アイゼア過去編【完結】
「兄様、僕たち騎士になりたい!」
「えっ……いきなりどうしたんだい?」
「本気なの! だからわたくしたちの話を聞いてほしくって!」
カストルとポルッカは義兄であるアイゼアが仕事から戻ってきてすぐに切り出した。
そうでなくてはまたいつ仕事に行ってしまうか、一度行ってしまったら今度はいつ戻ってくるのかもわからないからだ。
アイゼアは少しボサついた銀髪を手櫛 で梳 きながら
「とりあえずシャワーを浴びたいんだけどいいかな?」
といつも通りの笑みを浮かべている。騎士の話は避けられてしまったらしい。
話し合いの前に一人の時間を作ろうとするときは、大抵良く思っていないことが多い。どうこちらを諦めさせるか、もしくはどこを落としどころにするのか、稼いだ時間の間に考えや作戦をまとめてくるのだ。
「うん! じゃあ部屋で待ってるね」
一応話は聞いてはくれるということで、意気揚々としたポルッカに手を引かれ、そのまま一緒に部屋へと戻った。
ベッドに二人で腰掛け、アイゼアが戻るのを待つ。
「ねぇカストル。わたくしたちが騎士養成学校へ通うこと認めてくれると思う? この感じ……お兄様はきっと反対なのよ」
ポルッカはそわそわと落ち着かない様子でこちらと扉を交互に見つめている。一緒にアイゼアに育てられたポルッカも、自分と同じように義兄の癖を理解していた。
「認めてもらうんじゃないよ、認めさせるんだって。反対だとしても説得する」
「そうだよね。今回は絶対譲るわけにはいかないもの」
カストルはあくまでも強気だった。たとえ反対されたとしても、絶対に説得してみせる。それくらい本気で騎士になる覚悟を決めているからだ。
その心意気がポルッカにも伝わったのか、気合を入れ直しているようだった。
しばらくすると濡れた髪を拭きながらアイゼアが部屋へと入ってきた。
「それで、騎士になりたいってことだけど?」
ベッドの正面にある小さなソファへ座るのを確認してアイゼアは早速話を切り出す。
「僕たち学校の初等部を卒業したら騎士養成学校へ通いたいって思ってるんだ」
「養成学校ねぇ……もうそんな年になるのか」
アイゼアはどこか遠くを見るように視線を逸らし、目を細める。
「お兄様は本気じゃないって思ってたのかもしれないけど、わたくしたちはずっと本気で騎士になりたいって思ってたんだよ?」
今年で十歳になったカストルたちは一般の学校の初等部を卒業し、通常であればそのまま中等部へと進学する。
騎士になりたいと思っているなら普通の学校ではなく、騎士養成学校に通う方が絶対にいいと二人で話して決めたのだ。
叔母や叔父はこちらの進路には当然興味もなく、相談すべきアイゼアは多忙であまり家にいない。
「先生とも相談して、二人で決めたんだ。寮に入って、本気で騎士を目指すって」
アイゼアは視線をこちらに向け、ただただじっと無言で見据える。言いようのない緊張感に思わず体が強張り、視線を逸らせなくなった。
いつもの笑みはなく、真っ直ぐな貫くような鋭さを併せ持った視線はどこか咎められているような気分にさえなる。耳が痛くなるほどの静寂と沈黙に、いつの間にか握りしめた手にじっとりと汗をかいていた。
やがてアイゼアは小さく口を開くと、いつもよりもゆっくりと抑揚のない無機質な声で
「それは……ここから逃げたいだけ、ってことではないんだね?」
とだけ問いかけてきた。
ギュッと心臓が縮むような心地がし、動揺が表に出ていないか不安に駆られる。
言葉を紡ぎたくても口を開くのが怖いと感じた。居心地の悪い屋敷を出て、養成学校での寮生活をすればアイゼアに迷惑をかけなくて済むと思ったことは確かに嘘ではない。
アイゼアの瞳はとても優しくて温かな色なのに、こういうときだけはどうにも全てを見透かされているような気持ちになって苦手だった。
いつも見ているものが本当なのか、今見ているものが本当なのかわからないほど、別人のように感じるのだ。
「それもあるけど……守られてるばっかりじゃ嫌なの! 強くなるためには努力しなきゃって、誰かに頼ってたらいつまでも変わらないもの!」
ポルッカの言葉が重苦しい空気を破り、ふと魔物に変えられてしまったときのことを思い出す。
自分たちの行動がアイゼアの命を危険に晒し、身も心も傷つけるような選択をさせた。あんなにも弱々しく、壊れてしまいそうなアイゼアをカストルは初めて見た。あのままアイゼアがいなくなってしまっていたらと思うだけで震えそうなほどの恐怖がこみ上げる。
もう同じ過ちを繰り返さないように、大切な人を守れるように、自分自身の力で強くなりたい。それはきっとポルッカも同じ思いだ。
「強くなって、いつか兄様の力になりたい。守れるようになりたい。いつも僕たちを守ってくれた兄様に憧れて、僕たちは騎士になりたいって思ったんだ。中途半端な気持ちじゃないから……信じてよ」
