アイゼア過去編【完結】
ゴングと共に舞台上への放たれた猛獣は、こちら目掛けて一直線に駆けてくる。半ば反射的に避け、視線は猛獣から離さないよう睨 みつけながら足に力を込めて勢いを殺す。
今までに感じたことのないヒリつくような空気が猛獣から放たれている。
殺される。
恐怖と寒気が背筋を駆け上がる。これが殺気なのだと、そしてそれに気圧 されているのだと理解した。
猛獣はサーシスへと顔を向け、低く唸 り声を上げながら今にも飛びかからんとしている。サーシスからは恐怖とそれでもなお生き残ろうとする執念の両方が伝わってくる。
アイゼアもセロシアもそんな二者の様子に釘付けになっていた。呼吸も瞬きさえも忘れ、僅かに身じろげば自分が殺されかねない恐怖に固まっていた。
刹那、猛獣がサーシスへと飛びかかる。サーシスは猛獣の下へ滑り込み、下腹部へ素早くナイフを刺すとすぐに抜き距離をとった。猛獣は痛みに吠え、下腹部に血が滲 む。あの巨体に対し与えられたナイフはあまりにも短い。
「嘘だろッ? 刺してもこんな程度じゃ……」
攻撃されたことで猛獣は怒り、咆哮 する。空気がビリビリと震え、死が目前まで迫っている現実に怯む。
狙いは完全にサーシスだった。それまでは手加減だったと言わんばかりの速度でサーシスへと襲いかかる。反応が僅かに遅れたサーシスの左腕が猛獣の爪によって簡単に引き千切られて飛んだ。放物線を描いて、やがて鈍い音を立てて落ちる。
「うっ腕が!!」
腕がなくなったことに遅れて気づき痛みに悶えるサーシスに猛獣が食らいつく。太い牙は布に針を通すかのように体を簡単に貫いた。猛獣が犬のように顔を乱暴に振るたびに体が避け、血肉や臓物が散り、鋭いサーシスの断末魔とセロシアの悲鳴が響く。
控室から見る光景よりずっと至近距離で見るそれは、あまりにも朱が映えていた。引き千切れて落ちた上半身はこちらに顔を向けていた。濁りかけた目がアイゼアを捉え、口元が小さく動く。
声にならない声。
言葉を型取った口も、やがて半開きのまま動かなくなる。それは紛れもなくこれから訪れる自分の未来の姿だった。
死にたくない、だが敵わない。ここで諦めるしかないのか。
『一緒にここを出よう』
蘇るクレムとの約束に右手のナイフを強く握りしめた。まだ自分は何もしていない。思いつく限り、やれるだけのことはやろう。
「セロシア! 俺と協力して猛獣を──
「無理無理無理よ!! 嫌だっ、殺さないで……お母さん、お父さん……助けてぇっ!!」
一人で無理なら二人でと思ったが、セロシアは恐怖でとても動けるような状態ではなかった。これが残ったのがサーシスであればまた違ったのかもしれないと奥歯を噛み締める。猛獣はセロシアへと狙いを変えていた。
「おいっ、狙われてるって!!」
「来ないで、来ないでぇぇーっっ!!!!」
尻餅をつき、半ば錯乱状態でナイフを振りかざすセロシアは絶望的だ。だが自分が狙われていない今はチャンスだ。
サーシスの傍らに落ちたナイフを拾い、猛獣の爪先を力一杯刺す。動きが鈍れば状況は少しは好転するかもしれない、そう思ったからだ。
だがナイフでできることは僅かで、後ろ足で蹴られた瞬間鈍い音が体に響き、思い切りふっ飛ばされた。
受け身も取れず背中から落ち、息が詰まる。空気が吸えず胸を押さえて蹲 る。必死で空気を吸おうともがいていると、また一つ断末魔が上がった。
ハッと空気が肺へと入り、何度も荒く呼吸を繰り返す。じんと頭が痺れるような感覚と同時に目尻に浮かんだ涙で視界が滲 む。
猛獣は口から血を滴らせ、硬いものを噛み砕くような音を立てながらセロシアを咀嚼 し呑み込んだ。
そのギラついた瞳はやがてアイゼアを捉え、まだ足りないと語っている。
ナイフの長さでは猛獣の体を刺しても足止めにすらならない。なら狙うのは急所だ。獣の急所などよく知らないが、形は違えど人と近しい部位はいくつもある。
