アイゼア過去編【完結】
孤児だったこともあってか、養子縁組の申請は滞りなく行われた。
ウィンスレット家は貴族で、騎士団でもヒューゴとラランジャの信頼は厚いらしい。そのせいか審査も簡易的に行われるだけだった。
貴族というだけでこんなにもあっさりと承認されるなら悪事の温床まっしぐらだな、とアイゼアは内心毒づく。
文字が読めないアイゼアには書類に何が書かれているのかもわからず、自分のことでありながら完全に蚊帳 の外で物事は進んでいった。
「書類に署名してほしいんだけど、文字は書けるか? 姓も知ってるなら書いてもらいたいんだが」
「名前だけなら……書けなくはないと思う」
クレムと文字の読み書きの練習をしていたおかげで名前くらいであれば何も見ずに書くことはできるようになっていた。
「審査は通ったから、きみが署名したら正式に俺たちの息子になる」
わかったと了承した手前今更拒否権などなく、手渡されたペンを素直に受け取った。
アイゼアでもわかるほどに、丁寧に書かれた二人の名前らしき文字の横に、自身の名前を一文字ずつ書いていく。
アイゼア・ガーデニア。
この名前を書くのは、おそらくこれが最初で最後になるだろう。書き慣れない文字は相変わらずどこか歪 で拙い。
「ほぉ……姓はガーデニア、か」
「まぁ!梔子 の花と同じ、とても綺麗な名前ね」
二人のパッと花が咲くような朗らかな笑みに、もやもやとした不満感と苛立ちがかき立てられる。同時になぜかとても胸が押しつぶされるような息苦しさを覚えた。
何も知らないから『綺麗な名前』なんて言えるのだ。梔子とかけて『弱者に口無し』と蔑まれて虐げられてきた名前のどこを好きになれるというのか。
生まなければよかった、あのクズによく似ている、と罵る母親の姓のどこが綺麗なものか。気を緩めれば口をついて出てしまいそうな嫌味な言葉を飲み込む。
「姓が変わるのは平気?」
「俺を捨てた母親のだし、特別思い入れもないね」
「そう……お父様は?」
「父親は名前も知らないし見たこともない。母親と二人暮しだったよ。捨てられるまではね」
母は父をクズと呼び、父に似ているアイゼアは代わりに罵声を浴びせられ続けてきた。母にとって自分は、父を彷彿 とさせる目障りな存在だったに違いない。
こちらを気の毒に思ったのか、二人は申し訳なさそうに口を噤 む。
「そんな顔されたら困るんだけど。こんなのよくある話でしょ」
我ながら意地の悪さに呆れながらも、どこか引っ込みがつかなくなっていた。二人と話していると妙に苛立って仕方ないのだ。
「辛いこともたくさんあったのでしょうけど、これからは寂しい思いなんて絶対させないわ。私もヒューゴも、アイゼアが息子になってくれてすごく嬉しいのよ」
覗き込んでくるラランジャの瞳を静かに見つめ返し、綺麗事を、とまた内心毒づく。まだこちらの人間性も理解していないのに、随分と大げさな言い方だ。
絶対などこの世にない。
そんな子供騙しの取ってつけたような言葉を信じると思っているのだろうか。こちらを子供と舐め腐っているなら、精々油断していればいい。
その方が好都合だ。
引き取ったところで、望み通りの『息子』にならなければ、どうせ母のように捨てるだけ。二人の思いについていけないほど、アイゼアの気持ちは冷え切っていた。
手続きが終わり、ウィンスレット家の邸宅を目指してラランジャの隣を歩く。ヒューゴはアイゼアの生活に必要なものを買ってから戻ると言って本部の前で別れた。
サントルーサの中央区にある本部から、邸宅のある北区を目指す。北区はその方角通り、貧民街になっている南区の反対に位置し、富裕層や貴族たちの居住区域になっている。いわゆる貴族街というやつだ。
道一つとっても、整備の行き届いた石畳は歩きやすい。美しく手入れされた街路樹と花壇には色とりどりの花が咲いている。
