アイゼア過去編【完結】

 説明はかなり簡潔なものだった。マスターは身寄りのない虐げられるばかりの子供たちを不憫ふびんに思い、保護活動を始めた……らしい。

 幽閉されてから一週間ほど経ったが、ここの環境は外へ出られないこと以外を除けば快適そのものであった。

 三食お腹いっぱい食べられるし、食料の奪い合いもない。寒くもなく暑くもなく、生まれて初めてのベッドは経験したこともないほどに柔らかく温かかった。服も布団も自分自身も常に清潔に保たれている。
 固く冷たい石と砂の感触も、常に誰かに襲われるかもしれない恐怖も、夜の寒さも、その全てがここにはない。

 マスターの言う『望んでも得られないもの』とはこの環境のことなのだろうか。ここには他にも多くの同じくらいの年齢の子供たちが住んでいる。
 話を聞くと、皆南区出身で同じように連れてこられた者ばかりだった。収容人数の限界に達したのか自分の後に来た子供を最後にパッタリと途絶えていた。

 元々の生活環境が劣悪だったせいか不満や疑問を抱いている者はおらず、楽しそうに過ごしている。たった一人を除いて。



 アイゼアは気まぐれに書庫を訪れていた。自由に行動できる空間自体はかなり広い。
 走り回ったり運動ができる程度の広さの多目的室には遊び道具もある。他には狭いがそれぞれの自室、食堂、室内遊びのできる大部屋、トイレ、浴場、そしてこの書庫だ。

 おもむろに一冊選び開くも、文字の読み書きなど教わったことのないアイゼアには何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。

「哲学に興味あんの?」

 急に声をかけられ心臓が跳ねる。文字を読めない者ばかりなのかこの書庫に出入りする者はほぼいない。振り返ると栗色の髪の少年が立っているのが見えた。確かクレムという名前の少年だ。

「別に。たまたま手にとっただけ」

 アイゼアは本棚に哲学書らしき本を戻す。

「俺はさぁ、こういうのが好き!」

 クレムは一冊本を選びこちらへと手渡した。試しに開いてみるがやはり何が書いてあるのかはわからない。

「なーんだ。書庫に来てたから、てっきり文字が読めるのかと思ったのに」
「逆にお前は読めるわけ?」
「読めるよ。この本は推理小説」
「……ねぇ、良かったら俺に文字の読み書きを教えてくれない?」
「うーん……」

 クレムはこちらをしげしげと眺め少し悩んだ後、一度だけうなずいた。

「どうせひまだからいいけどさ、他のヤツには俺が教えてるってこと言うなよ」
「わかった」
「よし、なら簡単な本からがいいな」

 クレムはそう呟くと、手にした推理小説よりも大きく薄い本を一冊取り出す。

「絵本なら難しくないし、ここからやろう」

 ニカッとクレムは笑い、近くにあったテーブルへと向かった。
 向かい合う形で座り、基本の文字をクレムは自分のノートにサラサラと書いていく。アイゼアはそれを真似て写し、とりあえず文字の形と音を覚える練習をする。

「クレムは何で文字が読めるの?」
「俺の家、元々は商家だったから。学校にも通ってたし。詳しいことわかんないけどウチ借金があってさ、父さんも母さんもある日突然いなくなってて家の中にも何にもなくて。で、南区に流れ着いたんだけど、アイツらに拉致されてさ……」

 借金が原因で蒸発、両親に捨てられたということらしい。実の親子だろうと、結局自分の身可愛さに平気で子供を見捨てる。
 親という生き物は本当に最初から最後まで勝手なヤツらだとアイゼアは辟易へきえきした。

「文字が読めないってことは、アイゼアはずっと南区暮らしだったのか?」
「五歳のときに母親に置き去りにされてからかな。再婚するのに邪魔だったんだろうねー、俺は」

 ふと母親の記憶が蘇る。

「ここで待ってなさい。ちょっと行くとこがあるから」

 珍しく一緒に外へ連れ出されたあの日。いつもの冷たい物言いと温かみのない濁った黒い瞳が見下ろしていた。
 アイゼアは南区に置き去りにされ、そのまま母は戻ってこなかった。物心がついたときから母は自分に向かって笑いかけてくれたことなどほとんどない。

