前章─復讐の先に掴む未来は(1)

「メリー、おかえり」

 いつの間に目を閉じていたのだろうか。穏やかな声につられるようにして、メリーはゆっくりとまぶたを開ける。

「メリー?」

 自身と同じ薄紅色の髪、木漏れ日に輝く若葉のような色の瞳。冬の長い故郷が春を待ち望んで焦がれるように、ずっと追い続けてきた色だった。

「ミュール兄さん」

まるで独り言のように名前を呼ぶ声が漏れる。

「……なんで?」
「なんでも何も、ここは屋敷だし私がいて当然じゃないか」
「やし、き?」

 ハッと我に返って周囲を見ると、いつの間にかノルタンダールの屋敷の玄関に立っていた。自分は今まで何をしていたのか、なぜか霧がかかったように思い出せない。

「何か変じゃないか? ぼーっと突っ立ったままで」
「そんなことない、大丈夫。それよりミュール兄さん、今日は珍しく元気なような……」
「あぁ、今日は体調が良いから」

 ミュールはいつもの寝間着姿ではなく、しっかりと私服を着て玄関で出迎えてくれている。そんな日は年に何度もなく、こうしてわざわざ玄関まで出迎えてくれたのは確かペシェとミーリャが初めて遊びに来てくれた日と──

「おーい、フラン。メリーが帰ってきたよー」

 ミュールが屋敷の奥へ声をかけると、バタバタとした足音と共にフランが廊下を走ってくる。

「おかえりー! メリーお姉ちゃん、早く早く!」
「いや、早くって、えぇ……?」

 訳もわからないままフランに手を引かれていくと、リビングにあるテーブルまで案内された。

「ミュールお兄ちゃんとメリーお姉ちゃんは座って待っててね」

 慌ただしく台所の方へ走っていくフランを見送りながら、メリーとミュールは席につく。テーブルには白いレースのテーブルクロスが敷かれ、縁に花の模様が描かれた皿が三枚とフォークが三本。ミュールは傍らで手際よく紅茶の準備をしている。

「本当はメリーの好きな茶葉にしたかったけど、フランは果物の香りじゃないと飲まないからなぁ」

 どこか浮かれた雰囲気で笑うミュールの声が心地良く耳に届く。その声が随分ずいぶんと懐かしいような気がして、胸の奥がチリチリとくすぶった。

 ミュールが手にしているのは木苺とリンゴの紅茶のようだ。乾燥させた木苺とリンゴを甘い香りのする種子と共に茶葉に混ぜたもので、ハーブのような花の香りもなく果物の甘い香りが強い。フランの一番のお気に入りの紅茶だ。
 一方でフランは、いちごの乗った小さめのホールケーキをテーブルに置き、ナイフを片手にどう三等分にするかを悩んでいる。

「フラン、兄さんが切ってあげようか?」
「やだ、自分でやれるよ!」
「そう? ほら、早くしないと紅茶が冷めちゃうぞ?」
「ミュールお兄ちゃん静かに! わたし今真剣だから!」
「ふふ、ごめんごめん」

 二人のやりとりを聞きながら、ティーカップに注がれていく紅茶を眺める。白く柔らかな湯気が立ち上り、華やかで甘い紅茶の香りが鼻をくすぐった。

 そうしている間に切られたケーキはやはり大きさが全部不揃いで、一番大きなものをメリーに、一番小さいものをミュールに、中間の大きさはフランのものになった。生クリームと生地といちごで構成された素朴なケーキは少々形がいびつだ。メリーはじんわりと幸せを噛み締めながら、自分が今、夢を見ていることを理解する。

 これは二年前の誕生日の夢だ。正確には誕生日の二日後のことで、ミュールの体調の良い日を見計らってフランとお祝いしてくれたのだ。
 夢だからか記憶とは少し違い、自分の反応によって少しだけ二人の反応は変わっているが間違いないだろう。この不揃いのケーキが何よりもそれを物語っている。

「二日遅れでごめん。誕生日おめでとう、メリー」
「おめでとう! メリーお姉ちゃん!」
「ありがとう」

 一口ケーキを口へ運ぶと、やはりあの日と同じ味がした。生地もクリームも砂糖が多く使われているのかちょっと甘みが強いが、それを爽やかな酸味のいちごが中和してくれている。

