前章

 宿へと戻り、海水でベタベタになっていた体をシャワーで流し、髪もしっかりと洗い流す。肌を化粧水や保湿液で整え、海水で軋む髪をオイルで毛先まで丁寧に手入れしていく。
 この作業を怠れば、明日の朝はそこそこの地獄を見ることになるだろう……特に髪が。

「このオイル良い香りがするわね!」

 フィロメナは自身の髪を鼻の方へ引き寄せながら満足げに微笑んでいる。

「種子から取れたオイルにバラの精油を少し混ぜてるんですよ」
「へぇ……でもメリーが美容に詳しいなんて意外ね」
「美容関係のものって一定の需要があって売れるんですよ。そのついでに自分のを作ってるだけです」

 化粧水や保湿用の液、このオイルにしてもそうだ。薬草や植物の効能は両方に共通する知識でもある。だから魔法薬学の勉強を独学で始めると同時に、生計を立てるためのものとしても勉強した。

 魔法薬師の美容品は効果が高いとされ、魔法薬にあまり馴染みのない人間相手にも評判が良い。他にも香水や手荒れ用の軟膏なんこう、口紅などの細々とした化粧品や美を保つための魔法薬などを作っては売っている。

 基本的によく売れるのはやはり美容関係の物で、純粋な魔法薬だと傷薬や鎮痛剤、胃腸薬などのわかりやすい効能の物が人間には好まれる。

 ただ、美容関係の魔法薬だけは別格で脂肪燃焼効果のあるものや体内の老廃物の排出を促進するものなど、とにかく良い値段で売れる。

 ノルタンダールにいた頃は売りに出されないような効能の魔法薬の依頼がペシェを通して来ることもあったが、サントルーサでも近いうちにそういった依頼が来るようになるかもしれない。

「使いかけで良ければこれ、フィロメナさんにあげますよ」

 オイルの入った小瓶をフィロメナへ差し出すと首を思いきり横に振り、そういうわけにはいかないわ、と遠慮してくる。

「それなら買わせてもらえないかしら。あたし、メリーにもらってばっかりだもの」

 フィロメナはペシェの店で働くようになってからお金の大切さを学んだらしい。破滅を止める旅の間、支払いを全て任せていたことがどれだけの負担だったのかを経験として理解したことで、最近はきちんと対価を払いたがる。

 だがこちらとしても使いかけの物を売りつけるというのは何となく気が引けた。

「ならこれがなくなったとき、もし気に入ってくれてたら新しいものを買いに来てください。フィロメナさんなら、香りの注文も聞きますよ」
「え? 次は好きな香りで作ってくれるの?」
「もちろんです。なくなったら家に来てください。一緒に精油選びからやりますから」
「どんな香りがあるのかしら……あたし、絶対行くわ! もう今からすっごく楽しみだもの!」
「早く消費しようとして塗り過ぎるとベタベタになるから注意してくださいね」

 オイルの小瓶を手渡しながら提案すると、フィロメナの表情がふわっと華やぐ。

 好奇心や期待に胸をふくらませ、無邪気に笑う彼女は見ているこちらを温かな気持ちにさせてくれる。乾いた髪を緩く束ねてサイドテールにし、部屋の鍵を手に取る。

「フィロメナさん、準備終わりました? 夕食を食べに行きましょうか」
「待ってたわー! ご飯は何かしらー?」

 部屋に鍵をかけ、うきうきと軽やかな足取りでレストランへ向かうフィロメナの背中をメリーは慌てて追った。


 レストランではすでに三人が席に座ってこちらを待っていた。木製の丸テーブルにはメニューの本しか乗っていない。まだ来たばかりらしく、料理はこれから運ばれてくるらしい。

 エルヴェから渡された飲み物のメニューをフィロメナと二人で覗き込む。飲み物はお酒からジュースまであり、種類も豊富で、お茶などもある。

「あたしお酒が飲んでみたかったの!」

 その一言に全員の視線がフィロメナに集中する。

「おい、お前酒なんて飲んだことあんのか?」
「飲んだことがないから飲みたいのよ」

 フィロメナは好奇心を抑えられない様子で、お酒のメニューの方ばかりを見ている。
 経験のないものを挑戦したい気持ちはメリー自身もよく理解できるのだが、旅行先で初めてのお酒は少々博打感が強い。もし二日酔いにでもなったら、台無しになってしまうだろう。

