前章─復讐の先に掴む未来は(1)

 翌日もミルテイユは日課のようにミュールの元を訪ねてきた。もちろん呼びつけたわけではなく、彼女の方から自主的にだ。

「今日は気分がよろしいようで。昨日ストーベル様が来て下さったからでしょうか?」

 そんなわけがない、と心の中で反論する。と言っても、自分とストーベルの間に何があったのか知るはずもない彼女には到底想像もつかないだろう。
 嬉しそうに笑いかけるミルテイユを記憶に刻み込むようにじっと見つめた。少しでも長く、長く。

「あの、どうかなさいましたか?」
「私もミルテイユの笑顔を久々に見られて嬉しいよ」

 決して体調が良いわけではないが、懸命に笑ってみせた。どうか自分のことを思い出すときは笑顔であってほしい、そう願いながら。ミルテイユは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らし、はにかむ。

「私も随分ずいぶん久しぶりにミュール様の笑ったところを見たような気がします」

 くすぐったそうな、それでいて安堵あんどしたような笑みが眩しく感じられ、思わず目を逸らしそうになる。最後に見られて良かった、と小さく呟いた。

「ミュール様、今何か──
「ミルテイユ。聞いてほしいお願いがある」
「お願いですか? 何なりとお申し付けくださいませ、ミュール様」

 ベッドの傍らへと寄り、覗き込むように見つめてくるミルテイユの表情が、この後曇ることを想像して気分が滅入めいる。
 それでももう決めたことだ。ゆっくりと息を吐き出し、ざわつく気持ちを落ち着かせる。

「ここへ来るのは今日で最後にしてほしい」
「えっ、どういうこと……でしょうか?」

 驚いたように目を見開き、ぱちくりと瞬かせている。やはり「はい、わかりました」とは言ってくれない。
 戸惑うのも無理はないだろう。これまで拒絶するような素振りなど一切なかったのだから。

「お前も新しい環境で忙しいだろう。当主候補を外れた私の世話など負担になるだけだ」
「そんなことありませんっ。私が好きでここに来ているのです。お願いです、私を遠ざけないで下さい……」
「ミルテイユは本当に私に良くしてくれてるけど、もう甘えるわけにはいかないんだ」

 やんわりと遠ざけても、ミルテイユは必死に首を横に振る。

「いいえ、いいえっ……私はミュール様の──
「付き人じゃなくなった。違う?」

 ミルテイユの瞳が悲しげに揺れ、くしゃりと表情が歪む。一生懸命懇願こんがんしてくるミルテイユに首を縦に振ってやることだけはできない。ここで関係を断ち切るのが、他でもない彼女のためなのだ。

「今までありがとう。感謝してるよ、ミルテイユ」
「笑って……そんなこと言わないでくださいミュール様。私を傍に置いて下さい」
「それは無理なんだ。もう来ないでくれ」
「私のことを心配して仰っているのなら、気を使う必要もありません。そもそもそのようなことをミュール様が気にする必要はないのですから」

 ミルテイユは引き下がるつもりはないようだ。穏便に、穏やかに済ませたいと思っていた。できれば綺麗に離れられたら、嘘などつかず感謝だけを伝えて彼女を見送れたらと。

 だがそれではとても聞き入れてはもらえそうもない。それでも強く突き放さなければならない。
 ストーベルが見ている。反乱分子のミュールとミルテイユの関係を。ミュールとミルテイユの付き合いは長い。そこには力や地位以外で繋がる絆や情がある。それが人だ。

 たとえミュールが力を失っても、ミルテイユはミュールの言葉に耳を傾けるとストーベルはわかっている。これ以上長く共にいれば、ミルテイユは間違いなく疑いの目を向けられ、立場が悪くなっていくだろう。

 そしてこのクランベルカ家という環境において、従者でしかないミルテイユの命はあまりに軽い。『人』らしい感情に流されれば足元を掬われる。疑わしきは罪深き、事故か何かを装って消されるのも時間の問題だ。