アイゼアはふっとそれまでの緊張感を解くと、腕組みをしてうんうんと唸り始める。「困ったなー」という声が聞こえそうなほどの表情は、とても先程のアイゼアと同一人物には見えないほどの緩さだ。
「んー、意気込みはわかるんだけど。よりにもよって僕に憧れて、かぁ……」
珍しく険しい表情でしばらく考えこんだ後、一つ決心をしたかのように頷き、口を開く。
「二人の熱意はわかった。でも一つ条件をつけさせてもらうよ」
「「条件?」」
「二人に話しておきたいことがあるんだ。それを聞いてから改めて自分の進む道を決めるといい」
そう言うなりアイゼアは部屋を出ていき、すぐに戻ってきたかと思えば非番にも関わらず騎士団の服を着ている。
「話はここじゃなくて別の場所でしたいんだ。さ、二人も着替えて出かけるよ」
すぐに支度を整え、アイゼアの後について歩く。連れてきてくれたのは墓地のようだった。一つの墓碑の前で立ち止まり、つられてカストルたちも足を止めた。
アイゼアは途中で買った花束を供えると、そっと刻まれた文字を指でなぞる。そこにはカストルたちと同じ「ウィンスレット」の姓と父と母の名前が刻まれていた。
「兄様は父様と母様が長い旅に出たって言ってたけど、本当は死んでるってずっと前から知ってたよ」
「そっか」
アイゼアはずっとカストルたちにそう言って誤魔化してきた。幼い頃こそそう思っていたが、さすがにそれを信じ続けるほど子供でもない。
死というものが何か、わかっているつもりだ。きっとアイゼアもすでに気づいていると知っていたはずだが、死んだと直接口にしたことはなかったように思う。
自分には、おそらくポルッカにも両親の記憶はほとんど残っていない。それでもいないことを寂しく思うことは何度も……今でもある。
だが大きくなるにつれ、その寂しさを口にするのはやめた。両親を恋しがると、アイゼアは決まって一瞬だけ苦しそうな顔をするからだ。大好きな義兄に嫌な思いをさせたくはなかった。
「兄様の話したいことって何?」
「それなんだけど、僕と父様と母様の……昔の話をしようと思ってね。本当は成人してからって思ってたけど、騎士を目指すなら聞いてほしいんだ」
まっすぐ墓碑を見たままのアイゼアの横顔は悲しそうでありながらどこか凛とした強さを感じるものだった。自分の過去について話したがらなかったアイゼアの口から話を聞くのは初めてになる。
もちろんアイゼアの過去を何も知らないわけではない。叔母や貴族たちから何と罵られているのかカストルたちは知っているし、そこから推測できることはいくらでもある。
それでもアイゼアの口から直接聞くというのは、とても特別な事のように思えた。
「少し長い……暗い話になるけど付き合ってくれるね?」
カストルとポルッカは一言も発さず、ただ一つだけ強く頷いた。
アイゼア幼少期編 されど夜明けを待ち焦がれている(1)
セントゥーロ王国首都サントルーサ。世界で最も栄えているこの王都の南区には貧民街が形成されている。
光が強ければ、濃く長くそして深く影が伸びるように。その影に光の中で生きられない者が蠢 き犇 めき合い、この国の暗部を静かに晒していた。
そして光の中に生きる者たちは皆、その影を見ないように目を逸らし続けている。
銀髪の少年──アイゼアは食材の入った買い物袋を片手に、王都の西区にある商店街の通りを悠々と歩いていた。白いシャツに茶色のベストとスラックスを着た姿は、街に住む一般家庭の少年のおつかい風景そのものだ。
唯一つ目深にかぶったキャスケット帽から覗く、赤紫色の鋭い眼光以外は。
「泥棒だ!! 誰か捕まえてくれー!!」
清々しいほどの青空に怒号が響き、振り返る。薄汚れた灰色のボロ布を纏 い、背後から走ってくるのは同じ年頃の少年だった。少年は人の波を掻い潜り、押し退けて近づいてくる。
バカなヤツだな、とアイゼアは心の中でせせら笑った。観衆の目は当然少年に釘付けになっていた。
アイゼアが少年の進路を邪魔しないように避けた直後、近くで嗄 れた悲鳴が聞こえた。少年に押されたのか一人の老婆が尻餅をついている。
「おばあちゃん、大丈夫?」
優しく声をかけ、老婆に寄り添う。
「立てる?」
「あぁ……坊や、すまないねぇ」
腕の下に肩を入れて支えてやると、老婆はゆっくりと立ち上がった。
落ちた買い物かごに散らばったものを手早く拾い集め差し出すと、老婆に何度もお礼を言われ、リンゴを一つもらった。
盗みを働いた少年が大人たちに取り押さえられ、何かを喚いている声が聞こえる。何とも情けなく不甲斐 ない姿を横目に、リンゴをかじりながら帰路へとついた。
明るく賑やかだった喧騒 を背に、通りは段々と人気がなくなり閑散 としてくる。
南区へ近づくほどにどこか寂れた空気が漂い始める。整備の行き届いていない荒れた石畳、老朽化 した建物ばかりが目立つが一応ところどころ店は入っている。