アイゼアは痛みに耐えながら立ち上がると、両手にナイフを握った。猛獣が余裕すら感じられる動きでこちらを向く。鼓動が早鐘を打ち、緊張と恐怖に呼吸を浅く繰り返す。
チャンスは一度きり。
これを逃したら死ぬしかない。
生きていて喜ぶ者もいないのにどうしてこんなに生にしがみついているのだろう。約束を果たすべき相手ももういないのに。
「ふっ……あはは……」
こんな時にどうしてか笑いが漏れる。いよいよ自分もどこかおかしくなってしまったのかもしれないと、もう一人の冷静な自分が呟いた。
「お前もお前らも全員、いつか殺してやるよ……必ず」
猛獣を見据えながら、背後に感じる観客の気配に啖呵 を切った。
猛烈な勢いで迫り来る猛獣に右手のナイフを構える。大人しく突っ立ったままのアイゼアを食い千切らんと猛獣の大きな口が開き迫る。その口の奥を目掛けて、アイゼアは右手のナイフを鋭く投擲した。
牙がアイゼアに触れる寸前、猛獣は悲鳴を上げながら仰け反る。やはり口腔内は肌よりも柔らかいらしい。
怯んだ隙にアイゼアは全速力で走り、壁を駆け上がる。一際 強く壁を蹴り、重力の力を借りてナイフを両手で振り下ろす。
狙うは一点、急所を突く。
ナイフは狙い通り左目に突き刺さり、猛獣が悲鳴を上げた。乱暴に顔を振るい、アイゼアはふっ飛ばされて地面を転がる。
痛みをこらえ、咄嗟 に立ち上がろうと顔を上げるとすでに猛獣が眼前に迫っていた。その動きはゆっくりとしたものなのに、自分の体はそれ以上に遅い速度でしか動かない。
あぁ……殺される──
「炎槍よ、貫け!! フレイムランス!!」
その瞬間、耳を劈 くような爆発音と共に猛獣が横へと吹っ飛んだ。慌ててそれを目で追うと、炎でできた槍が猛獣に深々と突き刺さっていた。
「第一部隊、魔物を速やかに討伐せよ! 第二部隊、主催及び観客を一人残らず捕縛する。最悪殺しても構わんっ、責任は全て俺が負う!!」
男の声と共に、大勢の人が舞台上へと押し寄せた。紅い隊服を身に纏 う彼らは騎士だろう。炎の槍は消え、代わりに複数の騎士が武器を片手に猛獣と戦い、あっという間にトドメを刺していた。
呆然と座り込んだままのアイゼアに、先程炎の槍を作り出していた女が声をかけてきた。
「大丈夫? 間一髪間に合って良かったわ」
僅かにオレンジがかった茶色の髪と同じ色の瞳、紅い隊服からこの人もまた騎士の一人なのだとわかる。
「騎士が……騎士がなんでこんなとこへ? 南区にいるはずないのに」
思わず出た言葉に騎士の女は悲しそうに眉尻を下げた。
「さぁ、怪我の手当てをしましょうね。歩ける?」
騎士の女は質問に答えることなく、こちらへ手を差し伸べてきた。その手を取ることもなく立ち上がり、睨 みつける。
「俺の怪我なんて治してどうするの? 何が目的?」
「えっ、目的? そうねぇ、市民を守るのが私たちの仕事だからって言えば納得してくれるかな?」
困ったように笑うこの女を信用はしてないが、これだけ大勢の騎士がいれば下手なことはしてこないと思いたい。手当てをタダでしてくれるなら好都合だ。
「行きましょう?」
騎士の女は、先導するように先を歩き始める。背を向けた瞬間に魔物の目から抜けた落ちたナイフを拾い、素早く上着の内側へと忍ばせた。
簡単な手当てを受けたあと、アイゼアは騎士団本部の部屋にいた。服は着替えさせられ結局ナイフも取り上げられてしまい、今はただ騎士たちに従うしかない状況だ。
保護された子供たちは皆、親がいる者は親元へ、いない者は孤児院へと引き取られていった。ちょうど組の転換期で、アイゼアたちと別のもう一組は自分以外全滅し、次回開催の闘技祭から見せ物にされるはずだった子供たちだけが残っていたようだった。
彼らはすぐに引き取られてこの部屋を去っていったというのに、自分だけはいまだにここに残っている。簡単な話で、何人も殺し続けてきた自分を引き取ってくれる孤児院が見つからないのだ。部屋の外にいる騎士が話している声がこの部屋まで筒抜けになっている。
