前章─復讐の先に掴む未来は(1)

──少年は願った。兄を守れる力が欲しいと
  少女は願った。兄を支える力が欲しいと──



 物の輪郭がにじんで見え、音はこもって聞こえる。細い糸に吊られて何とか歩いているような感覚だ。朦朧もうろうとした意識の中、自分がどこを歩いているのかもわからなくなってきている。

 アイゼアはとにかく前へ前へと彷徨さまようように歩き続けていた。血が止まらず、まるで水の中にいるかのようなふわふわとした感覚が襲う。

 エルヴェから受けた傷は深く、痛みに耐えながら浅い呼吸を繰り返す。致命傷は何とか回避したが、この出血量では結局死ぬのかもしれない。押さえた手の隙間から血が溢れ、ポタポタと歩いてきた道に沿って跡を残していた。
 このままでは血痕を辿られてしまう。血が足りないのかまともな思考ができない。朦朧もうろうとした頭でそう思った。

 力の入らない足が何かに絡め取られ、地面へと倒れ伏す。受け身も取れず地面にぶつかる衝撃が傷に響く。焼けつくように痛む傷の感覚以外、何も考えられなくなってきた。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。カストルとポルッカ──二人を助けるためにも自分の命は必須なのだから。這いつくばりながらも前へ進もうと手を伸ばす。ゆっくりとナメクジが這うように進んだ。

 これはもういよいよダメかもしれない。滲んだ世界が、まるで夕闇が迫るように薄暗くなる。背中を駆け上がるように寒気が襲ってきた。日が暮れるにはまだ早い。これが人の終わりの瞬間なのだろうか。

 一瞬だけメリーの姿がアイゼアの脳裏を過った。焼けただれた体でもなお、立ち上がる姿──あのときメリーは何を感じていたのだろう。守りたいものに手が届かない現実に何を思ったのだろう。

知りたい。

君は僕と同じ思いだったのか、と。
どうして君は立ち上がれるのか、と。

 生きたまま全身を引き千切られていくような心地だった。

「カス……トル、ポルッカ……ごめん」

 うめくような掠れた声だった。この声は誰にも届かない。アイゼアの意識はそこで途絶えた──




──冷たい感覚が襲う。

 どうやら冷水をかけられたらしく頬を水滴が伝う感覚がした。拭おうと手を動かすと、ガチャガチャと金属質の音が響く。後ろ手に手錠のようなものをかけられているらしい。体も重く、思うように動かない。

 目を開けると薄暗く、どこかの建物の中のようだった。這いつくばるアイゼアの視界に誰かのブーツのつま先が映る。その足に蹴られて仰向けになると見たくなかった女の顔が現れた。

 青紫の癖のあるセミロングの髪に赤黒い血のような色の瞳。ミルテイユ・ジェーム。メリーの仇敵であるストーベルの部下の女性だ。
 鉱山で魔物を操りベジェの村を襲わせていた人物でもある。彼女がアイゼアの前に現れたことが絶望の始まりだった。




 両親の墓参りの帰り道、ミルテイユはアイゼアの目の前にふらりと現れた。優雅に歩み寄ると、甘やかな声でささやく。

「アナタの大切な双子ちゃん、助けたいと思わない?」

その一言で二人が人質に取られているのだとすぐに理解した。



 こちらを見下ろすミルテイユは艶やかな髪を優雅な仕草で耳にかける。

「因果応報ってこのことよねぇ」

ミルテイユは鮮やかな赤の紅を引いた艶っぽい口元を歪め、嘲笑う。

「アナタがアタシを傷つけたのも脇腹だったもの……うふふ」

 鉱山で負わせた腹部の怪我のことを言っているのだろう。だいぶ根に持つ性格らしい。

 傷の痛みは意識を失う前より和らいでおり、治療が施されているようだった。その事実にまだ何かに使う気なのだと理解し、顔をしかめる。

 あのまま死んでいれば無念だが、楽ではあっただろう。何が正しくて何が間違っているのか、もう判断がつかない。どれを選んでもきっと必ず後悔する。もう何も考えたくないと心が悲鳴を上げていた。そんな自分の弱さが恨めしくてたまらなかった。

「それで、一人くらい殺せたのかしら?」
「……」
「あらぁ〜? 情が移った相手なら油断して殺されてくれるかも〜って期待してアナタに声をかけたのにねぇ」
「それはそれは、ご期待に添えず申し訳ない」

