──ゼア、アイゼア?」
突然降ってくるように聞こえたプルシアの声に、ハッと我に返る。
「お、戻ってきたね。で、いつまでそのぼけーっとした間抜け面晒してるつもり?」
「間抜け面って……」
どんな顔をしていたか見たわけではないが、油断しきって呆けた顔をしていたことは間違いないだろう。
「やっぱり疲れてるんじゃない? 勤務時間過ぎてるんだし戻って寝れば?」
プルシアの呆れたような、それでいて気遣うような視線がこちらに向いていた。
疲れているかと聞かれたら疲れていると答えるのが正しい。一晩駆けずり回ってからの書類作業で眠いのも事実だった。だが今後の取り調べや組織を追っていくことを考えれば早く報告書は上げてしまった方が良い。
「あと少しだから、さっさと仕上げて寝るよ」
心配だと言ってくれたメリーの顔が脳裏をよぎる。無理をすれば体を壊して倒れてしまう。そうなればメリーは、もっと他にできることがあったのではないかと悩むだろう。
何か望まない事態が起きたとき、メリーはまず自分の無力さを責める傾向が強い。心配はされても、悲しませたいわけではない。
アイゼアはメリーからもらったドロップを一粒口に放り込み、大きく伸びをした。漫然としていた気持ちに気合を入れ直し、完成の近い報告書に向き合った。
第13話 孤高の君へ抱く、僕の密かな好奇心 終
「何かあった?」
気になり声をかけると、彼女は小さくため息をつきながら紙で指を切ったのだと言う。アイゼアは引き出しから小さな銀色の平たい缶を取り出しプルシアへと差し出した。
「何これ?」
「傷薬だよ」
「ありがと。へぇ、ちょっと良い匂いがするね」
プルシアは傷薬を傷口に塗っていくと、少し首を
「あれ……何かヒリヒリしなくなってきた気がする」
「それ魔法薬だからね。痛みを和らげる作用もあるって」
「即効性なの? いいね、これ私にもちょうだいよ」
「ダメだよ、それもらい物だからね。売ってるお店は教えられるけど」
これはメリーから、少しでも役に立ててくれとお礼としてもらったものだった。アイゼアは傷薬を返してもらいながら、もらった日のことを思い出していた。
以前
すっかり夢中になって読み
鉄格子の門の向こうから手を振るメリーの姿を見つけ、心の奥がふわりと軽くなるような心地がした。その隣には連れて行くと宣言していた通り、ペシェとミーリャの姿もある。
アイゼアは門の鍵を開け、三人を庭の中へと招き入れた。ペシェとミーリャは物珍しそうに庭の様子を観察している。
「へー……アンタってホントに貴族の坊っちゃんだったのねー。おチビちゃんたちにも『兄様』って呼ばれてたもんねぇ」
「
「まぁ、僕はただの養子で元々貴族じゃないしね」
貴族と言っても取り立てて位も高くない。おまけに自分は付け焼き刃みたいなもので、育ちも悪い。貴族に見えないと言われても仕方ないだろう。
「それより、依頼の梔子はどこ?」
「庭の
ミーリャにせっつかれ、庭の片隅に植わっている梔子の木まで三人を案内した。
「本当に移植する手配とか全くしてないけど大丈夫?」
いつ梔子の木を引き取りに来るか相談したときに、何も準備はしなくてもいいとメリーは言っていた。その言葉通り庭師にも声をかけていない。
「大丈夫です。そのために二人に来てもらったんですから」
「そうそう。前に頼まれた爆弾作りに比べたら平和的だし、こんなのお安い御用よ」
「うん、キミは大人しく見てて。それより、もう始めていい? さっさと終わらせたい」
「あぁ……よろしく頼むよ」
何か
二人は
「アイゼアさん、少し離れますよ」
メリーに袖をつんつんと小さく引っぱられ、二人よりも離れたところで様子を見守る。
ペシェとミーリャが手をかざすとミシミシと音がし始め、梔子の木の周囲の地面が割れた。そこから下へ掘るようにみるみる地面が削り出されていく。
何とも豪快なその作業を眺めていると
「アイゼア!