 メニューに釘付けになっているフィロメナに気付かれないよう、三人へ視線を向けると皆が一様に渋い顔をしている。考えていることは同じのようだ。

「フィロメナさん、ここで二日酔いになると大変なんでお酒はサントルーサに帰ってみんなとご飯に行くときにしませんか?」

 素直にそのまま伝えてみたが、フィロメナは不服そうな表情で顔を上げる。

「せっかく来たんだからここのお酒を飲んでいきたいわ。サントルーサはサントルーサでまた行けばいいもの。アイゼアとスイウは飲んだんでしょ? 二人だけ狡いわよ」

 フィロメナのチクリと刺すような視線がアイゼアとスイウへ向けられる。飲んでしまった以上何を言っても説得力がない二人は完全に沈黙していた。

「なら一杯だけにしましょう。それならきっと……余程弱くなければ大丈夫なはずですから」

 これがギリギリの妥協案だろうか。フィロメナもとりあえず飲めれば文句はないらしく、少し不満そうではあるが反論はされなかった。

 メリーはフィロメナからメニューを受け取り、できるだけアルコール度数の低い飲みやすそうなものを探す。

「えーっと、この果実酒をボトルで一本頼みましょうか。五人で分け合えばちょうどグラス一杯ずつくらいになりそうですし」

 三人へ協力しろ、という視線を送る。

「あー、エルヴェはお酒……良いのかな?」

 アイゼアが隣にいるエルヴェを伺うように見る。そもそもエルヴェは飲み物を飲まない。見た目も子供で年齢的にお酒はダメなような気もするが、実際の彼は年というものとは関係ないわけで……と判断に迷う。

「セントゥーロはお酒に関する法律はあるんですか? スピリアでは十六歳から飲めますが」
「こっちでは十八だよ。エルヴェはどうしたい?」

 エルヴェはアイゼアに問われ、悩ましげに考え込む。
 彼は飲んだり食べたりしないため、この場にいてもおそらく会話だけ楽しんで食事はしないつもりだったのだろう。だがせっかく旅行に来たというのにそれでは少し味気ない気もした。

「せっかくだから、エルヴェも飲みましょうよ! みんなで同じお酒を分け合って飲むのよ? 一人だけ飲まないなんて寂しいじゃない」

 フィロメナは無理強いはしないけど、と小さく付け加えながらエルヴェを誘う。お酒自体にはあまり興味はなさそうだったが『同じお酒をみんなで分け合う』という言葉には心を揺さぶられているようだった。

「フィロメナの言う通りだね。せっかくだから乾杯もしようか。お酒に興味がなくても、エルヴェも楽しめると思うよ」
「それなら……せっかく誘っていただいたので、一杯いただきます」

 意見がまとまったところでお酒を注文し、少しして料理共に運ばれてきた。

 エルヴェが釣った小魚は香草揚げとなりレモンと共に供され、スイウの釣った魚は豊富な種類の野菜や貝と共にニンニクと香辛料を入れ、白ワイン煮にされている。
 もう一匹はカルパッチョになっており、あまりお目にかからないような野菜と共に食用花が美しく飾られていた。

 他にも郷土料理の肉の煮込みやスープなどがあり、料理はどれも南部特有の鮮やかな色彩で彩られている。
 メリーはカルパッチョに飾られていた食用花を毟り、上へと散らしていく。

「花弁をカルパッチョの上に散らしてよろしいのですか?」

 エルヴェは不思議そうに首を傾げてメリーの手を見つめている。

「これは食用花といって、食べれる花ですよ。味はあまりないですが、彩りを良くするために使われたりするんです」
「お詳しいのですね……初めて知りました。勉強になります」

