後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す
冷たく凍みるような水底に沈む一粒の砂だった。体は重く、指先一つ動かすのも億劫 に感じるほどだ。
ほどなくして、ゆらゆらと瞼 を刺激する光に薄く目を開ける。ぼやけた視界の遥か先に、水面のような波紋が見えた。近くに懐かしい気配を感じ、目だけを動かすと見慣れた濃い桃色が揺らめいている。
メリー、と名前を呼ぼうとして漏れたのは小さな水泡だけだった。こちらに気づいたのか、ぼやけてハッキリとは見えないメリーの顔がこちらを覗き込む。
名前を呼ぶ声は相変わらず音にはならない。触れた左手からメリーの心の声が伝わってくる。
『必ず助けてみせる』
眼帯が外れてしまっているのか、読心術が働いているようだった。失明した右目はその姿を認識しないが、銀の瞳はその薄紅色を鏡のように映し、染まっていることだろう。
メリーは口では何も言わず、だが少しだけ微笑んだ気配を残して上へと登っていった。
濃藍色の世界に、夕日色の糸のようなものが見える。それはまるで自分とメリーを繋ぐように上へと向かって伸びていた。その後ろを夥 しい数の影が追い縋 る。メリーはあっという間にその影に飲み込まれそうになっていた。
ここがどこかも、なぜこんなところで動けなくなっているのかも思い出せない。それでもメリーが自分をどうにかしようとここまで来てくれたことだけはぼんやりと理解した。
可能性さえ見出せば危険も度外視で単身飛び込んでいく。信念と諦めの悪さだけで動いているような阿呆なヤツだった。
「まったく、世話の焼けるヤツだ……」
思考が覚束ない頭の中に、助けなくてはという明確な意思が生まれた。
直後、まるで太陽のように眩い光を放ち、影は引き裂かれて沈んでいく。光が収束するとメリーの姿はなく、夕日色の糸だけがずっと先の水面まで続いていた。
足元に地面の固い感触を感じ、そこを起点に五感が緩やかに戻っていく。いつの間にかまた眠っていたらしく、スイウは目を開いた。眩しさに目が眩 み、何度も瞬 きを繰り返す。ぼやけていた景色も、少しして焦点が合ってくる。
「おぉ、スイウ。よう戻ってきたな」
聞いたことのある無駄に艶っぽい声は少しだけ声を弾ませていた。目の前のスラリとした長身の女は黒く長い髪に、黒い服、強い光を宿す黒い瞳をしている。
「……冥王? 俺は何で冥界なんかにいるんだ?」
まだ混濁している頭を必死に働かせて考える。メリーと契約し、冥界へは戻らないことになっていたはずだ。
「そんなことはどうでもいいのよ! 戻ってきてくれて良かったぁぁー!」
真横から飛びかかられ二、三歩蹌踉 めく。涙で顔をぐしゃぐしゃにしたフィロメナがなぜかわんわん泣いている。何をそんなに泣く必要があるのかパッと思い出せず、わからない。
「おい、離れろ。暑苦しいっ……」
スイウは記憶を何とか手繰り寄せ、最後の記憶を取り戻す。メリーへと託したキメラとの戦いのことを。
「フィロメナ、メリーはどうした? 魔物の処理はどうなってる?」
冥王とフィロメナの他に、モナカとクロミツの姿が視界に入る。メリーは座り込んだクロミツとモナカの傍らに横たえられていた。
「それはちゃんと倒したわ。でもメリーは……」
言葉を濁すフィロメナに、あまり良くないことが起こっていることを察する。
スイウはメリーへと近づき顔を覗き込んだ。顔は青白く、瞼は固く閉じられたまま動かない。呼吸は弱々しく、手の甲で頬に触れるとひやりとした冷たさを感じ、息を飲む。
「かなり消耗してるけど、何とか大丈夫だって冥王様が言ってたぞ。それより、戻ってこられて良かったな……アーテル」
アーテル……アーテル・フェレス。
生前のスイウの名だ。その名前が急速にスイウの記憶を呼び覚ましていく。
生前のことも、魔族として覚醒してからの日々も、破滅を止めるために戦ったことも、魂の欠片を取り戻すために旅をしたことまで、思いを託して消えることを選んだあの瞬間までの記憶を全て取り戻した。