こんなところに長々といるつもりもない。菓子鉢に入れられた焼き菓子をありったけポケットへと詰め込み、入らない分は出された紅茶と一緒に全部腹に流し込んだ。すっかり腹も満たされ、もう用もないと部屋を出ると数人の騎士と鉢合わせになる。
「少年、勝手に出歩くんじゃない。部屋に戻るように」
「帰りたいんだけど」
「帰るってどこにだ?」
「俺みたいなヤツの居場所なんか南区にしかないでしょ。おっさん馬鹿なの?」
「馬鹿ってお前っ! 子供一人でどうする!?」
「今までも一人だったし、どうにでもなるよ」
こちらを解放する気はないようで、騎士たちとの押し問答を延々と繰り返す。
「帰る帰るって、親がいたのかー?」
アイゼアの前に立ちはだかる騎士たちの壁の向こうから、ひょっこりと男の騎士が現れる。
「ヒューゴ隊長! 聞いてくださいよぉ。コイツ親もいないのに帰るって聞かなくって」
「親がいないってんなら帰せないなぁ」
ヒューゴ隊長と呼ばれたこの男は、確か猛獣から助けてくれたときに騎士たちに指示を出していた騎士だ。
「何で? 今までもそうしてきたし、構わないで」
「ダメだ。きみはまだ子供なんだ」
「でも引き取り手がないんでしょ?」
そう言うと騎士たちの顔が一様に引きつる。
「おっさんたちの声、筒抜けなんだよね。困った困った、人殺しだから貰い手がつかないーってさぁ。やっぱ馬鹿でしょ」
「きみたちなぁ……」
ヒューゴがじとっと睨 むと、騎士たちは「申し訳ありません!」と言いながら姿勢を正した。
「あっ、ヒューゴ! ここにいたのね」
女の声が聞こえ振り返ると、あのとき猛獣から助けてくれた炎の槍の女が見えた。
「ラランジャさん! お疲れ様ですっ」
「みんなお疲れ様」
名前はラランジャというらしい。騎士に挨拶する様子は助けてくれたときとは随分 違い、明るくふわっとした印象を受ける。
「ララ。この子の引き取り先は見つかったか?」
「ええ、私ったらとっても素敵な引き取り先を見つけたのよ!」
そう言うなりラランジャは姿勢を低くしてアイゼアに目線を合わせてくる。ポンと両肩に手を乗せられて、反射的に体が強張った。
だが、その次の言葉でアイゼアは更に体を固くすることになる。
「ねぇ、きみ。うちの子にならないかな?」
と、目の前のラランジャがにこにこと楽しそうに言い放った。
何を言っているのか理解が追いつかず、声も出せない。しんと廊下は一気に静まり返り、騎士たちすらも呆気に取られているようだった。しばらくの間沈黙が続き、やがてヒューゴが口を開いた。
「ララ……さすがは我が妻、天才か!! そうだ、きみはうちの子になるといい。俺は大歓迎だ!!」
「やっぱり! ヒューゴなら絶対そう言ってくれるって思ってたわ」
二人で見つめ合い、きらきら〜っとした独特の世界が展開されている。自分は一体何を見せられているのだろう、とアイゼアは絶句していた。
「ねぇ、お返事を聞かせて?」
あくまで返答を聞いている体だが、何となく断れない圧力を感じる。それでも二つ返事で承諾する気にはなれなかった。この感覚は体験したばかりだったからだ。
マスターと初めて会った日のやりとりを思い出しながら二人を真っ直ぐに見つめ返し、警戒して後退 る。口から出た言葉はあの日と何も変わらない。
「俺を引き取ってどうするの? 俺に利用価値なんてあると思えないんだけど」
「「利用価値?」」
二人は顔を見合わせて目を瞬 かせている。
「あの闘技場を仕切ってたマスターは俺たちに衣食住を与える代わりに見せ物として殺し合いをしろって要求してきた。お前らは俺に与える代わりに何を求めるの? 俺は売っても大した金にはならないだろうから、盗みとか? やっぱり殺し? アイツと同じで見せ物にでもするのか……あぁ奴隷として扱き使うって手も──
ふっとラランジャの手のひらが頭上に伸び、ビクリと体が震えると同時に反射的に叩いて払い除けた。
「あっ、ごめんね。怖がらせるつもりはなかったの」
