アイゼア過去編【完結】
闘技祭の時間が迫り、大きな窓枠のついた部屋へ全員が押し込められていた。
窓からは円形の舞台が見え、その舞台をぐるりと囲うように席があった。一階部分はアイゼアたちがいるような部屋があり選手が使うもののようで、二階部分に百人程度の観客が舞台を見下ろしているのが見える。
観客達は皆黒いローブと同じ仮面をつけ、一切素性が露見しないようにしていた。
「本日お集まりの皆様、大変長らくお待たせいたしました!」
司会と思しき男が高らかに開会の言葉を述べ、余興が始まる。
舞台には少年と猛獣が対峙していた。あの少年は闘技祭の話を聞かされ、逃亡しようと試みて失敗していたことを覚えている。
猛獣は口から涎 をたらし、ギラギラとした目で少年を捕捉している。
猛獣は鎖を放たれた途端襲いかかり、怯えて逃げる少年を鋭い爪で押さえつけた。爪が体へめり込み、叫び声と共に血が白い服へと滲む。
次の瞬間、張り裂けるような断末魔が鼓膜 を震わし、少年は生きたままに食い千切られた。赤黒い血肉が鮮やかに舞い、小さく細い四肢やぬらりと光る臓物が撒き散らされるようにして地に叩きつけられる。その水音が生々しく耳にこびりついた。
猛獣は食い千切った少年の上半身を咥えたまま、ダラダラと血を滴らせている。ぐったりとした少年は当然動く様子もなく絶命していた。
牙によって拉 げた頭部に辛うじてくっついている目玉と視線がかち合い咄嗟 に目を背けた。
観客席からは歓声が、この部屋では悲鳴が上がる。猛獣はすぐに撤収され、少年の無残な遺体も簡単な清掃のみ行われた。
まだ赤い血の残るままの舞台で闘技祭は進行していく。司会が名前を読み上げ、この部屋から呼ばれた二人が出ていった。
与えられたのはナイフ一本のみ。舞台で対峙した二人は両者とも青褪め震えている。マイクと呼ばれる機械を通して聞こえるのは二人の荒い呼吸の音だけだ。
そのままどちらも動かないまま戦闘は膠着 状態が続いていた。
「おやおやー動かないのかー? 二人にはショーに参加してもらうしかなさそうですねー」
ショーという単語に二人は僅かに反応を示す。マスターは戦闘を行わなければショーで殺処分すると言っていた。おそらく先程の少年のように惨 たらしく殺されるのだろう。
死にたくない思いに駆られたのか、一人が叫びながら走りだした。そこから堰 を切ったかのように殺し合いが始まる。泣き叫びながら切り合う様はとても直視できるものではなかった。
殺し方も知らず、殺す覚悟もなく、殺すだけの力も満足にない子供に与えられた武器はナイフ一本。そんな条件で行われる殺し合いは醜く、残酷で、凄惨なことだけは簡単に想像できた。
それに加え、三ヶ月とはいえ一緒に暮らした仲なのだ。何の情もないわけがない。躊躇 いはより悲惨な結果を生む。
片方のナイフがもう一人の腹部に深く突き刺さった。痛みに叫び倒れたところを馬乗りになり、錯乱状態のまま何度も何度も滅多刺しにしている。
耳を覆いたくなるほどの絶叫と言葉になっていない叫びが入り交じる。息絶えてなお胸を突き刺すナイフは止まらず、静止がかかるまで延々と続けられていた。
「嫌だ……殺しなくない……怖い……」
クレムは固く目を閉じ、膝を抱えて蹲 っている。貧民街で暴力や死体を見慣れているアイゼアと違い、ほとんど平民の子として暮らしてきたクレムには厳しすぎる現実だ。
弱い者から淘汰 される。これはその一環でしかない。なぜこんなことを強いられなければならないのかという怒りと、これがこの世の有り様なのだという諦めがアイゼアの中でせめぎ合っていた。
「気を強く持って。一緒にここから出るって約束したの忘れた?」
