前章─復讐の先に掴む未来は(1)
ノーグへ向かう船にフィロメナはいた。昨日までの大雨が嘘のような清々しい青空が広がっている。フルーツサンドを片手にデッキへ出ると、設置されたベンチにスイウが腰掛けているのが見えた。
「隣、いいかしら?」
「公共の物だし、ダメな理由がないだろ」
「そういうことが言いたいんじゃないんだけど……まぁいいわ」
どこか的外れな返答が返ってきたものの、とにかく許可は得られたと判断し隣に腰を下ろした。穏やかな海風に髪を遊ばせながら、買ったばかりのフルーツサンドにかぶりつく。
ふかふかのパンに瑞々 しいいちごとぶどうが挟んであるフルーツサンドは、酸味を感じる滑らかなクリームと果物の爽やかな甘さが何とも言えないほど美味しい。思わず顔が綻 んでしまうほどだ。
「それ美味いのか?」
「食べてみたらどうかしら?」
フルーツサンドの入った紙の容器を差し出すと、スイウは一つ手に取りかぶりつく。顔色一つ変えず黙々と咀嚼 しており、美味しいのか不味いのかわからない。
「どう?」
「食べやすいし悪くない」
飲み込んだタイミングを見計らって感想を聞くと、何とも食べさせがいのない淡白な答えが返ってきた。
青い空からは暖かな陽光が降り注ぎ、波の音と共にゆったりとした時間が流れていく。争いや戦いもないこのひとときがとても尊く感じられた。あの陰惨な世界は、ただの悪夢だったのではないかと錯覚しそうなほどだ。
「そういや昨晩、メリーが異様に心配してたが」
「そうだったわね。でもそのわりに帰ってきたときには眠ってたじゃない」
「それは言ってやるなよ」
昨晩ソレッタたちに呼ばれた際、メリーは過剰なほど心配してくれていた。だが話が終わって部屋に戻ってみると、メリーはすっかり夢の中だったのだ。
「まぁ心配してくれてたのは事実だもんね。起きたらメリーにお礼言わなくちゃ。あ、それとあんたにもね」
「は? 俺に礼? 頭打ったか?」
訳がわからないと言わんばかりに、普段はジトっとした鋭い目が大きく見開かれている。スイウの滅多にない反応にフィロメナはじわじわとニヤける。
「何だその顔、気持ち悪っ……」
スイウは頬を引きつらせ、少し距離を置いて座り直す。
「気持ち悪いって失礼ね。せっかくお礼を言おうと思ってたのに」
「悪かった悪かった。で、礼の理由は?」
謝り方がいささか雑な気もしたが深くつっこむのはやめ、咳払いをして仕切り直す。
「堕天はね、心と魂の穢れなの。今まで知らなかった醜い感情が自分の中に生まれてしまうのよ。でも、それを受け入れられるのはみんなのおかげだってわかったから」
「なら揃ってから言えばいいだろ。俺は特別何かした覚えもないしな」
「ううん。スイウはあたしを咎めるとき、いつも何がダメなのか必ず説明してくれてたもの。それに昨日はあたしの力を信じてくれたじゃない」
フィロメナはこれまでのことを思い返しながら、昨晩のことを少しずつ話すことにした──
雨はやみ、雲の隙間から月が顔を覗かせている。街から少し外れた森の中、険しい表情のソレッタと彼女を取り巻く天族たちと対峙していた。
「単刀直入に聞きましょう。心が穢れ、あなたは天族としての役目を全 うできるのですか?」
鋭いソレッタの視線が容赦なくフィロメナにぶつけられる。その問いかけにフィロメナは何も答えられなかった。ずっと考えてきたことだった。
天族の役目とは何なのか。醜い感情を抱え、正しい判断を下し、信じる正義を全うできるのか。自分ではなく人々のために行動できるのか。何かに直面する度に醜さと戦い、それを乗り越えて信念を貫こうとしてきた。
だがそれがこれからもできるかはわからない。いつか弱く醜い心に負けてしまう日が来るかもしれない。そもそも自分の掲げる正義が本当に正義なのか。歪められてはいないか、その判断も難しく感じるようになっていた。
わからない。
その言葉が頭に響き、ハッと気づく。同じように迷ったことが何度もあったことを。わからないなら知っていけばいいのだと、旅を通して学んだ。
自分で考えて行動して、指摘されたり肯定されながら、少しずつ答えを探してきた積み重ねが自分にはある。たとえハッキリと答えが出せなくても、一つずつ物事に真剣に向き合えばいい。今までだって何度もそうしてきたではないか。
穢れた心とは何なのか、まだ全てをわかっているわけではない。見つめることは怖いし、知りたくないと思う気持ちがないと言えば嘘 になる。それでもきっとここで逃げるのが一番ダメなことだとわかる。自分に負けることだけはどうしても嫌だった。
『変えられるのは今と未来』