 ミルテイユを自分のせいで死なせたくはなかった。全ては彼女のために。その思いの強さがミュールから人としての温もりを奪っていく。

「せっかく言葉を選んでるのに、はっきり言わないとわからない?」
「はっきり?」
「訪ねて来られるのが迷惑なんだよ、頼んでもないのに。お前の仕事に支障が出て私のせいにされるなんて冗談じゃない」
「……迷……惑? さっきはありがとうって、言って……くれたじゃない、ですか」 

 言葉を詰まらせ、震える声に罪悪感がずしりと存在を現す。それらを吐き出すようにため息をつき、頭を抱えた。

「十年も一緒にいて、私の本音と建前も見抜けないのか。所詮その程度だったということだ」

 ひどく冷えきった声だ、とどこか冷静な部分でそう思った。うそとはいえ、どうしてこんなにも簡単に酷いことを言えてしまうのだろう。

血も涙もない。

 ストーベルの顔が頭をよぎる。あれが自分の父親。しっかりとあの下劣な男の血が流れていることを実感し、虫唾むしずが走る。

「私はもうお前の顔など見たくない。二度と目の前に現れないでくれ」
「嫌ですっ、うそだと言ってくださいミュール様っ!! 私たちの十年は全ていつわりだったと?」
「悪いけど、そういうことになる。私を信頼したのはお前の勝手だが、私まで同じ思いだったと勘違いされては困る」
「そんな……」
「ここはそういう場所だって知ってるはず。お前は私専用の駒だ。主と従者、それ以上でもそれ以下でもない」
「一欠片でも……私に向けてくださった笑顔に真実はないのですか……」
「ない。もう目の前から消えて、私のことは忘れるんだ……」

 ミルテイユの瞳から一粒、涙が零れて砕け散る。同時に膝から崩れるようにしてへたりこんだ。

 ミルテイユの顔はとても見られない。これ以上留まられたら、本当の気持ちに負けてしまう。
 早く去ってくれ。怒っても恨んでも憎んでもののしってくれても、この場で殺してくれてもいい。全てが台無しになる前に早く、そう願うことしかできない。自分で言っておいて、自分の言葉にズタズタにされた心はもう瀕死ひんしに近いのだ。

 だが傷つく権利などあるはずもない。理不尽な言葉に苦しみ、傷つけられているのはミルテイユなのだから。自分がミルテイユにできるのは、この残酷なうそを貫き通すことだけだった。

「出ていってくれ。これは私からの最後の命令だ」
「命令……そこまで仰るのですか?」
「そうだ。その重さ、ミルテイユならわかるだろう?」

ミルテイユは覚束おぼつかない足でよろよろと立ち上がる。

「……わかりました。従います……一日でも早く回復なされることを離れても祈っております。ミュール様、今までお世話になりました」

それだけを言い残し、ミルテイユは退室した。

 あれだけ酷い言葉をぶつけられても容態を気にかけるような言葉を残して。恨み言一つ零さずに。その温かな言葉がズタズタの心に残酷なほど沁みて激痛となる。

 いっそののしってくれた方が良かった。その方がずっと楽になれたことだろう。ミルテイユの笑顔を思い出して胸が締め付けられ、掻き毟られるような息苦しさに何度も布団を殴りつけた。

 いかないでくれ、そばにいてほしい。そう叫びたくなる衝動を必死に抑え続けた。彼女の背中に声をかけることは許されない。期待させればさせただけ傷つける。

 これで良い。これで良かったのだ。何度も自分に言い聞かせるほどに悔しさと後悔は積み重なっていく。

あのときストーベルに意見などしなければ。
ストーベルという人物を見誤らなければ。
自分の立場を高く見積もり過ぎなければ。

 それでもたった一つだけ、自分を褒めたいことがある。意見したあの場にミルテイユを連れて行かなかったことだ。もしあの場にいたら、ミルテイユにはきっと今より悲惨な結末が待っていたことだろう。