路上にはみすぼらしい格好の者が老若男女問わず蹲 り、生気のない窶 れた顔をした者が亡霊のように歩いている。腐乱した死体なんてのも珍しくなく、強烈な臭いがその存在を主張してくる。アイゼアにとっては全てがいつもの光景だ。
時折、身なりのいいアイゼアを奇異の目で見てくる者もいる。ギラギラとした何かに飢えた視線は決して心地良いものではない。
目をつけられる前に早く帰らなければ。
そう思っていた矢先、前方に複数人の少し年上くらいの少年たちが見える。何となく嫌な予感がし、道を変えて帰ろうと通りを逸れた。
「おっと、急いでどこに行くんだよ?」
逸れた路地の先から少年二人が近づいてくる。背後には先程前方にいた少年たち三人、どうやら仲間らしく挟み撃ちにされたようだ。
その中でも一際体格の良い少年がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら近づいてくる。
「随分キレーな格好してんじゃねぇか? なぁオレらにくれよ。金も持ってんだろ?」
「汚い手で触んないでくれない? 汚れるんだけど」
こちらへ伸びてくる少年の手を叩き落とし睨 みつけてやると、少年の顔はみるみる赤くなり怒りに震えだす。
「汚ぇだと? 同じ貧民街暮らしのくせに!」
アイゼアの態度が気に入らないのか少年は力任せに拳を振り上げる。お世辞にも体格が良いとは言えないアイゼアを見縊 っているのは明白だった。
振り下ろされる拳を軽く躱 してやり、左頬を殴る。怯んで体勢の崩れた少年の後頭部を掴み、顔面に膝蹴りを食らわす。鼻血を出しながら悶絶する少年の鳩尾 を踏みつけた。
「あーあ、ズボンが汚れちゃったんだけど」
「この野郎!!」
背後にいた三人がナイフ片手に飛びかかってくるのを避ける。ポケットに忍ばせておいたナックルを両手にはめ、拳や蹴りを叩き込んでいく。
腕っぷしは大したこともなく、数で負けていても十分に勝てる相手だった。この体格の良い少年の力を盾に増長していただけの取り巻きなら雑魚なのも納得だ。
あっという間に三人を地面へと叩き伏せ、残りの一人へ視線を向けながら右手を差し出した。
「金持ってんでしょ? 汚れた服の責任、取ってくれないかな?」
残った少年は小さく悲鳴を上げると四人を置いて逃げ出していった。渋々四人から財布を奪い、さっさとこの場を離れる。
これ以上面倒事に巻き込まれたら最悪だ、と心の中で呟いた。
朽ちかけた石造りの建物、ここがアイゼアの家だ。と言っても空き家を勝手に利用しているだけに過ぎないが。
こんな生活を一人でしているのも、父親は物心がついた頃にはすでにおらず、母親はアイゼアを捨てて再婚相手の元へと行ったからだ。再婚相手の元へ行ったというのは予想だが、母親に『良い関係の男』がいた事は間違いない。
一人になってから五年、今年で十歳になる。一人になったばかりの頃はどうしていいかわからず、残飯を漁って生き延び、やがて盗みを覚えた。先程の少年のように追われることもあった。危険を冒して得たものも、徒党を組む少年たちに暴行され奪われることも多々あった。
力のなかった頃は本当に毎日が生きるだけで精一杯で、まさに地獄のようだったことを今でも鮮明に覚えている。
「よーぅアイゼア。久しぶり」
「ジル……俺に何の用?」
ひょっこりと顔を出したのはジルという名前の三十代半ばから四十代くらいのおっさんだ。彼が一方的に暴力に屈していただけのアイゼアを救った人物でもある。要領よく生きる術や戦い方、考え方を時々こうしてフラッと現れては教えてくれた。
何でも母と顔見知りでアイゼアことも知っていたらしく、気まぐれに助けてくれたらしい。あとは情報屋をしているということくらいしか素性を知らない。名前も本名であるか定かではなかった。
だがアイゼアにとってはそんなことは些細 なことだ。生きるために使えるものは使う、彼のおかげで今日まで生きてこられた、その事実だけで十分だ。
「今日は随分 小綺麗な格好してんだな」
「どう? 普通の家の子供に見えるでしょ」
買ってきた食材を日の当たらない涼しい場所へ置くと、よれよれの古い服へと着替える。脱いだ服の中から複数の財布を粗末なテーブルの上に並べた。
「何だその財布は?」
「盗んできたんだ。今日はすごくついてたから絶好調だったよ」
店から食べ物を盗むのは効率が悪い。食べ物は毎日必要になるのに盗める数も限度があり、リスクも高い。
それに比べたらスリの方がずっと良い。スリをするのに汚い格好では警戒されるため、綺麗な格好で周りと馴染み、油断させて物事を円滑に進めるのだ。やはり盗むなら金に限る。この綺麗な服だって金で買ったものだ。
今日はあの少年が人目を引きつけている間に数人から、助け起こした老婆からも財布を抜き取れた。殴りかかってきた少年たちから取れた分は大した金額ではなかったが、これでしばらくは安泰だろう。