ラランジャは申し訳なさそうに手を引っ込める。心臓がドクドクと早く脈打つ振動が胸から全身へ響いている。頭上に迫る手に暴力を振るわれると思ったからだ。
「理由がないと不安か?」
今度はヒューゴも屈み、視線の高さを合わせてくる。
「不安に決まってる。だって見返りもないのに他人に優しくする義理なんかないでしょ。ありえない。何かを得るには何かを差し出さなきゃいけない。当然でしょ? 世の中美味い話なんてないって、子供の俺でも知ってんだけど」
今までだってずっとそうだった。何かを得るために何かを失ってきた。アイゼアには差し出せるものがあまりにも少なく、身や心を削るようにして生きてきた。
穏やかに暮らす子供であれば当然持っているはずのものを持っていなかったからだ。
やはりコイツらとは生きている世界が違う、そうアイゼアは感じていた。陽の当たる場所で温々と当然のように生きているヤツらは、こんな簡単な世の常識にも気づかない。
それとも子供だから簡単に騙されると思って見縊 っているのか。悔しさに服の裾 を強く握りしめた。
「義理は確かにない。俺たちの考えを今のきみに理解してもらうのは少々難しいかもしれんなー」
「ならわかることで説明しましょうよ。うちはね、子供がなかなかできなくて養子を貰うか考えていたところだったのよ。子供がいない私たちと帰る家のないきみ、利害の一致ってことでどうかな?」
淀みのない瞳に覗きこまれ、思わず視線を逸らす。
「うちの子になってくれないか?」
「うちにおいでよ。ね?」
この二人が見たままの裏のない人たちだったとしたら、本当に穏やかに暮らせるようになるのかもしれない。あの貧しく苦しい生活から抜け出せる。
そんな美味い話は早々ないだけに、手放しで信用して受け入れるわけにはいかない。それでもここで断ったところで、貰い手が決まらない限りは解放してもらえない。逃げ出すにしても騎士団本部は出た方がいいだろう。
「わかったよ……」
不満そうな声色を意識して返事をすると、二人は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、今日からよろしく頼むよ。俺はヒューゴ・ウィンスレットだ」
「私はヒューゴの妻のラランジャ・ウィンスレットよ。きみの名前も教えてくれないかな?」
優しい声で自己紹介され、慣れない感覚にどこか居心地が悪く数歩下がった。
「アイゼア、だけど」
「アイゼア・ウィンスレット、きみを心から歓迎する。ようこそ、我がウィンスレット家へ!」
「アイゼア……ウィンスレット……」
耳慣れない響きに思わず口が動く。それが今日からの自分の名前になる。なるのだが、あまりにも突然のことにアイゼアは全く実感が湧かないでいた。
されど夜明けを待ち焦がれている(5) 終
今までに感じたことのないヒリつくような空気が猛獣から放たれている。
殺される。
恐怖と寒気が背筋を駆け上がる。これが殺気なのだと、そしてそれに
猛獣はサーシスへと顔を向け、低く
アイゼアもセロシアもそんな二者の様子に釘付けになっていた。呼吸も瞬きさえも忘れ、僅かに身じろげば自分が殺されかねない恐怖に固まっていた。
刹那、猛獣がサーシスへと飛びかかる。サーシスは猛獣の下へ滑り込み、下腹部へ素早くナイフを刺すとすぐに抜き距離をとった。猛獣は痛みに吠え、下腹部に血が
「嘘だろッ? 刺してもこんな程度じゃ……」
攻撃されたことで猛獣は怒り、
狙いは完全にサーシスだった。それまでは手加減だったと言わんばかりの速度でサーシスへと襲いかかる。反応が僅かに遅れたサーシスの左腕が猛獣の爪によって簡単に引き千切られて飛んだ。放物線を描いて、やがて鈍い音を立てて落ちる。
「うっ腕が!!」
腕がなくなったことに遅れて気づき痛みに悶えるサーシスに猛獣が食らいつく。太い牙は布に針を通すかのように体を簡単に貫いた。猛獣が犬のように顔を乱暴に振るたびに体が避け、血肉や臓物が散り、鋭いサーシスの断末魔とセロシアの悲鳴が響く。