目の前のクロミツはいつものカラッとした嫌味のない笑顔をスイウへと向けている。その笑い方は彼がラーウムと呼ばれていた頃から何一つ変わっていなかった。
自分を殺した相手に対し、変わらず接してくる。記憶のないスイウに、全ての記憶を抱えていたクロミツは何を思って接していたのだろう。
思えばクロミツは初対面から馴れ馴れしいヤツだった。生前のことには一切触れず、これまでの五十年以上の時をずっと友のように接し続けてくれていた。
憎くはなかったのか、怒りはなかったのか。なぜ気さくに、まだまともだった頃のアーテルに接するようにしていられるのか。
聞きたいことも、吐き出したい思いも山ほどあった。だが元来、自身の感情を言葉として連ねて語るのは得意ではない。湧き上がる万感の思いを込めて、スイウは一言だけ言葉を選んだ。
「クロミツ……ありがとう」
クロミツは面食らったような表情になり、たっぷりと間を置いてから破顔した。
「……おぅ。スイウから礼を言われる日が来るなんて、長生きしてみるもんだな!」
別に必要であれば礼くらいは言う。その印象がないということは、礼を言われるようなことをしてなかっただけではないのかと思ったが、屈託なく笑うクロミツを見て、まぁいいかと胸の内にしまい込んだ。
ようやく事態を飲み込めてきた頃、硬質な靴音を室内に響かせながら、スイウたちの元へ冥王がゆったりと歩み寄る。
「スイウよ、ここで行われた召喚方法は決して口外してはならぬ。クロミツ、フィロメナ、人の子よ、そなたらも例外ではないぞ」
「召喚……?」
状況に流されていたが、なぜ魂を代償にして消えた自分がここにいるのかという今更なことにスイウは気づく。
「スイウ、そなたは妖魔として我が召喚した。そこの人の子の魂の半分とクロミツの魂を半分、人の子の中にあったそなたの魂の欠片を魔力と触媒でな」
「は? 魂を半分? ならメリーとクロミツはどうなってんだ?」
言っている意味が全くわからなかった。メリーとクロミツが魂をわざわざ割いて自分を呼び戻したということなのだろうか。一体何のために、という疑問が困惑した思考を更に混沌としたものへと変えていく。
「クロミツは残った半分で妖魔として召喚し直せばよいのだが、問題は人の子の方よ」
冥王は変わらず妖艶な笑みを浮かべたままだが、メリーの死んだような青白い顔を見て、スイウは僅かな焦燥を抱く。何とか大丈夫という話らしいが、本当に何ともないのか、と。
魂が欠けた自分が記憶を失い、力の制御に悩んでいたように、何か弊害があると考えるのが普通だろう。
「魂が半分欠けたことが人の子にどのような影響を及ぼすのかは我にもわからぬ。地上界に戻った瞬間、パッタリと死ぬやもしれぬなぁ」
サラリと冥王は縁起でもないことを言う。だがそれが脅しでも何でもなく、本当に何が起こるわからないからこそそう言ったのだと理解できる。
「……それ、メリーには説明したんだろうな?」
「おぉ、したした。死ぬやもしれんぞ、とな。だがこの人の子は渋りもせんかった。むしろ我の方が渋ったくらいだと思うがなぁ」
だろうな、とスイウは内心思う。さすがにこれだけ共に過ごしていれば、メリーがどうするかは容易に想像がつく。それだけメリーの思考回路が単純であり、一貫しているとも言えるが。
意識を取り戻す直前にぼんやりと見た光景をふと思い出す。体が動かず、水中に沈んでいた。メリーの気配と揺らめく薄紅色の髪。水面へと高く伸びる夕日色の糸。必ず助けてみせるというメリーの意思。あれはこちらへ自分を召喚するための何かだったのだと確信した。
あまり感情的になることのない自分の中に明確な怒りの感情がじわじわと遅れて顔を出し始める。
「フィロメナ、何で止めなかった。アイゼアは? エルヴェは?」
湧き上がる怒りを込めて睨 みつけるとフィロメナは顔を引きつらせて硬直し、視線を泳がせた。
「何とか言えっ」
語気を強めて返答を促すと、フィロメナもこちらに怒りが湧いたのか目尻に涙を滲 ませながら睨んでくる。
「……みんな、あんたを助けたかったのよっ! そんなの聞かなくたってわかるでしょ! あんたが勝手に消えちゃって、みんなどれだけ悲しんだのか知らないくせにっ……スイウは本当に馬鹿よ、馬鹿っ……大馬鹿よ!」