という、
「アンタねぇ、
「ウチ、泥棒は手伝わないけど」
「えぇー……アイゼアさん、どうなってるんです?」
三者三様の感情が込められた視線がアイゼアを刺す。叔母には事前に話を通しておき、了承も得ていたはずだ。
「ごめん、ちょっとうちの事情は複雑で……少し待っててくれないかな?」
アイゼアは叔母と話をつけるべく赴こうとしたが、叔母の方から凄まじい形相でこちらに迫ってきていた。
「叔母様。梔子の木を友人に譲る話はしてあったはずです。一体どういうおつもりですか?」
カストルとポルッカの生活を保証する約束で土地も財産も全て譲った。だが貴族位や形見に相当するものの所有権、カストルとポルッカの親権は、サヴァランがラウィーニア公爵家お抱えの法律家をつれてきてくれたおかげで交渉の末勝ち取れた。その中に形見の保護義務も含まれているため、今日までこの木は守られてきたのだ。
「木は貴方のものなんだから切るなり焼くなり好きにしてもいいわ。でもね、庭を荒らして無茶苦茶にしていくなんて許さないよ! ここはもう私たちの庭、貴方は余所者で所有権もないの。財産分与のときに貴方も承諾したはずでしょう、わかる?」
「それはもちろんです、叔母様」
これを元通りにと言われると相当骨が折れるだろう。庭を荒らされて怒り心頭な気持ちはわからなくもない。
「こんな勝手なことして、貴方がきちんと責任取って庭を元通りにしてくれるのよね?」
「えぇ、当然です。承知しておりますよ」
蜂の巣にされかねないほどの勢いで言葉を立て続けに浴びせられる。これを整地するのには相当費用がかかるだろうなという考えがよぎり、気が遠くなった。
「不毛な言い争い。くだらな、もがっ!」
「ちょ、ミーリャ言い方……!」
バッサリと切り捨てるミーリャの口をペシェが慌てて両手で塞ぐ。ぼそっとした小さな声だったが、叔母はしっかりと拾っていたらしくますます眉を吊り上げた。
「不毛ですって? 他人の家の庭を荒らしておいて何て失礼なの! 貧民区育ちの薄汚い人間には程度の低い知り合いしかできないのねっ」
「叔母様! 僕のことは構いませんが友人たちを貶めるのはおやめくだ──
「敷地に立ち入っておきながらご挨拶もせず、大変失礼いたしました」
見かねたのか、アイゼアの言葉を
「お初お目にかかります。私はアイゼアさんの友人のメリーと申します」
メリーは左手を胸に添えながら右足を引き、膝を軽く曲げてお辞儀する。その淑やかで美しい所作に思わず目を奪われた。
流れるような鮮やかさとまとう風格は、彼女が曲がりなりにも御三家と呼ばれる名家の生まれであったということを証明しているようだった。
「心配されるのも無理はないでしょうが、どうぞご安心ください。まるで最初から木などなかったと思うくらい綺麗に整地してご覧にいれましょう」
できますよね、と声をかけながらメリーはペシェとミーリャへ目配せした。
「当たり前よ、アタシを誰だと思ってんの? そもそも文句言われるの大っ嫌いだし」
「この程度なんてことない」
「……最後まできちんと責任取ってくれるなら文句はないの。見てるからさっさとやってちょうだい」
「はぁ……本当邪魔。誰のせいで中断したと思ってん、むぐ……」
ペシェは笑みを引きつらせながら再びミーリャの口を塞ぎ、引きずるようにして離れていく。二人は手をかざし、中断していた作業を再開した。
「奥様。今、地術で根を傷つけないように土を掘り起こし、風術で掘り起こされた土を払い退ける作業をしております」
「地、術?」
「私たちは霊族なので、魔術が使えるのです」
怒りと不安が入り混じった表情のまま作業を凝視する叔母へ、メリーが何が行われているのかを解説する。アイゼア自身も見ただけでは何がどうなっているのかわからなかったため、かなりありがたい。
やがて梔子の木が根まで露わになると、ゆっくりと空中へ浮かび上がり、少し離れた所へ横たえられる。
「風術で梔子の木を浮かせて根ごと抜きました。ここからは風術で土を戻し、地術で整地していきます。瞬きせず、よくご覧になっていてくださいね」
メリーの説明通り、掘り起こされた穴へと吸い込まれるように土が戻っていき、瞬く間に埋め立てられていった。ぽっかりとそこだけ茶色くなった地面にミーリャが手を触れる。しばらくそうした後、今度は芝生の茂る位置まで移動し、再び地面に手を触れた。
するとその手の先から芝生が育ち、茶色く剥き出しになっていた地面がじわじわと緑に覆われていく。
「草術で芝生の成長を促し、掘り起こした痕跡を消しました。どうですか? 木を抜いたばかりには見えないと思いますが」
なぜか誇らしげに、満足そうな笑みをメリーは浮かべていた。叔母は驚いて声も出ないといった様子で、呆然と梔子の木があった場所を見つめている。
