後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す
「スイウー、遊びに来たわよー!」
数歩先を歩くフィロメナがよく通る声で森の奥へと呼びかける。
セントゥーロ王国の王都サントルーサの東、イルシーの森。ここは北にあるヴェッラの森と合わせて幻想の森と呼ばれる迷いの森として有名な場所だ。
スイウを無事に連れ戻せたとメリーとフィロメナから連絡をもらい、アイゼアは旅をしていた四人でこの森を訪れていた。詳しい話はしてくれなかったが妖魔として召喚する際に、メリーへ渡した手土産の花を使ったらしい。
あの花は騎士仲間に任務のついでに頼んで採ってきてもらったもので、このイルシーの森のものだった。そのためかスイウはこの森を守護する妖魔として、ここを拠点にすることになったのだとか。
森の奥から何かが近づいてくる気配がし、アイゼアは目を凝らす。木々の隙間の暗がりから、成猫くらいの大きさの黒猫が溶け出すようにして姿を現した。
その黒猫の目つきは鋭く月のような色をしており、片目に小さな眼帯をしている。首には可愛らしい生成り色のマフラーまで巻いていた。
あまりにも知っている人物と特徴が酷似しすぎており、アイゼアは混乱する。もしや仕事疲れで幻覚でも見ているのではないかと目を擦ってもみたが、目の前の黒猫は相変わらずそこにいた。
「いや、え? これ……もしかしなくてもスイウだったりする?」
いやまさかそんな……などど狼狽 えるアイゼアに
「もしかしなくてもそうです」
というメリーの言葉がトドメを刺した。
「おい、早く魔力で人の姿に戻せ」
それなりに愛嬌のある黒猫から、なんとも似つかわしくない愛想のない声がする。それは紛れもなくスイウの声だった。
メリーはスイウの申し出を快諾すると、魔力を注ぐように手をかざす。
その猫はくるりと高く跳び上がって後ろ向きに宙返りし、地に足が着く頃にはアイゼアにとっても馴染み深いあのスイウの姿に戻っていた。
「ったく、夜に来いっつっただろ」
「昼の姿も見せておかないと、アイゼアさんとエルヴェさんが昼に訪ねたとき困っちゃうじゃないですか」
「昼は死んでるってことにでもしとけ」
相変わらずの無愛想っぷりと先程の可愛らしい姿の落差にアイゼアは思わず笑いが堪 えられず吹き出す。さすがに限界である。
「アイゼア、お前ぇ……」
「くっ、ふふ……いや、不意打ちした……スイウが悪っ……あははっ」
スイウから凄まじい圧のある視線を送られても、この笑いは全く収まってくれそうにない。狡い、卑怯だ。笑われたくないなら先に言っておいてほしい。こちらもそれなりに心の準備というものが必要だ。だからといって絶対笑わないという保証はできないが。
「こんな姿にしやがって……」
スイウが恨めしそうにメリーを睨 むが、メリーはその視線を意にも介さず半眼でスイウを見ながら、満足げに笑みを深くする。
「私を怒らせたのが悪いんですよ。地の果てでも地獄の果てでも追いかけますからね。勝ち逃げなんてさせませんよ」
「……お前が言うと本当に洒落 にならんな」
スイウの言葉の通り、メリーを本気で怒らせない方が良いだろう。ストーベルを殺すため、そしてスイウを救うため、文字通り世界の果ての向こう側まで追いかけていって成し遂げてしまった人だ。その胆力は尋常ではなく、本当に洒落 にならない。
がっくりと肩を落とすスイウに蓋 付きのバスケットを差し出し、エルヴェが「スイウ様」と嬉しそうに見上げる。
「またお会いできて私はとても嬉しいです! スイウ様の好きなドライフルーツで焼き菓子も焼いてきました。後で一緒に食べましょう」
無垢な笑顔を向けるエルヴェに毒気を抜かれたのか、スイウはじとっとした鋭い目を僅かに丸くし、一つ大きなため息をついた。
森の奥深く、小さな泉のある場所まで案内された。その傍らに小さな小屋が建てられており、この森に棲 む妖魔に頼んで建てたとスイウは言う。やはりこの森を守護する妖魔になったというだけあって道に迷うこともなければ、妖魔との交流も図れるようだ。