「なーるほど考えたな。少し教えただけでどんどん要領よくなってくな、アイゼア」
「五年もこんな生活してれば当然でしょ」
「可愛げがないねぇ」
ジルは大げさに肩を竦めてため息をついた。
「で、今日は何しに来たの?」
「意味はないな。たまたまここに戻ったから覗きに来ただけだ」
「覗きに来るくらいならジルの仕事につれてってよ。俺も情報屋になりたい」
「あー、それはダメだな」
ジルは一瞬驚いたあと、くつくつと笑う。それがどこか馬鹿にされているような気がして少しだけ胸の奥がもやもやした。
「情報屋ってのは信頼と信用の商売なんだぞ? お前みたいなちんちくりんのガキを誰が信用して情報を買うんだ。十年は早ぇっての」
「いたっ」
額を強めに小突かれ、咄嗟 に両手で押さえる。とうとう耐えきれなくなったのか、ジルはゲラゲラと大声で笑い出した。
「うるっさいなー、黙ってよおっさん」
「へーへー。じゃ、元気な姿も見れたってことで俺はもう行くわ」
ジルはいつもの調子でヒラヒラと手を振ると、軋む扉に手をかけて立ち止まる。
「一つ言い忘れてた。何か最近子供の連れ去りが横行してるらしいから、お前も気をつけろよ」
「そんなのいつものことじゃん。今更何言ってんの」
「……そうだったな」
忠告だけを残し、ジルはすぐに出ていった。拉致、人身売買、盗み、殺し……この貧民街では何でもアリで、騎士団も碌 に機能していないのだから仕方ない。
この区域は見放された場所だ。
何となく聞き流した忠告の意味をまさか自分が思い知ることになると、このときのアイゼアは思いもしなかった。
真っ暗な世界。許された情報は耳から入る音と体に伝わる振動のみ。視界を奪われ、手足を拘束され、口を塞がれ、身動きは取れない。
買い出しからの帰り道、突然数人の大人に囲まれたのが少し前のことだ。同年代の子供が相手なら勝てても、大人となれば話は別だ。
最初は憂さ晴らしか八つ当たりの類で、目をつけられたのは不運だったと思っていた。顔を庇って縮こまり、静かにしていればすぐに飽きるはずと耐えていたのだが今回は違った。
拘束されそうになり慌てて抵抗したが意味を成さず、そのまま拉致されたのだ。
『最近子供の連れ去りが横行してるらしい』
数日前に言われたばかりの忠告が今になって思い出される。今更気づいたところで全てが遅すぎた。
しばらくすると足音の聞こえ方から屋内へ入ったことがわかった。扉の開く音がし、自分を運ぶ男の足が止まる。
「マスター、新しい子供を連れて参りました」
男の一人がそう言った。詰め込まれていた麻袋から出され、目隠しが取られた。
急に眩い光を感じ、思わず目を細める。見上げるとそこには見たこともないキラキラとした豪奢 な作りの照明が天井からぶら下がっていた。確か『シャンデリア』といっただろうか。
部屋の中を見回すと先程襲ってきた男たちが自分の後ろに控えているのがわかった。窓一つない部屋、白く汚れのない壁、見たこともないようなきらびやかな家具、何に使うかもわからない美しい模様の大きな壺や飾られた絵画など周囲の情報が一気に押し寄せる。
金持ちの部屋とはこういうところのことをいうのかもしれない、漠然とそう思った。
「少年、お前の名は?」
少し掠 れた、威圧感のある低音の女性の声。目の前の大きなソファにその声の主がいる。
黒いドレスは体のラインが強調されているわりに露出はなく、肌が一切見えない。顔さえも黒いベールで覆い隠されていた。
口に巻かれていた布が解かれ、質問に答えるよう男に促される。顔も目も見えていないのに、なぜか縫い付けられたように動けなかった。
「……アイゼア」
下手に嘘をついてバレたとき何をされるかわからない。そもそも本名を知られて困ることなど自分には一切ないと素直に応じることにした。
「素直なことは良い事だ。拘束を解いてやれ」
「はっ」
女性の命令に従い、アイゼアの拘束が解かれ体が自由になる。
「ねぇ、俺をこんなとこへ連れてきてどうするの? 利用価値なんて俺にあるとは思わないんだけど」
「お前は私が怖くないのか?」
質問に質問で返され、答えるつもりがないのだと察する。マスターと呼ばれた女性はゆったりと頬杖をつき、その仕草に値踏みされているような感覚を覚えた。
「別に。こんなことで一々怖がってたら生きてけないでしょ」
怖いものなんてあの貧民街にいれば山ほどある。あの場所は常に死と隣り合わせなのだから。だからこそ怖いと縮こまっているのはただ死を待つのと大差ない。
「随分 肝が座っている子供だ。だが虚勢を張る必要はもうない。お前はこれからここで幸せに暮らすのだからね」
「幸せ?」
幸せとは何なのか、アイゼアはわからない。自分が幸福だと感じたことは生まれてから一度もなかったからだ。
