前章─復讐の先に掴む未来は(1)
──破滅を齎 す魔書『グリモワール』
人の欲望を満たす代償としてその魂を喰らい力を蓄える。
魂を喰われ、心を闇に染め変えられた者の魂は死んでいく。
だが、尚も生き続ける体は蝕まれ魔物と化した。
その成れの果てはまるで失った魂を求めるように人々を襲い始める。
人の薄汚れた欲望は世界の破滅を加速させるのだ。──
ティム・パーシング著『終焉の黄昏と世界の再誕』
第三章「魂を喰らう魔書」より抜粋。
広場には多くの怪我人が倒れている。人手不足なのか騎士たちだけでなく、比較的怪我の軽い者も重症者の治療にあたっているようだ。フィロメナは近くの怪我の重い女性のそばへと降り立つ。
「大丈夫よ、すぐに治してあげるから」
痛みに顔を歪める女性の傷の上に手のひらをかざす。魔力を集中させ、女性の生命力に働きかける。怪我を治癒するだけの体力が残っていたおかげか、女性の傷口はみるみるうちに塞がっていった。
「て、天使様だ……! 天使様が助けに来てくれた!」
近くにいた男が歓喜の声をあげると周囲の視線がフィロメナへと集まり、瞬く間に取り囲まれてしまう。
父を、母を、娘を、息子を、妻を、夫を、兄弟を、友人を……
数えきれない程の助けを求める声がフィロメナへと浴びせられる。救いたいという思いだけは逸るのに、囲まれていて思うように身動きが取れないのがもどかしい。
「どいてくれないと治療がっ……」
ならこっちへ、いやこっちだ、と言い争う声と共に、無数の手がフィロメナへと伸びてくる。取り合うようにいろんな方向へ引かれ、腕に痛みが走る。その力は段々と強まり、もがれそうなほどだ。
それぞれが大切な人を助けたい一心で縋りついてくる。みんなを助けたい、少しでも多くの人を。そう強く思って駆けつけた。だが自分は引っ張られて何もできず、他の救護の手すらも止めてしまっている。
こんなはずじゃなかった。そう叫びたい気持ちをぐっと堪える。そんな責任逃れの発言は許されない。行動には責任が伴う。それを知らないほど愚かではないつもりだ。
『そんなもん使ってみろ。この場が混乱するだけだ』
振り切ってきたはずのスイウの警告の意味が、今になって理解できた。天族であることが知られることを心配していただけではなかったのだ。
それを予測できなかった自分の浅はかさと同時に、ならどうすれば騒ぎを起こさずに救護できたのだろうか、とも思う。アイゼアを待てば、治癒術を使わせてくれたという保証はない。天族の存在を隠すため、止められた可能性は十分にある。
「何事だ、救護はどうした?」
集った群衆をかき分け、一人の騎士がフィロメナの前までやって来た。寄せた波が返すように、掴まれていた手が離れていく。
「ウィルさん、天使様が助けに来てくれたんです」
「天使様?」
ウィルと呼ばれた壮年の騎士はまじまじのフィロメナを眺め、その翼を食い入るように凝視した。
「まったく君は……僕が戻るまでは待機ってお願いしたはずじゃないか」
ウィルの後ろから顔を引き攣らせたアイゼアと心配そうに顔を出すエルヴェが見えた。
「ウィル、フィロメナは天族だから治癒術が使える。彼女への指示はお願いして良いかい?」
「はぁ? 天族ぅ? それはおとぎ話の……いやまぁいい、この際事情は後回しだ。とにかくわかった。治癒術が使えるんだな、治癒術……」
ウィルはアイゼアへ返事を返すと、改まった様子でこちらへ向き直る。
「みんな聞いてくれ。彼女には重症者、子供から優先的に診てもらう。救護順は俺が決めるから、みんなは負傷者の手当てに戻ってくれ」
ウィルは街の人々に厚く信頼されているのか、それまでの混乱が嘘のように元へと戻っていく。この状況下で騒動を鎮めるのが簡単でないことくらいはフィロメナでもわかる。
「キーラ、引き続き重症度の識別を頼む」
「はっ」
「アイゼア、西区の救助が終わってない。怪我人を広場へ運ぶのと救護を頼みたい」
「了解。エルヴェ、僕らはとりあえず怪我人を運ぼう」
「承知いたしました」
傍らに立つ堅物そうな女性騎士が指示を受け持ち場へ、アイゼアたちもメリーたちと会話したあと、西区へ続く通りへと消えていく。
「お嬢さん、見ての通りスティータはこの有様だ。力を貸してほしい」
「えぇ、勿論よ。そのために来たんだから!」
ウィルは軽く頭を下げて礼をすると、すぐに重症者の集められている区画へと案内してくれた。