 髪も瞳の色も父親に似たらしいアイゼアを「あのクズにそっくりだ」と口癖のようにののしっていた。愛情もなく、自分は夜な夜などこかへ出かけていく。

 家へ男を連れてくることもあった。そういうときは物置きにされている部屋へ避難していた。耳を塞いで息を殺し、ひたすら時間が過ぎるのを待つ。

 機嫌が悪いときはまるで八つ当たりするかのように暴力を振るわれた。何か言えば火に油を注ぎ、暴力は苛烈さを増す。「やめて」「痛い」という一言すらも発さず、頭を守って体を丸め、怒りが収まるまで必死に耐える。それが一番早く冷静になってくれると学習したからだ。

 そういう『やりすごすすべ』は、どういうわけかすぐに身につく。そうでなければ自分はとっくに死んでいたに違いない。

 それでも離れられなかったのは時々嬉しそうにしている母の笑みが、いつか自分に向けられるのではないかという希望を捨てられなかったからかもしれない。我ながら馬鹿げた幻想を抱いていたものだと今なら言える。

「五歳? お前よく生きてこれたな……金とかどうやって稼いでたんだ?」
「別に盗めばいいでしょ。そもそもそれしかなくない?」
「マジか……」

 クレムは若干引いているようだった。無理もない。南区で暮らしていたというよりは路頭に迷ってフラフラとやって来た普通の家庭の子供が拉致されただけなのだ。

 当たり前とされている倫理や良心を捨てなければ生きてはいけない。
 地面の固さ、いつ襲われるかもわからない恐怖、夜風の冷たさ、薄汚れたボロ布を纏う惨めさ、残飯の味、殴られる痛み、血と砂が口の中で混ざる感触、人の腐る臭い、その全てを彼は知らないのだろう。

「それより俺らってさ、何でこんなとこに閉じ込められてると思う?」
「それを俺が知ってると思うわけ?」
「そういうわけじゃないんだけどさ」
「なら聞くだけ無駄でしょ、馬鹿なの?」

 クレムは心底がっかりした様子を隠すことなくため息をついた。だがアイゼアもただ閉じ込められて納得しているわけではない。

「……保護活動なんて言ってるけど、少なくとも俺はそう思わないかな」
「やっぱり! アイゼアもそう思うよな!」
「声大きいよ」
「あ、ごめん」

 ここでの生活は何の文句もない。貧民街で一人で暮らしていた頃とは比べものにならないほど格段に生活水準は高い。

 ただ、なぜこんな地下に幽閉されているのか。なぜ拉致という強引な方法をとっているのか。不可解な点はいくらでも挙げられる。
 与えるからには何か見返りを求められる、この生活を享受したが故にいつかその代償を払わされる。

 この世界はいつも残酷で無慈悲だ。こんな甘い夢のような話があるわけがない。

「俺はこんなとこで飼い殺しにされるなんてまっぴらごめんだからな。父さんと母さんを探したいし、どうやって逃げるかずっと考えてんだけどさ。出入り口は一つしかねぇんだよなぁ」
「見張りには何人もいかつい男がついてる。あの出入り口を突破してもその先はもっと厳重だろうね」

 それもここは地下なのだ。逃げるのはほぼ不可能に近い。

「だよなー。ここで生きる覚悟を決めるしかないんかなー」
「……なら俺が戦い方を教えようか?」
「は?」
「一人では無理でも二人なら突破できる確率は上がるかもしれないし」
「一緒に逃げてくれるのか? やる! やるよ!」

 クレムは身を乗り出して目を輝かせている。

「脱走するために戦うなんて……何かカッコよくね?」
「そんな暢気な話じゃないと思うけど」
「早速教えてくれよ。多目的室行こうぜ!」
「ちょっと、文字を教えてよ。せっかく本だって持ってきてるんだし」
「ちぇーっ」

 その日からアイゼアはクレムから文字の読み書きを教えてもらうようになり、代わりに戦い方を教えることになった。

 アイゼアが一つ文字を読めるようになるごとに、クレムが戦い方を一つ身につけるごとに、二人は仲良くなっていった。毎日二人で過ごし、時には出入り口の見張りの様子を一緒に観察したり、消灯後脱出計画を立てたり、自由になったら何をするかという夢の話もした。

