前章─復讐の先に掴む未来は(1)
研究所の内部がにわかに騒がしくなる。アイゼアたちが遂に行動を起こしたのだろう。この混乱に乗じて手薄になった裏側から壁を越えて侵入することになっている。
スイウはその聳 え立つ壁を見上げた。壁の向こう側の気配が薄くなったのを見計らって二人に合図を送る。
隣にいたエルヴェは音もなく器用に軽々と壁の上に飛び乗り、投げナイフを下へ向けて放つ。少し遅れて質量のある何かが、ドサッと地面に落ちるような音が壁の向こう側からした。エルヴェはこちらを見下ろすと壁を越えても問題ないと合図を送ってくる。
「登れそうか?」
「いえ、登れないですね」
ただジッと上を向いているだけのメリーへと歩み寄る。やはりこの壁は普通の身体能力ではとても跳び越えられるものではない。風術か草術あたりが使えれば越えられたかもしれないが、炎霊族のメリーには使役できない属性だ。
「そうか」
事実を確認し最低限の返事を返すと、丸太を担ぐようにメリーを持ち上げる。体勢を落とし両足に力を込めた。地面を蹴るようにして、その脚力で一気に跳び上がる。
スイウは重力を物ともせず高く跳び、やすやすと壁を越えて落下していく。やがて羽のように音もなく降り立つと、肩に担いだ状態からメリーを解放した。
立ち上がり周囲を見渡すと、脳天を投げナイフに貫かれ絶命している敵の死体が三つ転がっていた。本来であれば侵入の発覚を遅らせるためにも、メリーに頼んで跡形もなく焼却処分していきたい。
魔術を使うことで魔力を感知されてしまえば、アイゼアたちを囮 にした意味もなくなってしまう。その辺の茂みにでも突っ込んでおくのが最適解だ。
「先を急ぎましょう」
エルヴェに促 され、スイウたちはそのまま速やかに研究所内へと侵入した。
無機質な廊下をひたすら突き進む。囮 へ引きつけられているおかげか、遭遇する敵の数は何とか対応しきれる程度に留まっている。
メリーが極力魔力を抑えた火球を飛ばし、それを拡散させる。魔術障壁を展開している間は魔術の使用ができない性質を利用し、相手の魔術を封じる。その隙にスイウとエルヴェが確実に敵を仕留めていく。狭い廊下での魔術の効果は絶大だ。
時にはメリーが障壁を展開し、主戦力のスイウとエルヴェを守りながら進む。スイウはこの区画の最後の一人にトドメを刺す寸前で刀を止めた。
この行動に出るのは、潜入してから実に四度目のことだった。目前まで迫る死の恐怖に顔を歪める敵へエルヴェが歩み寄る。
「申し訳ありません。貴方たちが連れ去った天族の女性が、どこに捕らえられているかご存知ないでしょうか?」
「天族なんて知らないっ」
恐怖を滲ませながらも抗うように睨みつけてくる。スイウは敵の首筋に刀の刃を這わせた。刃の触れた部分から鮮やかな赤が滲む。
「大人しく吐けば命は助けてやる」
そう脅しても口を割ろうとはしなかった。
「知っていても話すか! ストーベル様に逆らう愚か者はッ、ぐ……ぅぁっ……」
最後まで言葉を言い切る前にメリーの杖の切っ先が首筋へ深く刺さる。
「それ、聞き飽きたんですよね」
引き抜かれた杖の下部の尖形になった切っ先から赤い鮮血が滴る。敵はガクガクと体を痙攣 させながら血溜まりの中へと沈んだ。メリーが即座に反応するということは、魔力を感知したのだろう。
「聞き出すのはやっぱり無理そうですね」
構成員たちは皆、ストーベルの盲目的な信奉者ばかりのようだ。当然フィロメナの居場所を吐く者などいない。
「この広い研究所を端から端まで見ていくしかないのでしょうか?」
「そうですね。彼らにとってストーベルは絶対的な存在ですから、口を割らせるのは難しいかと」
メリーの言葉にスイウは面倒くささと若干の焦りを感じていた。時間ばかりがただいたずらに消費されていく感覚。ここまで来て何も得られず追い詰めきれない、という結果は冗談じゃない。
