前章─復讐の先に掴む未来は(1)

 ミュールに課せられた役目とは投薬実験への参加だった。
 抗うこともできず実験体となり、それが元で数日間生死の境を彷徨さまようことになった。

 目を覚ましたとき、この体は思うように動かなくなっていた。元々体は強くなかったが、その頃とは比べ物にならないほど虚弱になり、数週間は完全な寝たきりだった。
 体調が落ち着き、少しずつ体が動くようになってきた頃、やっと思考が回り始めたことでミュールは己の愚かさを理解した。

 自分は当主候補であるというおごりに足元を掬われたのだと。ストーベルは当主候補であろうが、邪魔者の排除をいとわないのだとこのとき初めて気づいた。
 魔力があり重用される自分は少なからず父に愛されていると信じていた。いや、信じたかったのかもしれない。しかしそれすらもまやかしだったのだ。

 ストーベルという人物に期待し過ぎていた。彼を人と呼んで良いのかすら今では疑問に思えるほどだった。


 扉をノックする音共に、中へと誰かが入ってくる。そちらを見ずとも、相手がミルテイユだとわかった。

「お加減はいかがですか、ミュール様」
「変わらない、最悪だ」

 それだけ伝えるとミルテイユは気の毒そうな表情で伏し目がちになる。ミルテイユは投薬実験で昏睡状態になった日から、毎日甲斐甲斐かいがいしく世話してくれていたらしい。

 最初はなぜ当主候補であるミュールが投薬実験などに参加したのかと問い詰められたが、それに答えることはなかった。
 理由など知る必要もない。もう彼女は付き人ではないのだから。この体では当主など到底務まらないと即時候補から外され、同時にミルテイユは解任されたらしい。

 ストーベルは最初からそうするつもりだったのだ。気づかれたくないところに気づかれ、口封じしようとしたのだろう。
 ストーベルにとってミュールは死んでもいい存在なのだ。死ななくても無能のレッテルを貼られたミュールの言葉など兄弟たちは耳を傾けない。もう自分には価値などなく、このクランベルカ家という箱庭の中で孤立した。

 ストーベルはミュールの使い道は何が一番良いのかを考えているだろう。素材か、それとも実験体か。

「私の体調のことなんていい。それよりミルテイユは、今何をしてる?」
「私はストーベル様の直属の部下として雑務を少々」
「そうか。付き人を外れたのに、いつも来てくれてありがとう」

 ミュールの部屋への入室は医者と監視官くらいしか認められていない。ミルテイユの存在は、絶望に荒みきったミュールの心を僅かに救ってくれていた。

「いえ、当然のことです。ミュール様に喜んでいただけるのであれば、これ以上の幸せはありません」

 控えめではあったが、ミルテイユの笑みは久しぶりに見る気がした。そんな和やかな空気を壊すようにノックもなしに扉が開く。現れた人物を視認し、体が強張る。

「ストーベル様」

ミルテイユは一歩下がり、うやうやしく一礼する。

「ミルテイユ、任務へ戻りなさい。ミュールと二人で話がしたい」
「承知いたしました。失礼いたします」

 ミルテイユは迅速に退室し、あっという間にストーベルとの二人だけの空間が出来上がる。最悪だ。二度と見たくもない顔が目の前にある。

「調子はどうだ?」

どの口がそれを言っているのだ、と無言でにらみつける。

随分ずいぶんと愛想がなくなったな。以前のお前は──
「要件をお話ください」

 冷たく突き放すとストーベルは小さくため息をついた。こんな状態にしたのは誰だと糾弾きゅうだんしたい気持ちを抑え、言葉を待つ。

「約束を忘れたか。役目を果たしたら教えてやると言ったであろう」
「は?」

 意外すぎる言葉に思わず声が漏れる。約束を守るような人ではないと思っていただけに、だ。

「実験は失敗だったが、一応役目は果たしているからな」
「……では聞きます。父様の得たいものとは一体何なのです」
「何度も言っている。私は領民を守る圧倒的な力が欲しいのだよ」