「わかってるよ……でもっ」
今日の闘技祭は避けられない。どんよりした重苦しさを静かにため息と共に吐き出した。
試合は次から次へと進行していき、部屋からはどんどん人が減っていった。刻一刻とその時が迫る。部屋の人数が半分以下になった頃
「次の対戦はアイゼア対──
遂に自分の番が来た。クレムから手を離し立ち上がる。
──クレム」
やっぱり、とアイゼアはどこか冷静にそう思った。
「アイゼア……と? 嘘だろ……俺は、俺は嫌だっ!!」
クレムに腕を掴まれ、引き止められる。対戦相手がクレムだというのは何となく予感していた。これまでの対戦カードもよく一緒にいた者同士ばかりだった。
作為的に組まれた対戦相手。殺す相手が親しくしていた者だからこそ、絶望や恐怖は倍以上に膨れ上がる。惨 たらしいほどの情緒的な戦いを簡単に演出できる方法だ。
そして悲劇的であればあるほど、あの醜悪な観客達は喜び色めき立つ。つまりあの生活は、決して善意から与えられたものではない。全てこの日のために周到にお膳立てされていただけの話だ。
この醜悪極まりないエンターテイメントのために。貧民街の子供であればいなくなっても誰も探さない、騒がない。それが日常茶飯事だからだ。
弱者を食い物にし、踏み躙る。アイゼアはマスターへ強い怒りと殺意を抱いた。できるものならクレムではなくマスターを殺してやりたいと。
「アイゼア、クレム、さっさと舞台へ上がれっ!!」
男に半ば強制連行され、とうとう舞台でクレムと対峙した。これまでの試合で流れた咽せかえるような血の臭いは、絡みつく死の気配だ。
煌々と照りつける照明にだんだん目が慣れてくる。自分が死ぬか、クレムが死ぬか。これだけの人に囲まれていて逃げるのは無謀に近い。先に待つのは結局死だ。
試合開始のゴングが鳴り響く。アイゼアはナイフを強く握りしめ、クレムを見据えた。クレムは両手でナイフを掴んだまま目を見開きこちらを凝視している。
「アイゼア……来るなよっ……」
声は震え、上擦 っている。勝てる相手だ。きっと殺す覚悟さえ決まればクレムに負けない。
殺 れる、殺せる。
それでも足は地面に縫い付けられたように動かなかった。殺したくないという思いが強すぎるからだ。
字の読めない自分に読み書きを教えてくれたこと。
貧民街で生き抜くための戦い方を教えたこと。
共にご飯を食べたこと。
脱出のために作戦を立てたり、いろいろしたこと。
ここを出たら何をしたいか語り合ったこと。
ここを出ると約束を交わしたこと。
思い出すべきではないのに、これまでのクレムとの記憶が蘇ってくる。
「クレム……」
じんと目頭が熱くなり、そのまま泣きだしたくなる。泣きじゃくって、嫌だと喚 いて、それでなかったことになるのならそうしたかった。
だが現実は常に無慈悲に横たわっている。どこまで行っても運命はアイゼアを潰しにやって来る。
生きるのを諦めろと言われているようだった。どちらかが死ぬまでこの戦いは終わらない。
何か二人で助かる方法はないかと周囲を見回すが、警護は厳重で観客もマスターも二階席におり、ここからではあまりにも遠かった。
「死にたくない。でも俺はお前を殺せない……アイゼアを殺して生きていく自信なんてないっ」
クレムのか細い声が、支給されたマイクを通して聞こえる。
「じゃあ殺してくれって!? 俺にだってそんなことできるわけ……ないよ……」
「違う。俺はお前に殺されるのも嫌だ! 友達に殺されるなんて冗談じゃねぇんだよ!」
クレムはジッと自分の握ったナイフを見つめたあと、固く目を閉じた。
「俺はお前と……最期まで友達でいたい。いさせてよ。だからさ──