だがそこで待ち受けていたのは想像を超えるものだった。体の一部がない者、腹を裂かれ内臓が溢れている者、自身の血の中に沈んでいる者。一目見ただけでも、もう助からないとわかるような人も多く集まっていた。
ウィルが最初にお願いしてきた少年も、右足が太もものあたりでなくなっており、体中に夥しい数の傷があった。その周囲には血溜まりができている。痛みに苦悶の表情を浮かべ、言葉にならない声が小さく漏れている。出血量からしても、まだ息があるのが不思議なくらいだ。
地面に膝をついて手をかざし施術を始めたが、少年の傷は全く塞がる様子がない。もう治癒術が働きかけて修復できるほどの生命力も体力も残されていないのだろう。助からないことを伝えるのは心苦しいが、それも自分の勤めだと腹を括る。
「ごめんなさい。治癒術は万能じゃないの。この子は生命力が落ち過ぎてて、術をかけても傷が治ってこないわ」
フィロメナはウィルを見上げ、首を横に振った。手遅れだとウィルはすぐに察する。
「そうか。次にいくしか……」
「待って下さい! 息子はまだ生きてるんです……もう少しだけお願いしますっ!」
少年の父親らしき男がフィロメナの両腕を掴み、縋る。
「ダンさん落ち着いて」
「お願いします 息子を救って下さいっ!! こんなに苦しんでいるのに」
半ば錯乱状態の男をウィルは必死で宥めるが、男のフィロメナを掴む手は一向に緩まることがない。見捨てないでくれ、見捨てないでくれ、助からないのならせめて痛みだけでもとってやってくれ、と何度も何度も懇願 される。
助けたい。
助けたい思いはフィロメナにだってある。だが自分の力ではもう救えないのが現実だった。それがどうしようもなく悔しくて堪らない。悔しさに震えそうになり、拳に爪を立てる。せめて痛みだけでも何とかならないか、やってみよう。
「わかったわ。もう少しだけ──
試みてみる、そう言おうとして言えなかった。
フィロメナと男の間に、にょきっと水晶が現れる。蒼氷の水晶に険しい表情の自分が映り込んでいた。
「魔力と時間は有限ですよ」
「メリー……」
水晶の杖の持ち主を見上げ、その名が漏れる。隣にはスイウもいた。
「あんた何なんだっ。息子を見殺しにするのか!!」
「あぁ、そうだ。助からんものは助からん」
「ちょっとスイウ、あんたっ」
スイウの心無い発言に反射的に反論しようとすると、凍りついたような冷たい目がジロリとフィロメナを見下ろす。面倒くさそうに見られることは今まで何度もあったが、射殺すような視線を向けられたのは初めてだった。
黙ってろ、とその目が言っている。フィロメナは気圧され、それ以上言葉を発することができなかった。スイウの視線がじろりと男へ戻る。
「お前がそうやって食い下がってる間に、死人が増え続けてることはどうも思わんのか。中には助かるヤツもいるんだろうに」
スイウの客観的な正論が男の心を鋭く抉る。あえて男の良心を苛 むような言葉を選んでいるようだった。あまりにも冷たく温度のない言葉だが、それは紛れもなく目の前にある現実でもあった。
男は目を見開くと、それ以上何も言い返せず泣き崩れる。掴まれていた手がするりと力なく離れていく。
少年へ目を向けると、傍らでメリーが何か魔術をかけていた。治癒術は天族にしか使えないはずだが、横たわる少年はその傷に見合わない穏やかな表情へと変わる。先程までの苦悶の表情が嘘のようだった。
「痛みを感じないように幻術をかけました」
光術で幻覚を見せることで、現実の痛みとは切り離された状態になっているのだろう。男は涙でぐしゃぐしゃになった顔をメリーへと向ける。
「手を握ってあげてください。たぶん息子さんもわかると思いますから」
男が恐る恐るその手を握ると、少年は嬉しそうに微笑んだ。意識は幻覚の中にあっても、その手の温もりが父親のものであることがわかるのだろう。
「フィロメナさん、一人でも多くの人を救いたいなら早く行ってください。ここは私が何とかしますから」
その真剣な瞳にフィロメナは強く頷いた。アイゼアやエルヴェだけでなく、メリーとスイウも協力してくれている。たとえ助けられない人がいたとしても、治癒術を必要としている人はまだ他にたくさんいる。
助けられる人がいるなら手を差し伸べ続ける。天族は秩序のために、天使は人々を救うために。今自分にできる最大限のことをして応えたい。
変えられるのは今と未来。多くの未来を取り戻すためにも、救えないものを嘆いてる時間は今はない。
「お嬢さん、行こう」