 こんなときでも減らず口だけは一人前で、自分で自分が嫌になりそうだ。

「かぁわいそぉ〜。お仲間さんに容赦なく斬られちゃったのね。よっぽど好かれてないのか、それとも信用されてないのか……それにしてもホントがっかり。役立たずねぇ」

 完全には治りきっていない傷口をミルテイユに蹴られ、思わずうめき声が漏れる。

「うふっ。お腹の傷、まだ痛むのね」

ミルテイユの愉悦に満ちた瞳がアイゼアを映す。

「兄様っ!」

 自分を呼ぶ声がカストルのものだとすぐにわかった。弱気になっていた精神が急速に研ぎ澄まされていく。

 声の聞こえた方へ顔を向けると、鎖つきの首輪に繋がれたカストルとポルッカが見える。そんな二人の姿に眉をひそめそうになって、ミルテイユへと視線を戻した。

 二人の体の一部は……もう人の形をしていない。カストルは両腕に黒い毛が生え、長さも太さもその体に見合っていない。手の先の爪は獣のように鋭利で尖っており、熊の腕のように見える。
 ポルッカは肌の一部が爬虫類の鱗のように硬化しており、トカゲのような尾が生えていた。墓参りの後に会ったときよりも魔物化が進んでいることに焦燥感を覚える。

 ミルテイユは右手に持つグリモワールと思しき書をチラつかせる。メリーたちを殺せばグリモワールで願いを叶えてくれるという取引だった。
 アイゼアの魂と引き換えに二人を元の姿へ戻し、破滅後の世界で二人が生きることも保証する。その代わりにメリーたちを殺す。二人のためにも、メリーにたちには死んでもらうしかないと思った。

「誰も殺せてないんじゃ、取引は成立しないわねぇ〜」

 ミルテイユ蹴りが鳩尾みぞおちに入り、先程よりも強い力で蹴られたことで咳き込む。

「やめてぇぇっ! お兄様が死んじゃうっ」

 金切り声に近いポルッカの悲鳴が、がらんとした冷たい空間に響く。

「死なせたくないわよね? そうよね? だったらアナタたちがやることは一つじゃないかしらぁ」
「やること……?」
「聞くな、カ……トル、ポル……」

 二人へ視線を向け、掠れた声で絞り出す。ほとんど音になっていない言葉は、簡単にミルテイユの声に潰されていった。

「そう。アナタたちはお兄様のためにグリモワールに力が欲しいってお願いしてたでしょ。だったらもっと求めなさいな。力が欲しいって! ほらっほらほら〜お兄様死んじゃうわよ〜」

 ミルテイユは歌うように朗らかに二人をそそのかす。傷口を踏みつける力がより一層強くなった。その痛みに声を上げないよう必死に噛み殺して耐える。

「兄様……」

 アイゼアは目を見開く。今、確かにじわりと魔物化が進んだ。

「それだけしか進まないの? こんなにも魔物化が遅いなんて、お兄様への愛が足りないんじゃない? ワタシ待ちくたびれちゃうわ」

 わざとらしくあくびをして見せたミルテイユは、再度傷口を強く踏みつけてきた。食い込むピンヒールに、刺すような鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
 アイゼアは咄嗟とっさに歯を食いしばり声を押し殺した。痛みに悶え苦しめば二人は心配する。より強く助けたいと願ってしまう。

「えー……もっと泣き叫びなさいよぉ。助けてママ! 痛いのはやだよぉ〜って。二人に効果がないじゃない」

 少しムキになったのか何度も何度も執拗しつように踏みつけられる。せっかく塞がっていた腹部の傷口から、じわりと熱いものが滲んでいく感覚がした。
 何とか開けた片目で二人の様子を伺う。大粒の涙を流す二人が何か言いながら泣き叫んでいた。先程とは比べ物にならない速度で体が侵食されていっている。

「カストル、ポルッカ! 目を閉じて耳を塞げ!」

 痛みに叫び出したい力を利用して声を出した。二人は戸惑いながらアイゼアを見つめている。

「頼むっ……!」

 懇願こんがんするように叫ぶと大人しく目を閉じ、耳を塞ぐ。二人の様子を見届け、アイゼアは額を床に押しつけた。万が一にも苦悶に耐える表情は見せたくない。

「余計なことしてくれるわね、本当に困った子。アナタはやめて双子ちゃんを痛めつけちゃおっかなぁー?」
「それだけは……やめてくれっ」

 精一杯ミルテイユをにらみつける。情けないことにそれしか今のアイゼアにはできない。

「やめてくれ? 人に物を頼むなら、やめて下さいお願いします……よね? 誰にしつけけられたの?」

 そう言うと同時にミルテイユは氷塊をいくつも生成し、それをカストルとポルッカめがけて放った。容赦なく叩きつけられる氷塊に、痛い痛いと泣き叫ぶ二人の悲鳴が部屋中に響き渡る。ただただ痛みを与えるだけの攻撃が絶え間なく二人へと向く。