控室から見る光景よりずっと至近距離で見るそれは、あまりにも朱が映えていた。引き千切れて落ちた上半身はこちらに顔を向けていた。濁りかけた目がアイゼアを捉え、口元が小さく動く。
声にならない声。
言葉を型取った口も、やがて半開きのまま動かなくなる。それは紛れもなくこれから訪れる自分の未来の姿だった。
死にたくない、だが敵わない。ここで諦めるしかないのか。
『一緒にここを出よう』
蘇るクレムとの約束に右手のナイフを強く握りしめた。まだ自分は何もしていない。思いつく限り、やれるだけのことはやろう。
「セロシア! 俺と協力して猛獣を──
「無理無理無理よ!! 嫌だっ、殺さないで……お母さん、お父さん……助けてぇっ!!」
一人で無理なら二人でと思ったが、セロシアは恐怖でとても動けるような状態ではなかった。これが残ったのがサーシスであればまた違ったのかもしれないと奥歯を噛み締める。猛獣はセロシアへと狙いを変えていた。
「おいっ、狙われてるって!!」
「来ないで、来ないでぇぇーっっ!!!!」
尻餅をつき、半ば錯乱状態でナイフを振りかざすセロシアは絶望的だ。だが自分が狙われていない今はチャンスだ。
サーシスの傍らに落ちたナイフを拾い、猛獣の爪先を力一杯刺す。動きが鈍れば状況は少しは好転するかもしれない、そう思ったからだ。
だがナイフでできることは僅かで、後ろ足で蹴られた瞬間鈍い音が体に響き、思い切りふっ飛ばされた。
受け身も取れず背中から落ち、息が詰まる。空気が吸えず胸を押さえて
ハッと空気が肺へと入り、何度も荒く呼吸を繰り返す。じんと頭が痺れるような感覚と同時に目尻に浮かんだ涙で視界が
猛獣は口から血を滴らせ、硬いものを噛み砕くような音を立てながらセロシアを
そのギラついた瞳はやがてアイゼアを捉え、まだ足りないと語っている。
ナイフの長さでは猛獣の体を刺しても足止めにすらならない。なら狙うのは急所だ。獣の急所などよく知らないが、形は違えど人と近しい部位はいくつもある。
アイゼアは痛みに耐えながら立ち上がると、両手にナイフを握った。猛獣が余裕すら感じられる動きでこちらを向く。鼓動が早鐘を打ち、緊張と恐怖に呼吸を浅く繰り返す。
チャンスは一度きり。
これを逃したら死ぬしかない。
生きていて喜ぶ者もいないのにどうしてこんなに生にしがみついているのだろう。約束を果たすべき相手ももういないのに。
「ふっ……あはは……」
こんな時にどうしてか笑いが漏れる。いよいよ自分もどこかおかしくなってしまったのかもしれないと、もう一人の冷静な自分が呟いた。
「お前もお前らも全員、いつか殺してやるよ……必ず」
猛獣を見据えながら、背後に感じる観客の気配に
猛烈な勢いで迫り来る猛獣に右手のナイフを構える。大人しく突っ立ったままのアイゼアを食い千切らんと猛獣の大きな口が開き迫る。その口の奥を目掛けて、アイゼアは右手のナイフを鋭く投擲した。
牙がアイゼアに触れる寸前、猛獣は悲鳴を上げながら仰け反る。やはり口腔内は肌よりも柔らかいらしい。
怯んだ隙にアイゼアは全速力で走り、壁を駆け上がる。
狙うは一点、急所を突く。
ナイフは狙い通り左目に突き刺さり、猛獣が悲鳴を上げた。乱暴に顔を振るい、アイゼアはふっ飛ばされて地面を転がる。
痛みをこらえ、
あぁ……殺される──
「炎槍よ、貫け!! フレイムランス!!」
その瞬間、耳を
「第一部隊、魔物を速やかに討伐せよ! 第二部隊、主催及び観客を一人残らず捕縛する。最悪殺しても構わんっ、責任は全て俺が負う!!」
男の声と共に、大勢の人が舞台上へと押し寄せた。紅い隊服を身に
呆然と座り込んだままのアイゼアに、先程炎の槍を作り出していた女が声をかけてきた。
「大丈夫? 間一髪間に合って良かったわ」
僅かにオレンジがかった茶色の髪と同じ色の瞳、紅い隊服からこの人もまた騎士の一人なのだとわかる。
「騎士が……騎士がなんでこんなとこへ? 南区にいるはずないのに」
思わず出た言葉に騎士の女は悲しそうに眉尻を下げた。