ウィルに促され、フィロメナは次の怪我人の元へと行く。息子の名前を何度も呼ぶ男の声を背中で聞きながら──
第24話 惨劇の葬送行進曲 (1) 終
人の欲望を満たす代償としてその魂を喰らい力を蓄える。
魂を喰われ、心を闇に染め変えられた者の魂は死んでいく。
だが、尚も生き続ける体は蝕まれ魔物と化した。
その成れの果てはまるで失った魂を求めるように人々を襲い始める。
人の薄汚れた欲望は世界の破滅を加速させるのだ。──
ティム・パーシング著『終焉の黄昏と世界の再誕』
第三章「魂を喰らう魔書」より抜粋。
広場には多くの怪我人が倒れている。人手不足なのか騎士たちだけでなく、比較的怪我の軽い者も重症者の治療にあたっているようだ。フィロメナは近くの怪我の重い女性のそばへと降り立つ。
「大丈夫よ、すぐに治してあげるから」
痛みに顔を歪める女性の傷の上に手のひらをかざす。魔力を集中させ、女性の生命力に働きかける。怪我を治癒するだけの体力が残っていたおかげか、女性の傷口はみるみるうちに塞がっていった。
「て、天使様だ……! 天使様が助けに来てくれた!」
近くにいた男が歓喜の声をあげると周囲の視線がフィロメナへと集まり、瞬く間に取り囲まれてしまう。
父を、母を、娘を、息子を、妻を、夫を、兄弟を、友人を……
数えきれない程の助けを求める声がフィロメナへと浴びせられる。救いたいという思いだけは逸るのに、囲まれていて思うように身動きが取れないのがもどかしい。
「どいてくれないと治療がっ……」
ならこっちへ、いやこっちだ、と言い争う声と共に、無数の手がフィロメナへと伸びてくる。取り合うようにいろんな方向へ引かれ、腕に痛みが走る。その力は段々と強まり、もがれそうなほどだ。
それぞれが大切な人を助けたい一心で縋りついてくる。みんなを助けたい、少しでも多くの人を。そう強く思って駆けつけた。だが自分は引っ張られて何もできず、他の救護の手すらも止めてしまっている。
こんなはずじゃなかった。そう叫びたい気持ちをぐっと堪える。そんな責任逃れの発言は許されない。行動には責任が伴う。それを知らないほど愚かではないつもりだ。
『そんなもん使ってみろ。この場が混乱するだけだ』
振り切ってきたはずのスイウの警告の意味が、今になって理解できた。天族であることが知られることを心配していただけではなかったのだ。
それを予測できなかった自分の浅はかさと同時に、ならどうすれば騒ぎを起こさずに救護できたのだろうか、とも思う。アイゼアを待てば、治癒術を使わせてくれたという保証はない。天族の存在を隠すため、止められた可能性は十分にある。
「何事だ、救護はどうした?」
集った群衆をかき分け、一人の騎士がフィロメナの前までやって来た。寄せた波が返すように、掴まれていた手が離れていく。
「ウィルさん、天使様が助けに来てくれたんです」
「天使様?」
ウィルと呼ばれた壮年の騎士はまじまじのフィロメナを眺め、その翼を食い入るように凝視した。
「まったく君は……僕が戻るまでは待機ってお願いしたはずじゃないか」
ウィルの後ろから顔を引き攣らせたアイゼアと心配そうに顔を出すエルヴェが見えた。
「ウィル、フィロメナは天族だから治癒術が使える。彼女への指示はお願いして良いかい?」
「はぁ? 天族ぅ? それはおとぎ話の……いやまぁいい、この際事情は後回しだ。とにかくわかった。治癒術が使えるんだな、治癒術……」
ウィルはアイゼアへ返事を返すと、改まった様子でこちらへ向き直る。
「みんな聞いてくれ。彼女には重症者、子供から優先的に診てもらう。救護順は俺が決めるから、みんなは負傷者の手当てに戻ってくれ」
ウィルは街の人々に厚く信頼されているのか、それまでの混乱が嘘のように元へと戻っていく。この状況下で騒動を鎮めるのが簡単でないことくらいはフィロメナでもわかる。
「キーラ、引き続き重症度の識別を頼む」
「はっ」
「アイゼア、西区の救助が終わってない。怪我人を広場へ運ぶのと救護を頼みたい」
「了解。エルヴェ、僕らはとりあえず怪我人を運ぼう」
「承知いたしました」
傍らに立つ堅物そうな女性騎士が指示を受け持ち場へ、アイゼアたちもメリーたちと会話したあと、西区へ続く通りへと消えていく。
「お嬢さん、見ての通りスティータはこの有様だ。力を貸してほしい」
「えぇ、勿論よ。そのために来たんだから!」
ウィルは軽く頭を下げて礼をすると、すぐに重症者の集められている区画へと案内してくれた。