「馬鹿はお前らの方だ」
「何よ……あんただってメリーの魂を触媒に無の王に対抗しようとしたじゃない!! 他人のこと偉そうに言えるわけ!?」
その点に関しては反論の余地がない。魔族たる自分が、魂を触媒として魔術を行使しなければならないような状況を作り出してしまった。だがそれはスイウ自身の魂すらも触媒とする術だった。
今のこれはメリーを一人犠牲にし、理由も世界の秩序のためというわけでもなく、完全な私情だ。
そこを混同されるのは猛烈に釈然としなかったが、それを言ったところであのお花畑脳はどうせ理解しない。
だがフィロメナの性格を思えば、今回のことはかなり悩んだはずだ。消滅したスイウを引き戻すためにメリーを犠牲にするか、メリーを止めてスイウを諦めるのか。
それでもあのお花畑っぷりだ。そのどちらでもない、『スイウを引き戻し、メリーも死なない』という根拠も何もない可能性に賭けたのだろう。
「スイウ、あんま怒ってやんな。お前が帰ってくるかもって言われて、メリーちゃん自身が賭けたいって譲らなかったらさ……みんな期待するだろ」
「俺は死んでる。生きてるやつの魂を私情で割かせるな」
元々死人のスイウを呼び戻そうというのがそもそもの間違いなのだ。なぜそれがわからないのかと頭を抱える。
キメラになった自分を人の道へ引き戻してほしいと託した。だが消滅した自分をこんな形で引き戻してほしいなどと言った覚えはない。
魔族としての役目と生前の愚行との決着のためにこの身を投じた。それが未来を確実に守る可能性が高いと判断したからだ。
元々死んでいた自分に、今更未練もない。半分魂が欠けるということは、半分人ではなくなるのと同じで、メリーはますます真っ当な人の生から逸脱していってしまう。重大性を理解しているのかはわからないが、自らその道を捨てたようなものだ。
「ったく、お前は昔っからクソがつくほど生真面目なとこあるよなー……少しは相手の気持ちも汲み取ってやれって。お前がメリーちゃんを心配するように、お前にだって心配してくれるヤツが大勢いるんだ。そんなだからバケモノになるまで気づかないんだぞ、スイウは」
「……」
「お、おぉ〜? どうした? 言い返さないのか? ふっ……珍しくオレが勝ったな。少しはオレの話にも耳を傾けろってこった!」
勝ち誇ったように高笑いするクロミツには少々腹が立つが、言ってることは間違っていない。
記憶を取り戻したことで知ったラーウムの存在、消滅のときに見せたメリーの表情、先程のフィロメナの言葉や、メリーを止めなかったアイゼアとエルヴェ。もうここまで来て、自分が消えても誰も悲しまないとは思わない。
これほどまでに死に損なうと、いよいよ間抜けとしか言いようがなくなってくる。二度死んで、それでもこの身はまだ未練がましく世界に繋がれているのだ。
「この阿呆が。余計なことしやがって。俺はお前に、生き急ぐなっつっただろ……!」
クロミツに一言伝える機会をくれたことには素直に感謝している。だがこの沸々とした怒りを、今も眠り続けるメリーの横顔にぶつけなければ気が収まらなかった。
「……うるっさいですねぇ」
青白い顔をしたメリーの唇が微かに動く。
「起きて早々……説教は聞きたくないんですけど?」
気怠 く少し苛立 った声色で、消え入りそうなほど小さく言葉が紡がれた。
「魂を半分失ってどうする。お前はもっと真っ当な──
「そんなことどうでもいいんで、早く聞かせてくださいよ」
こちらに構うことなくメリーは言葉を遮ってきた。ありありと興味のなさを滲 ませた声から、魂が欠けたことを全く気にもしていないことが伝わってくる。
メリーは薄く目を開き、視線をゆっくりスイウへ向けると、いたずらが成功した子供のような笑みを弱々しく浮かべた。
「勝手に呼び戻されて、一方的に振り回される気分……どうですか?」
「……は?」
「二度も勝手をされて、私……物凄く腹が立ってるんですよ」
一方的に振り回される。
二度も勝手をされて。
それが、スイウがメリーにした同意なしの契約と契約解消のことを指しているのだとすぐに察する。なぜメリーが自分を呼び戻したのか、その理由が少しわかった。