クレムはナイフを逆手に持ち、両手で振り上げる。その瞬間呼吸をするのも忘れ、その光景に釘付けになった。振り上げられたナイフが鳩尾に勢いよく飲み込まれていく。
少し遅れて、クレムが自分で自分を刺したのだとゆっくりと思考が追いついてきた。
「何やってんだ馬鹿!!」
「……だってさぁ……もうこれしか、ないだろ……アイゼア?」
クレムは涙声で呟き、咳き込みながら血を吐いた。
アイゼアは自然に体が動き、ぐらりと傾いでいくクレムの体を支え、横たえる。
「俺は生き残っても……次は勝ち抜け、ない。お前なら……勝ち抜いて……生き抜けるって、俺は信じてる。だから俺の分も……頼む、よ」
「狡いよクレム。狡すぎるよ……」
「そんな……言うなよ。お前を、殺さなくて……済んで、よか……た」
「全然よくない……いいわけないだろ、こんなのっ!!」
とうとう堪 えていた涙が溢れ、クレムの顔が滲んでよく見えず袖で目元を拭う。
「やっぱ……痛い、なぁ。俺は、いつになったら死ぬ、のかな」
クレムの顔は苦痛に歪み、額には大量の脂汗が噴き出している。トドメを刺してやれる自信はなかった。どこを刺せば楽にしてあげられるのかがわからない。
死ぬまで何度も刺して痛い思いをさせるなんてことになったら最悪だ。
誰も助けてくれない。
クレムはこのまま死んでいくしかないということだけは頭でわかっていた。刺さったままになっているナイフを引き抜くと傷口から一気に血が溢れ出し、血溜まりを作っていく。
刃物で刺されたときは抜くと大量に出血するからかえって危険だと、以前ジルが教えてくれた。これで少しは苦しい時間が短くなるかもしれない。もう自分にできることはこれくらいしかなかった。
「アイゼア。何か、寒い……家に、帰りたい、よ……」
生気が失われていく瞳から一筋涙が伝い、地面を濡らす。
「ごめん……クレム。何もしてやれなくてっ」
冷えていくクレムの体を血で汚れるのも構わずに抱きしめた。寒さと恐怖に震える友へ、自分の体温を分け与えるように。
この世を去ろうとしている友が少しでも苦しく感じないように。きっとそれだけが自分がクレムにしてやれる唯一のことだと信じて。
しばらく無言の時間が続く。弱々しい心臓の音、生温かい血と冷えていく肌の感触。か細い呼吸の音だけ聞こえる。それが緩やかに弱くなっていくのが伝わってくる。
「……温かい、な」
突然喋ったかと思うと、クレムは右手を真上に上げて指差した。
「なぁ見ろよ、アイゼア。太陽だ……外、だぞ……」
「たい……よう?」
その指の先では、眩く白く輝く照明が冷たく二人を見下ろしているだけだった。
太陽とは似ても似つかぬその光に奥歯を強く噛み締める。目を閉じ、そしてゆっくりと息を吸い、吐き出す。
「うん。太陽なんて、久しぶりに見たよ……俺たちは……もう自由なんだ」
「あぁ、まず何……しよ……かな。そうだ、アイゼアに……俺の……好きな本……約、束……」
ぱたりと右手が崩れ落ちる。それがクレムの最後の言葉になった。
心臓の鼓動も呼吸を繰り返していた胸の動きも伝わってこない。
「一番好きな推理小説、教えてくれるんでしょ……嘘つき」
返事はもう二度と返ってこない。フラフラとする足で何とか立ち上がる。クレムしか見えていなかった視界は徐々に沢山のものを映し、耳にクレム以外の音が届き始めた。
ぐるりと取り囲むように沢山の仮面が見えた。皆一様に手を叩き、喜びの歓声を上げている。人の死をエンターテイメントにしか感じない、残虐で利己的な観客共。その音に声に光景に一瞬目眩がした。