 説明をすると、エルヴェは興味深そうに一輪手に取りむしるのを手伝ってくれた。

 アイゼアはボトルを開け、果実酒をグラスに注いでいく。透明感のあるバラ色のお酒だ。

「わぁ、綺麗ね! 美味しそうな色〜」

 フィロメナはお酒が注がれていくのを、頬に両手を添えて眺めながら、感嘆の声を上げている。料理も揃い、グラスも全員に行き渡った。

「乾杯、わからない人〜?」

 アイゼアが小さく手を上げながら投げかけると、エルヴェとフィロメナが小さく手を上げる。二人は初めてのことに少し緊張し、そわそわとしているようだ。

「簡単だから緊張しなくていいよ。一人が乾杯って言って合図するから、その後に乾杯って言って軽くグラスを当てるだけ。勢いよく当ててグラスを割らないようにね」

 二人はアイゼアの説明にこくこくと頷く。

「じゃあせっかくだから乾杯の音頭はエルヴェに頼もうか」
「え、私でよろしいのですか?」

 戸惑うエルヴェに、四人全員で大丈夫だと促す。少し緊張した様子でエルヴェはグラスを持ち、それに合わせてメリーもグラスを手にした。

「えっと……乾杯っ」
「かんぱーい!」
「乾杯!」
「乾杯」
「……乾杯」

 エルヴェの音頭に合わせてグラスを差し出す。バラバラと今ひとつ声は揃わないが、五つのグラスは同時に触れ、小気味良く一度だけ音を立てた。

 果実酒を口にすると、甘さと僅かな酸味を感じる爽やかな味が口内を満たす。甘ったるさはなく、料理との食べ合わせとも悪くはなさそうだ。

「これがお酒? あまり甘くないジュースって感じね。美味しー!」

 フィロメナは満足そうに顔を綻ばせお酒を楽しんでいる。空きっ腹にお酒を入れると酔いが回りやすくなるため、メリーはお酒はそこそこに、早速取皿へ料理を取ることにした。


 会話を楽しみながら料理を食べ進める。エルヴェはともかく、アイゼアもスイウもお酒にはそこそこ耐性があるのか特に様子が変わったところはない。

 メリー自身はほとんどお酒を飲む機会がなく、悪酔いどころか酔ったと思うほどの量を飲んだことがない。そのため、自身が酔うとどうなるのかを把握してはいなかった。

 とにかく今日のこのグラス一杯が人生で一番一度に沢山飲んだ量ということになりそうだ。ただあまり強い方ではないのだろうな、ということだけは感覚的に理解はしている。それでも今日は一杯だけで、それでもまずいと思えば飲むのを止めればいい。

 問題はフィロメナだ。グラスの三分の二くらいがなくなっているが、彼女の雰囲気が少し怪しい。メリーよりも弱いのかそれとも酔いやすい体質なのかはわからないが、頬が赤く普段より更によく喋る。おそらく酔うと機嫌良く饒舌になる人なのだろう。

 とりあえず今はそれだけなので特に迷惑をかけているわけでもない。話を聞いているエルヴェやアイゼアは楽しそうにしているので良いのだが、その後のことに若干不安を覚える。

「どうしたの、メリー? フィロメナが心配?」

 こちらの不安を察したのか、アイゼアが小さく声をかけてくる。少し普段と様子が違い心配だと伝えると、アイゼアは軽く笑って大丈夫だと言う。

「確かに強くはないんだろうけど、あの感じなら迷惑もかけないし、お酒が止まれば少しずつ落ち着くと思うよ」

 どこか経験則っぽさを感じる言葉から、アイゼアがおそらく騎士の仲間たちと飲みに行き、いろんな人を見てきたのだということがわかる。
 それでもまだフィロメナのグラスには三分の一が残っていた。あの三分の一が彼女を狂わせないことを今は切に願う。

 アイゼアと会話をしていると、フィロメナはこちらを見つめ、思い出したーと嬉しそうに声を上げる。

「そういえばメリーは今日アイゼアを助けてたわねー。格好良かったわよー! あたしのこと助けてくれたときもすごかったんだから〜」
「メリー様がフィロメナ様を? 何かあったのですか?」
「あったのよ! ちゃあんとみんなに報告しなくちゃよねー」
「はい? しなくていいんですけど、その報告」
「あんたたちを助ける前に、あたしのこともナンパから助けてくれたの!」

 そう言ってもフィロメナは意に介すこともなくつるつると喋り、三人も興味を持ったのか耳を傾け始める。

「へぇ、フィロメナもナンパに遭ってたんだね……」

 それを聞いていたスイウも小さく笑い始める。

「お前ら二人して引っ掛けられそうになったのか? 子守は大変だったろ、メリー。で、どうやって撃退したんだ?」

 どこか含みのある言い方でスイウはこちらへ視線を向ける。普段はどちらかといえば忠告される側なこともあり、その辺りに文句を言うつもりはない。
 たが、どうせ魔術を使ったんだろ、と言いたげな雰囲気には不満を感じた。

「私、魔力は一切使ってないです。約束はきっちり守りきりましたからね」
「それは本当よ〜! あたしがばーっちり保証するわー」

 フィロメナが肯定したことで、信じられないという三人の視線が一気に突き刺さる。いくら何でも失礼じゃないかという思いと、普段の素行を思えば仕方ないとも思えて複雑な気分になった。