白と黒と灰色と腐臭で構成されていた南区に比べ、明るく鮮やかに色付いた世界だ。空を見上げると僅かに暑さを感じるほどに眩く輝く太陽と抜けるような青が視界いっぱいに広がる。今は初夏の雨季だが、今日はその晴れ間の日のようだ。
クレムが待ち侘びていた太陽を、今自分は浴びている。一緒に出る約束は叶わなかったが、あの地獄から生還したのだと、今になってようやく実感が湧いてきた。
「登り坂が続くから大変でしょ。疲れてない?」
「別にこのくらい平気。それより聞きたいことがたくさんあるんだけど」
「なぁに? 何でも聞いていいのよ」
ラランジャはアイゼアが自分たちに興味を持ってくれたと思ったのか嬉しそうに機嫌良く微笑んでいる。馬鹿なヤツだ。
アイゼア自身はラランジャやヒューゴに良い意味での興味はない。ただ探りを入れたいだけの話だ。
意図的に表情を緩め、どんな生活をしているのか、これからの生活のことやヒューゴのことなどを聞き、顔色を覗う。質問に対する返答も勿論だが、話し方や表情からラランジャの人となりを探る。
一方的に質問攻めにしているがラランジャは嫌な顔一つせず、丁寧に楽しそうに答えてくれていた。
坂を登った先にある褐色の屋根の屋敷の前でラランジャは立ち止まる。
「ここがウィンスレット家の屋敷よ」
「え、でっか……」
「二人で暮らすにはちょっと大きいのよねー。でも、景色はなかなか素敵なのよ?」
ラランジャの指を辿って振り返ると、北区の整然とした街並みと王城が遠くに見える。坂の上の方ということもあって二階に上がれば更に広く街が見渡せるのだろう。
住んでる世界が違うのだという現実をまざまざと見せつけられたようだった。そしてこの屋敷がこれからは自分の家になり、自分の住む世界となる。
昨日までは生き地獄にいたのに、今日はまるで夢の中にでもいるかのような心地だった。鉄格子 の門をくぐると、ラランジャは玄関ではなく庭の隅の方へと小走りで駆けていく。
「アイゼア! こっちへいらっしゃい」
手招きに応じ、ラランジャの隣へと並ぶ。目の前の低木には白いぽってりとした花が咲き、僅かについた水滴が日の光を受けて銀貨のように光を放っている。辺りにはしっとりとした甘く柔らかな芳香を漂わせていた。
「これが梔子……ガーデニアよ。かわいい綺麗な花でしょう? 私はね、この花が一番好きなの。すごくいい香りよね」
「これが梔子……」
花になど一切興味がなく、梔子の花を見るのは初めてだった。確かに真っ白で香りの良い綺麗な花だ。
「ほら、花びらの色がアイゼアの髪にそっくりね」
楽しそうに微笑むラランジャにアイゼアは返す言葉を失った。
「屋敷の中へ入りましょうか」
手を引かれて流されるままに屋敷の中へと入ると、玄関ホールは二階まで吹き抜けになっており、上からシャンデリアが吊り下がっている。マスターの部屋にあったものよりも地味で簡素だが、落ち着いた屋敷の雰囲気にはこれでいいのかもしれない。
「お早いお帰りですね、奥様」
「お帰りなさいませ。そちらの方は……」
掃除をしていた若いメイドの女と中年の執事に出迎えられる。貴族の家なのだから使用人の存在は当然といえば当然なのかもしれないが、物珍しさもあって思わず観察してしまう。
「今日から私とヒューゴの息子になったアイゼアよ」
「えー! 息子ぉ!? おっ奥様、一体どういう──
「説明は後でゆっくりするから。それより湯の準備をしてほしいの。アイゼアもまだ少し汚れたままだし……」
畏まりましたと口にし会釈すると、メイドは慌ただしく奥へと消えていった。
服はとりあえず間に合わせの綺麗なものを着てはいるが、体についた汚れや血はまだ拭き取れていないところも多い。
それにしても従者がいて出迎えられるというあたり、本当にここは貴族の屋敷なのだと認識する。ここで息子として暮らすということは自分も貴族として生きるということになるはずだ。そんなものが自分に勤まるはずもないのに、と途方もない気持ちにすらなる。