弱者は常に虐げられ、強者に従うしかない。それがたとえどんな理不尽なことだとしても、ただ黙って消費され続けていくしかないのだ。
そんな絶望と虚無感に苛まれながら、アイゼアは耳につけられたマイクを外して踏み潰す。
「人の皮を被ったバケモノ共が」
憎悪と怒りと共に吐き捨て、二階席に鎮座するマスターを睨みつけた。
その後舞台の外れでクレムの遺体が引きずられていくのを、姿が見えなくなるまで静かに見送った。
もうこの命は自分一人のものではない。クレムに生かされた命なのだ。死を選んだクレムのためにも、必ず生きてここを出なければ。
アイゼアは強く心に誓った。彼の命を背負い、共に交わした約束を果たすと。
されど夜明けを待ち焦がれている(3) 終
窓からは円形の舞台が見え、その舞台をぐるりと囲うように席があった。一階部分はアイゼアたちがいるような部屋があり選手が使うもののようで、二階部分に百人程度の観客が舞台を見下ろしているのが見える。
観客達は皆黒いローブと同じ仮面をつけ、一切素性が露見しないようにしていた。
「本日お集まりの皆様、大変長らくお待たせいたしました!」
司会と思しき男が高らかに開会の言葉を述べ、余興が始まる。
舞台には少年と猛獣が対峙していた。あの少年は闘技祭の話を聞かされ、逃亡しようと試みて失敗していたことを覚えている。
猛獣は口から
猛獣は鎖を放たれた途端襲いかかり、怯えて逃げる少年を鋭い爪で押さえつけた。爪が体へめり込み、叫び声と共に血が白い服へと滲む。
次の瞬間、張り裂けるような断末魔が
猛獣は食い千切った少年の上半身を咥えたまま、ダラダラと血を滴らせている。ぐったりとした少年は当然動く様子もなく絶命していた。
牙によって
観客席からは歓声が、この部屋では悲鳴が上がる。猛獣はすぐに撤収され、少年の無残な遺体も簡単な清掃のみ行われた。
まだ赤い血の残るままの舞台で闘技祭は進行していく。司会が名前を読み上げ、この部屋から呼ばれた二人が出ていった。
与えられたのはナイフ一本のみ。舞台で対峙した二人は両者とも青褪め震えている。マイクと呼ばれる機械を通して聞こえるのは二人の荒い呼吸の音だけだ。
そのままどちらも動かないまま戦闘は
「おやおやー動かないのかー? 二人にはショーに参加してもらうしかなさそうですねー」
ショーという単語に二人は僅かに反応を示す。マスターは戦闘を行わなければショーで殺処分すると言っていた。おそらく先程の少年のように
死にたくない思いに駆られたのか、一人が叫びながら走りだした。そこから
殺し方も知らず、殺す覚悟もなく、殺すだけの力も満足にない子供に与えられた武器はナイフ一本。そんな条件で行われる殺し合いは醜く、残酷で、凄惨なことだけは簡単に想像できた。
それに加え、三ヶ月とはいえ一緒に暮らした仲なのだ。何の情もないわけがない。
片方のナイフがもう一人の腹部に深く突き刺さった。痛みに叫び倒れたところを馬乗りになり、錯乱状態のまま何度も何度も滅多刺しにしている。
耳を覆いたくなるほどの絶叫と言葉になっていない叫びが入り交じる。息絶えてなお胸を突き刺すナイフは止まらず、静止がかかるまで延々と続けられていた。
「嫌だ……殺しなくない……怖い……」
クレムは固く目を閉じ、膝を抱えて
弱い者から
「気を強く持って。一緒にここから出るって約束したの忘れた?」
「わかってるよ……でもっ」
今日の闘技祭は避けられない。どんよりした重苦しさを静かにため息と共に吐き出した。
試合は次から次へと進行していき、部屋からはどんどん人が減っていった。刻一刻とその時が迫る。部屋の人数が半分以下になった頃
「次の対戦はアイゼア対──
