アイゼア過去編【完結】

 闘技祭が終わり食堂に集められた子供たちは、当然人数も当初の半数に減っていた。

「皆のおかげで観客も満足して帰っていった。次の闘技祭は一ヶ月後、それまではゆっくり過ごしなさい」

 相変わらずマスターの顔は黒いベールに覆われ、表情を窺い知ることができない。

「何がゆっくり過ごせだ! ふざっけんな!!」

 少年の一人がマスターへ殴りかかろうとするが、警護の男に阻まれ蹴り飛ばされる。容赦のない一撃に少年は凄まじい勢いで床を転がり、直撃を受けた腹を抱えながら嘔吐えずいた。
 警護の男は相当に鍛錬を積み、自分たちではまともに太刀打ちできる相手ではないと悟る。こんな男が何十人もいるのだから、やはり逃げ出すことは容易ではない。

「マスター、もし勝ち抜いて最後の一人になったらどうなるんだ?」

 別の少年が臆することなく堂々と質問する。アイゼアも気になっていたことだ。勝ち抜いた先は何があるのか、ここから生きて出るにはどうすべきか。

「勝ち抜いた者はここを卒業し、開放を約束する」

 勝ち抜けば生きて地上に戻ることができる。その言葉に皆が僅かな希望を抱いた。
 だがマスターの言葉が本当とは限らない。それでもとにかく勝ち抜かなければならないことだけは変わらないだろう。

「それと注意事項を一つ。闘技祭以外での暴力や殺人は一切禁止だ。禁を破ればどうなるか、説明しなくてもわかるだろう?」

 ということは、闘技祭以外でライバルを蹴落とせば、加害者は罰として殺処分されるということだ。

 マスターが食堂から出ていくと、室内はにわかに静まり返る。皆がそれぞれに敵意を向け、もう仲良くしようなどと考える者は一人もいなかった。




 クレムを失った傷心を抱えたまま、アイゼアは書庫を訪れていた。もうここへ来る者もアイゼアしかいない。

 背表紙に書かれた言葉を必死に解読し、ようやく目当ての本に辿り着く。いつもクレムと使っていたテーブルに座り、本を広げる。
 人体に関する本のはずだが今までに読んでいた児童書とは比べ物にならないほど難しい単語が羅列られつされている。いつも使っていた辞書も引っ張り出し、クレムと共に作ったノートともにらめっこしながら何とかして読もうと努力した。

 教えてもらっていない単語は山のようにあり、辞書を引いても辞書の解説が読めず思うように進まない。
 体の構造を理解すれば、どこを刺せば効率よく殺せるのか、どこが急所なのか知ることができる。素早く、相手を苦しめることなく、的確に殺せる方がいい。

 戦いは何も力だけの勝負ではない。それは貧民街で生き抜く知恵と同じことだ。力が強ければそれだけでも生きやすいかもしれない。だが自分が弱者だとすれば、純粋な力比べでは捻り潰されるのが関の山だ。

 だから考える。知識や経験を身に着け、賢く立ち回る必要がある。どちらか片方だけでなく、力と知恵の両方を偏りなく持つことこそが生き残る道なのだ。
 だがそれに必要な知識を得るだけの知識がまだ不十分だった。

「やっぱ俺だけじゃダメだよ……」

 クレムが座っていた場所を見つめ、話しかける。耳が痛くなるほどの静寂がアイゼアへの返答だった。騒がしく喋りかけてくるクレムはもういない。

「何で死んじゃったんだよぉ……クレム……」

 ぽたりと零れ落ちた涙がノートの文字をにじませる。母親に捨てられたときとは比べ物にならないほどの胸苦しさを覚えた。

 心が軋んで、痛いと叫んでいる。苦しくて寂しくて、内側から掻きむしられるような悔しさにぐちゃぐちゃにされていくようだった。

楽しいという気持ちを知ってしまった。
友達という存在を知ってしまった。
こんな思いをするくらいなら知らなければ良かった。
そうすればもっと強くいられたかもしれないのに。

