前章─復讐の先に掴む未来は(1)

 それでも自我が問いかける。本当に変わらないままでいいのか、と。

「わ、私は……」
「……僕は生きるのが、たまに……すごく怖くなるときがある。でも一人じゃなかった。だからこの先も生きようって思える。エルヴェも一人じゃない、苦しいときはみんなに助けてもらえばいい。そうやって僕たちが生きているように、エルヴェも生きてみないか?」
「アイゼア様……」
「みんなエルヴェが帰ってくるのを待ってるよ」

 染みついたミルテイユの言葉が優しく洗い流されていく。

 エルヴェはアイゼアが謝りに来たときの記憶を思い出していた。良心の呵責かしゃくと罪悪感に今にも押し潰されそうになっていた姿を。彼が自分にくれた言葉の一つ一つを。

「私も生きてみていいのでしょうか。アイゼア様たちと」
「もちろんだよ」
「許可なんて要らないのよ。アンタには好きに生きていい権利があるってこと!」
「私の、生きる権利……」

 多く中の一つではなく、ただ一人の存在だと認められたこと。みんなに信頼されていたこと。大切に思われていたこと。
 機械のままでも人と同じように受け入れてくれる人がいること。アイゼアは真剣にそれを教えてくれたのだ。

 素直に嬉しかった。涙を流せる体なら、きっと嬉しくて泣いてしまったに違いない。そんな思いを知ってか知らずか、ミルテイユは小馬鹿にしたように笑い飛ばす。

「アナタお馬鹿さんねぇ。あの裏切り者の言葉を真に受けたの? 彼は双子ちゃんのためならどこまでも冷酷になれるような人よ」
「貴女の言う通りかもしれません。ですが、アイゼア様は心を痛めておられました。本当の意味で冷酷な人ではないのです!」

 ミルテイユは肩を竦めて嘆息し、憐れむようにエルヴェを見つめる。

「だからなぁに? 思いなんて意味ないのよ。結局現実は行動と結果が全て。心が痛んでたと言い訳されたところで、殺す選択をした事実は変わらないの」
「悲しい選択をしなければならない状況から救えば、結果は変わると信じたいのです」
「殺されるかもってのに暢気なこと。その二人は調子の良い事言ってるだけよ。人は簡単に嘘をつくの。ワタシの言っていることは真理だと思うのだけど?」
「それでも私には信じたい人と言葉があるのです。貴女は私と同じ思いをしているとおっしゃっていましたね。貴女をないがしろにするストーベルから離れ、私と共に来ませんか?」

 同じ苦しみを抱えているのなら、そこからミルテイユを救いたい。多くの罪を背負ってもやり直せる、そう信じたくて今度はこちらから手を差し伸べてみた。ミルテイユは一瞬驚いて目を見開き、くつくつとこらえるように肩を震わせて笑う。

「アナタ、本っ当に救いようのないお馬鹿さんねぇ。ワタシは敵よ。それも殺し合いをしてるの。手を取り合うなんてできるわけないじゃない」
「そうでしょうか? 同じ苦しみを抱えた者同士、手を取り合って生きていくことはできると思います」
「傷の舐め合いをしろって言うのかしら? とにかく無理よ」
「どうしてですか? 貴女もストーベルの道具として利用されているだけではありませんか」
「ワタシの心配なんて、優しいのねぇ……ってよりは甘いって言った方がいいのかしらぁ?」

細められた血のような色の瞳に、一瞬だけ憂いが滲む。

「そんなアナタに良いこと一つ教えてあげる。人ってのは存外不自由な生き物なのよ。生まれ、性別、能力、地位、財産、世間体、欲望、数えきれないほどいろんなものに雁字搦がんじがらめになって生きてるの」
「貴女も縛られているから、私と共に生きることはできないということですか?」
「さぁ? どうかしらねぇ。でももう全て遅すぎるってことだけは言えるわ。何もかもが手遅れ、ワタシはワタシの生き方を肯定するためにもアナタたちを殺すわ」
「遅いなんてことはありません! 今からでもまだ──
「遅い。もう十年以上も前から手遅れだったのよっ……」

 それまでの柔和で妖艶な笑みが消え、険しい表情へと一変した。一気に生成されて放たれる氷の矢を短刀で弾きながらかわす。

「残念です。ですが、貴女が私を気にかけて下さったことは素直に嬉しかったです。ありがとうございます」

 彼女を殺すのに躊躇ためらいも悲しみも抱かない分、本心を言葉にして伝えておく。後悔のないように。

「愚かね、気にかけるわけないわよ。アナタを丸め込むための方便……言ったでしょう、人は平気で嘘をつくって。少しは学習しなさいな」

 エルヴェは再び攻撃をしかけるために駆けた。ムチを避け、突き出した短刀は氷の盾に阻まれる。

「機械は人に従ってればいいのよ」

 ミルテイユの目を見つめたまま短刀を突き出す。思考と動きを切り離すことは機械であるエルヴェにとって難しいことではない。時折最適解とは違う行動をあえてとるようにする。

 急所を狙わない、あくまでも傷つけるだけの斬撃はこれまでの動きとリズムが違うのか相手のペースを崩していく。次第にミルテイユの反応が遅れるようになった。

「私はただ人に従うだけの愚直な機械から脱却します」
「脱却ぅ? 馬鹿馬鹿しい。自発的に考えて動くとか感情豊かに振る舞うなんて機械には求められてないのよねぇ!!」

 右手首に鞭が絡みつき動きを封じられる。エルヴェは前進しミルテイユへ肉薄する。短刀を軽くかわされ、至近距離で冷気の衝撃波を受ける。体からミシミシと軋むような嫌な音がした。
 ミルテイユは間髪入れず、力任せに鞭を引く。右手首が拘束されたまま体は前へと投げ出され自由が利かない。