アイゼアは考えることを放棄し、利用するだけして出ていけばいいと今は結論づけることにした。
されど夜明けを待ち焦がれている(6) 終
ウィンスレット家は貴族で、騎士団でもヒューゴとラランジャの信頼は厚いらしい。そのせいか審査も簡易的に行われるだけだった。
貴族というだけでこんなにもあっさりと承認されるなら悪事の温床まっしぐらだな、とアイゼアは内心毒づく。
文字が読めないアイゼアには書類に何が書かれているのかもわからず、自分のことでありながら完全に
「書類に署名してほしいんだけど、文字は書けるか? 姓も知ってるなら書いてもらいたいんだが」
「名前だけなら……書けなくはないと思う」
クレムと文字の読み書きの練習をしていたおかげで名前くらいであれば何も見ずに書くことはできるようになっていた。
「審査は通ったから、きみが署名したら正式に俺たちの息子になる」
わかったと了承した手前今更拒否権などなく、手渡されたペンを素直に受け取った。
アイゼアでもわかるほどに、丁寧に書かれた二人の名前らしき文字の横に、自身の名前を一文字ずつ書いていく。
アイゼア・ガーデニア。
この名前を書くのは、おそらくこれが最初で最後になるだろう。書き慣れない文字は相変わらずどこか
「ほぉ……姓はガーデニア、か」
「まぁ!
二人のパッと花が咲くような朗らかな笑みに、もやもやとした不満感と苛立ちがかき立てられる。同時になぜかとても胸が押しつぶされるような息苦しさを覚えた。
何も知らないから『綺麗な名前』なんて言えるのだ。梔子とかけて『弱者に口無し』と蔑まれて虐げられてきた名前のどこを好きになれるというのか。
生まなければよかった、あのクズによく似ている、と罵る母親の姓のどこが綺麗なものか。気を緩めれば口をついて出てしまいそうな嫌味な言葉を飲み込む。
「姓が変わるのは平気?」
「俺を捨てた母親のだし、特別思い入れもないね」
「そう……お父様は?」
「父親は名前も知らないし見たこともない。母親と二人暮しだったよ。捨てられるまではね」
母は父をクズと呼び、父に似ているアイゼアは代わりに罵声を浴びせられ続けてきた。母にとって自分は、父を
こちらを気の毒に思ったのか、二人は申し訳なさそうに口を
「そんな顔されたら困るんだけど。こんなのよくある話でしょ」
我ながら意地の悪さに呆れながらも、どこか引っ込みがつかなくなっていた。二人と話していると妙に苛立って仕方ないのだ。
「辛いこともたくさんあったのでしょうけど、これからは寂しい思いなんて絶対させないわ。私もヒューゴも、アイゼアが息子になってくれてすごく嬉しいのよ」
覗き込んでくるラランジャの瞳を静かに見つめ返し、綺麗事を、とまた内心毒づく。まだこちらの人間性も理解していないのに、随分と大げさな言い方だ。
絶対などこの世にない。
そんな子供騙しの取ってつけたような言葉を信じると思っているのだろうか。こちらを子供と舐め腐っているなら、精々油断していればいい。
その方が好都合だ。
引き取ったところで、望み通りの『息子』にならなければ、どうせ母のように捨てるだけ。二人の思いについていけないほど、アイゼアの気持ちは冷え切っていた。
手続きが終わり、ウィンスレット家の邸宅を目指してラランジャの隣を歩く。ヒューゴはアイゼアの生活に必要なものを買ってから戻ると言って本部の前で別れた。
サントルーサの中央区にある本部から、邸宅のある北区を目指す。北区はその方角通り、貧民街になっている南区の反対に位置し、富裕層や貴族たちの居住区域になっている。いわゆる貴族街というやつだ。
道一つとっても、整備の行き届いた石畳は歩きやすい。美しく手入れされた街路樹と花壇には色とりどりの花が咲いている。
白と黒と灰色と腐臭で構成されていた南区に比べ、明るく鮮やかに色付いた世界だ。空を見上げると僅かに暑さを感じるほどに眩く輝く太陽と抜けるような青が視界いっぱいに広がる。今は初夏の雨季だが、今日はその晴れ間の日のようだ。