「何か気になる所はございますか?」
「……いいえ、何もないわ」
感嘆のため息と共に叔母は呟く。
「メリー! 梔子の木、ちゃっちゃと運ぶよー!」
ペシェは横たえていた梔子の木を風術で浮かせて運びながら、門の方へと歩いていく。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。それでは、私は失礼させていただきます」
メリーは叔母へ軽く
「叔母様、僕もこれで失礼します」
アイゼアは叔母へ会釈し、三人の背中を追った。
梔子の木を空中に浮かせて歩いていたため、帰路では物凄く注目を浴びることになった。
無事に何事もなくメリーの家へ着くと、早速裏庭で植樹を開始する。地術で土を柔らかくし、風術で穴を掘っていく。そこへ梔子の木を植え込み、再び風術で土を被せていった。最後にミーリャは梔子の木の根本に手を当て、木を土地に馴染ませる。それで移植は終わりらしい。
この木には養父母のヒューゴとラランジャとの思い出が詰まっている。アイゼアとしても思い入れの強い木だ。何よりラランジャはこの木を子供のように大切にしていた。
この梔子の木が場所を変え、新たな持ち主に大切にされ役立てられていく。アイゼアは二人が生きた証とその思い出が奇妙な縁で守られ、生き続けてくれることが嬉しかった。
「メリー、これでいい?」
「二人共忙しいのに協力してくれてありがとうございます」
「いいの、いいの。アタシもアンタの力になれて良かったわ」
「礼の言葉に興味ない。いいから早く報酬」
「わかりました。すぐに準備しますね」
三人はすぐに室内へと戻っていった。
アイゼアが少し遅れて室内へ戻ると、メリーは小さな白い丸いものがたくさん入った瓶を二人に手渡していた。
アイゼアはその丸いものに見覚えがあった。確かポルッカが風邪を引いたときに、サイドテーブルに置いていった瓶の中身によく似ている。
ポルッカはそれをカストルと分け合って少しずつ食べていた。アイゼアももらったことがあったが、不思議な食感の飴のようなものだったと記憶している。ミーリャが要求していた報酬が飴だというのは何とも意外に感じられた。
「それがミーリャの言ってた報酬、だよね?」
「そう。魔法薬師のドロップなんて貴重。これがもらえるならこの程度の頼みいくらでも引き受ける」
あの飴はドロップと呼ばれるものらしく、単なる飴ではないようだ。
「ドロップってのは霊族の民間療法みたいなもんで、滋養に良いから疲れたときとか風邪を引いたときに食べるもんよ。家庭によって配合も違うけど、メリーのは魔法薬みたいに手間をかけて作ってるからその辺のよりずっと効果が高いし、ドロップは市場に出回るようなものでもないしね」
「私のものは、他にも鎮静作用や安息効果も含まれてます。今回のは作業中でも食べられるよう催眠作用は抑えて作ってありますよ」
「へぇ……ポルッカにもらって食べたことあったけど、そんな効果があったんだね」
知らずに食べていたが、確かに素朴で何となくホッとするような味がしたことは覚えている。
「メリー、余ってるもう一瓶ももらってく」
「えっ、待って、それはアイゼアさんへのお礼の分で余ってるわけじゃ……アイゼアさんが良いなら構わないですけど」
チラリとメリーとミーリャの視線がこちらへと向けられる。まさか自分にまでお礼を準備してくれていたとは思っておらず、アイゼアは僅かに驚いた。
「僕の分はミーリャにあげるよ。今回の件、本当に感謝してるから」
「キミ話がわかるね。どうも」
「ったく、図々しいし遠慮ってもんを知らないんだからアンタは……悪いねー、アイゼアくん」
「僕にはもっと図々しい友人がいるから、大したことないよ」
更に上を行く図々しい友人の顔を思い浮かべながら、アイゼアは肩を竦めた。
「ならいいけど……? あぁ、それよりアタシ、店をフィロメナちゃんに任せちゃってるからそろそろ戻るわ。またね、メリー」
「ウチも帰る。試作品がもうすぐ完成しそうだし」
「今日はありがとう。また遊びに来てくださいね」
「うん。また今度暇なとき来る」
メリーに返事を返しながら、二人はそれぞれ帰っていった。メリーは二人の後ろ姿を最後まで見送り、こちらへ振り返る。
「アイゼアさん、何か代わりのお礼を用意するんで少し待っててください」
「え、あっ、待って、僕は別に……って、聞いてないね」
メリーはさっさと作業部屋へと入ってしまい、あっという間に一人取り残された。部屋に静寂が訪れ、作業部屋で何かしている音だけが聞こえてくる。
二人きりになり、僅かな緊張を覚えている自分がいることに気付く。その理由を自身に問いかけるよりも前に、メリーが作業部屋から戻ってきた。