 長く鋭い氷のとげが生成され、エルヴェを貫かんとしていた。とても空いている左手だけで何とかできるような代物ではない。

 ミルテイユの動きが酷くゆっくりと見えた。眼前に迫る氷の棘をただ見つめる事しかできない。

「させないよ」

 その声と共に投擲とうてきされたアイゼアの槍が氷の棘を砕く。槍だけが武器のアイゼアにとって、それは自身を危険に晒す決死の選択だった。
 砕けた氷の破片がキラキラと月の光を浴びて煌めいて目の前で散っていく。

「……アナタどこからっ!」

 動揺したミルテイユの隙を見逃さない。エルヴェは右手から短刀を放し、鞭を掴むと思いきり引いた。

「くっ……!!」

 自身が投げ出された勢いもそのまま急速にミルテイユとの距離が縮まる。短刀を握る左手に力がこもる。目を見開くミルテイユが左手に魔力を込める。

 二人の距離がゼロになろうとしていた。

 エルヴェは鋭く短刀を突き出す。同時にミルテイユの左手から放たれる冷気の衝撃波を受け、吹っ飛ばされた。着地した足は勢いに耐えきれずもつれ、回転するようにして地面に投げ出された。

「な、まさ……か」

 震えるミルテイユの声に、咄嗟とっさに顔を上げて体を起こす。左胸に深く突き刺さる短刀を、青褪あおざめた顔で凝視するミルテイユの姿があった。立ち上がり、少しだけふらつきながら隙だらけのミルテイユへ近づく。

「こない、で……ワタシは負けるわけに、ゴホッ」

 ミルテイユは口から血を吐き、蹌踉よろめきながら後退すると尻もちをつくようにして仰向けに倒れた。その胸に刺さる短刀を引き抜くと、傷口から溢れる血が地面をみるみる赤黒く染めて範囲を拡げていく。

「ミルテイユ様っ……まずい、撤退だ!!」

 動揺が波及し、戦意が削がれた部下たちが慌ただしく逃げていく。勝敗が決したのはほんの一瞬のことだった。

「どうする? 残党狩りやる?」
「いや、追うのはやめよう。目的は鉱石だしね。捕虜にするならともかく戦意のない相手を殺すのは気が引ける。それに援軍に囲まれても困るから」
「騎士のくせに温いこと言うのねー。ま、アタシも殺しがしたいわけじゃないから、やんなくていいならその方がいいけどさ」

 ミルテイユはすでに虫の息で、口から湧き上がる血に咽せている。誰もミルテイユを連れて帰ろうとせず、あっさりとこの場に見捨てていった。

 彼女は『人』だが、扱いはやはり道具のそれだった。構成員たちの薄情さを気の毒に感じながら、エルヴェは最期の情けにトドメを刺そうと血に塗れた短刀を逆手に持つ。
 ミルテイユは死にかけとは思えないほど力強い目でエルヴェを凝視していた。

「こんな結末になるのなら、貴女は私の手を取るべきだったのです」
「冗談じゃないわ。機械のくせに、生意気よねぇ。アナタは所詮しょせん機械、人の支配からは逃れられ……ない」
「いいえ、私は私として生きられると証明してみせます」
「周りには……受け入れられない、わよ。ふふっ、アナタの思い……は、いつか凶器に、なる。報われない思いは、憎しみと殺意に……変わるの。狂ってくのを、見届けて……あげられないのが……残念……ね」

 ミルテイユは血を吐きながらも不敵な笑みを貼り付けていた。視線が誰かを探すように彷徨さまよい、震える唇がゆっくりと動く。

「           」

 声になっていないのか、エルヴェですら聞き取れない。だが小さな唇の動きから何を呟いたかはわかった。

「どうして今──

 その意味を知りたくて口を開いたが、途中で止める。既にその瞳が何も映さなくなっていたからだ。

思いはいつか凶器になる──

そんな呪詛じゅそに近い言葉をエルヴェの心に刻みつけていった。

「大丈夫、エルヴェはそうならない。僕たちがそうさせないからね」

 ポンと頭に置かれたアイゼアの手のひらから温もりが伝わる。その手が安心感と同時に不安を掻き立てた。この温もりが自分を淡々と置いていくことを知っている。

 年月をかけ、やがて老いて朽ちていく。それが生きる者の理なのだから。わかっていて共に生きることを選んだ。正直に言えば、この選択が正しかったのかはわからない。恐怖心も拭えない。

 それでも彼らのように生きてみたい感じたのは事実だ。アイゼアの手から離れ、エルヴェはミルテイユの傍らでかがむと開いたままになっている目を手のひらでそっと閉じた。

 今際の際に発したミルテイユの唇の動きが記憶の中で再生される。

『ミュール、さ……ま……』

 ミルテイユはなぜ最期にメリーの兄の名を呼んだのだろうか。ストーベルでもなく、自身の家族でも恋人でもなく、ミュールの名前を。僅かに笑みを浮かべて固まった顔は黙したまま。その理由を知る術はもうない。


第47話 彼ハ愛憎ヲ知ラナイ(2)  終
69/100ページ
スキ