「やめろ、やめてくれっ!! あぁあ……カストル、ポルッカっ……」
「お願いするときは?」

心底愉快そうなミルテイユの声が上から降ってくる。

「……やめて下さいお願いしますっ」

その瞬間、ミルテイユはピタリと二人への攻撃をやめた。

「うふふ……物分かりの良い子は好きよ?」

 恍惚こうこつとしたミルテイユの表情に戦慄せんりつした。同時に二人の強い視線も感じる。

「双子ちゃんを痛めつけられたくないなら、僕を痛めつけて下さいってお願いしてちょーだい?」

 その言葉を言うことに抵抗はなかった。自分に大した矜持きょうじはない。

 だがそれが『二人の前で』となれば別だ。そんな姿は見せたくなかった。二人の前だけでは、立派な騎士で憧れの兄でありたいと。それでももう、取り繕うのは無理だと悟り固く目を閉じた。

 貴族の養子になっても、騎士として勤めても、誰かに慕ってもらえるようになっても、本質は何も変わりはしない。
 貧民区育ちの負け犬。どれだけ研鑽けんさんを積もうと、そうののしられ続けてきた。普通の人から見れば自分など、薄汚い踏みつけても構わないような存在なのだろう。

 それが悔しくて堪らない。貧民区育ちを恥じたことなんてない。それは生まれの差でしかなくて、貧しいのも過酷な環境に身を置いてきたことも単に運が悪かっただけなのだと思うようにしていた。

 だがそれは勘違いだったらしい。染み付いた負け犬根性は消えてくれそうもない。無意識に乾いた笑いが漏れた。

「お、お兄様?」

 あまりにも情けなくて二人の顔を見る勇気はなかった。たとえ二人が幻滅して離れていったとしても、もう構わない。それで二人を守れるのなら何を失ってもいい。

「僕を痛めつけて下さい。どうぞ君の満足するまで」

 最後の抵抗にいつもの「胡散臭うさんくさい」と定評のある満面の愛想笑いをくれてやった。

「よくできました〜。でもちょっぴり生意気かしら?」

 ミルテイユの不気味な笑みに潜んだ狂気が表へと現れる。瞬間、再度鳩尾みぞおちを蹴られ意識が飛びかけた。

 迫り上がる吐き気に咽せる。間髪入れず腹を、傷口を、頭を、何度も何度も蹴られ、踏みつけられた。雨のように絶え間なく浴びせられる暴力を、ただ地面を見つめて耐え続ける。

 もう二人の声は聞こえないフリをした。何も考えない。何も感じない。

「やっぱり声を上げないのねぇ。うちにもこのくらい骨のある子がほしいくらい」

 強い衝撃と共に肩に鋭い痛みを感じた。僅かに顔を向けて確認すると氷の棘が深々と突き刺さっている。
 それでも声は出さなかった。この手の暴力は無反応でやり過ごすのが一番早く終わる。経験則だ。

「あーあ、つまらない子ね」

 しばらくしてミルテイユの攻撃が止む。口の中が血の味でいっぱいだ。全身が鈍く重く痛む。蹴られたことで目元が腫れ、狭まった視界に大きな氷の棘を生成しているミルテイユが見えた。

「これならどうかなぁ〜」

 その口元が三日月のようにつり上がった。大きさからも刺されれば間違いなく死ぬだろう。

 二人は悲しむだろうか。きっと目の前で人が殺される姿は、一生消えない光景となって残ってしまう。
 そんな呪いをかけて死んでいく自分をどうか許してほしい。そしてあまり気に病まないでほしい。怒ってもないし、悲しくもない。自分のことなど道端の石ころのように忘れてくれれば良い。

 亡き養父母の姿が頭の中に蘇る。幸せなんて知らなかったアイゼアに温もりを教えてくれた。貧民区の陰惨な世界の中で全てを憎みながら死んでいただろうことを思えば、幸せを知って死ねる自分は幸福だとさえ思える。無念なのは、やはり二人を助けられなかったことだろうか。