遂に自分の番が来た。クレムから手を離し立ち上がる。
──クレム」
やっぱり、とアイゼアはどこか冷静にそう思った。
「アイゼア……と? 嘘だろ……俺は、俺は嫌だっ!!」
クレムに腕を掴まれ、引き止められる。対戦相手がクレムだというのは何となく予感していた。これまでの対戦カードもよく一緒にいた者同士ばかりだった。
作為的に組まれた対戦相手。殺す相手が親しくしていた者だからこそ、絶望や恐怖は倍以上に膨れ上がる。
そして悲劇的であればあるほど、あの醜悪な観客達は喜び色めき立つ。つまりあの生活は、決して善意から与えられたものではない。全てこの日のために周到にお膳立てされていただけの話だ。
この醜悪極まりないエンターテイメントのために。貧民街の子供であればいなくなっても誰も探さない、騒がない。それが日常茶飯事だからだ。
弱者を食い物にし、踏み躙る。アイゼアはマスターへ強い怒りと殺意を抱いた。できるものならクレムではなくマスターを殺してやりたいと。
「アイゼア、クレム、さっさと舞台へ上がれっ!!」
男に半ば強制連行され、とうとう舞台でクレムと対峙した。これまでの試合で流れた咽せかえるような血の臭いは、絡みつく死の気配だ。
煌々と照りつける照明にだんだん目が慣れてくる。自分が死ぬか、クレムが死ぬか。これだけの人に囲まれていて逃げるのは無謀に近い。先に待つのは結局死だ。
試合開始のゴングが鳴り響く。アイゼアはナイフを強く握りしめ、クレムを見据えた。クレムは両手でナイフを掴んだまま目を見開きこちらを凝視している。
「アイゼア……来るなよっ……」
声は震え、
それでも足は地面に縫い付けられたように動かなかった。殺したくないという思いが強すぎるからだ。
字の読めない自分に読み書きを教えてくれたこと。
貧民街で生き抜くための戦い方を教えたこと。
共にご飯を食べたこと。
脱出のために作戦を立てたり、いろいろしたこと。
ここを出たら何をしたいか語り合ったこと。
ここを出ると約束を交わしたこと。
思い出すべきではないのに、これまでのクレムとの記憶が蘇ってくる。
「クレム……」
じんと目頭が熱くなり、そのまま泣きだしたくなる。泣きじゃくって、嫌だと
だが現実は常に無慈悲に横たわっている。どこまで行っても運命はアイゼアを潰しにやって来る。
生きるのを諦めろと言われているようだった。どちらかが死ぬまでこの戦いは終わらない。
何か二人で助かる方法はないかと周囲を見回すが、警護は厳重で観客もマスターも二階席におり、ここからではあまりにも遠かった。
「死にたくない。でも俺はお前を殺せない……アイゼアを殺して生きていく自信なんてないっ」
クレムのか細い声が、支給されたマイクを通して聞こえる。
「じゃあ殺してくれって!? 俺にだってそんなことできるわけ……ないよ……」
「違う。俺はお前に殺されるのも嫌だ! 友達に殺されるなんて冗談じゃねぇんだよ!」
クレムはジッと自分の握ったナイフを見つめたあと、固く目を閉じた。
「俺はお前と……最期まで友達でいたい。いさせてよ。だからさ──
クレムはナイフを逆手に持ち、両手で振り上げる。その瞬間呼吸をするのも忘れ、その光景に釘付けになった。振り上げられたナイフが鳩尾に勢いよく飲み込まれていく。
少し遅れて、クレムが自分で自分を刺したのだとゆっくりと思考が追いついてきた。
「何やってんだ馬鹿!!」
「……だってさぁ……もうこれしか、ないだろ……アイゼア?」
クレムは涙声で呟き、咳き込みながら血を吐いた。
アイゼアは自然に体が動き、ぐらりと傾いでいくクレムの体を支え、横たえる。
