前章

 昼食を食べ終え、アイゼアは午前中から消化していた書類の山に向き合う。基本的に出動命令がないときはこうした書類仕事や雑務に追われることが多い。

 各地方から送られてくる報告や任務依頼を取りまとめ、その優先度や重要度別に分けていき、任務をとどこおりなく遂行できるよう整えることも大切な仕事の一つだ。もちろん任務に出ればその報告書の作成もしなくてはならない。

 食堂へ行ったときにエルヴェが差し入れてくれたビスケットを口にしながら書類に目を通していると、事務所に入ってきた同僚が声をかけてくる。

「今、下の役所がすっごいことになってんぞ」
「へぇー、それで?」

 他所の騒動に野次馬に行くようなひま生憎あいにくない。然程さほど興味もなく、くわえたビスケットを少しずつかじり寄せながら次の書類へ手を伸ばす。

「暢気なもんだなー。お前の名前を連呼して女がごねてたぞ。ったく、今度は何やったんだよ?」
「知らないよ」

 そんなふうに騒がれるような女性と関わった記憶はない。それとも一方的に逆恨みでもされたのだろうか。何にせよ迷惑な話だと、思わずため息が漏れる。

「お前がタチの悪い男なのか本当に女運がないだけなのかは知らんがな、早く下に行って鎮めてこい。くれぐれも頬を殴られないよう気をつけろよ〜」
「その話はやめてくれないか……」

 同僚の言葉に嫌な記憶が一瞬頭をよぎる。誰だかわからないその女性を恨めしく思いながらアイゼアは重い腰を上げ、一階の役所へと向かった。


 階段を降りると、人だかりができているのが目に飛び込んでくる。騒ぎを聞きつけてやって来た者もいるのだろう。その人波を縫うように歩き、騒ぎの中心へと近づいていく。

「呼べばわかることなのに本当に融通ゆうずうの利かない方ですね……わかりました。私が本物だと証明できればいいんですね?」

 ざわめきを貫くような凛々しい女性の声が響く。その声にアイゼアは聞き覚えがあった。いや、あるなんてものではない。

「魔術でこの役所を一瞬で更地にしてご覧にいれましょう。それなら信用していただけますね?」
「さ、更地ぃ!? 俺たちを殺す気か!!」

 人波の向こう、高く上げられた右手に雪のように白く美しい杖が生成される。

「やっぱりあんたみたいな物騒な小娘が、あのメレディス・クランベルカなわけ──
「何を根拠に決めつけるんだい? 正真正銘、彼女はメレディス・クランベルカって名前だけど」

 やっと声の主であるメリーの元まで辿り着き、杖を持つメリーの右手を掴んで制す。メリーとカウンターを挟んでやり取りをしていた壮年の騎士、コラートの視線がこちらへと向いた。

「アイゼア……! あんたが言うってことは、本当に本物ってこと、か!?」

 目を見開きしばたたかせながら、コラートはアイゼアとメリーを交互に見つめた。
 沈黙の中、メリーは無表情で書類をカウンターに叩きつける。シワが寄りぐしゃぐしゃになった書類が、押し問答が長らく続いたことを静かに物語っていた。

「受理、していただけますね」

 顔には一切出ていないがどこか圧のようなものを感じるメリーに、彼女が物凄く苛ついていることだけは察した。コラートは言葉を言い淀み、申し訳なさそうにその書類をメリーの方へスッと返す。

「少し破れてしまってて、これでは受理できない。大変申し訳ないのだが……その、書き直してはもらえないだろうか?」

 アイゼアは内心ひやひやしながらメリーを一瞥いちべつすると、無表情だったはずの顔が恨めしそうにじっとりとコラートをにらみつけている。その表情にコラートがゴクリと唾を飲み込む音がした。

 だがメリーは一拍おいて一度深呼吸すると、薄く笑みを返す。強く怒りを主張するかと思ったが、クランベルカ家や仲間のことが関わらなければ意外と冷静さもあるらしい。

「わかりました」
「お、お手数……おかけします」

 コラートは安堵あんどと緊張がない混ぜになった表情をし、視線はメリーとカウンターの表面とを行ったり来たりさせている。

「いいんですよ、そんな顔しないでください。このくらいなんてことはありませんから。借家を借りる手続きでも面倒な問答があったんです。だから役所はより面倒なことになるだろうなーって覚悟で来てますし、想定の範囲内ですよ」

 メリーは薄笑いを貼り付けつつチクチクと嫌味を言いながら、返されたボロボロの書類を自身とコラートの顔をさえぎるようにして手に取る。次の瞬間、書類はコラートの目の前でサラリと灰になって燃え尽き、空気に霧散して消え失せた。

「でも、次こそは迅速な対応をお願いしますね」

 前言撤回だ。やはり彼女は半分くらい冷静ではない。確実に怒り、面倒臭さに苛立っているのがひしひしと伝わってくる。
 コラートにはわからないかもしれないが、アイゼアには手に取るようにわかる。今の行動に「次はあなたがこうなる番ですよ」という脅しの意味が込められているのだと。