「そうだ。ここにはお前が望んでも得られないものがある。それを私が与えてやろう」
「それを俺に与えてどうするの? 見返りに何を求めるわけ?」
世の中そんなに甘い話ばかりではないことくらい子供のアイゼアでもわかる。与えられればこちらも何かを差し出さなければならない。何を奪うつもりなのか、強い警戒をマスターへと向ける。
「勘違いをしているようだな。私は不幸な子供を保護しているだけだ。お前と同じような子供が他にもたくさん住んでいる。案ずるな」
マスターが男へ指示を出すと、腕を捕まれ強制的に連行された。
大きな屋敷なのか建物も廊下も広い。アイゼアは手を引かれたまま階段を下へ下へと進み、地下の大きな施設へと幽閉されることになったのだった。
されど夜明けを待ち焦がれている(1) 終
「えっ……いきなりどうしたんだい?」
「本気なの! だからわたくしたちの話を聞いてほしくって!」
カストルとポルッカは義兄であるアイゼアが仕事から戻ってきてすぐに切り出した。
そうでなくてはまたいつ仕事に行ってしまうか、一度行ってしまったら今度はいつ戻ってくるのかもわからないからだ。
アイゼアは少しボサついた銀髪を
「とりあえずシャワーを浴びたいんだけどいいかな?」
といつも通りの笑みを浮かべている。騎士の話は避けられてしまったらしい。
話し合いの前に一人の時間を作ろうとするときは、大抵良く思っていないことが多い。どうこちらを諦めさせるか、もしくはどこを落としどころにするのか、稼いだ時間の間に考えや作戦をまとめてくるのだ。
「うん! じゃあ部屋で待ってるね」
一応話は聞いてはくれるということで、意気揚々としたポルッカに手を引かれ、そのまま一緒に部屋へと戻った。
ベッドに二人で腰掛け、アイゼアが戻るのを待つ。
「ねぇカストル。わたくしたちが騎士養成学校へ通うこと認めてくれると思う? この感じ……お兄様はきっと反対なのよ」
ポルッカはそわそわと落ち着かない様子でこちらと扉を交互に見つめている。一緒にアイゼアに育てられたポルッカも、自分と同じように義兄の癖を理解していた。
「認めてもらうんじゃないよ、認めさせるんだって。反対だとしても説得する」
「そうだよね。今回は絶対譲るわけにはいかないもの」
カストルはあくまでも強気だった。たとえ反対されたとしても、絶対に説得してみせる。それくらい本気で騎士になる覚悟を決めているからだ。
その心意気がポルッカにも伝わったのか、気合を入れ直しているようだった。
しばらくすると濡れた髪を拭きながらアイゼアが部屋へと入ってきた。
「それで、騎士になりたいってことだけど?」
ベッドの正面にある小さなソファへ座るのを確認してアイゼアは早速話を切り出す。
「僕たち学校の初等部を卒業したら騎士養成学校へ通いたいって思ってるんだ」
「養成学校ねぇ……もうそんな年になるのか」
アイゼアはどこか遠くを見るように視線を逸らし、目を細める。
「お兄様は本気じゃないって思ってたのかもしれないけど、わたくしたちはずっと本気で騎士になりたいって思ってたんだよ?」
今年で十歳になったカストルたちは一般の学校の初等部を卒業し、通常であればそのまま中等部へと進学する。
騎士になりたいと思っているなら普通の学校ではなく、騎士養成学校に通う方が絶対にいいと二人で話して決めたのだ。
叔母や叔父はこちらの進路には当然興味もなく、相談すべきアイゼアは多忙であまり家にいない。
「先生とも相談して、二人で決めたんだ。寮に入って、本気で騎士を目指すって」
アイゼアは視線をこちらに向け、ただただじっと無言で見据える。言いようのない緊張感に思わず体が強張り、視線を逸らせなくなった。
いつもの笑みはなく、真っ直ぐな貫くような鋭さを併せ持った視線はどこか咎められているような気分にさえなる。耳が痛くなるほどの静寂と沈黙に、いつの間にか握りしめた手にじっとりと汗をかいていた。
やがてアイゼアは小さく口を開くと、いつもよりもゆっくりと抑揚のない無機質な声で
「それは……ここから逃げたいだけ、ってことではないんだね?」
とだけ問いかけてきた。
ギュッと心臓が縮むような心地がし、動揺が表に出ていないか不安に駆られる。
言葉を紡ぎたくても口を開くのが怖いと感じた。居心地の悪い屋敷を出て、養成学校での寮生活をすればアイゼアに迷惑をかけなくて済むと思ったことは確かに嘘ではない。
アイゼアの瞳はとても優しくて温かな色なのに、こういうときだけはどうにも全てを見透かされているような気持ちになって苦手だった。
いつも見ているものが本当なのか、今見ているものが本当なのかわからないほど、別人のように感じるのだ。
「それもあるけど……守られてるばっかりじゃ嫌なの! 強くなるためには努力しなきゃって、誰かに頼ってたらいつまでも変わらないもの!」
ポルッカの言葉が重苦しい空気を破り、ふと魔物に変えられてしまったときのことを思い出す。