メリーがそう言っていた。穢れることを承知で、カストルとポルッカを救う道を選択した。行動と結果、その全てに一切の後悔はない。ならば堕天したという結果を受け止め、自分と向き合って乗り越えていくしかない。
『今』動き出せば、きっと『未来』は変わる。
今は醜くても、未来にはその醜さを変えていけるかもしれない。だから逃げない。
大きく息を吸えば澄んだ森の空気が、大きく手を広げれば静かな月の光がフィロメナに活力と魔力を与える。それは天族だったときと何も変わらない。変わらないものだってちゃんとある。
穢れを背負っても、自分の中にある本質は何も変わってはいないと信じたい。だからこそハッキリと偽りのない思いをソレッタへぶつけることにした。
「そんなのわからないわ」
静かに返答を待っていたソレッタは面食らったような表情をしていた。堕天することがどういうことなのか、それは堕天した者にしかわからないだろう。
「わからないのなら、あなたをここで返還する。道を外れた者を野放しにはできない」
天族は皆一様に堕天することを恐れるが、フィロメナ自身は強く心を持てば前へと進めるという確信だけはあった。自分は決して一人ではない。苦しいときに苦しいと言える仲間がいるから。
「いいえ、返還なんてさせないわ。ソレッタ天使長の望むような役目を全うできるのかはわからないけど、穢れと戦っていく覚悟はある。あたしは一人じゃない。一緒に戦って、道を正してくれるくれる仲間たちがいるもの」
思いの丈を全て、堂々と胸を張って言えた。堕天しても何も変わってないな、とヒースは嬉しそうに笑う。
ソレッタは小さくため息をつくとそれ以上何も言わず、ただ峠でフィロメナの言葉を無視したことを謝罪した。僅かにこちらを見る目の険しさが和らいだように見えた。
自分の選んだ道、その姿勢を認めてもらえたような気がした。天界へは結局戻れなくなってしまったが、こうして再び和解できたのは共に旅をしてきた皆のおかげだろう。改めて共に旅してきた仲間たちに感謝した──
「スイウのことずっと冷酷なヤツだって思ったわ。あんたの考えは間違ってる、あたしが正しいんだって。でも間違ってるときもいっぱいあったし、間違ってないって思えることもあった。あんたがいてくれたから気づけたって思えることが沢山あるから」
「だから感謝してるってか?」
それを聞いたスイウは鼻で笑った。少し小馬鹿にされたような気がして、一瞬ムッとしてしまう。
「何よ……馬鹿にしなくたっていいじゃない」
「悪い。別に馬鹿にしたつもりじゃない」
「じゃあ何よ」
「よくそんな小っ恥ずかしいこと、面と向かってべらべら喋れるなーって感心してただけだ」
スイウが何を言っているのか理解できず、思わず首を傾げる。お礼を言うことと恥ずかしいという感情がフィロメナの中で全く繋がらなかった。
「あたしそんな恥ずかしいこと言ったかしら?」
「マジか……」
そんなつもりは全くなかった。思ったことや感謝を伝えたかっただけで、それを恥ずかしいことだと捉えられてしまうとは。他人の感性というものは自分とは大きく違っていて難しい。
「ごめんなさい。お礼を言うのが恥ずかしいことだってわからなかったから……」
途端に申し訳なくなって謝るとスイウはぎょっとした顔をしてこちらを凝視する。
「違う。礼を言ったことじゃない……確かに理由を聞いたのは俺だが、詳しく説明しすぎって話だ。聞けば聞くほどむず痒いような居心地が悪い感じになるような……って、何でこんなことクソ真面目に解説してんだ? 俺の方が恥ずかしいヤツだろコレ」
スイウは「最悪だ」と小さく呟き、両手で頭を抱える。
「居心地が悪い? あたしは感謝してるんだし、むしろ堂々と胸を張って誇っても良いことじゃないかしら!」
「そういうことじゃない……」
スイウは深刻そうに深く深く長いため息をついた。
「とにかく、あんたのおかげでわかるようになったことがたくさんあるって話!」
「……そうか。まぁ、俺としてはもう少し慎重に物事を考えてから行動できるようになってほしいところだが」
「悪かったわね。あたしはあんたほど薄情じゃないもの。反射的に体が動くことだってあるわよ」
「あー……知ってる」
スイウは前髪を乱雑にかき上げ、気怠げに空を見上げている。
「人と秩序を守るのは共通の役割ってのに、どこで差がついたんだか。種族ってよりは、もう俺とお前の個体差って感じだな」
「そっか。天族も魔族も立場が違うだけで根本的には同じよね」
世界の秩序を管理し、人を守る。と言っても直接守っているわけではない。天族は発生しすぎた魔物を狩ったり、地上界が人の暮らせる世界であるように調整して守っているだけだ。