「このケーキ、フランとミュール兄さんが作ってくれたんだよね」
「はは、さすがにわかっちゃったか。見た目のせいか、味のせいか……」
「美味しくなかった?」
「美味しいよ、すごく。あはは……幸せだったのにな、私」

 霧のかかっていた記憶を少しずつ取り戻していく。思わず目頭が熱くなり、こらえきれなくなった涙が一粒落ちた。

「どうして泣いてるの?」
「嬉しいんだよ。こんなふうに祝ってもらえて」

 言葉に嘘はない。でもこれは決して嬉し涙などではなかった。もう戻らない過去の残照を思い、泣いているのだ。心配そうにこちらを見ている二人の姿が、拭っても溢れる涙で滲んでいく。

あぁ、どうして二人を守ってあげられなかったんだろう──

あの日から何度も考えた。
もし前日に買い出しを済ませておけば。
もしもっと早く買い出しに出ていれば。
もしあのとき買い忘れに気づいて戻らなければ。
もし、もし、もし……

 何か一つ違えば二人と運命を共にできたかもしれない。何か一つ違えば二人の運命を歪められずに済んだかもしれない。未来を予見できたのなら、この手で残らず皆殺しにしてやった。

 バケモノと、人殺しと、罪人と後ろ指を差されても構わない。たとえ二人から拒絶されたとしても、死なせなくて済むのならなんだって良かった。それでも時間は巻き戻らない。過去が変わることはない。

「そんな顔しないで。泣かないで」
「ごめん、フラン」

慌てて涙を拭っていると、ミュールが傍らに立ち髪に触れる。

「これは私たちからのプレゼントだ。どうかな?」

 手鏡を渡されると、あの日とは違い、涙で崩れたみっともない自分の顔が映っていた。いつもの自分と何も変わらないが、何がプレゼントだったのかメリーはよく覚えている。

 いつも身に着けている水色の髪飾りは二人がこの日に贈ってくれたものだった。魔力と願いを込めて編まれた紐と魔力を収束させて作られた魔晶石でできている。

「私とフランの二人で作った髪飾りなんだ。気に入ってくれると嬉しいんだけど」
「メリーお姉ちゃんがいっぱい笑顔になりますようにってお願いしながら紐を編んだの! 石にはいっぱいお友達ができますようにってお願いしたよ。片方はわたし、片方はミュールお兄ちゃんが作ったんだー」
「私は思うように魔力を使えないし、フランも魔力が弱いからここまで結晶化させるのに半年もかかってしまって……」

 フランは嬉しそうに、ミュールはその苦労を垣間見せながら微笑む。二人がこれだけのものを作るのは大変だったことだろう、と当時も考えていた。

「そういえばミュールお兄ちゃんは何をお祈りして作ったの?」
「私か。私は……うーん、恥ずかしいから内緒にしておこうかなぁ」

 ミュールはあの日と同じようにはにかんでいたが、やがて口元を引き結ぶと静かに視線をメリーへと向ける。その瞳に一瞬だけ、森の奥の泉を思わせるような静謐な寂しさが見えたような気がした。

「けど、やっぱり話しておくことにしようか」

 特に自分から行動を起こしたわけでもなく、記憶と僅かにズレが生じる。あの日、ミュールは込めた願いの内容を明かすことはなかった。それでも穏やかな笑みと見守るような温かな目はあの日と寸分も変わらない。

「私は『自由で幸福な未来が拓けるように』って願ったんだ」
「ミュール兄さん……」

 ミュールにとって『自由で幸福な未来』は絶対に手に入らないものの象徴だった。自由に自分の人生を生きてみたかったと、ベッドに横たわり寂しそうに外を眺めている姿をよく覚えている。
 自分では叶わないからこそ、代わりに願いをこの髪飾りに託したのだろうか。だがこれはメリー自身の願望が見せている夢に過ぎないのかもしれない。

 メリーの複雑な胸中とは裏腹に

「やっぱりメリーを怒らせたかな?」

と、ミュールは困ったように笑っていた。

 指摘された通り、当時の自分ならきっと怒ったに違いない。昔に一度だけ、フランと二人で逃げて自由になればいいと諭されたことがあった。

 それに対し、メリーはこう怒鳴り返した。見捨てられるわけがない。そもそも私は自分の意思でここにいる。ミュール兄さんと一緒にいることを選択しただけ。もし逃げるならそのときはミュール兄さんも一緒じゃなければ嫌だ、と。