「さぁ、怪我の手当てをしましょうね。歩ける?」
騎士の女は質問に答えることなく、こちらへ手を差し伸べてきた。その手を取ることもなく立ち上がり、
「俺の怪我なんて治してどうするの? 何が目的?」
「えっ、目的? そうねぇ、市民を守るのが私たちの仕事だからって言えば納得してくれるかな?」
困ったように笑うこの女を信用はしてないが、これだけ大勢の騎士がいれば下手なことはしてこないと思いたい。手当てをタダでしてくれるなら好都合だ。
「行きましょう?」
騎士の女は、先導するように先を歩き始める。背を向けた瞬間に魔物の目から抜けた落ちたナイフを拾い、素早く上着の内側へと忍ばせた。
簡単な手当てを受けたあと、アイゼアは騎士団本部の部屋にいた。服は着替えさせられ結局ナイフも取り上げられてしまい、今はただ騎士たちに従うしかない状況だ。
保護された子供たちは皆、親がいる者は親元へ、いない者は孤児院へと引き取られていった。ちょうど組の転換期で、アイゼアたちと別のもう一組は自分以外全滅し、次回開催の闘技祭から見せ物にされるはずだった子供たちだけが残っていたようだった。
彼らはすぐに引き取られてこの部屋を去っていったというのに、自分だけはいまだにここに残っている。簡単な話で、何人も殺し続けてきた自分を引き取ってくれる孤児院が見つからないのだ。部屋の外にいる騎士が話している声がこの部屋まで筒抜けになっている。
こんなところに長々といるつもりもない。菓子鉢に入れられた焼き菓子をありったけポケットへと詰め込み、入らない分は出された紅茶と一緒に全部腹に流し込んだ。すっかり腹も満たされ、もう用もないと部屋を出ると数人の騎士と鉢合わせになる。
「少年、勝手に出歩くんじゃない。部屋に戻るように」
「帰りたいんだけど」
「帰るってどこにだ?」
「俺みたいなヤツの居場所なんか南区にしかないでしょ。おっさん馬鹿なの?」
「馬鹿ってお前っ! 子供一人でどうする!?」
「今までも一人だったし、どうにでもなるよ」
こちらを解放する気はないようで、騎士たちとの押し問答を延々と繰り返す。
「帰る帰るって、親がいたのかー?」
アイゼアの前に立ちはだかる騎士たちの壁の向こうから、ひょっこりと男の騎士が現れる。
「ヒューゴ隊長! 聞いてくださいよぉ。コイツ親もいないのに帰るって聞かなくって」
「親がいないってんなら帰せないなぁ」
ヒューゴ隊長と呼ばれたこの男は、確か猛獣から助けてくれたときに騎士たちに指示を出していた騎士だ。
「何で? 今までもそうしてきたし、構わないで」
「ダメだ。きみはまだ子供なんだ」
「でも引き取り手がないんでしょ?」
そう言うと騎士たちの顔が一様に引きつる。
「おっさんたちの声、筒抜けなんだよね。困った困った、人殺しだから貰い手がつかないーってさぁ。やっぱ馬鹿でしょ」
「きみたちなぁ……」
ヒューゴがじとっと
「あっ、ヒューゴ! ここにいたのね」
女の声が聞こえ振り返ると、あのとき猛獣から助けてくれた炎の槍の女が見えた。
「ラランジャさん! お疲れ様ですっ」
「みんなお疲れ様」
名前はラランジャというらしい。騎士に挨拶する様子は助けてくれたときとは
「ララ。この子の引き取り先は見つかったか?」
「ええ、私ったらとっても素敵な引き取り先を見つけたのよ!」
そう言うなりラランジャは姿勢を低くしてアイゼアに目線を合わせてくる。ポンと両肩に手を乗せられて、反射的に体が強張った。
だが、その次の言葉でアイゼアは更に体を固くすることになる。
「ねぇ、きみ。うちの子にならないかな?」
と、目の前のラランジャがにこにこと楽しそうに言い放った。
何を言っているのか理解が追いつかず、声も出せない。しんと廊下は一気に静まり返り、騎士たちすらも呆気に取られているようだった。しばらくの間沈黙が続き、やがてヒューゴが口を開いた。
「ララ……さすがは我が妻、天才か!! そうだ、きみはうちの子になるといい。俺は大歓迎だ!!」