自分たちの行動がアイゼアの命を危険に晒し、身も心も傷つけるような選択をさせた。あんなにも弱々しく、壊れてしまいそうなアイゼアをカストルは初めて見た。あのままアイゼアがいなくなってしまっていたらと思うだけで震えそうなほどの恐怖がこみ上げる。
もう同じ過ちを繰り返さないように、大切な人を守れるように、自分自身の力で強くなりたい。それはきっとポルッカも同じ思いだ。
「強くなって、いつか兄様の力になりたい。守れるようになりたい。いつも僕たちを守ってくれた兄様に憧れて、僕たちは騎士になりたいって思ったんだ。中途半端な気持ちじゃないから……信じてよ」
アイゼアはふっとそれまでの緊張感を解くと、腕組みをしてうんうんと唸り始める。「困ったなー」という声が聞こえそうなほどの表情は、とても先程のアイゼアと同一人物には見えないほどの緩さだ。
「んー、意気込みはわかるんだけど。よりにもよって僕に憧れて、かぁ……」
珍しく険しい表情でしばらく考えこんだ後、一つ決心をしたかのように頷き、口を開く。
「二人の熱意はわかった。でも一つ条件をつけさせてもらうよ」
「「条件?」」
「二人に話しておきたいことがあるんだ。それを聞いてから改めて自分の進む道を決めるといい」
そう言うなりアイゼアは部屋を出ていき、すぐに戻ってきたかと思えば非番にも関わらず騎士団の服を着ている。
「話はここじゃなくて別の場所でしたいんだ。さ、二人も着替えて出かけるよ」
すぐに支度を整え、アイゼアの後について歩く。連れてきてくれたのは墓地のようだった。一つの墓碑の前で立ち止まり、つられてカストルたちも足を止めた。
アイゼアは途中で買った花束を供えると、そっと刻まれた文字を指でなぞる。そこにはカストルたちと同じ「ウィンスレット」の姓と父と母の名前が刻まれていた。
「兄様は父様と母様が長い旅に出たって言ってたけど、本当は死んでるってずっと前から知ってたよ」
「そっか」
アイゼアはずっとカストルたちにそう言って誤魔化してきた。幼い頃こそそう思っていたが、さすがにそれを信じ続けるほど子供でもない。
死というものが何か、わかっているつもりだ。きっとアイゼアもすでに気づいていると知っていたはずだが、死んだと直接口にしたことはなかったように思う。
自分には、おそらくポルッカにも両親の記憶はほとんど残っていない。それでもいないことを寂しく思うことは何度も……今でもある。
だが大きくなるにつれ、その寂しさを口にするのはやめた。両親を恋しがると、アイゼアは決まって一瞬だけ苦しそうな顔をするからだ。大好きな義兄に嫌な思いをさせたくはなかった。
「兄様の話したいことって何?」
「それなんだけど、僕と父様と母様の……昔の話をしようと思ってね。本当は成人してからって思ってたけど、騎士を目指すなら聞いてほしいんだ」
まっすぐ墓碑を見たままのアイゼアの横顔は悲しそうでありながらどこか凛とした強さを感じるものだった。自分の過去について話したがらなかったアイゼアの口から話を聞くのは初めてになる。
もちろんアイゼアの過去を何も知らないわけではない。叔母や貴族たちから何と罵られているのかカストルたちは知っているし、そこから推測できることはいくらでもある。
それでもアイゼアの口から直接聞くというのは、とても特別な事のように思えた。
「少し長い……暗い話になるけど付き合ってくれるね?」
カストルとポルッカは一言も発さず、ただ一つだけ強く頷いた。
アイゼア幼少期編 されど夜明けを待ち焦がれている(1)
セントゥーロ王国首都サントルーサ。世界で最も栄えているこの王都の南区には貧民街が形成されている。
光が強ければ、濃く長くそして深く影が伸びるように。その影に光の中で生きられない者が
そして光の中に生きる者たちは皆、その影を見ないように目を逸らし続けている。
銀髪の少年──アイゼアは食材の入った買い物袋を片手に、王都の西区にある商店街の通りを悠々と歩いていた。白いシャツに茶色のベストとスラックスを着た姿は、街に住む一般家庭の少年のおつかい風景そのものだ。
唯一つ目深にかぶったキャスケット帽から覗く、赤紫色の鋭い眼光以外は。
「泥棒だ!! 誰か捕まえてくれー!!」
清々しいほどの青空に怒号が響き、振り返る。薄汚れた灰色のボロ布を
バカなヤツだな、とアイゼアは心の中でせせら笑った。観衆の目は当然少年に釘付けになっていた。
アイゼアが少年の進路を邪魔しないように避けた直後、近くで
「おばあちゃん、大丈夫?」
優しく声をかけ、老婆に寄り添う。
「立てる?」
「あぁ……坊や、すまないねぇ」
腕の下に肩を入れて支えてやると、老婆はゆっくりと立ち上がった。
落ちた買い物かごに散らばったものを手早く拾い集め差し出すと、老婆に何度もお礼を言われ、リンゴを一つもらった。