だがそこで待ち受けていたのは想像を超えるものだった。体の一部がない者、腹を裂かれ内臓が溢れている者、自身の血の中に沈んでいる者。一目見ただけでも、もう助からないとわかるような人も多く集まっていた。
ウィルが最初にお願いしてきた少年も、右足が太もものあたりでなくなっており、体中に夥しい数の傷があった。その周囲には血溜まりができている。痛みに苦悶の表情を浮かべ、言葉にならない声が小さく漏れている。出血量からしても、まだ息があるのが不思議なくらいだ。
地面に膝をついて手をかざし施術を始めたが、少年の傷は全く塞がる様子がない。もう治癒術が働きかけて修復できるほどの生命力も体力も残されていないのだろう。助からないことを伝えるのは心苦しいが、それも自分の勤めだと腹を括る。
「ごめんなさい。治癒術は万能じゃないの。この子は生命力が落ち過ぎてて、術をかけても傷が治ってこないわ」
フィロメナはウィルを見上げ、首を横に振った。手遅れだとウィルはすぐに察する。
「そうか。次にいくしか……」
「待って下さい! 息子はまだ生きてるんです……もう少しだけお願いしますっ!」
少年の父親らしき男がフィロメナの両腕を掴み、縋る。
「ダンさん落ち着いて」
「お願いします 息子を救って下さいっ!! こんなに苦しんでいるのに」
半ば錯乱状態の男をウィルは必死で宥めるが、男のフィロメナを掴む手は一向に緩まることがない。見捨てないでくれ、見捨てないでくれ、助からないのならせめて痛みだけでもとってやってくれ、と何度も何度も
助けたい。
助けたい思いはフィロメナにだってある。だが自分の力ではもう救えないのが現実だった。それがどうしようもなく悔しくて堪らない。悔しさに震えそうになり、拳に爪を立てる。せめて痛みだけでも何とかならないか、やってみよう。
「わかったわ。もう少しだけ──
試みてみる、そう言おうとして言えなかった。
フィロメナと男の間に、にょきっと水晶が現れる。蒼氷の水晶に険しい表情の自分が映り込んでいた。
「魔力と時間は有限ですよ」
「メリー……」
水晶の杖の持ち主を見上げ、その名が漏れる。隣にはスイウもいた。
「あんた何なんだっ。息子を見殺しにするのか!!」
「あぁ、そうだ。助からんものは助からん」
「ちょっとスイウ、あんたっ」
スイウの心無い発言に反射的に反論しようとすると、凍りついたような冷たい目がジロリとフィロメナを見下ろす。面倒くさそうに見られることは今まで何度もあったが、射殺すような視線を向けられたのは初めてだった。
黙ってろ、とその目が言っている。フィロメナは気圧され、それ以上言葉を発することができなかった。スイウの視線がじろりと男へ戻る。
「お前がそうやって食い下がってる間に、死人が増え続けてることはどうも思わんのか。中には助かるヤツもいるんだろうに」
スイウの客観的な正論が男の心を鋭く抉る。あえて男の良心を
男は目を見開くと、それ以上何も言い返せず泣き崩れる。掴まれていた手がするりと力なく離れていく。
少年へ目を向けると、傍らでメリーが何か魔術をかけていた。治癒術は天族にしか使えないはずだが、横たわる少年はその傷に見合わない穏やかな表情へと変わる。先程までの苦悶の表情が嘘のようだった。
「痛みを感じないように幻術をかけました」
光術で幻覚を見せることで、現実の痛みとは切り離された状態になっているのだろう。男は涙でぐしゃぐしゃになった顔をメリーへと向ける。
「手を握ってあげてください。たぶん息子さんもわかると思いますから」
男が恐る恐るその手を握ると、少年は嬉しそうに微笑んだ。意識は幻覚の中にあっても、その手の温もりが父親のものであることがわかるのだろう。
「フィロメナさん、一人でも多くの人を救いたいなら早く行ってください。ここは私が何とかしますから」
その真剣な瞳にフィロメナは強く頷いた。アイゼアやエルヴェだけでなく、メリーとスイウも協力してくれている。たとえ助けられない人がいたとしても、治癒術を必要としている人はまだ他にたくさんいる。
助けられる人がいるなら手を差し伸べ続ける。天族は秩序のために、天使は人々を救うために。今自分にできる最大限のことをして応えたい。
変えられるのは今と未来。多くの未来を取り戻すためにも、救えないものを嘆いてる時間は今はない。
「お嬢さん、行こう」
ウィルに促され、フィロメナは次の怪我人の元へと行く。息子の名前を何度も呼ぶ男の声を背中で聞きながら──
第24話 惨劇の