「やっぱり! ヒューゴなら絶対そう言ってくれるって思ってたわ」
二人で見つめ合い、きらきら〜っとした独特の世界が展開されている。自分は一体何を見せられているのだろう、とアイゼアは絶句していた。
「ねぇ、お返事を聞かせて?」
あくまで返答を聞いている体だが、何となく断れない圧力を感じる。それでも二つ返事で承諾する気にはなれなかった。この感覚は体験したばかりだったからだ。
マスターと初めて会った日のやりとりを思い出しながら二人を真っ直ぐに見つめ返し、警戒して
「俺を引き取ってどうするの? 俺に利用価値なんてあると思えないんだけど」
「「利用価値?」」
二人は顔を見合わせて目を
「あの闘技場を仕切ってたマスターは俺たちに衣食住を与える代わりに見せ物として殺し合いをしろって要求してきた。お前らは俺に与える代わりに何を求めるの? 俺は売っても大した金にはならないだろうから、盗みとか? やっぱり殺し? アイツと同じで見せ物にでもするのか……あぁ奴隷として扱き使うって手も──
ふっとラランジャの手のひらが頭上に伸び、ビクリと体が震えると同時に反射的に叩いて払い除けた。
「あっ、ごめんね。怖がらせるつもりはなかったの」
ラランジャは申し訳なさそうに手を引っ込める。心臓がドクドクと早く脈打つ振動が胸から全身へ響いている。頭上に迫る手に暴力を振るわれると思ったからだ。
「理由がないと不安か?」
今度はヒューゴも屈み、視線の高さを合わせてくる。
「不安に決まってる。だって見返りもないのに他人に優しくする義理なんかないでしょ。ありえない。何かを得るには何かを差し出さなきゃいけない。当然でしょ? 世の中美味い話なんてないって、子供の俺でも知ってんだけど」
今までだってずっとそうだった。何かを得るために何かを失ってきた。アイゼアには差し出せるものがあまりにも少なく、身や心を削るようにして生きてきた。
穏やかに暮らす子供であれば当然持っているはずのものを持っていなかったからだ。
やはりコイツらとは生きている世界が違う、そうアイゼアは感じていた。陽の当たる場所で温々と当然のように生きているヤツらは、こんな簡単な世の常識にも気づかない。
それとも子供だから簡単に騙されると思って
「義理は確かにない。俺たちの考えを今のきみに理解してもらうのは少々難しいかもしれんなー」
「ならわかることで説明しましょうよ。うちはね、子供がなかなかできなくて養子を貰うか考えていたところだったのよ。子供がいない私たちと帰る家のないきみ、利害の一致ってことでどうかな?」
淀みのない瞳に覗きこまれ、思わず視線を逸らす。
「うちの子になってくれないか?」
「うちにおいでよ。ね?」
この二人が見たままの裏のない人たちだったとしたら、本当に穏やかに暮らせるようになるのかもしれない。あの貧しく苦しい生活から抜け出せる。
そんな美味い話は早々ないだけに、手放しで信用して受け入れるわけにはいかない。それでもここで断ったところで、貰い手が決まらない限りは解放してもらえない。逃げ出すにしても騎士団本部は出た方がいいだろう。
「わかったよ……」
不満そうな声色を意識して返事をすると、二人は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、今日からよろしく頼むよ。俺はヒューゴ・ウィンスレットだ」
「私はヒューゴの妻のラランジャ・ウィンスレットよ。きみの名前も教えてくれないかな?」
優しい声で自己紹介され、慣れない感覚にどこか居心地が悪く数歩下がった。
「アイゼア、だけど」
「アイゼア・ウィンスレット、きみを心から歓迎する。ようこそ、我がウィンスレット家へ!」
「アイゼア……ウィンスレット……」
耳慣れない響きに思わず口が動く。それが今日からの自分の名前になる。なるのだが、あまりにも突然のことにアイゼアは全く実感が湧かないでいた。
されど夜明けを待ち焦がれている(5) 終