スイウの右目が持つ力……読心術を使うときか。だが使えばメリーの魔力は大幅に減少する。敵陣の中でそれを行うのは博打に近い。力を使うかはともかく、とにかく前へと進むしかない。
「最下層から探しませんか? 下から上へ探した方が最終的に脱出が楽になると思うんですけど……」
地下深くへ行くほど逃げ場も失い、脱出も厳しくなる。先に一気に最奥を目指し、そこから脱出も兼ねて上へと上がるのは悪くはない選択だ。
「心理的にもヤバいもんは奥に隠すだろうし、案外すんなり見つかるかもしれんな」
スイウが賛同したことで、早速近くにある階段から研究所の最下層である地下三階へ向かって下りていく。その途中、地下二階まで下りた所で突然メリーが足を止めた。スイウとエルヴェはその下の踊り場まで進んだ所で振り返る。
「メリー様?」
エルヴェの声は耳に入っていないのか、呆けた様子でジッと二階の廊下の方を見つめ続けている。
「ミュール兄さん……ミュール兄さんの気配がする」
そう呟くや否や、メリーは吸い寄せられるように地下二階の廊下へと走り出す。
「おいっ、待て!」
静止の声も届かず一人突っ走るメリーを慌てて追いかけた。ずっと追いかけてきた兄のミュールに対する思いが並大抵のものではないことは、今まで一緒に過ごしてきてよくわかっている。そして目的を目の前にすると途端に周囲が見えにくくなる悪癖があることも。
出遅れたせいかその背中はすでに遠い。これまでとは比べ物にならない程、がらんとした廊下をひた走る。妙だと感じつつも突き抜けていくメリーを追うしか選択肢はない。
メリーとの距離が少しずつ縮まってきたとき突如上から何かが降ってくる。仕方なく飛び退ると前方が分厚い壁に阻まれていた。力尽くで壁を上へ引き上げようと試みるも、さすがにびくともしない。この壁に潰されていたらただでは済まないだろう。その間にも壁の向こう側にいるメリーの気配は遠退いていく。
「この壁は……」
エルヴェは勝手に下りてきた壁に触れて観察した後、キョロキョロと周囲を見回し、珍しく険しい表情で目を細めた。
「スイウ様。これは罠かもしれません」
エルヴェの推測に緊張が走る。
「このタイミングでこの壁。侵入者に対してそうなるように設定されているか、私たちの動きが相手に見られている可能性があります」
「見る? どうやって見るんだ?」
周囲を見回しても敵の姿はなく、近くに気配も感じられない。
「あれです」
エルヴェは天井に取り付けられた魔工学装置を指差す。天井から伸びる丸い機材には撮影機材のようなレンズが取り付けられていた。
「一般的ではありませんが、前にあれによく似たものを見たことがあります」
少しずつ近づく複数の気配に警戒しつつスイウは振り返る。もう退路は断たれたも同然だった。
「おそらくあの装置でこちらの動きを観察しているのだと思います」
「ご明察。これはそのへんにあるような機材ではないのだが、見たことがあるとは……あなたは何者なのかな?」
若い男の声。メリーと同じ薄紅色の髪。違っているのは澄んだ氷のような水色の瞳だ。白いフードマントには、いつかメリーが突きつけていたピンバッジが輝いている。それだけでクランベルカ家の血を引く者だとわかる。
「フラフィスで潜り込んだネズミはあなた方だったみたいだ。報告通りの二人組ですね」
男は突然頭を下げる。
「メリーをここまで連れてきて下さったこと、兄として礼を言おう。だがあなた方にはここでお引き取り願いたい。素直に従っていただけるのであれば、このまま見逃して差し上げよう」
「カーラント様! 逃がしてもよろしいのですか?」
「えぇ。大人しく退いてくれるのであれば……だがね」
カーラントと呼ばれた男の提案は、到底受け入れられるものではなかった。スイウは別にメリーのためだけにここに来たわけではないのだ。グリモワールを奪還できなければ後退の二文字はない。
「私たちがこのまま引いたとして、メリー様をどうするおつもりですか?」