とにかくこの場所は、スイウが導いてくれなければなかなか辿り着ける場所ではないだろう。泉の畔 に腰を下ろし、エルヴェが持ってきてくれていた軽食を頬張る。
話は自然とこれからどうするのかという話題へと変わっていった。
アイゼアは早速『専属傭兵』をやらないかと四人に打診した。
セントゥーロ王国の騎士団には専属傭兵という制度がある。一定の実績と実力、条件を満たした騎士の推薦があれば登録ができ、騎士団からの任務や依頼が斡旋 されてくる。アイゼアのような単身で動く特務騎士は専属傭兵に依頼をして動いてもらうことも多い。
皆が登録されていれば信頼できる人に依頼できるという利点ももちろんあるが、帰るべき場所というもののない四人に何かしら社会との繋がりや居場所のようなものを作れないかと考えた。その打診はスイウ以外には快く受け入れてもらえた。
メリーは専属傭兵の登録をし、魔法薬を売りながらサントルーサに定住することを考えているらしい。カーラントが引き継ぎを終え、少ししたらセントゥーロへ戻ってくるというのも理由の一つだと言っていた。
もうあの国に「クランベルカ」は必要ない、元クランベルカ領に至っては逆にクランベルカの存在は邪魔になってくると彼女は語る。
新領主を立てたのであれば頭は二つも要らない。体制がある程度整ったなら変えていくのは国の中枢を担う者たちと、個々人の意識や努力の問題だろう、と。そして何より、自分があの国に留まる意味がないとも言っていた。
領主の補佐をしている期間にメリーはメリーなりに物事を見聞きし、感じ、考えていたようだった。
スイウはこの森の守護と周辺の監視を冥王から言い渡されてこちらへ来た。
スイウの存在は妖魔であり、契約は結んでいないが半分はメリーの使い魔……とはまた少し違うらしいが、とにかく何かそういう複雑な存在らしい。魔術に詳しくない自分には全くよくわからない次元の話であったということだけは言える。
これからも気が向いたときだけ力を貸してやる、と言ってくれるスイウは少しだけ頼もしい。
メリーはこの泉の近くにミュールとフランの墓を建てると意気込み、スイウは「俺は森番であって墓守じゃない」と眉間にシワを寄せていた。
エルヴェはベジェの復興の後、騎士団の食堂で働いている。だからこれからもこの仕事を続けるのだと目を輝かせていた。
料理も上手く、片付けまで手際のいいエルヴェはその人柄も相俟って、食堂で働く人たちからもすぐに信頼されていった。多くの騎士と関わり、会話し、喜んでもらえるこの仕事はある意味天職なのかもしれない。
彼が来てから食堂のメニューが充実し、更に美味しくなったと評判になっている。昼夜を問わず、いつもどんなときでも優しく微笑みかけてくれるエルヴェを癒しにしている騎士も出てきているほどだ。食堂の天使などと呼ばれ、熱い信奉者を生み出していることを彼は知らない。
フィロメナは天界と地上界を繋ぐ伝令と監視の役目を負っている。堕天をして天界へ帰れなくなっても、一応天族の管轄下にあるようだ。
人々の生活に溶け込み、異常事態を天界へ報告したり、魔物の動きを監視しているらしい。専属傭兵だけでは収入が安定しないので、人の社会に溶け込んで暮らしていくために仕事を探さないと、とも言っていた。
自分はといえば、相変わらず騎士として日々奔走してくことになるだろう。以前と変わったことは、ストーベルを止めた功績を認められて階級が一つ上がったことくらいだろうか。
神頼みや運命論は好きではないが、種族も境遇も、住む世界すらも違ったこの五人が、あの旅の中で偶然出会ったことには何か運命めいたものを感じていた。苦楽を共にし、時にぶつかり、そして支え合って乗り越えてきた。
誰一人欠けることなく、こうして今も共に過ごせている喜びをアイゼアは噛み締める。
大切な仲間たちと共に生き、穏やかで楽しいひとときを重ねていけるなら、それはどんなに幸せなことだろうか。まだ見ぬ未来が明るいものであるようにと思いを馳せながら、焼き菓子に手を伸ばした。
誰しもが何かの境界線に立たされている。どちらにも属せず迷い、もがき、苦悩している。
望まれないと知りながら、それでも守るために命をかけて。
一人で十分だと言いながら、繋がった縁に助けられてしまって。