「俺は生き残っても……次は勝ち抜け、ない。お前なら……勝ち抜いて……生き抜けるって、俺は信じてる。だから俺の分も……頼む、よ」
「狡いよクレム。狡すぎるよ……」
「そんな……言うなよ。お前を、殺さなくて……済んで、よか……た」
「全然よくない……いいわけないだろ、こんなのっ!!」
とうとう
「やっぱ……痛い、なぁ。俺は、いつになったら死ぬ、のかな」
クレムの顔は苦痛に歪み、額には大量の脂汗が噴き出している。トドメを刺してやれる自信はなかった。どこを刺せば楽にしてあげられるのかがわからない。
死ぬまで何度も刺して痛い思いをさせるなんてことになったら最悪だ。
誰も助けてくれない。
クレムはこのまま死んでいくしかないということだけは頭でわかっていた。刺さったままになっているナイフを引き抜くと傷口から一気に血が溢れ出し、血溜まりを作っていく。
刃物で刺されたときは抜くと大量に出血するからかえって危険だと、以前ジルが教えてくれた。これで少しは苦しい時間が短くなるかもしれない。もう自分にできることはこれくらいしかなかった。
「アイゼア。何か、寒い……家に、帰りたい、よ……」
生気が失われていく瞳から一筋涙が伝い、地面を濡らす。
「ごめん……クレム。何もしてやれなくてっ」
冷えていくクレムの体を血で汚れるのも構わずに抱きしめた。寒さと恐怖に震える友へ、自分の体温を分け与えるように。
この世を去ろうとしている友が少しでも苦しく感じないように。きっとそれだけが自分がクレムにしてやれる唯一のことだと信じて。
しばらく無言の時間が続く。弱々しい心臓の音、生温かい血と冷えていく肌の感触。か細い呼吸の音だけ聞こえる。それが緩やかに弱くなっていくのが伝わってくる。
「……温かい、な」
突然喋ったかと思うと、クレムは右手を真上に上げて指差した。
「なぁ見ろよ、アイゼア。太陽だ……外、だぞ……」
「たい……よう?」
その指の先では、眩く白く輝く照明が冷たく二人を見下ろしているだけだった。
太陽とは似ても似つかぬその光に奥歯を強く噛み締める。目を閉じ、そしてゆっくりと息を吸い、吐き出す。
「うん。太陽なんて、久しぶりに見たよ……俺たちは……もう自由なんだ」
「あぁ、まず何……しよ……かな。そうだ、アイゼアに……俺の……好きな本……約、束……」
ぱたりと右手が崩れ落ちる。それがクレムの最後の言葉になった。
心臓の鼓動も呼吸を繰り返していた胸の動きも伝わってこない。
「一番好きな推理小説、教えてくれるんでしょ……嘘つき」
返事はもう二度と返ってこない。フラフラとする足で何とか立ち上がる。クレムしか見えていなかった視界は徐々に沢山のものを映し、耳にクレム以外の音が届き始めた。
ぐるりと取り囲むように沢山の仮面が見えた。皆一様に手を叩き、喜びの歓声を上げている。人の死をエンターテイメントにしか感じない、残虐で利己的な観客共。その音に声に光景に一瞬目眩がした。
弱者は常に虐げられ、強者に従うしかない。それがたとえどんな理不尽なことだとしても、ただ黙って消費され続けていくしかないのだ。
そんな絶望と虚無感に苛まれながら、アイゼアは耳につけられたマイクを外して踏み潰す。
「人の皮を被ったバケモノ共が」
憎悪と怒りと共に吐き捨て、二階席に鎮座するマスターを睨みつけた。
その後舞台の外れでクレムの遺体が引きずられていくのを、姿が見えなくなるまで静かに見送った。
もうこの命は自分一人のものではない。クレムに生かされた命なのだ。死を選んだクレムのためにも、必ず生きてここを出なければ。
アイゼアは強く心に誓った。彼の命を背負い、共に交わした約束を果たすと。
されど夜明けを待ち焦がれている(3) 終