盗みを働いた少年が大人たちに取り押さえられ、何かを喚いている声が聞こえる。何とも情けなく
明るく賑やかだった
南区へ近づくほどにどこか寂れた空気が漂い始める。整備の行き届いていない荒れた石畳、
路上にはみすぼらしい格好の者が老若男女問わず
時折、身なりのいいアイゼアを奇異の目で見てくる者もいる。ギラギラとした何かに飢えた視線は決して心地良いものではない。
目をつけられる前に早く帰らなければ。
そう思っていた矢先、前方に複数人の少し年上くらいの少年たちが見える。何となく嫌な予感がし、道を変えて帰ろうと通りを逸れた。
「おっと、急いでどこに行くんだよ?」
逸れた路地の先から少年二人が近づいてくる。背後には先程前方にいた少年たち三人、どうやら仲間らしく挟み撃ちにされたようだ。
その中でも一際体格の良い少年がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら近づいてくる。
「随分キレーな格好してんじゃねぇか? なぁオレらにくれよ。金も持ってんだろ?」
「汚い手で触んないでくれない? 汚れるんだけど」
こちらへ伸びてくる少年の手を叩き落とし
「汚ぇだと? 同じ貧民街暮らしのくせに!」
アイゼアの態度が気に入らないのか少年は力任せに拳を振り上げる。お世辞にも体格が良いとは言えないアイゼアを
振り下ろされる拳を軽く
「あーあ、ズボンが汚れちゃったんだけど」
「この野郎!!」
背後にいた三人がナイフ片手に飛びかかってくるのを避ける。ポケットに忍ばせておいたナックルを両手にはめ、拳や蹴りを叩き込んでいく。
腕っぷしは大したこともなく、数で負けていても十分に勝てる相手だった。この体格の良い少年の力を盾に増長していただけの取り巻きなら雑魚なのも納得だ。
あっという間に三人を地面へと叩き伏せ、残りの一人へ視線を向けながら右手を差し出した。
「金持ってんでしょ? 汚れた服の責任、取ってくれないかな?」
残った少年は小さく悲鳴を上げると四人を置いて逃げ出していった。渋々四人から財布を奪い、さっさとこの場を離れる。
これ以上面倒事に巻き込まれたら最悪だ、と心の中で呟いた。
朽ちかけた石造りの建物、ここがアイゼアの家だ。と言っても空き家を勝手に利用しているだけに過ぎないが。
こんな生活を一人でしているのも、父親は物心がついた頃にはすでにおらず、母親はアイゼアを捨てて再婚相手の元へと行ったからだ。再婚相手の元へ行ったというのは予想だが、母親に『良い関係の男』がいた事は間違いない。
一人になってから五年、今年で十歳になる。一人になったばかりの頃はどうしていいかわからず、残飯を漁って生き延び、やがて盗みを覚えた。先程の少年のように追われることもあった。危険を冒して得たものも、徒党を組む少年たちに暴行され奪われることも多々あった。
力のなかった頃は本当に毎日が生きるだけで精一杯で、まさに地獄のようだったことを今でも鮮明に覚えている。
「よーぅアイゼア。久しぶり」
「ジル……俺に何の用?」
ひょっこりと顔を出したのはジルという名前の三十代半ばから四十代くらいのおっさんだ。彼が一方的に暴力に屈していただけのアイゼアを救った人物でもある。要領よく生きる術や戦い方、考え方を時々こうしてフラッと現れては教えてくれた。
何でも母と顔見知りでアイゼアことも知っていたらしく、気まぐれに助けてくれたらしい。あとは情報屋をしているということくらいしか素性を知らない。名前も本名であるか定かではなかった。
だがアイゼアにとってはそんなことは
「今日は
「どう? 普通の家の子供に見えるでしょ」
買ってきた食材を日の当たらない涼しい場所へ置くと、よれよれの古い服へと着替える。脱いだ服の中から複数の財布を粗末なテーブルの上に並べた。
「何だその財布は?」
「盗んできたんだ。今日はすごくついてたから絶好調だったよ」
店から食べ物を盗むのは効率が悪い。食べ物は毎日必要になるのに盗める数も限度があり、リスクも高い。
それに比べたらスリの方がずっと良い。スリをするのに汚い格好では警戒されるため、綺麗な格好で周りと馴染み、油断させて物事を円滑に進めるのだ。やはり盗むなら金に限る。この綺麗な服だって金で買ったものだ。
今日はあの少年が人目を引きつけている間に数人から、助け起こした老婆からも財布を抜き取れた。殴りかかってきた少年たちから取れた分は大した金額ではなかったが、これでしばらくは安泰だろう。
「なーるほど考えたな。少し教えただけでどんどん要領よくなってくな、アイゼア」
「五年もこんな生活してれば当然でしょ」
「可愛げがないねぇ」
ジルは大げさに肩を竦めてため息をついた。
「で、今日は何しに来たの?」
「意味はないな。たまたまここに戻ったから覗きに来ただけだ」
「覗きに来るくらいならジルの仕事につれてってよ。俺も情報屋になりたい」