あくまでも冷静にエルヴェがカーラントへ尋ねる。
「そうだな、逆らうのであれば殺せという命令ではあったが、生きてここへ来てくれたのであれば殺してしまうよりは有益な結果が得られる。何と言っても彼女は様々な意味で逸材なのだよ。それはもう大切に大切に扱うつもりだ」
それが良い意味でないことは馬鹿でもわかる。退くわけにはいかないが、それでもここは大人しく従っておいた方が良いだろう。
「わかった。お前の話を聞き入れて素直に退いてやる」
「スイウ様っ!?」
エルヴェは驚いた顔でこちらを凝視する。そんな様子のエルヴェを宥めるようにスイウは言葉をかける。
「こんなん割に合わんだろ? ここまでは護衛してやったんだ。あとはメリーが勝手にやりゃ良い」
「ではフィロメナ様は?」
「ヘマしたフィロメナの責任だ。知るかよ」
困惑と失望に満ちたエルヴェの表情。迷っているように揺れる瞳がやがて決意に変わる。
「ではスイウ様はこのまま退いて下さい。私は最期まで二人を諦めるわけには参りません」
短刀に手をかけるエルヴェの手をスイウは制す。
「お前一人でここを抜けられると思うか? 冷静に考えろ。無駄に突っ込んで命を散らすのは馬鹿のやることだ。二人が死んでもお前は生きろ」
スイウは冷たくエルヴェを見下ろす。今までに見たことのないエルヴェの鋭い視線とぶつかり合う。お互い譲る様子もなく膠着 していたが、やがてエルヴェが諦めたように視線を足元へと逸らした。
「わかりました」
エルヴェの手が短刀から離れる。
「意見はまとまったのか。出口までは私が案内しよう」
カーラントはコツコツと靴底を鳴らしながら、優雅に階段へ続く入り口へと歩を進める。取り巻きの構成員たちも入り口の左右へと下がり、道が開かれる。
「ほら、行くぞ」
エルヴェを促し、自分の前を歩かせた。本当に素直に帰すつもりとは限らない。警戒は怠らずに入り口へ向かって歩く。エルヴェも警戒は怠っていないようだ。
そしてその警戒は正解だった。天井から現れた複数の機材から光線が射出され、エルヴェを抱えて前へと跳ぶ。
「これは……!」
「おや、これを避けるとは。大したものではないか」
そのまま勢いを殺さず入り口めがけて走る。不意打ちを狙って攻撃されることは想定の範囲内だ。そもそもスイウも撤退すると見せかけていただけにすぎない。本当に帰す馬鹿だろうが、そうでなかろうが、頃合いを見て不意打ちする予定だった。予定外だったのは、想定していたより早く攻撃を受けたことくらいか。構成員たちが武器を構え、入り口を塞ぐように立ち塞がり始める。
「スイウ様、私に考えがあります。私をここから逃して下さい。フィロメナ様とメリー様を救うためにも、私を信じていただけませんか」
「わかった」
「一人にしてしまい申し訳ありません」
「ハッ、何言ってんだ。一人で十分だ」
スイウは勢いを殺さず、ぐるりと回転し遠心力を利用してエルヴェを入り口めがけて放り投げる。エルヴェは短刀を一瞬で抜き放ち、切り払いながら入り口を突破する。そのまま階段の吹き抜け部を落下し、一瞬で姿が見えなくなった。
「追え!」
カーラントの声が廊下に響くと同時に、スイウは刀を抜き放った。この建物そのものが武器として機能している今、さすがに本気を出さなければ殺られる。
スイウは腹を括り、本来の力を発揮するため耳と尻尾を元通りに具現化させた。この状態を維持するには、通常より多くメリーの魔力を消費する。何としてでも短時間で決着をつけなくては。
カーラントの命令で入り口へと雪崩込む敵の背中を、冷気の斬撃を飛ばして両断する。大量に倒れる構成員たちの死体から血がとめどなく溢れ出す。その夥 しい量の血と、留めておけなくなった臓物で床はあっという間に汚れていった。
「おや、潜り込んだのはネズミではなく猫だったか」
「……上司の命令に忠実なのは感心するが、まさか敵に背を向けるとは。間抜けな最期だな」