「メリー落ち着いて。手続きがきちんと終わるまでは僕もちゃんと見てるから」
「そうしてもらえると助かります。忙しいのにすみません」

 メリーはさっさと新しい書類を手にし、作業用のカウンターへ必要事項を記入しに行った。

「俺からも礼を言うよ、アイゼア。忙しいのに悪いな」
「それなら僕に声をかけてくれた同僚に感謝してあげてよ」
「にしても、驚いたな。メレディスなんて名前だからてっきり男だと思ってたら、あんな成人してるかどうかも微妙な女の子が来るんだもんなぁ」

 メレディス・クランベルカの名は、国王が世界へ発信した報告と共に世界中に知れ渡ることとなった。
 だがそれがどんな人物なのか、という情報はほとんど流されていない。年齢も性別も見た目もわからない。

 炎霊族御三家のストーベル・クランベルカの子供で、その野望の阻止に尽力した人物。国の是正のために立ち上がり、秘密裏に行われていた倫理に触れる悍ましい実験や訓練の数々を告発。そして自身も被害者であり、破格の魔力を持つと言われる魔術士。

 メレディスという名前は女性につけられることもあるが、どちらかといえば男性に名付けられることの多い名前だ。
 たったそれだけの情報が一人歩きした結果、メレディス・クランベルカという人物は厳格で荘厳そうごんな男性の魔術士という印象が勝手に世間に根付いてしまっていた。

「霊族の年齢は見た目じゃわからないよ。彼女は僕と一つしか年齢が変わらないから、二十三か四だしね」
「マジか。人は見かけによらんもんだな」
「そうなんだよねー……冗談抜きで役所どころか中央区くらいなら軽々と更地にしかねないから、あんまり杜撰ずさんな仕事はしないようにね」
「肝に銘じとくわ。それよりスピリアの魔術士ってのはそんなに凄いもんなのか? セントゥーロの魔術士部隊じゃ中央区を更地なんて想像もつかん話だが」

 それはそうだろう、とアイゼア自身も思う。メリーに会うまでは魔術というものがあれほど強烈なものだとは思っていなかった。
 セントゥーロなら何十人も束になって行使するようなものをたった一人で軽々と構築してくる。こちらの魔術や魔工学による術など子供のたわむれくらいに見えているのだろう。

 ストーベルと対峙したときに見た、雨のように降り注ぐ魔術を思い出し、ゾクリと身震いする。魔術障壁で守ってくれなければあの第一波でこちらは間違いなく壊滅していた。

「書けたので今度こそ受理してください」

 差し出された用紙とメリーの声に、過去へと向いていた意識が引き戻される。
 提出された書類に視線を落とすと『騎士団専属傭兵登録申請用紙』と印字されている。記入欄には名前や必要事項がやや丸みのある字で書かれていた。

 専属傭兵の話は以前皆に打診し、スイウ以外は受けてくれることになっていた。エルヴェの分は先日署名して提出し、フィロメナは生活が落ち着いていないのかまだ登録には来ていない。

「僕の頼みを聞いてくれてありがとう。そのせいで面倒なことになってごめんね」
「いえ。ある程度予測してましたし、最初から同伴してもらうように頼むべきでした」

 あくまでも自身の見通しが甘かったという淡々とした様子に、より申し訳なさが増す。

「丁度いいアイゼア、ついでに署名してけ。手間も省けるだろ」
「ん、あぁそうだね」

 内容に不備はなかったらしく、アイゼアはロングジャケットの内ポケットからペンを取り出し署名欄に自身の名前を記入していく。

「あの、私はもうこれでいいんですよね?」
「あんた悪かったな。これで終わりだ」
「そうですか。では失礼します」

 メリーは軽く会釈えしゃくすると、こちらを見上げてくる。

「アイゼアさんも仕事頑張ってくださいね」
「あぁ、ありがとう。メリー」

 一声かけられると思っていなかったせいで少し驚いたが、小さな気遣いがじんわりと嬉しかった。ちぐはぐで不穏なところもあるが、闇雲に人を傷つける人でもない。
 今回だって腹が立つようなこともあっただろうが、最後にはきちんと会釈をして帰っていく人でもある。

 だと言うのに、この場にいる騎士たちが向ける好奇や畏怖の視線にメリーは晒されていた。この国ではスピリアの魔術士というだけでもかなり珍しくはあるが、メリーの名は世界的に有名な魔術士の名の一つになってしまった。

野望を阻止した気高く勇敢な正義の魔術士として。
残虐な霊族の血を引いた恐ろしい魔術士として。
非道な実験と訓練を課されていた悲劇の魔術士として。
人という枠組みから外れ歪められた不気味な魔術士として。

 赤裸々せきららに暴かれた彼女の過去や事情は否応なしに衆目を引きつける。ノルタンダールでも彼女は街の人々から黄昏の月だと怖れられ、注目されていた。意味合いは少々異なるとはいえ、注目を浴び不躾な視線に晒されて気分が良いわけがない。

 だがこうなることも想定済みで、それでもメリーは告発の道を選んだのだろう。

 遠慮のない視線を居心地悪そうに、それでももう慣れていると言わんばかりに振り払って役所から出ていった。本名を名乗ることにさえ苦労の付きまとうメリーの在り方にアイゼアは小さく嘆息たんそくした。


第1話 噂の魔術士  終
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