「あー、それはダメだな」
ジルは一瞬驚いたあと、くつくつと笑う。それがどこか馬鹿にされているような気がして少しだけ胸の奥がもやもやした。
「情報屋ってのは信頼と信用の商売なんだぞ? お前みたいなちんちくりんのガキを誰が信用して情報を買うんだ。十年は早ぇっての」
「いたっ」
額を強めに小突かれ、
「うるっさいなー、黙ってよおっさん」
「へーへー。じゃ、元気な姿も見れたってことで俺はもう行くわ」
ジルはいつもの調子でヒラヒラと手を振ると、軋む扉に手をかけて立ち止まる。
「一つ言い忘れてた。何か最近子供の連れ去りが横行してるらしいから、お前も気をつけろよ」
「そんなのいつものことじゃん。今更何言ってんの」
「……そうだったな」
忠告だけを残し、ジルはすぐに出ていった。拉致、人身売買、盗み、殺し……この貧民街では何でもアリで、騎士団も
この区域は見放された場所だ。
何となく聞き流した忠告の意味をまさか自分が思い知ることになると、このときのアイゼアは思いもしなかった。
真っ暗な世界。許された情報は耳から入る音と体に伝わる振動のみ。視界を奪われ、手足を拘束され、口を塞がれ、身動きは取れない。
買い出しからの帰り道、突然数人の大人に囲まれたのが少し前のことだ。同年代の子供が相手なら勝てても、大人となれば話は別だ。
最初は憂さ晴らしか八つ当たりの類で、目をつけられたのは不運だったと思っていた。顔を庇って縮こまり、静かにしていればすぐに飽きるはずと耐えていたのだが今回は違った。
拘束されそうになり慌てて抵抗したが意味を成さず、そのまま拉致されたのだ。
『最近子供の連れ去りが横行してるらしい』
数日前に言われたばかりの忠告が今になって思い出される。今更気づいたところで全てが遅すぎた。
しばらくすると足音の聞こえ方から屋内へ入ったことがわかった。扉の開く音がし、自分を運ぶ男の足が止まる。
「マスター、新しい子供を連れて参りました」
男の一人がそう言った。詰め込まれていた麻袋から出され、目隠しが取られた。
急に眩い光を感じ、思わず目を細める。見上げるとそこには見たこともないキラキラとした
部屋の中を見回すと先程襲ってきた男たちが自分の後ろに控えているのがわかった。窓一つない部屋、白く汚れのない壁、見たこともないようなきらびやかな家具、何に使うかもわからない美しい模様の大きな壺や飾られた絵画など周囲の情報が一気に押し寄せる。
金持ちの部屋とはこういうところのことをいうのかもしれない、漠然とそう思った。
「少年、お前の名は?」
少し
黒いドレスは体のラインが強調されているわりに露出はなく、肌が一切見えない。顔さえも黒いベールで覆い隠されていた。
口に巻かれていた布が解かれ、質問に答えるよう男に促される。顔も目も見えていないのに、なぜか縫い付けられたように動けなかった。
「……アイゼア」
下手に嘘をついてバレたとき何をされるかわからない。そもそも本名を知られて困ることなど自分には一切ないと素直に応じることにした。
「素直なことは良い事だ。拘束を解いてやれ」
「はっ」
女性の命令に従い、アイゼアの拘束が解かれ体が自由になる。
「ねぇ、俺をこんなとこへ連れてきてどうするの? 利用価値なんて俺にあるとは思わないんだけど」
「お前は私が怖くないのか?」
質問に質問で返され、答えるつもりがないのだと察する。マスターと呼ばれた女性はゆったりと頬杖をつき、その仕草に値踏みされているような感覚を覚えた。
「別に。こんなことで一々怖がってたら生きてけないでしょ」
怖いものなんてあの貧民街にいれば山ほどある。あの場所は常に死と隣り合わせなのだから。だからこそ怖いと縮こまっているのはただ死を待つのと大差ない。
「
「幸せ?」
幸せとは何なのか、アイゼアはわからない。自分が幸福だと感じたことは生まれてから一度もなかったからだ。
「そうだ。ここにはお前が望んでも得られないものがある。それを私が与えてやろう」
「それを俺に与えてどうするの? 見返りに何を求めるわけ?」
世の中そんなに甘い話ばかりではないことくらい子供のアイゼアでもわかる。与えられればこちらも何かを差し出さなければならない。何を奪うつもりなのか、強い警戒をマスターへと向ける。
「勘違いをしているようだな。私は不幸な子供を保護しているだけだ。お前と同じような子供が他にもたくさん住んでいる。案ずるな」
マスターが男へ指示を出すと、腕を捕まれ強制的に連行された。
大きな屋敷なのか建物も廊下も広い。アイゼアは手を引かれたまま階段を下へ下へと進み、地下の大きな施設へと幽閉されることになったのだった。
されど夜明けを待ち焦がれている(1) 終
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