スイウは今しがた死体となった構成員たちを鼻で嗤ってやった。
「あなたを見縊 っていたようだ。その獣の耳と尻尾、天族がいれば魔族もいるとは思っていたが、まさかあなたが魔族とは。黄昏の月は魔性の者に好かれやすいというのは本当のようだな」
一瞬で死体の山を築いたスイウに慄 く下っ端共とは違い、カーラントは興味深そうにスイウを眺める。
「それにしても魔族がここまで強いとは驚いた。死神と恐れられても何ら不思議はない」
ふふっと不敵に笑い、虚空から双剣を呼び出す。
「久々に楽しめそうで嬉しい限り。皆、援護を頼む」
機材からの光線、カーラントとその部下たちの魔術による攻撃が絶え間なくスイウに襲いかかる。前方だけでなく後方からも襲い来る攻撃に刀での防御では対処しきれない。腕を、足を、頬を攻撃が掠めては傷の修復を繰り返す。
「凄まじい回復速度……! あなたはとても素晴らしい研究対象なのだろうね」
カーラントの瞳がギラリと妖しく輝いた。本来の姿に戻っている分、メリーの魔力消費量は増えている。そんな中、修復に魔力を消費しながらの防戦では勝ち目がない、攻勢に出なくては。
光線が背中に直撃し体を貫通する。痛みに鈍感な体に焼け付くような感覚が走った。それを無視し、とにかくカーラントとの距離を一気に縮める。冷気の斬撃を飛ばし、すぐに刀に冷気を纏 わせる。斬撃が打ち払われると同時に、キラキラと白い霧が散っていく。その霧を突き抜ける刀をカーラントは双剣で受け止めた。反応は良い。刀から双剣へ冷気が伝わり、カーラントの手首までを一瞬で氷で固める。
そのまま腕を斬り飛ばそうと振るった刀は、寸前のところで受け止められ、氷も炎で一瞬で消え失せる。直後、飛び退って距離をとられた。周囲から敵が飛びかかり、その隙間を縫うように魔術攻撃が飛んでくる。
刀を突き立てて氷の矢を出現させ、四方八方へと放つ。敵は障壁を展開し、流れを崩されたことでぐだぐだになった。その隙をつき、防ぎきれなかった魔術に被弾しながらも、接近してきた敵を一人残らず斬っていく。瞬く間にスイウの周囲には死体が散らばった。
「おやおや、これは本当に手強い。部下たちがここまで一瞬で殺られてしまうとは」
敵と接近したことで背後からの光線は止んでいる。近距離を保ったまま戦えれば、目の前の敵に集中するだけで良さそうだ。僅かに勝ち目が見えてくる。スイウは思わず口角が上がるのを感じていた。
カーラントを見据え、狙いを定める。魔力消費を抑えるためにも、ここから一気にカタをつけたい。スイウは流れるように刀を構え、地面を蹴った。
第27話 潜入 終
スイウはその
隣にいたエルヴェは音もなく器用に軽々と壁の上に飛び乗り、投げナイフを下へ向けて放つ。少し遅れて質量のある何かが、ドサッと地面に落ちるような音が壁の向こう側からした。エルヴェはこちらを見下ろすと壁を越えても問題ないと合図を送ってくる。
「登れそうか?」
「いえ、登れないですね」
ただジッと上を向いているだけのメリーへと歩み寄る。やはりこの壁は普通の身体能力ではとても跳び越えられるものではない。風術か草術あたりが使えれば越えられたかもしれないが、炎霊族のメリーには使役できない属性だ。
「そうか」
事実を確認し最低限の返事を返すと、丸太を担ぐようにメリーを持ち上げる。体勢を落とし両足に力を込めた。地面を蹴るようにして、その脚力で一気に跳び上がる。
スイウは重力を物ともせず高く跳び、やすやすと壁を越えて落下していく。やがて羽のように音もなく降り立つと、肩に担いだ状態からメリーを解放した。
立ち上がり周囲を見渡すと、脳天を投げナイフに貫かれ絶命している敵の死体が三つ転がっていた。本来であれば侵入の発覚を遅らせるためにも、メリーに頼んで跡形もなく焼却処分していきたい。
魔術を使うことで魔力を感知されてしまえば、アイゼアたちを