これはメリーなりの意趣返しのつもりなのだろう。こちらが嫌がると理解し、望んでいないと知っててもお構いなしだ。
自分が役目に対して譲らなかったように、メリーは仲間を守ることに対しては全く譲る気がない。兄と妹が死んでもなお、その二人の思いや尊厳を守るという意思を持ち、その執念でうっかり世界まで救ってしまったようなヤツだ。
最高に諦めが悪く、最高に根に持つ性格だったことを思い出し、阿呆もここまでくると笑うしかないなと苦笑する。
過ぎた過去は戻らない。どんなに自分が喚こうがここに呼び戻された事実も、メリーの魂が半分欠けた事実も変わらないし変えられない。メリーの執念を見誤った自分の落ち度だ。
返答はとっくに決まっていた。
「……最悪の気分だな」
「ふーん? ざまあみろ、ですよ」
メリーは呟きながら、満足そうに笑っていた。
第88話 報復 終
ほどなくして、ゆらゆらと
メリー、と名前を呼ぼうとして漏れたのは小さな水泡だけだった。こちらに気づいたのか、ぼやけてハッキリとは見えないメリーの顔がこちらを覗き込む。
名前を呼ぶ声は相変わらず音にはならない。触れた左手からメリーの心の声が伝わってくる。
『必ず助けてみせる』
眼帯が外れてしまっているのか、読心術が働いているようだった。失明した右目はその姿を認識しないが、銀の瞳はその薄紅色を鏡のように映し、染まっていることだろう。
メリーは口では何も言わず、だが少しだけ微笑んだ気配を残して上へと登っていった。
濃藍色の世界に、夕日色の糸のようなものが見える。それはまるで自分とメリーを繋ぐように上へと向かって伸びていた。その後ろを
ここがどこかも、なぜこんなところで動けなくなっているのかも思い出せない。それでもメリーが自分をどうにかしようとここまで来てくれたことだけはぼんやりと理解した。
可能性さえ見出せば危険も度外視で単身飛び込んでいく。信念と諦めの悪さだけで動いているような阿呆なヤツだった。
「まったく、世話の焼けるヤツだ……」
思考が覚束ない頭の中に、助けなくてはという明確な意思が生まれた。
直後、まるで太陽のように眩い光を放ち、影は引き裂かれて沈んでいく。光が収束するとメリーの姿はなく、夕日色の糸だけがずっと先の水面まで続いていた。
足元に地面の固い感触を感じ、そこを起点に五感が緩やかに戻っていく。いつの間にかまた眠っていたらしく、スイウは目を開いた。眩しさに目が
「おぉ、スイウ。よう戻ってきたな」
聞いたことのある無駄に艶っぽい声は少しだけ声を弾ませていた。目の前のスラリとした長身の女は黒く長い髪に、黒い服、強い光を宿す黒い瞳をしている。
「……冥王? 俺は何で冥界なんかにいるんだ?」
まだ混濁している頭を必死に働かせて考える。メリーと契約し、冥界へは戻らないことになっていたはずだ。
「そんなことはどうでもいいのよ! 戻ってきてくれて良かったぁぁー!」
真横から飛びかかられ二、三歩
「おい、離れろ。暑苦しいっ……」
スイウは記憶を何とか手繰り寄せ、最後の記憶を取り戻す。メリーへと託したキメラとの戦いのことを。
「フィロメナ、メリーはどうした? 魔物の処理はどうなってる?」
冥王とフィロメナの他に、モナカとクロミツの姿が視界に入る。メリーは座り込んだクロミツとモナカの傍らに横たえられていた。
「それはちゃんと倒したわ。でもメリーは……」
言葉を濁すフィロメナに、あまり良くないことが起こっていることを察する。
スイウはメリーへと近づき顔を覗き込んだ。顔は青白く、瞼は固く閉じられたまま動かない。呼吸は弱々しく、手の甲で頬に触れるとひやりとした冷たさを感じ、息を飲む。
「かなり消耗してるけど、何とか大丈夫だって冥王様が言ってたぞ。それより、戻ってこられて良かったな……アーテル」
アーテル……アーテル・フェレス。
生前のスイウの名だ。その名前が急速にスイウの記憶を呼び覚ましていく。
生前のことも、魔族として覚醒してからの日々も、破滅を止めるために戦ったことも、魂の欠片を取り戻すために旅をしたことまで、思いを託して消えることを選んだあの瞬間までの記憶を全て取り戻した。
