前章─復讐の先に掴む未来は(1)

 握りしめた手がじっとりと汗ばんでいる。カストルとポルッカと入れ替わるようにして扉をノックした。

「どうぞお入り下さい」

 部屋の中から随分ずいぶん久しく感じるエルヴェの声が聞こえてくる。ドアノブを握る手が僅かに震えているのに気づき、思わず苦笑した。部屋へと入り、パタンと音を立てて扉が閉まる。

 ベッドに座るエルヴェは、自分を殺した相手を見ているとは思えないほど穏やかな笑みを湛えている。会えばいい顔はされないと思っていただけに、目の前のエルヴェの笑みの意味がわからず頭が真っ白になった。

「アイゼア様、そんな離れたところでは会話しにくくありませんか?」
「え、あっあぁ……」

 自分はここへ謝罪しにきたのだ、と止まっていた思考が動き出す。エルヴェへ歩み寄ってから膝をつき、深々と頭を下げる。

「僕は君に取り返しのつかないことをした。許してくれなくていい、恨んでくれてもいい。ただ僕のわがままが許されるなら、今はとにかく謝罪させてほしい」

 謝罪したところで許されはしない。彼がもし人の身であれば、もうこの世にはいないのだから。

「やっやめて下さい! 私は謝罪なんてしてもらうつもりはありません」

 エルヴェはベッドから下り、アイゼアの上体を少年の姿には見合わない力強さで起こす。

「貴方がこうしてご兄妹と一緒にいるということは、無事に問題も解決されたのですよね?」

 まっすぐな曇りのない目は本当に心の底から心配しているように見えた。

「あぁ。僕たちが生きていられるのは、間違いなく君のおかげだよ」

 エルヴェが助けてあげてほしいと言ってくれなければ、自分は間違いなく殺されていただろう。自分もカストルもポルッカも、みんなも生きていられるのは彼が命をかけて戦い、繫いでくれたからだ。

「安心しました。時折目を覚ましてもアイゼア様の姿が見えず、ずっと心配していたのです。お元気そうで安心しました」

 エルヴェは心底ホッとしたように、伏し目がちに微笑んだ。迫り上がる罪悪感に胸の奥が苦しくなり、掻き毟りたくなる衝動が湧き上がる。

「どうして君は自分を殺した人に笑いかけられる? どうして僕を憎まない……?」
「それは私の心が人を憎めないようにできているからです」

 サラリと告げられた一言に、頭を鈍器で殴られたような心地になった。

 エルヴェは憎みたくても憎めない。自分の命が危険に晒されても、しいたげられても相手を憎むことがない。それでは人に逆らうことすらできないのではないか、と気づく。

 きっと違う。彼を造った人々は彼が逆らわないようにするために、憎むという感情を意図的に与えなかったのだ。

「私はむしろ貴方に感謝しているのです」
「君は何を言ってるんだ……」

 エルヴェの思考はアイゼアの理解の範疇はんちゅうを完全に凌駕りょうがしていた。

「私はずっと人になりたいと思っていました。感性や感情が人に近づけば近づくほど機械である自分が堪らなく嫌だったのです」

 エルヴェはぽつりぽつりと思いを吐露する。決して険しい声色ではなく、ゆっくりと穏やかに語りかけてくるようだった。

「ですが機械だったおかげで貴方の手を汚させずに済みました。皆を助けることもできました。ご兄妹のために戦った貴方に憎しみを抱かなくてもいい。これほど自分が機械で良かったと思ったことはありません」

 エルヴェはそれを喜びとして噛みしめるように丁寧に言葉を紡ぐ。

「私は産み出されてから初めて、自分が機械であることに感謝したのです。人でないからこそ役に立てることがあると、私にしかできないことがあると思えたのです」
「だから……僕に感謝してる、って?」
「はい」
「それはダメだ」
「どうしてですか?」
「君が犠牲になって搾取さくしゅされるだけじゃないか。自己犠牲を人の役に立てることと勘違いしたらダメなんだ」

 彼がこうして再度動けるようになったからといって、手を汚さずに済んだなどと思ったことはない。この手は一度、間違いなくエルヴェを……仲間を殺めた手なのだ。

「僕は君を殺した。その事実に変わりはないよ。そんな僕が君に言って良い言葉じゃないことは承知で言わせてほしい。もっと自分を大切にしてくれ」
「自分を、大切に……」

 エルヴェは大きく目を見開き、少ししてから何かを思い出すように窓の外へと視線を向けた。

「かつて私に同じことを仰った方がいました。アイゼア様はどうして自分を大切にするよう、私に仰るのですか?」
「どうしてって……」

『大切な仲間』が自分をないがしろにして犠牲になっていたらそう言いたくもなる、そう喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。自身を大切にするよう促せても、彼を殺した自分が『大切な仲間』などと口が裂けても言えるはずがない。とんだ茶番だ。

「人のために尽くし、人に寄り添い支えるために私たちは生産されました。身を捧げてお役に立つことは唯一の存在意義でもあるのです。それは自分を大切にすること以上に重要なことだと認識しております」

 人のような感情を持たせ、理解するような仕組みにしておきながら、まるで生贄や奴隷のような扱いを素晴らしいことと刷り込ませている。自ら進んで犠牲になるように造られている。なんて残酷な事を強いるのだと絶句した。そしてその残酷さに彼は気づけない。

「私にはわからないのです。機械は直せばいくらでも蘇ります。もちろん同一個体も造ろうと思えば造れます。壊れたなら捨てて新しいものに替えればいい、人々はそう思っているのではありませんか?」