「先を急ぎましょう」
エルヴェに
無機質な廊下をひたすら突き進む。
メリーが極力魔力を抑えた火球を飛ばし、それを拡散させる。魔術障壁を展開している間は魔術の使用ができない性質を利用し、相手の魔術を封じる。その隙にスイウとエルヴェが確実に敵を仕留めていく。狭い廊下での魔術の効果は絶大だ。
時にはメリーが障壁を展開し、主戦力のスイウとエルヴェを守りながら進む。スイウはこの区画の最後の一人にトドメを刺す寸前で刀を止めた。
この行動に出るのは、潜入してから実に四度目のことだった。目前まで迫る死の恐怖に顔を歪める敵へエルヴェが歩み寄る。
「申し訳ありません。貴方たちが連れ去った天族の女性が、どこに捕らえられているかご存知ないでしょうか?」
「天族なんて知らないっ」
恐怖を滲ませながらも抗うように睨みつけてくる。スイウは敵の首筋に刀の刃を這わせた。刃の触れた部分から鮮やかな赤が滲む。
「大人しく吐けば命は助けてやる」
そう脅しても口を割ろうとはしなかった。
「知っていても話すか! ストーベル様に逆らう愚か者はッ、ぐ……ぅぁっ……」
最後まで言葉を言い切る前にメリーの杖の切っ先が首筋へ深く刺さる。
「それ、聞き飽きたんですよね」
引き抜かれた杖の下部の尖形になった切っ先から赤い鮮血が滴る。敵はガクガクと体を
「聞き出すのはやっぱり無理そうですね」
構成員たちは皆、ストーベルの盲目的な信奉者ばかりのようだ。当然フィロメナの居場所を吐く者などいない。
「この広い研究所を端から端まで見ていくしかないのでしょうか?」
「そうですね。彼らにとってストーベルは絶対的な存在ですから、口を割らせるのは難しいかと」
メリーの言葉にスイウは面倒くささと若干の焦りを感じていた。時間ばかりがただいたずらに消費されていく感覚。ここまで来て何も得られず追い詰めきれない、という結果は冗談じゃない。
スイウの右目が持つ力……読心術を使うときか。だが使えばメリーの魔力は大幅に減少する。敵陣の中でそれを行うのは博打に近い。力を使うかはともかく、とにかく前へと進むしかない。
「最下層から探しませんか? 下から上へ探した方が最終的に脱出が楽になると思うんですけど……」
地下深くへ行くほど逃げ場も失い、脱出も厳しくなる。先に一気に最奥を目指し、そこから脱出も兼ねて上へと上がるのは悪くはない選択だ。
「心理的にもヤバいもんは奥に隠すだろうし、案外すんなり見つかるかもしれんな」
スイウが賛同したことで、早速近くにある階段から研究所の最下層である地下三階へ向かって下りていく。その途中、地下二階まで下りた所で突然メリーが足を止めた。スイウとエルヴェはその下の踊り場まで進んだ所で振り返る。
「メリー様?」
エルヴェの声は耳に入っていないのか、呆けた様子でジッと二階の廊下の方を見つめ続けている。
「ミュール兄さん……ミュール兄さんの気配がする」
そう呟くや否や、メリーは吸い寄せられるように地下二階の廊下へと走り出す。
「おいっ、待て!」
静止の声も届かず一人突っ走るメリーを慌てて追いかけた。ずっと追いかけてきた兄のミュールに対する思いが並大抵のものではないことは、今まで一緒に過ごしてきてよくわかっている。そして目的を目の前にすると途端に周囲が見えにくくなる悪癖があることも。
出遅れたせいかその背中はすでに遠い。これまでとは比べ物にならない程、がらんとした廊下をひた走る。妙だと感じつつも突き抜けていくメリーを追うしか選択肢はない。
メリーとの距離が少しずつ縮まってきたとき突如上から何かが降ってくる。仕方なく飛び退ると前方が分厚い壁に阻まれていた。力尽くで壁を上へ引き上げようと試みるも、さすがにびくともしない。この壁に潰されていたらただでは済まないだろう。その間にも壁の向こう側にいるメリーの気配は遠退いていく。
「この壁は……」