目の前のクロミツはいつものカラッとした嫌味のない笑顔をスイウへと向けている。その笑い方は彼がラーウムと呼ばれていた頃から何一つ変わっていなかった。
自分を殺した相手に対し、変わらず接してくる。記憶のないスイウに、全ての記憶を抱えていたクロミツは何を思って接していたのだろう。
思えばクロミツは初対面から馴れ馴れしいヤツだった。生前のことには一切触れず、これまでの五十年以上の時をずっと友のように接し続けてくれていた。
憎くはなかったのか、怒りはなかったのか。なぜ気さくに、まだまともだった頃のアーテルに接するようにしていられるのか。
聞きたいことも、吐き出したい思いも山ほどあった。だが元来、自身の感情を言葉として連ねて語るのは得意ではない。湧き上がる万感の思いを込めて、スイウは一言だけ言葉を選んだ。
「クロミツ……ありがとう」
クロミツは面食らったような表情になり、たっぷりと間を置いてから破顔した。
「……おぅ。スイウから礼を言われる日が来るなんて、長生きしてみるもんだな!」
別に必要であれば礼くらいは言う。その印象がないということは、礼を言われるようなことをしてなかっただけではないのかと思ったが、屈託なく笑うクロミツを見て、まぁいいかと胸の内にしまい込んだ。
ようやく事態を飲み込めてきた頃、硬質な靴音を室内に響かせながら、スイウたちの元へ冥王がゆったりと歩み寄る。
「スイウよ、ここで行われた召喚方法は決して口外してはならぬ。クロミツ、フィロメナ、人の子よ、そなたらも例外ではないぞ」
「召喚……?」
状況に流されていたが、なぜ魂を代償にして消えた自分がここにいるのかという今更なことにスイウは気づく。
「スイウ、そなたは妖魔として我が召喚した。そこの人の子の魂の半分とクロミツの魂を半分、人の子の中にあったそなたの魂の欠片を魔力と触媒でな」
「は? 魂を半分? ならメリーとクロミツはどうなってんだ?」
言っている意味が全くわからなかった。メリーとクロミツが魂をわざわざ割いて自分を呼び戻したということなのだろうか。一体何のために、という疑問が困惑した思考を更に混沌としたものへと変えていく。
「クロミツは残った半分で妖魔として召喚し直せばよいのだが、問題は人の子の方よ」
冥王は変わらず妖艶な笑みを浮かべたままだが、メリーの死んだような青白い顔を見て、スイウは僅かな焦燥を抱く。何とか大丈夫という話らしいが、本当に何ともないのか、と。
魂が欠けた自分が記憶を失い、力の制御に悩んでいたように、何か弊害があると考えるのが普通だろう。
「魂が半分欠けたことが人の子にどのような影響を及ぼすのかは我にもわからぬ。地上界に戻った瞬間、パッタリと死ぬやもしれぬなぁ」
サラリと冥王は縁起でもないことを言う。だがそれが脅しでも何でもなく、本当に何が起こるわからないからこそそう言ったのだと理解できる。
「……それ、メリーには説明したんだろうな?」
「おぉ、したした。死ぬやもしれんぞ、とな。だがこの人の子は渋りもせんかった。むしろ我の方が渋ったくらいだと思うがなぁ」
だろうな、とスイウは内心思う。さすがにこれだけ共に過ごしていれば、メリーがどうするかは容易に想像がつく。それだけメリーの思考回路が単純であり、一貫しているとも言えるが。
意識を取り戻す直前にぼんやりと見た光景をふと思い出す。体が動かず、水中に沈んでいた。メリーの気配と揺らめく薄紅色の髪。水面へと高く伸びる夕日色の糸。必ず助けてみせるというメリーの意思。あれはこちらへ自分を召喚するための何かだったのだと確信した。
あまり感情的になることのない自分の中に明確な怒りの感情がじわじわと遅れて顔を出し始める。
「フィロメナ、何で止めなかった。アイゼアは? エルヴェは?」
湧き上がる怒りを込めて
「何とか言えっ」
語気を強めて返答を促すと、フィロメナもこちらに怒りが湧いたのか目尻に涙を
「……みんな、あんたを助けたかったのよっ! そんなの聞かなくたってわかるでしょ! あんたが勝手に消えちゃって、みんなどれだけ悲しんだのか知らないくせにっ……スイウは本当に馬鹿よ、馬鹿っ……大馬鹿よ!」