高潔でありたいのに、拭えない汚れを仮面で覆い隠して。
一緒に生きていきたいのに、置いていかれてしまうことが怖くて。
何が正義で、何が悪なのか、真の正しさが何なのかわからなくて。
何度も選択を迫られ、時に後悔しながらも、明日を掴もうと懸命に手を伸ばす。そんな不完全で不器用に生きる、愛すべき者たちへ捧ぐ。
境界線に立つ者たちへ。
最終話 黒き猫と幻の森 終
数歩先を歩くフィロメナがよく通る声で森の奥へと呼びかける。
セントゥーロ王国の王都サントルーサの東、イルシーの森。ここは北にあるヴェッラの森と合わせて幻想の森と呼ばれる迷いの森として有名な場所だ。
スイウを無事に連れ戻せたとメリーとフィロメナから連絡をもらい、アイゼアは旅をしていた四人でこの森を訪れていた。詳しい話はしてくれなかったが妖魔として召喚する際に、メリーへ渡した手土産の花を使ったらしい。
あの花は騎士仲間に任務のついでに頼んで採ってきてもらったもので、このイルシーの森のものだった。そのためかスイウはこの森を守護する妖魔として、ここを拠点にすることになったのだとか。
森の奥から何かが近づいてくる気配がし、アイゼアは目を凝らす。木々の隙間の暗がりから、成猫くらいの大きさの黒猫が溶け出すようにして姿を現した。
その黒猫の目つきは鋭く月のような色をしており、片目に小さな眼帯をしている。首には可愛らしい生成り色のマフラーまで巻いていた。
あまりにも知っている人物と特徴が酷似しすぎており、アイゼアは混乱する。もしや仕事疲れで幻覚でも見ているのではないかと目を擦ってもみたが、目の前の黒猫は相変わらずそこにいた。
「いや、え? これ……もしかしなくてもスイウだったりする?」
いやまさかそんな……などど
「もしかしなくてもそうです」
というメリーの言葉がトドメを刺した。
「おい、早く魔力で人の姿に戻せ」
それなりに愛嬌のある黒猫から、なんとも似つかわしくない愛想のない声がする。それは紛れもなくスイウの声だった。
メリーはスイウの申し出を快諾すると、魔力を注ぐように手をかざす。
その猫はくるりと高く跳び上がって後ろ向きに宙返りし、地に足が着く頃にはアイゼアにとっても馴染み深いあのスイウの姿に戻っていた。
「ったく、夜に来いっつっただろ」
「昼の姿も見せておかないと、アイゼアさんとエルヴェさんが昼に訪ねたとき困っちゃうじゃないですか」
「昼は死んでるってことにでもしとけ」
相変わらずの無愛想っぷりと先程の可愛らしい姿の落差にアイゼアは思わず笑いが
「アイゼア、お前ぇ……」
「くっ、ふふ……いや、不意打ちした……スイウが悪っ……あははっ」
スイウから凄まじい圧のある視線を送られても、この笑いは全く収まってくれそうにない。狡い、卑怯だ。笑われたくないなら先に言っておいてほしい。こちらもそれなりに心の準備というものが必要だ。だからといって絶対笑わないという保証はできないが。
「こんな姿にしやがって……」
スイウが恨めしそうにメリーを
「私を怒らせたのが悪いんですよ。地の果てでも地獄の果てでも追いかけますからね。勝ち逃げなんてさせませんよ」
「……お前が言うと本当に
スイウの言葉の通り、メリーを本気で怒らせない方が良いだろう。ストーベルを殺すため、そしてスイウを救うため、文字通り世界の果ての向こう側まで追いかけていって成し遂げてしまった人だ。その胆力は尋常ではなく、本当に
がっくりと肩を落とすスイウに
「またお会いできて私はとても嬉しいです! スイウ様の好きなドライフルーツで焼き菓子も焼いてきました。後で一緒に食べましょう」
無垢な笑顔を向けるエルヴェに毒気を抜かれたのか、スイウはじとっとした鋭い目を僅かに丸くし、一つ大きなため息をついた。
森の奥深く、小さな泉のある場所まで案内された。その傍らに小さな小屋が建てられており、この森に
とにかくこの場所は、スイウが導いてくれなければなかなか辿り着ける場所ではないだろう。泉の
話は自然とこれからどうするのかという話題へと変わっていった。
アイゼアは早速『専属傭兵』をやらないかと四人に打診した。