その手には小さな平たい缶と二人に渡した物より一回りほど小さな大きさの瓶を持っている。
「ドロップの入りきらなかった余りが少し残っていたのでそれを。あとこれは塗る傷薬で、消炎作用だけでなく鎮痛作用もあります。少しでも何かの役に立ててもらえたら嬉しいです」
「ありがとう。でもまさかお礼をしてもらえるなんて思ってなかったよ。僕から打診した話だし、むしろ感謝してるくらいだったのに」
ありのままの思いを口にすると、メリーは少しだけ困ったように笑った。
「少し心配だったんです。お礼というのはただの口実かもしれませんね」
「心配?」
「以前、徹夜が続いて思考がまともでない時期があったと話してましたよね。体は一度壊してしまうとなかなか戻りませんし、私に何かできることはないかと思ったんです」
前にサヴァランやブリットルと共に交わした会話を覚えていたようだ。あまり良い話ではないので忘れてほしい気もするが。
職務の方は今でこそ落ち着いてはいるが、騎士という仕事は状況によっては過酷な労働や任務を命ぜられることもある。メリーはどうやらそんなアイゼアの働き方や環境を憂いていたらしい。心配させてしまったのは本意ではないが、気遣ってくれたことに喜びを感じてしまうのは不謹慎だろうか。
「理由なく押し付けたら、ちょっとお節介かなーと……」
申し訳なさそうに苦笑しながら
純粋に、素直に嬉しかった。だからそんな顔をしないでほしい、と無意識に手を伸ばしかけ、慌てて引っ込める。
「お節介だなんて思わないよ。心配してくれてありがとう」
アイゼアは動揺を悟られないよう、努めて普段通りにお礼を述べた。そんな外面とは裏腹に内側では鼓動が早鐘を打っている。
今、自分はメリーに何をしようとしていた?
頭を撫でて励まそうとしてはいなかったか?
メリーはカストルやポルッカとは違い、気安く触れていい相手ではない。親しい友人とはいえ許されない一線はあるし、しかも相手は女性だ。大いに問題がある。
それにしても一体いつからカストルやポルッカと似たような距離感をメリーに対して錯覚をするようになったのか。
メリーは胸を撫で下ろし「それなら良かったです」と何も知らずに笑いかけてくる。その姿に引っ込めて下ろしたはずの手がどうにもそわそわとして落ち着かず、一抹のもどかしさのようなものを覚えた。
冷静に考えられる今になって思うが、自分はメリーに対してカストルやポルッカへ向けるような親近感を抱いているわけではないだろう。親しみは感じているが、彼女はカストルとポルッカに比べてずっと自立した人で、少なくとも兄妹のような感覚はない。
凛々しく、頼もしく、強く、それでいて危うくてどこか目が離せない……共に旅をしていたことでメリーのことをよく知ったような気でいた。
だがメリーは会う度に旅の間には見せなかった一面や表情をいくつも見せてくれる。いつからか彼女の知らなかった部分を知るのが楽しくなっている自分がいた。
結局なぜ触れようとしたのか、その理由に答えは出ない。だがもしあの時メリーに触れていたらどんな反応をしただろうか、という疑問が湧き上がる。怒っただろうか、窘められただろうか、それともまた違う反応を示すのだろうか。
見てみたい。そんな好奇心と興味を密かに抱いた。
──ゼア、アイゼア?」
突然降ってくるように聞こえたプルシアの声に、ハッと我に返る。
「お、戻ってきたね。で、いつまでそのぼけーっとした間抜け面晒してるつもり?」
「間抜け面って……」
どんな顔をしていたか見たわけではないが、油断しきって呆けた顔をしていたことは間違いないだろう。
「やっぱり疲れてるんじゃない? 勤務時間過ぎてるんだし戻って寝れば?」
プルシアの呆れたような、それでいて気遣うような視線がこちらに向いていた。
疲れているかと聞かれたら疲れていると答えるのが正しい。一晩駆けずり回ってからの書類作業で眠いのも事実だった。だが今後の取り調べや組織を追っていくことを考えれば早く報告書は上げてしまった方が良い。
「あと少しだから、さっさと仕上げて寝るよ」
心配だと言ってくれたメリーの顔が脳裏をよぎる。無理をすれば体を壊して倒れてしまう。そうなればメリーは、もっと他にできることがあったのではないかと悩むだろう。
何か望まない事態が起きたとき、メリーはまず自分の無力さを責める傾向が強い。心配はされても、悲しませたいわけではない。
アイゼアはメリーからもらったドロップを一粒口に放り込み、大きく伸びをした。漫然としていた気持ちに気合を入れ直し、完成の近い報告書に向き合った。
第13話 孤高の君へ抱く、僕の密かな好奇心 終