『一緒にここを出よう』そう約束した。

 ずっとひとりぼっちで生きてきたアイゼアにとって、クレムは人生で初めての友人となった。穏やかな生活はぬるま湯のように心地良く、楽しいことも増えたことで感覚が麻痺していった。この生活も悪くないと思うくらいには。




 そんな日々が三ヶ月ほど続いたある日のことだった。

「アイゼア相変わらず食べるの早ぇよなー」
「早く食べないと取られるから」
「ここじゃそんなことないってのに、ゆっくり食べろって」
「もうくせみたいなもんだからほっといてよ」

 いつものようにクレムとたわいのない話をしながら昼食を食べていると、突然食堂に黒ずくめの女性が入ってきた。
 忘れもしない、初日に会ったマスターと呼ばれていた女性だ。隣には数人の男が警護するように立っている。

 異様な雰囲気に全員が口を噤み、マスターを凝視していた。男の一人が口を開く。

「マスターよりお話がある。静かに聞くように」

 マスターは一歩前へ歩み出ると話を始めた。

「ここでの暮らしはどうだ? 貧民街で暮らしていた頃よりずっと幸せで楽しいだろう?」

 マスターのかすれたような低い声はどこか楽しげな響きを持っていた。

「今晩、闘技祭を開催する。そこで戦うのはお前たちだ」

 闘技祭という聞き慣れない単語に僅かにざわめく。アイゼアは一瞬で悟った。これがこの生活の『見返り』だと。

「闘技祭には多くの観客が来る。お前たちは剣闘士として観客を楽しませなさい」
「あっあの……闘技祭って何?」

 子供のうちの一人が恐る恐るといった様子で尋ねる。

「一対一で戦ってそれを観客に見せるだけでいい。戦う相手はお前たち同士さ」
「えっ、あたしたちが戦うの?」

 全員が一様に不安そうに顔を見合わせる。それはクレムも同様で、背中を小さくつつかれる。

「どうなってんだよ、戦うって……」
「これが俺たちを連れ去った目的ってことでしょ」
「マジかよ……殴り合いとか俺は嫌だな」

 クレムの顔色は良くない。

「闘技祭のルールは簡単だ。武器はナイフ一本、勝敗はどちらかが死ぬまで決しない」

 その瞬間食堂内は一気にどよめいた。闘技祭などと謳っているが、わかりやすく言えば『殺し合い』をしろということらしい。

「戦いを放棄する者はショーでの殺処分とする。死にたくないのなら戦いなさい」

 食堂は混沌としていた。呆然とする者、泣きじゃくる者、嫌だと叫び訴える者、静かにマスターを睨みつけている者。
 貧民街の子供といっても皆が同じ価値観で、同じ境遇を経験して生きてきたわけではない。感じ方も反応も様々だった。

「三ヶ月、楽しかっただろう? お前たちスラムの子供には与えられることのない幸せを知れたのは幸運なことだ。仲良くなった友を蹴落とし、命を繋ぎ、勝利と幸福を掴み取りなさい」

 その言葉を最後にマスターは悠々と食堂を出ていった。男が見張りに一人残り、予定について話しだす。

「闘技祭は今晩だ。対戦表もその時に発表される」

 だがその言葉をきちんと聞けている者はほとんどいなかった。

「クレム、大丈夫?」
「アイゼア……俺、本当に人を殺さなきゃダメなのか?」

 クレムは目尻に涙を滲ませながら声を震わせていた。

「死にたくないならそうするしかない」
「アイゼアは平気なのかよ……」

 クレムに問われ、考える。自分は生きるために誰かを殺せるのか、と。

死にたくない。

 追い詰められた自分がどんな判断を下すのか。だがそれでも……

「平気じゃないと思う」
「逃げられないかな……」
「無理だろうね。たぶん今日は一番厳重に警戒されてるはず」
「そんなっ」

 カタカタとクレムの体が小刻みに震えている。怖くてたまらないのだろう。それはアイゼアも同じだった。

 人を殺した経験もなければ、人を殺す知識もない。死にたくない、殺したいわけでもない。それでも怖がってるわけにはいかないんだと自分に言い聞かせ、クレムを励まし続けた。


されど夜明けを待ち焦がれている(2) 終
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