 淡々とそれが当然の理だと信じて疑わない。古代の魔工学で造られたエルヴェ。彼の口ぶりからすれば、当時の技術力であれば量産することも容易だったのだろう。今の技術では無理だ。彼の代替えなどいない。
 だがこの話はそういう話ではないのだ。たとえ量産できたのだとしても、彼という存在は後にも先にも彼しかいない。

 それを今ここで証明しなければ。エルヴェは、自分を大切にしてほしいと願う理由を知りたがっている。たとえ笑われたとしても、軽蔑されたとしても、先程言うべきではないと飲み込んだ言葉を口にする決心をした。

「エルヴェ、よく聞いてほしい」
「……はい」
「僕が君に自分を大切にしてほしいって言うのは、大切な仲間だからだ。一緒に旅して、戦って、会話して、ご飯を食べたのは君じゃないか。たとえ最初は同じ見た目の機械でも、積んだ経験も過ごした時間も違う」
「確かに……私たちは型によってほぼ同じ思考回路を持ちますが、経験や情報を得ることで徐々に自我を形成し、個体差が生じるようになります」
「なら、やっぱり君の代わりなんてこの世に存在しない。たとえ量産できたとしてもね」
「それなら記憶を別の体に移せば──
「そうかもしれない。でもね、そもそも君が傷つくところを見たくないんだ。たとえ体の替えがあっても……見たくないんだ。前に同じことを言った人もきっとそう思ったんじゃないかな」
「私の傷つくところを、見たくないから……?」

エルヴェは目を丸くして、不思議そうにアイゼアを見上げる。

「君は人と同じだよ。体の造りが違うだけで何も変わらない。君が傷ついたり、死んでしまったらみんな悲しむ。君を思うからこそ君の言葉に応えた。みんなが僕を助けてくれたことが何よりの証明だと思わないかい?」
「そう、ですね。機械だと知っても私の最期の言葉を聞き届けて下さった」
「仲間の言葉だからだと僕は思うよ。みんなの心を動かせるくらい君は信頼されて、大切に思われてる」
「……はい」

 言葉を噛みしめるように返事をし、とても嬉しそうにはにかんだ。こんなにも表情豊かで心の優しい少年が機械でできているとは到底思えないほどだった。

「アイゼア様。やはり私は貴方に感謝します。機械のままでも人から大切に思ってもらえることに気づかせて下さった。ありがとうございます」

 やはり憎しみという感情が欠落しているエルヴェに誰かを責めるというのは無理なのかもしれない。エルヴェがたとえ憎めなくても、許してしまったとしても、アイゼア自身が自分の行いを許すつもりはなかった。

「貴方は皆に責められ、自分自身でもずっと責めてきたのでしょう?」
「えっ」
「顔を見ればわかります。貴方は今もとても苦しんでいる。私は人の心に寄り添い、尽くすために造られた奉仕型の機械人形アンドロイドなのです。表情や感情の機微に敏感に気づけるようにできていますから」
「……参ったな」

 普段ならともかく、今は上手く表情を取り繕える余裕はない。

「だから私は貴方を許します。でもその代わり願いを一つ聞いてほしいのです」
「願い……?」
「私に人にするのと同じように接してほしいのです。人に必要とされて役に立つことが喜びだったはずが、いつの間にか親しみを込めて接してもらえることを嬉しいと感じるようになってしまったのです」
「そんなのお願いされるまでもないよ。代わりになんてならない」

 それではいつもと何も変わらない。どうすることでこの罪を償うことができるのか、アイゼアは考えあぐねていた。

「どうかもう、ご自分を許して下さい。苦しむ姿を見るのが一番の苦痛なのです。アイゼア様を苦しめるくらいなら、私などいっそ消えてしまった方が──
「馬鹿なこと言わないでくれ!」

 エルヴェは胸元を握りしめ、苦しそうに眉間にシワを寄せている。信じられないような返答だった。
 自分に危害を加えた相手が苦しんでいたら、むしろ喜びすら感じる人だっているだろう。だがエルヴェは、一番の苦痛だと表現したのだ。

「もしあのときアイゼア様が撤退しなければ、きっと私の方が貴方を殺していました。私は自分が被害者でホッとしているのです」

 エルヴェがこちらに気を使って言っているようには見えなかった。きっとこれは彼の本心の言葉なのだろう。

「あのときの私は本気で貴方を殺すつもりでした。守るべき者を守った私は心を痛めることなどありません。いざとなれば感情の遮断もできます。貴方のように良心の呵責かしゃくで苦しんだりもしないのです。どう思いますか?」

 アイゼアは何も答えられず、ただエルヴェを見つめることしかできない。

「この件は貴方の意思ではなく、あのストーベルのせいなのです。だからもう気に病まないで下さい」

 ここで食い下がれば彼が本心から悲しむことは容易に想像がついた。これ以上は本意ではない。

 罰を受けずに許されてしまうことへのやり場のない思いは自分一人で抱えていくしかないだろう。むしろそれが自分への罰なのかもしれない。
 すぐに自分を許せそうにはないが、本人が望むのならエルヴェへの罪悪感は忘れようと思った。少なくとも彼には悟られないようにしなくてはと心の中で呟く。自身の愚かな選択を反省し、二度と彼らを悲しませるようなことはしないと誓う。

「わかったよ。エルヴェが僕にそう望むなら、僕は君の許しを受け入れようと思う。本当に申し訳なかった。それから、助けてくれてありがとう」
「やはり私は、謝罪されるより感謝された方が嬉しいです」

 ふわりとしたエルヴェの笑顔が、春の陽差しのように温かい。冷たく凍りついていた心が、ゆっくりと溶かされていくようだった。


第45話 雪解けの思い(2)  終
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