 自分の前に立ち塞がるエルヴェの姿が浮かぶ。その姿にアイゼアは声をかける。君が宣言した通り二人を救ってやってほしい、と。
 何を今更都合の良いことを、と言われるに違いない。ふっと自嘲の笑みが漏れた。間もなく氷の棘が振り下ろされようとしている。

 二人が「兄様」と叫ぶ。その声ももうすぐ聞けなくなる。できればもう少し穏やかに呼んでほしい……なんて贅沢ぜいたくな願いは叶わない。

 他人を蹴落としながら生き延び、自分を救ってくれた両親を死なせた原因となり、その子供を巻き込み、仲間を裏切り、果てにはこんな場所で惨めったらしく死んでいく。恩知らずの自分にはお似合いの最期だ。覚悟を決めゆっくりと目を閉じ、その時を待つ──


──だが終わりはやって来なかった。

随分ずいぶん醜悪しゅうあくな趣味をしているようだね、ミルテイユ」

 突然降ってきた男の声。コツコツとこちらへ近づく足音。目を開けばミルテイユの手が止まっていた。

「あら、カーラント様にジューン様。何かご要件でもおありでしょうか」
「いや、特にあるわけではないのだが……ははっ、これはすごい。相当ねちっこく痛めつけられたようだ」

 カーラントと呼ばれた男がアイゼアの顔を覗き込むと、笑いながらも僅かに顔をしかめた。メリーと同じ髪の色。ただ瞳の色は冷たく澄み切った氷の色をしていた。

「このくらいは普通じゃないかしら?」
「あいにく、私は男の悲鳴を聞いてよろこぶような趣味はないのでね」
「この子全然鳴かないからちっとも面白くなかったのよねぇ……」

ミルテイユはこれみよがしに大きなため息をついた。

「つーかコイツ、ネレスで襲ってきたクソ野郎じゃねぇか! ブッ殺す」
「ジューンやめなさい」

カーラントがジューンのフードを掴んで止める。

「でも兄貴。コイツを生かしといても何も良いことねぇだろ? 見せしめに殺してメレディスを動揺させてやる」
「ジューン……メリーは人一人死んだところで動じない。クランベルカに名を連ねているならそのくらいわかるだろう?」

ミルテイユはやっと作り出していた氷の棘を消し去った。

「そうかしら? バラバラにしてぜぇーんぶ撒き散らかして、目の前に頭を転がして……あぁーっ! あの双子ちゃんたちが良い感じに暴走してくれそうじゃなぁーいっ! きっと今度こそ魔物化まで一瞬よ、一瞬!」
「あなたも妄想から戻ってきなさい。すぐに自分の世界に入るのがあなたの悪癖あくへきだといつも言っているではないか」
「小言が過ぎますよ、カーラント様。以後気をつけます」

 やり取りから、この中では一応カーラントが一番上の立場だとわかる。

「ですが、生かしておいて何に使うおつもりで?」
「もう一度殺しに行かせるのだよ」
「もう一度? 有効とは思えないわね。一度失敗したのに成功するとは思えないし」
「アレを試す良い機会だと思わないか?」
「そういや、親父から司令が来てたなー」
「ということなのでそこで倒れてるあなた、二人を助けたいのであれば死ぬ気でメリーたちを殺してください。そのときはあなたの取引に応じよう」

氷のように冷ややかな瞳がアイゼアを見下ろしていた。

「ジューン、彼を医務室へ。また治癒術の実験に使う」
「はいよ」
「ミルテイユ、例の件を進める。段取りはこちらで済ませるからあなたはすぐに動くように」
「承知しましたわ」

 カーラントとミルテイユの気配が遠退とおのいた。その代わりにぞろぞろと数人の気配が近づいてくる。

「医務室へ運べ。実験終了後にすぐ叩き起こせよ」

 アイゼアは数人の手によって抱え上げられ、なす術もなく運ばれていく。またメリーたちの前に敵として立たなければならない。戦いたくはない。

 だが戦って殺さなければグリモワールを使わせてもらえない。失敗すれば今度は魔物化したカストルとポルッカを手にかけなければならなくなる。どちらか片方なんて選びたくはなかった。

 それでも選ばなければならない。だとすればアイゼアが選ぶ道はすでに決まっている。意識が途切れるまで、心の中で何度も何度も謝り続けた。共に旅をしてきた仲間たちの姿を思いながら。


第38話 咎人の懺悔ざんげ  終
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