 その言葉に愕然がくぜんとした。最初から本心など話すつもりはなかったのだと。少しでも期待してしまった自分を恥じた。こちらの心が掻き乱される様子が面白いのか、ほくそ笑むストーベルへ激しい殺意が湧き上がる。

 魔力を練り火球を作り出そうとした途端、体に激痛が走る。うめきながら咳き込むことしかできない自分のみじめさが悔しくてたまらず、胸元を強く握りしめる。

「嘘だ。父様は長の座を奪って得た金と権力で、全てを意のままにしたいだけだ。領民のことはいつも私たちに押し付けて何もしない」
「私は当主として指示を出しているのだ。それを押し付けていると言われるのは心外だな」
「昨年の災害の慰霊にも一度も赴かなかった人の言葉か……」
「お前たちが行けば十分だろう」

 その言葉が全てを物語っている。ストーベルを領民思いの良き領主と信じている民にとって、彼の慰霊がどれほど心理的に作用するのか。この男は理解していてなお行かなかったのだ。

「まぁ、嘘かどうかはともかく本心を聞いたところでどうするというのだ?」

 ストーベルの顔が心底愉快そうに歪む。邪悪を体現したかのようなその表情に侮蔑ぶべつの感情が迫り上がった。

「お前の言葉には誰も耳を貸さない。何を訴えてもお前の言葉は戯言ざれごとになる。お前の言葉は誰にも響かない」
「……」
「だがお前にはまだ価値がある。私の役に立てることは嬉しいだろう?」
「役に立つ? そんなのクソ喰らえだな」

 逆らう者が邪魔なら殺せばいい。今のミュールにとって自分の命は惜しいものではなかった。

「そんな汚い言葉遣いをするものではない。クランベルカ家の品位が下がる。と言ってもお前が表舞台に立つことなど二度とないがな……私からは逃げられぬ」

 くつくつと笑いながら、ストーベルはきびすを返す。要件はたったそれだけだったらしい。ストーベルはドアノブに手をかけようとし、なぜかこちらを振り返る。

「そうだ、一つ聞きたいことができたのを思い出した」

 三日月のように弧を描く嫌な笑みに、じっとりと背中が汗ばむ。

「ミルテイユはお前の付き人から外したはずだが、お前が呼びつけているのか?」

その問いに鼓動が一つ、強く脈打つ。

「私はミルテイユにお前の世話を命じた覚えはない」

 思い出したなんて嘘だ。おそらく本当の要件はこれだと瞬時に察する。動揺を顔に出さないようにしながら、慎重に言葉を選ぶ。

「……私が呼びつけているのだとしたら何か?」

 あくまでも行動の起点を自分に置きながら、質問形式で返す。悪びれることもなく、付き人だった頃の感覚を当然だと思っているような素振りを装った。
 ストーベルはピクリと片方の眉を引きつらせ、大げさに肩を竦める。

「ミルテイユは忙しいのだ。頼みやすいのはわかるが、彼女のことも考えてやるべきだろう? お前は元当主候補だったのだ。上に立つ者は下々の者のことを考えてやらねばなるまい」

 それだけ言うと、さっさとストーベルは部屋からいなくなった。
 部下思いの至極しごく正論じみた言葉だが、そのままの意味でないことくらいわかる。怒りなどとうに消え失せていた。緊張が解け、どっと吹き出した冷や汗が頬を伝う。

 これはまぎれもない警告だ。胸の内が押し潰されていくような息苦しさに襲われ、全てが奪われていく現実に指先は冷え切って震える。

 ミュールは決断を迫られていた。それも早ければ早い方が良い。その日の夜はまともに眠ることもできなかった。


番外編 ハリボテ舞台の木偶デク人形(2)  終
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