「すまない、ミルテイユ。どうか幸せになれる日が来るよう祈り続けてるよ……」

 祈っている。たとえ幸せになどなれないとわかりきっていても。クランベルカ家の呪縛から彼女は逃れられない。逃げたら彼女の一族は滅びるのだから。独り言は部屋の淀んだ空気に吸い込まれて、虚しく消えていく。

 途端とたんに思い出したかのように涙が溢れ、零れ落ちた。止まりそうにもない涙に、重怠い体を横たえて布団を被る。
 枕に顔を押し付けて声を押し殺し、何度も何度も、届きもしない謝罪の言葉を繰り返し続けた。心はすっかり擦り切れ、これが何の涙なのかミュールにはもうわからなくなっていた。


 その後のミュールの環境は虚無そのものであった。見舞いに来る者はおらず、医師だけとの事務的なやり取り。
 回復の兆しのない体と、抜けることのない倦怠感。時折襲われる耐え難い激痛。実験に利用されるのを待つだけの虚しい未来。誰からも『人』として必要とされず、気にもとめられない。それだけを淡々と毎日繰り返す。

 ミルテイユが自分にとってどれほど大きな存在であったのかを思い知らされた。

 死ぬこともできず、ただただ生かされているだけの自分には絶望しかなかった。ミュールは最後にできる唯一の自殺方法として、水や食事を一切口にしなくなった。この身に仕込まれていた自爆術式は昏睡状態のときに解除されてしまっていた。

 道具として利用されたくない。餓死がしなら人として命を全うできる。生きる希望もなく何もできないミュールにとって、それが唯一自分の望みを叶える手段だった。
 それでもこの体は点滴で強制的に生き長らえさせられる。見張りは片時も目を離してはくれない。

 ぼんやりと部屋の天井を見上げて繰り返す。自由になりたかった。自分の命も人生も時間も自由に自分のために使いたかった。優しい両親や家族に囲まれて生きてみたかった。

それは贅沢ぜいたくな夢なのだろうか?

 当主にも、駒にも、材料にもなりたくない。死ねば自分もゴミのように焼却処分されるのだろうか。一体自分が何の罪を犯してこんな思いをしているのか。道具として終わりたくない。人として生き、人として死にたい。そんな願いすら罪なのだろうか?
 誰も答えてはくれない問いかけが延々と頭の中を駆け巡っていた。

そんな絶望の中に一筋の光が差す。

 監視官が火球で吹っ飛ぶのが、声と視界の端に映った情報からわかる。

「ミュール兄さんっ!!」

 火球を放った人物が誰なのか、その声と背筋を凍らせるような不気味な魔力の気配でわかった。

「メ……リー……」

 かさかさの枯れた声で妹の名を呼んだ。声を出すのも随分ずいぶん久しぶりのように思えた。

「ミルテイユさんから聞いてきた。ミュール兄さんが死んじゃうかもって」
「ミルテイユ……が?」

 ミルテイユがなぜメリーにそんな話をしたのかはわからない。彼女はメリーがこうすることをわかっていたのだろうか。

 そしてミュールの中に一つの使命感と強い思いが湧き上がる。
 顔をゆっくりと向けると、肩で息をしながら目を大きく見開いているメリーと目があった。その瞳に弱々しく横たわる自分が映りこんでいる。

 メリーの魔力なら一人でもこの腐った世界から逃げられるかもしれないと思った。ストーベルには「お前の言葉は誰にも響かない」と言われた。それでもまだ生き長らえている意味が自分にあるというのなら、どうか届いてほしい。

目を覚ませ、メリー。

 空気を大きく吸うと小さく刺すように肺が痛んだ。絞り出すようにして言葉を紡ぐ。

「メリー、お前は自分を大切にしなさい」


番外編 ハリボテ舞台の木偶デク人形(3)  終
49/100ページ
スキ