人の善意も悪意も人に委ね、直接干渉はしない。人を傷つけるなんてもっての外だ。それは魔族も似たようなもののはずで、ただただそのままの世界を維持するためだけに存在しているのだ。
第54話燦然 と輝く希望の舟歌 (1) 終
「隣、いいかしら?」
「公共の物だし、ダメな理由がないだろ」
「そういうことが言いたいんじゃないんだけど……まぁいいわ」
どこか的外れな返答が返ってきたものの、とにかく許可は得られたと判断し隣に腰を下ろした。穏やかな海風に髪を遊ばせながら、買ったばかりのフルーツサンドにかぶりつく。
ふかふかのパンに
「それ美味いのか?」
「食べてみたらどうかしら?」
フルーツサンドの入った紙の容器を差し出すと、スイウは一つ手に取りかぶりつく。顔色一つ変えず黙々と
「どう?」
「食べやすいし悪くない」
飲み込んだタイミングを見計らって感想を聞くと、何とも食べさせがいのない淡白な答えが返ってきた。
青い空からは暖かな陽光が降り注ぎ、波の音と共にゆったりとした時間が流れていく。争いや戦いもないこのひとときがとても尊く感じられた。あの陰惨な世界は、ただの悪夢だったのではないかと錯覚しそうなほどだ。
「そういや昨晩、メリーが異様に心配してたが」
「そうだったわね。でもそのわりに帰ってきたときには眠ってたじゃない」
「それは言ってやるなよ」
昨晩ソレッタたちに呼ばれた際、メリーは過剰なほど心配してくれていた。だが話が終わって部屋に戻ってみると、メリーはすっかり夢の中だったのだ。
「まぁ心配してくれてたのは事実だもんね。起きたらメリーにお礼言わなくちゃ。あ、それとあんたにもね」
「は? 俺に礼? 頭打ったか?」
訳がわからないと言わんばかりに、普段はジトっとした鋭い目が大きく見開かれている。スイウの滅多にない反応にフィロメナはじわじわとニヤける。
「何だその顔、気持ち悪っ……」
スイウは頬を引きつらせ、少し距離を置いて座り直す。
「気持ち悪いって失礼ね。せっかくお礼を言おうと思ってたのに」
「悪かった悪かった。で、礼の理由は?」
謝り方がいささか雑な気もしたが深くつっこむのはやめ、咳払いをして仕切り直す。
「堕天はね、心と魂の穢れなの。今まで知らなかった醜い感情が自分の中に生まれてしまうのよ。でも、それを受け入れられるのはみんなのおかげだってわかったから」
「なら揃ってから言えばいいだろ。俺は特別何かした覚えもないしな」
「ううん。スイウはあたしを咎めるとき、いつも何がダメなのか必ず説明してくれてたもの。それに昨日はあたしの力を信じてくれたじゃない」
フィロメナはこれまでのことを思い返しながら、昨晩のことを少しずつ話すことにした──
雨はやみ、雲の隙間から月が顔を覗かせている。街から少し外れた森の中、険しい表情のソレッタと彼女を取り巻く天族たちと対峙していた。
「単刀直入に聞きましょう。心が穢れ、あなたは天族としての役目を
鋭いソレッタの視線が容赦なくフィロメナにぶつけられる。その問いかけにフィロメナは何も答えられなかった。ずっと考えてきたことだった。
天族の役目とは何なのか。醜い感情を抱え、正しい判断を下し、信じる正義を全うできるのか。自分ではなく人々のために行動できるのか。何かに直面する度に醜さと戦い、それを乗り越えて信念を貫こうとしてきた。
だがそれがこれからもできるかはわからない。いつか弱く醜い心に負けてしまう日が来るかもしれない。そもそも自分の掲げる正義が本当に正義なのか。歪められてはいないか、その判断も難しく感じるようになっていた。
わからない。
その言葉が頭に響き、ハッと気づく。同じように迷ったことが何度もあったことを。わからないなら知っていけばいいのだと、旅を通して学んだ。
自分で考えて行動して、指摘されたり肯定されながら、少しずつ答えを探してきた積み重ねが自分にはある。たとえハッキリと答えが出せなくても、一つずつ物事に真剣に向き合えばいい。今までだって何度もそうしてきたではないか。
穢れた心とは何なのか、まだ全てをわかっているわけではない。見つめることは怖いし、知りたくないと思う気持ちがないと言えば
『変えられるのは今と未来』
メリーがそう言っていた。穢れることを承知で、カストルとポルッカを救う道を選択した。行動と結果、その全てに一切の後悔はない。ならば堕天したという結果を受け止め、自分と向き合って乗り越えていくしかない。
『今』動き出せば、きっと『未来』は変わる。