クレムが待ち侘びていた太陽を、今自分は浴びている。一緒に出る約束は叶わなかったが、あの地獄から生還したのだと、今になってようやく実感が湧いてきた。
「登り坂が続くから大変でしょ。疲れてない?」
「別にこのくらい平気。それより聞きたいことがたくさんあるんだけど」
「なぁに? 何でも聞いていいのよ」
ラランジャはアイゼアが自分たちに興味を持ってくれたと思ったのか嬉しそうに機嫌良く微笑んでいる。馬鹿なヤツだ。
アイゼア自身はラランジャやヒューゴに良い意味での興味はない。ただ探りを入れたいだけの話だ。
意図的に表情を緩め、どんな生活をしているのか、これからの生活のことやヒューゴのことなどを聞き、顔色を覗う。質問に対する返答も勿論だが、話し方や表情からラランジャの人となりを探る。
一方的に質問攻めにしているがラランジャは嫌な顔一つせず、丁寧に楽しそうに答えてくれていた。
坂を登った先にある褐色の屋根の屋敷の前でラランジャは立ち止まる。
「ここがウィンスレット家の屋敷よ」
「え、でっか……」
「二人で暮らすにはちょっと大きいのよねー。でも、景色はなかなか素敵なのよ?」
ラランジャの指を辿って振り返ると、北区の整然とした街並みと王城が遠くに見える。坂の上の方ということもあって二階に上がれば更に広く街が見渡せるのだろう。
住んでる世界が違うのだという現実をまざまざと見せつけられたようだった。そしてこの屋敷がこれからは自分の家になり、自分の住む世界となる。
昨日までは生き地獄にいたのに、今日はまるで夢の中にでもいるかのような心地だった。
「アイゼア! こっちへいらっしゃい」
手招きに応じ、ラランジャの隣へと並ぶ。目の前の低木には白いぽってりとした花が咲き、僅かについた水滴が日の光を受けて銀貨のように光を放っている。辺りにはしっとりとした甘く柔らかな芳香を漂わせていた。
「これが梔子……ガーデニアよ。かわいい綺麗な花でしょう? 私はね、この花が一番好きなの。すごくいい香りよね」
「これが梔子……」
花になど一切興味がなく、梔子の花を見るのは初めてだった。確かに真っ白で香りの良い綺麗な花だ。
「ほら、花びらの色がアイゼアの髪にそっくりね」
楽しそうに微笑むラランジャにアイゼアは返す言葉を失った。
「屋敷の中へ入りましょうか」
手を引かれて流されるままに屋敷の中へと入ると、玄関ホールは二階まで吹き抜けになっており、上からシャンデリアが吊り下がっている。マスターの部屋にあったものよりも地味で簡素だが、落ち着いた屋敷の雰囲気にはこれでいいのかもしれない。
「お早いお帰りですね、奥様」
「お帰りなさいませ。そちらの方は……」
掃除をしていた若いメイドの女と中年の執事に出迎えられる。貴族の家なのだから使用人の存在は当然といえば当然なのかもしれないが、物珍しさもあって思わず観察してしまう。
「今日から私とヒューゴの息子になったアイゼアよ」
「えー! 息子ぉ!? おっ奥様、一体どういう──
「説明は後でゆっくりするから。それより湯の準備をしてほしいの。アイゼアもまだ少し汚れたままだし……」
畏まりましたと口にし会釈すると、メイドは慌ただしく奥へと消えていった。
服はとりあえず間に合わせの綺麗なものを着てはいるが、体についた汚れや血はまだ拭き取れていないところも多い。
それにしても従者がいて出迎えられるというあたり、本当にここは貴族の屋敷なのだと認識する。ここで息子として暮らすということは自分も貴族として生きるということになるはずだ。そんなものが自分に勤まるはずもないのに、と途方もない気持ちにすらなる。
アイゼアは考えることを放棄し、利用するだけして出ていけばいいと今は結論づけることにした。
されど夜明けを待ち焦がれている(6) 終