セントゥーロ王国の騎士団には専属傭兵という制度がある。一定の実績と実力、条件を満たした騎士の推薦があれば登録ができ、騎士団からの任務や依頼が
皆が登録されていれば信頼できる人に依頼できるという利点ももちろんあるが、帰るべき場所というもののない四人に何かしら社会との繋がりや居場所のようなものを作れないかと考えた。その打診はスイウ以外には快く受け入れてもらえた。
メリーは専属傭兵の登録をし、魔法薬を売りながらサントルーサに定住することを考えているらしい。カーラントが引き継ぎを終え、少ししたらセントゥーロへ戻ってくるというのも理由の一つだと言っていた。
もうあの国に「クランベルカ」は必要ない、元クランベルカ領に至っては逆にクランベルカの存在は邪魔になってくると彼女は語る。
新領主を立てたのであれば頭は二つも要らない。体制がある程度整ったなら変えていくのは国の中枢を担う者たちと、個々人の意識や努力の問題だろう、と。そして何より、自分があの国に留まる意味がないとも言っていた。
領主の補佐をしている期間にメリーはメリーなりに物事を見聞きし、感じ、考えていたようだった。
スイウはこの森の守護と周辺の監視を冥王から言い渡されてこちらへ来た。
スイウの存在は妖魔であり、契約は結んでいないが半分はメリーの使い魔……とはまた少し違うらしいが、とにかく何かそういう複雑な存在らしい。魔術に詳しくない自分には全くよくわからない次元の話であったということだけは言える。
これからも気が向いたときだけ力を貸してやる、と言ってくれるスイウは少しだけ頼もしい。
メリーはこの泉の近くにミュールとフランの墓を建てると意気込み、スイウは「俺は森番であって墓守じゃない」と眉間にシワを寄せていた。
エルヴェはベジェの復興の後、騎士団の食堂で働いている。だからこれからもこの仕事を続けるのだと目を輝かせていた。
料理も上手く、片付けまで手際のいいエルヴェはその人柄も相俟って、食堂で働く人たちからもすぐに信頼されていった。多くの騎士と関わり、会話し、喜んでもらえるこの仕事はある意味天職なのかもしれない。
彼が来てから食堂のメニューが充実し、更に美味しくなったと評判になっている。昼夜を問わず、いつもどんなときでも優しく微笑みかけてくれるエルヴェを癒しにしている騎士も出てきているほどだ。食堂の天使などと呼ばれ、熱い信奉者を生み出していることを彼は知らない。
フィロメナは天界と地上界を繋ぐ伝令と監視の役目を負っている。堕天をして天界へ帰れなくなっても、一応天族の管轄下にあるようだ。
人々の生活に溶け込み、異常事態を天界へ報告したり、魔物の動きを監視しているらしい。専属傭兵だけでは収入が安定しないので、人の社会に溶け込んで暮らしていくために仕事を探さないと、とも言っていた。
自分はといえば、相変わらず騎士として日々奔走してくことになるだろう。以前と変わったことは、ストーベルを止めた功績を認められて階級が一つ上がったことくらいだろうか。
神頼みや運命論は好きではないが、種族も境遇も、住む世界すらも違ったこの五人が、あの旅の中で偶然出会ったことには何か運命めいたものを感じていた。苦楽を共にし、時にぶつかり、そして支え合って乗り越えてきた。
誰一人欠けることなく、こうして今も共に過ごせている喜びをアイゼアは噛み締める。
大切な仲間たちと共に生き、穏やかで楽しいひとときを重ねていけるなら、それはどんなに幸せなことだろうか。まだ見ぬ未来が明るいものであるようにと思いを馳せながら、焼き菓子に手を伸ばした。
誰しもが何かの境界線に立たされている。どちらにも属せず迷い、もがき、苦悩している。
望まれないと知りながら、それでも守るために命をかけて。
一人で十分だと言いながら、繋がった縁に助けられてしまって。
高潔でありたいのに、拭えない汚れを仮面で覆い隠して。
一緒に生きていきたいのに、置いていかれてしまうことが怖くて。
何が正義で、何が悪なのか、真の正しさが何なのかわからなくて。
何度も選択を迫られ、時に後悔しながらも、明日を掴もうと懸命に手を伸ばす。そんな不完全で不器用に生きる、愛すべき者たちへ捧ぐ。
境界線に立つ者たちへ。
最終話 黒き猫と幻の森 終