 拭っても拭っても溢れる涙を止めるため、机に突っ伏して腕を抱く。アイゼアは一人、涙が止まるまで声を押し殺して泣き続けた。




 そうして一ヶ月が経ち、二回目の闘技祭の日がやってきた。

 本はまだ十分に読めてはいないが、図解のあるページや必要そうな部分を絞って読んできたつもりだ。同時に体を鍛え、戦闘自体への準備も整えている。後は気持ちの問題だ。

 静かにナイフを構え、緊張を悟られないよう顔に笑みを貼り付けた。相手の少年の顔には恐怖の色が浮かび、体を強張らせる。

 開始前から戦いは始まっている。こちらが格上だという感覚を植え付け、精神面で揺さぶり恐怖心をあおる。ふくれ上がった恐怖心は正常な判断を奪う。少しでも有利に事を運ぶための手段の一つだ。
 今のアイゼアが生き残るにはこの環境に従い、適応するしかない。

 試合開始のゴングが鳴り響くと同時にアイゼアは地面を蹴る。
 繰り出した突きは少年にギリギリのところで避けられた。かなり怯えているわりには妙に的確な動きに見えた。

「何で笑ってられんだよ! お前なんか人間じゃねぇ!!」

 少年は恐怖を隠すように虚勢を張り、大声で怒鳴る。

「表情なんて関係ないし、人のこと言えないんじゃない? 自分だって俺のこと殺そうとしてるくせに」

 更に笑みを深め、口角を意図的に吊り上げる。

「ヒッ、来るなぁっ!!」

 闇雲にナイフを振るいながら少年は後退する。同じ貧民街暮らしといえど、身を置いている環境は人によって千差万別だ。
 盗み、略奪、裏稼業、売春、それぞれが知恵を絞り自分の特性に合わせて自分にできることをして生きている。

 アイゼアのように一人で生きている者もいれば、同じような子供たちと寄り集まって生きている者もいる。
 目の前の少年はおそらく同じような仲間とつるみ、上手く取り入って誰かに守ってもらいながら生き延びてきたのだと推測する。

「ねぇ、下手な芝居はやめたら? 俺には通じないよ」

 弱いフリをして守ってもらう、危険を避ける、油断させる。それがこの少年の生きる知恵の一つなのだろう。

「チッ……かんのイイやつはウザいったらねぇな」
かん? もうすでに一人殺してここに立ってるってのに、見え透いた演技する方が悪いんじゃない?」

 少年は悔しそうにこちらをにらみつけてきた。その目には隠しきれない恐怖が見え隠れしている。手の内を明かされ、少年はアイゼアに全て見透かされているような気分になっているはずだ。

「俺は死にたくねぇんだよ!」

 ナイフを振りかざしながら突っ込んでくる少年をかわすと、勢いを殺せずアイゼアの脇をすり抜けていく。

 幾度となく盗賊団気取りの子供とやりあってきたアイゼアにとって、この程度の実力相手に負ける気はしない。少年の動きの悪さからも戦い慣れていないのだとわかった。

 こちらへ振り向く瞬間を狙い、少年のあご掌底しょうていを食らわせる。威力が足りないのか当たりどころの問題なのか気絶はせず、フラフラと蹌踉よろめいた。

 アイゼアはナイフを両手に握り締め、少年の腹部へ突進するようにして突き刺す。ズブリと刃は沈むようにめり込み、想像していたよりも手応えはない。
 そのまま横へぎながらナイフを引くと血が飛び散り、血飛沫がかかる。絶叫し、そのまま痛みに倒れ込む少年の頭を鷲掴んで地面に叩きつけた。