「なぁ、魔力を使わずにフィロメナをどうやって助けた? アイゼアもエルヴェもいなかったんだろ?」
「それはねぇ、メリーがあたしの恋人になってくれたからよ。もー、あのときは顔が燃えるくらい恥ずかしかったんだから〜!」
「恋人……?」
「ちょっと、フィロメナさん! そこまで説明する必要ないですから!」
「みんなにメリーの頑張りを証明しなくちゃ、でしょ〜。ね、ね、みんなもメリーのこといーっぱい褒めてあげてー」
「証明しなくていい、いいんですって!!」

 抗議も虚しく酔いの回ったフィロメナは、あの時のことを身振り手振りまで交えて事細かに語り始める。そのときのフィロメナの心境まで興奮気味に実況しながら。

 魔術で黙らせることもできず、席を立ってフィロメナとごちゃごちゃ揉み合いになるのもさすがに周囲の迷惑になる。
 最初こそ必死に訴えて止めようとしたが、勢いは全く収まらずどんどんと語られていき、羞恥に耐えられなくなって死んだ。

 今のメリーはテーブルの真ん中に置かれた、白目の頭と骨だけという無残な姿を晒すあの白ワイン煮の魚のようだった。

「あれがメリーじゃなくて素敵な男性だったら、あたし恋に落ちてたのかもしれないわ〜……はぁ……」

 赤らめた頬に両手を添えてにやけているフィロメナを、死んだ魚のように見つめることしかできない。

 アイゼアは自分も助けられた手前笑うわけにはいかないと肩を震わせながら必死に堪えているし、エルヴェは呆けて口を開いたままぱちぱちと目を瞬かせている。スイウはこれでもかというほど無遠慮に爆笑しているし、料理は全く味がしなくなった。

「でもよくあの場であんなの思いついたわよねぇー。メリーったら大胆〜」
「……いや、あれは……この状況をアイゼアさんならどうくつがえすかなって考えてたら閃いたんです」
「僕!?」

 笑いが収まりかけていたスイウが吹き出しまた爆笑し始める。突然とばっちりを食らう形になったアイゼアは「君は僕を何だと思ってるのかな……?」と戸惑っていた。アイゼアならきっとフィロメナの恋人を演じて、あの場を上手く収めるだろうと思ったのだ。

 確かに自分がそれを真似るのは苦しいものがあったのかもしれないが、結果的に上手くいったのだから何でもいいではないか。

「確かに、アイゼア様なら男性ですしメリー様の対応でも驚かれることなく通りそうですね」

 エルヴェは包み込むような穏やかな笑顔で、合点がいきましたと頷いてくれる。変に色眼鏡をかけず客観的に評価してくれるところには本当に救われる。彼のそういうところが好きだ。

「メリーって器用なのか不器用なのかよくわからないよね。旅してたときから、感情とか隠せない性格だと思ってたから、演技があんなに上手くてさすがにびっくりしたよ」
「クランベルカ家に対する感情の話なら隠す気がないですし」

 嘘を並べ立てるのは決して苦手ではなく、多少演じることだってできる。そこまで馬鹿正直に生きているつもりはない。アイゼアやスイウ、エルヴェほどではないかもしれないが、差し迫った状況でもなければ表情もそれなりに取り繕えるつもりだ。

「私は自分に素直に生きてるだけですよ。必要と思えばいくらでも嘘をつきますし、どんな演技でもします。それだけの話です」
「なるほど、そう言われるとメリーらしいのかも……?」

 そうは言ったがやはり自分の演技も嘘も決して上手いものではない。もし次に今日のようなことがあれば、そのときはもう少しまともに立ち回れるようになりたいとメリーは思う。

「それと、約束を守るために頑張ってくれて僕は嬉しいよ」

 アイゼアの晴れやかな笑みに、心の底から約束を守って良かったという思いが生まれる。やっと努力が報われたような気がした。労ってくれたことで、もやもやとした気持ちも同時に晴れていった。

「えへへ〜、褒められて良かったわね、メリー?」
「まぁ、そうかもですね……」

 フィロメナの締まりのない上機嫌な笑みに思わず苦笑しながらも、確かに努力を認められたのは悪くないと思えた。さすがに恥ずかしかったが。
 一波乱あったとはいえ、他に楽しい思い出を作って埋め尽くせばいい。そう思いながら、メリーはグラスに残った果実酒を飲み干した。


第10話 グラスを交わす夜  終
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