今は醜くても、未来にはその醜さを変えていけるかもしれない。だから逃げない。
大きく息を吸えば澄んだ森の空気が、大きく手を広げれば静かな月の光がフィロメナに活力と魔力を与える。それは天族だったときと何も変わらない。変わらないものだってちゃんとある。
穢れを背負っても、自分の中にある本質は何も変わってはいないと信じたい。だからこそハッキリと偽りのない思いをソレッタへぶつけることにした。
「そんなのわからないわ」
静かに返答を待っていたソレッタは面食らったような表情をしていた。堕天することがどういうことなのか、それは堕天した者にしかわからないだろう。
「わからないのなら、あなたをここで返還する。道を外れた者を野放しにはできない」
天族は皆一様に堕天することを恐れるが、フィロメナ自身は強く心を持てば前へと進めるという確信だけはあった。自分は決して一人ではない。苦しいときに苦しいと言える仲間がいるから。
「いいえ、返還なんてさせないわ。ソレッタ天使長の望むような役目を全うできるのかはわからないけど、穢れと戦っていく覚悟はある。あたしは一人じゃない。一緒に戦って、道を正してくれるくれる仲間たちがいるもの」
思いの丈を全て、堂々と胸を張って言えた。堕天しても何も変わってないな、とヒースは嬉しそうに笑う。
ソレッタは小さくため息をつくとそれ以上何も言わず、ただ峠でフィロメナの言葉を無視したことを謝罪した。僅かにこちらを見る目の険しさが和らいだように見えた。
自分の選んだ道、その姿勢を認めてもらえたような気がした。天界へは結局戻れなくなってしまったが、こうして再び和解できたのは共に旅をしてきた皆のおかげだろう。改めて共に旅してきた仲間たちに感謝した──
「スイウのことずっと冷酷なヤツだって思ったわ。あんたの考えは間違ってる、あたしが正しいんだって。でも間違ってるときもいっぱいあったし、間違ってないって思えることもあった。あんたがいてくれたから気づけたって思えることが沢山あるから」
「だから感謝してるってか?」
それを聞いたスイウは鼻で笑った。少し小馬鹿にされたような気がして、一瞬ムッとしてしまう。
「何よ……馬鹿にしなくたっていいじゃない」
「悪い。別に馬鹿にしたつもりじゃない」
「じゃあ何よ」
「よくそんな小っ恥ずかしいこと、面と向かってべらべら喋れるなーって感心してただけだ」
スイウが何を言っているのか理解できず、思わず首を傾げる。お礼を言うことと恥ずかしいという感情がフィロメナの中で全く繋がらなかった。
「あたしそんな恥ずかしいこと言ったかしら?」
「マジか……」
そんなつもりは全くなかった。思ったことや感謝を伝えたかっただけで、それを恥ずかしいことだと捉えられてしまうとは。他人の感性というものは自分とは大きく違っていて難しい。
「ごめんなさい。お礼を言うのが恥ずかしいことだってわからなかったから……」
途端に申し訳なくなって謝るとスイウはぎょっとした顔をしてこちらを凝視する。
「違う。礼を言ったことじゃない……確かに理由を聞いたのは俺だが、詳しく説明しすぎって話だ。聞けば聞くほどむず痒いような居心地が悪い感じになるような……って、何でこんなことクソ真面目に解説してんだ? 俺の方が恥ずかしいヤツだろコレ」
スイウは「最悪だ」と小さく呟き、両手で頭を抱える。
「居心地が悪い? あたしは感謝してるんだし、むしろ堂々と胸を張って誇っても良いことじゃないかしら!」
「そういうことじゃない……」
スイウは深刻そうに深く深く長いため息をついた。
「とにかく、あんたのおかげでわかるようになったことがたくさんあるって話!」
「……そうか。まぁ、俺としてはもう少し慎重に物事を考えてから行動できるようになってほしいところだが」
「悪かったわね。あたしはあんたほど薄情じゃないもの。反射的に体が動くことだってあるわよ」
「あー……知ってる」
スイウは前髪を乱雑にかき上げ、気怠げに空を見上げている。
「人と秩序を守るのは共通の役割ってのに、どこで差がついたんだか。種族ってよりは、もう俺とお前の個体差って感じだな」
「そっか。天族も魔族も立場が違うだけで根本的には同じよね」
世界の秩序を管理し、人を守る。と言っても直接守っているわけではない。天族は発生しすぎた魔物を狩ったり、地上界が人の暮らせる世界であるように調整して守っているだけだ。
人の善意も悪意も人に委ね、直接干渉はしない。人を傷つけるなんてもっての外だ。それは魔族も似たようなもののはずで、ただただそのままの世界を維持するためだけに存在しているのだ。
第54話