エルヴェは勝手に下りてきた壁に触れて観察した後、キョロキョロと周囲を見回し、珍しく険しい表情で目を細めた。
「スイウ様。これは罠かもしれません」
エルヴェの推測に緊張が走る。
「このタイミングでこの壁。侵入者に対してそうなるように設定されているか、私たちの動きが相手に見られている可能性があります」
「見る? どうやって見るんだ?」
周囲を見回しても敵の姿はなく、近くに気配も感じられない。
「あれです」
エルヴェは天井に取り付けられた魔工学装置を指差す。天井から伸びる丸い機材には撮影機材のようなレンズが取り付けられていた。
「一般的ではありませんが、前にあれによく似たものを見たことがあります」
少しずつ近づく複数の気配に警戒しつつスイウは振り返る。もう退路は断たれたも同然だった。
「おそらくあの装置でこちらの動きを観察しているのだと思います」
「ご明察。これはそのへんにあるような機材ではないのだが、見たことがあるとは……あなたは何者なのかな?」
若い男の声。メリーと同じ薄紅色の髪。違っているのは澄んだ氷のような水色の瞳だ。白いフードマントには、いつかメリーが突きつけていたピンバッジが輝いている。それだけでクランベルカ家の血を引く者だとわかる。
「フラフィスで潜り込んだネズミはあなた方だったみたいだ。報告通りの二人組ですね」
男は突然頭を下げる。
「メリーをここまで連れてきて下さったこと、兄として礼を言おう。だがあなた方にはここでお引き取り願いたい。素直に従っていただけるのであれば、このまま見逃して差し上げよう」
「カーラント様! 逃がしてもよろしいのですか?」
「えぇ。大人しく退いてくれるのであれば……だがね」
カーラントと呼ばれた男の提案は、到底受け入れられるものではなかった。スイウは別にメリーのためだけにここに来たわけではないのだ。グリモワールを奪還できなければ後退の二文字はない。
「私たちがこのまま引いたとして、メリー様をどうするおつもりですか?」
あくまでも冷静にエルヴェがカーラントへ尋ねる。
「そうだな、逆らうのであれば殺せという命令ではあったが、生きてここへ来てくれたのであれば殺してしまうよりは有益な結果が得られる。何と言っても彼女は様々な意味で逸材なのだよ。それはもう大切に大切に扱うつもりだ」
それが良い意味でないことは馬鹿でもわかる。退くわけにはいかないが、それでもここは大人しく従っておいた方が良いだろう。
「わかった。お前の話を聞き入れて素直に退いてやる」
「スイウ様っ!?」
エルヴェは驚いた顔でこちらを凝視する。そんな様子のエルヴェを宥めるようにスイウは言葉をかける。
「こんなん割に合わんだろ? ここまでは護衛してやったんだ。あとはメリーが勝手にやりゃ良い」
「ではフィロメナ様は?」
「ヘマしたフィロメナの責任だ。知るかよ」
困惑と失望に満ちたエルヴェの表情。迷っているように揺れる瞳がやがて決意に変わる。
「ではスイウ様はこのまま退いて下さい。私は最期まで二人を諦めるわけには参りません」
短刀に手をかけるエルヴェの手をスイウは制す。
「お前一人でここを抜けられると思うか? 冷静に考えろ。無駄に突っ込んで命を散らすのは馬鹿のやることだ。二人が死んでもお前は生きろ」
スイウは冷たくエルヴェを見下ろす。今までに見たことのないエルヴェの鋭い視線とぶつかり合う。お互い譲る様子もなく
「わかりました」
エルヴェの手が短刀から離れる。
「意見はまとまったのか。出口までは私が案内しよう」
カーラントはコツコツと靴底を鳴らしながら、優雅に階段へ続く入り口へと歩を進める。取り巻きの構成員たちも入り口の左右へと下がり、道が開かれる。
「ほら、行くぞ」
エルヴェを促し、自分の前を歩かせた。本当に素直に帰すつもりとは限らない。警戒は怠らずに入り口へ向かって歩く。エルヴェも警戒は怠っていないようだ。