「やめろぉ……やめ、てくれ……嫌だっ嫌だぁぁ!! 助けてぇ、死にたくない!!」

 痛みと恐怖に泣き叫ぶ少年の声を無視し、逆手に持ったナイフで首の後ろへナイフを振り下ろす。
鼓膜を突き破りそうなほどの叫びに思わず顔をしかめた。

 今度は打って変わって固く重い手応えだ。ナイフは半分刺さったところで止まってしまっている。
 躊躇ためらうな、最期までやらなければ逆に苦しむ、そう言い聞かせ余計なことは考えないようにした。

 中途半端に刺さったナイフを抜いて両手で持ち、這いつくばって小さく痙攣けいれんする少年の首へ再度振り下ろす。
 少年は小さな呻き声を上げ、広がっていく血溜まりの中に沈んだ。

 観客が沸き立っているのが空気の振動でわかる。だが音が聞こえなかった。ただただ自身の荒い呼吸だけが妙に耳について仕方ない。

 少年から離れ、戦闘に集中して頭に血が上っていた状態から徐々に落ち着いてくると、手が震え始めた。力が上手く入らない手からナイフが滑り落ちる。両手はすっかり血に染まって真っ赤になっていた。握りしめるとぬるりとし、開くと少し張り付くような粘着質のある感触がした。

 腹へ、首へ刺したナイフの感触が生々しく手のひらに残っている。耳にこびりついた少年の断末魔が頭の中で反芻はんすうしている。

人を殺した。

 そう理解した瞬間、ふわふわとした感覚と迫り上がる吐き気に胸元を抑えてうずくまった。それを最後にアイゼアの意識は途絶えた。




 戦いを勝ち抜き生き延びたアイゼアは、その後も継続して人体の勉強をしながら、身体を鍛えることを繰り返した。
 時には他の者の動きを分析し、闘技祭でも戦いを観察し、自身も経験を積み、殺し方の知識と経験を蓄積させていった。クレムの言葉を支えに、殺すことを躊躇ためらわないように言い聞かせながら。

 もう一つ、回を重ねてわかったこともある。まず人数が奇数の場合、選ばれた誰か一人が余興で殺されること。
 そして一ヶ月に一度なのは、闘技祭自体は二週間に一度行われているらしく、他の週は別の組の子供が闘技祭を行っているということだ。階が違うのか見たことはないが、警護の男たちの会話から推測できた。

 二ヶ月、三ヶ月と時は過ぎ、とうとう同時期に入ったメンバーは自分を含めて三人になっていた。次に勝ち抜けば最後の一人になれる。
 明日の闘技祭を勝ち抜き、ここを生きて出るために。アイゼアは明日こそ自由を取り戻すのだと、亡きクレムに誓った。

その希望が粉々に砕かれるとも知らずに──




──見慣れた舞台の上に、アイゼアと勝ち抜いてきた二人……セロシアとサーシスの三人が立っている。

 対するは、初めて闘技祭を見たときに少年を食い千切ったあの猛獣だ。実際に正面で対峙すると、猛獣のギラついた目に身が竦む。
 大きな体躯、獰猛どうもうで太い牙、鋭い爪、鎖から放たれれば今にも襲いかかってきそうな勢いだ。

「こんなバケモノ相手なんて聞いてないよ!」

 セロシアは恐怖の表情を浮かべ、後退あとずさる。
 普通に考えれば、まともな訓練もしていない子供が三人束になったところで勝てるわけがない。マスターは初めから、誰一人生きて帰すつもりなどなかったのだ。

「勝手に死んでろ。悪いが俺は生きて帰らせてもらうからな!」

 セロシアとは真逆に、サーシスはナイフを構え猛獣を観察するように見据える。アイゼアの思いもまた、サーシスと同じであった。ここまで来て、予定通りに死んでたまるかと。
 生きてここを出ると、クレムとの約束を胸に自分を奮い立たせた。ゴングが鳴った瞬間、猛獣は舞台上へと放たれた。


されど夜明けを待ち焦がれている(4) 終
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