 それ以来その話をしたことは一度もない。ミュールはメリーの言葉を受け入れて納得しているのだとばかり思っていた。
 三人の中で誰よりクランベルカ家の恐ろしさを知っていたミュールは、きっといつか遅かれ早かれこうなることがわかっていたのかもしれない。それすらも乗り越えて、未来が切り拓かれていくように願っていてくれたのだろうか。

「もう怒らないよ。心配してくれてありがとう」
「メリーにしてはなかなか大人な返事じゃないか。少し心配しすぎだったかもしれないな」
「ダメだよー。ミュールお兄ちゃんは心配じゃなくても、わたしはすーっごく心配! メリーお姉ちゃんって誤解されやすいんだもん」
「あぁー、それはそうだな。困ったもんだ……」
「私は別に、二人さえいてくれればそれで良かったのに……」
「「それはダメ」」

聞き分けのない子供を見るような二人の視線に思わず苦笑する。

 たくさんの幸せを願われていた。あの頃はメリーも二人の幸せを願っていた。もう叶わぬ願いになってしまったが、それでも自分が大切にされていた記憶を二人の夢が思い出させてくれた。

 ミュールの淹れてくれた紅茶を一口飲む。甘い果物の芳香と紅茶の爽やかな渋みと同時に、少しだけ塩っぱく感じた。

「私、二人を守れなかった。ごめんね……」

 ティーカップに入った紅茶の表面がゆらゆらと小さく揺れ、映り込むメリーの顔を歪ませている。

「急にどうしたの?」

 フランの戸惑うような声にティーカップを強く握る。それはそうだろう。この夢のときの二人は近い将来死ぬことになるなどと知らなかったのだから。

「メリー、私たちは十分守ってもらってたよ。ありがとう」

 また泣きそうになるのをこらえ、温くなった紅茶を一気に飲み下した。

「私、急いで戻らないと」

 会話するうちに自分がどこにいたのか、何をしていたのかの記憶まで全て取り戻していた。本当はこの甘やかな夢にいつまでも浸っていたい。それでも自分には向き合わなければならない今がある。

「どこ行くの? わたしも一緒に行く!」
「ごめん。フランは連れていけない所だから」

 二人と共に行くことはできない。二人の時間はあの日に取り残されたまま、メリーだけが先へと進んでいく。少しずつ、一定の速度で離れていくのだ。

「紅茶とケーキ、ご馳走さま。髪飾りも一生大切にするよ」
「一生って大げさすぎでしょー。メリーお姉ちゃん、なんか変だよ」
「大げさなんかじゃない」

 口にした言葉は震えていた。こちらのただならない様子を察したのか、フランは口をつぐみ不安そうにこちらを見上げている。

「私、今日のこと忘れないから。どれだけ時間が経っても、記憶が薄れても、絶対忘れないって約束させて」
「あぁ。私もきっと忘れない」
「わたしも! ちゃんと覚えてるから安心してね」

 記憶は時間と共に薄れる。一つずつ欠けていって、ほとんど思い出せなくなる日が必ずくるだろう。

 それでも一瞬でも長く留めておきたい。たとえ優しい記憶と現実の落差に傷つくことになったとしても。その傷が消えない痛みとなり、命の尽きるその時まで残ってくれるのならそれで構わない。

 離れ難くなる前に行かなくてはと、二人を振り切るような思いで玄関へ向かう。

「待ってメリーお姉ちゃん!」

 ドアノブにかけた手を離して振り返ると、二人がこちらへと近づく。

「そこまで急いでたのか? でも、出かけるときはきちんと挨拶をしていきなさい」

そう言うなりミュールに優しく抱きしめられる。

「メリーのような妹を持てて、私は誇らしいよ」
「メリーお姉ちゃん、大好き!」

フランがぎゅっと強く抱きついてくる。
 二人の背中へと手を回した。感触を確かめるように、温もりを忘れないように。

「ありがとう。私も二人と暮らせたこと、心の底から幸せだったよ」

 二人が離れてからドアノブへと手をかける。振り返ると穏やかに見送ってくれる二人の笑顔が見えた。まぶたの裏に焼き付けるように見つめてから口を開く。

「いってくるね」
「「いってらっしゃい」」

 引いた扉の隙間から眩しいほどの光が差し込み、やがて視界を白一色に染め上げた。

 メリーは一歩を踏み出す。二度と引き返せない旅路へと。


第58話 夢と記憶は時と共に去りて 終
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