そしてその警戒は正解だった。天井から現れた複数の機材から光線が射出され、エルヴェを抱えて前へと跳ぶ。
「これは……!」
「おや、これを避けるとは。大したものではないか」
そのまま勢いを殺さず入り口めがけて走る。不意打ちを狙って攻撃されることは想定の範囲内だ。そもそもスイウも撤退すると見せかけていただけにすぎない。本当に帰す馬鹿だろうが、そうでなかろうが、頃合いを見て不意打ちする予定だった。予定外だったのは、想定していたより早く攻撃を受けたことくらいか。構成員たちが武器を構え、入り口を塞ぐように立ち塞がり始める。
「スイウ様、私に考えがあります。私をここから逃して下さい。フィロメナ様とメリー様を救うためにも、私を信じていただけませんか」
「わかった」
「一人にしてしまい申し訳ありません」
「ハッ、何言ってんだ。一人で十分だ」
スイウは勢いを殺さず、ぐるりと回転し遠心力を利用してエルヴェを入り口めがけて放り投げる。エルヴェは短刀を一瞬で抜き放ち、切り払いながら入り口を突破する。そのまま階段の吹き抜け部を落下し、一瞬で姿が見えなくなった。
「追え!」
カーラントの声が廊下に響くと同時に、スイウは刀を抜き放った。この建物そのものが武器として機能している今、さすがに本気を出さなければ殺られる。
スイウは腹を括り、本来の力を発揮するため耳と尻尾を元通りに具現化させた。この状態を維持するには、通常より多くメリーの魔力を消費する。何としてでも短時間で決着をつけなくては。
カーラントの命令で入り口へと雪崩込む敵の背中を、冷気の斬撃を飛ばして両断する。大量に倒れる構成員たちの死体から血がとめどなく溢れ出す。その
「おや、潜り込んだのはネズミではなく猫だったか」
「……上司の命令に忠実なのは感心するが、まさか敵に背を向けるとは。間抜けな最期だな」
スイウは今しがた死体となった構成員たちを鼻で嗤ってやった。
「あなたを
一瞬で死体の山を築いたスイウに
「それにしても魔族がここまで強いとは驚いた。死神と恐れられても何ら不思議はない」
ふふっと不敵に笑い、虚空から双剣を呼び出す。
「久々に楽しめそうで嬉しい限り。皆、援護を頼む」
機材からの光線、カーラントとその部下たちの魔術による攻撃が絶え間なくスイウに襲いかかる。前方だけでなく後方からも襲い来る攻撃に刀での防御では対処しきれない。腕を、足を、頬を攻撃が掠めては傷の修復を繰り返す。
「凄まじい回復速度……! あなたはとても素晴らしい研究対象なのだろうね」
カーラントの瞳がギラリと妖しく輝いた。本来の姿に戻っている分、メリーの魔力消費量は増えている。そんな中、修復に魔力を消費しながらの防戦では勝ち目がない、攻勢に出なくては。
光線が背中に直撃し体を貫通する。痛みに鈍感な体に焼け付くような感覚が走った。それを無視し、とにかくカーラントとの距離を一気に縮める。冷気の斬撃を飛ばし、すぐに刀に冷気を
そのまま腕を斬り飛ばそうと振るった刀は、寸前のところで受け止められ、氷も炎で一瞬で消え失せる。直後、飛び退って距離をとられた。周囲から敵が飛びかかり、その隙間を縫うように魔術攻撃が飛んでくる。
刀を突き立てて氷の矢を出現させ、四方八方へと放つ。敵は障壁を展開し、流れを崩されたことでぐだぐだになった。その隙をつき、防ぎきれなかった魔術に被弾しながらも、接近してきた敵を一人残らず斬っていく。瞬く間にスイウの周囲には死体が散らばった。
「おやおや、これは本当に手強い。部下たちがここまで一瞬で殺られてしまうとは」
敵と接近したことで背後からの光線は止んでいる。近距離を保ったまま戦えれば、目の前の敵に集中するだけで良さそうだ。僅かに勝ち目が見えてくる。スイウは思わず口角が上がるのを感じていた。
カーラントを見据え、狙いを定める。魔力消費を抑えるためにも、ここから一気にカタをつけたい。スイウは流れるように刀を構え、地面を蹴った。
第27話 潜入 終