「馬鹿はお前らの方だ」
「何よ……あんただってメリーの魂を触媒に無の王に対抗しようとしたじゃない!! 他人のこと偉そうに言えるわけ!?」
その点に関しては反論の余地がない。魔族たる自分が、魂を触媒として魔術を行使しなければならないような状況を作り出してしまった。だがそれはスイウ自身の魂すらも触媒とする術だった。
今のこれはメリーを一人犠牲にし、理由も世界の秩序のためというわけでもなく、完全な私情だ。
そこを混同されるのは猛烈に釈然としなかったが、それを言ったところであのお花畑脳はどうせ理解しない。
だがフィロメナの性格を思えば、今回のことはかなり悩んだはずだ。消滅したスイウを引き戻すためにメリーを犠牲にするか、メリーを止めてスイウを諦めるのか。
それでもあのお花畑っぷりだ。そのどちらでもない、『スイウを引き戻し、メリーも死なない』という根拠も何もない可能性に賭けたのだろう。
「スイウ、あんま怒ってやんな。お前が帰ってくるかもって言われて、メリーちゃん自身が賭けたいって譲らなかったらさ……みんな期待するだろ」
「俺は死んでる。生きてるやつの魂を私情で割かせるな」
元々死人のスイウを呼び戻そうというのがそもそもの間違いなのだ。なぜそれがわからないのかと頭を抱える。
キメラになった自分を人の道へ引き戻してほしいと託した。だが消滅した自分をこんな形で引き戻してほしいなどと言った覚えはない。
魔族としての役目と生前の愚行との決着のためにこの身を投じた。それが未来を確実に守る可能性が高いと判断したからだ。
元々死んでいた自分に、今更未練もない。半分魂が欠けるということは、半分人ではなくなるのと同じで、メリーはますます真っ当な人の生から逸脱していってしまう。重大性を理解しているのかはわからないが、自らその道を捨てたようなものだ。
「ったく、お前は昔っからクソがつくほど生真面目なとこあるよなー……少しは相手の気持ちも汲み取ってやれって。お前がメリーちゃんを心配するように、お前にだって心配してくれるヤツが大勢いるんだ。そんなだからバケモノになるまで気づかないんだぞ、スイウは」
「……」
「お、おぉ〜? どうした? 言い返さないのか? ふっ……珍しくオレが勝ったな。少しはオレの話にも耳を傾けろってこった!」
勝ち誇ったように高笑いするクロミツには少々腹が立つが、言ってることは間違っていない。
記憶を取り戻したことで知ったラーウムの存在、消滅のときに見せたメリーの表情、先程のフィロメナの言葉や、メリーを止めなかったアイゼアとエルヴェ。もうここまで来て、自分が消えても誰も悲しまないとは思わない。
これほどまでに死に損なうと、いよいよ間抜けとしか言いようがなくなってくる。二度死んで、それでもこの身はまだ未練がましく世界に繋がれているのだ。
「この阿呆が。余計なことしやがって。俺はお前に、生き急ぐなっつっただろ……!」
クロミツに一言伝える機会をくれたことには素直に感謝している。だがこの沸々とした怒りを、今も眠り続けるメリーの横顔にぶつけなければ気が収まらなかった。
「……うるっさいですねぇ」
青白い顔をしたメリーの唇が微かに動く。
「起きて早々……説教は聞きたくないんですけど?」
「魂を半分失ってどうする。お前はもっと真っ当な──
「そんなことどうでもいいんで、早く聞かせてくださいよ」
こちらに構うことなくメリーは言葉を遮ってきた。ありありと興味のなさを
メリーは薄く目を開き、視線をゆっくりスイウへ向けると、いたずらが成功した子供のような笑みを弱々しく浮かべた。
「勝手に呼び戻されて、一方的に振り回される気分……どうですか?」
「……は?」
「二度も勝手をされて、私……物凄く腹が立ってるんですよ」
一方的に振り回される。
二度も勝手をされて。
それが、スイウがメリーにした同意なしの契約と契約解消のことを指しているのだとすぐに察する。なぜメリーが自分を呼び戻したのか、その理由が少しわかった。
これはメリーなりの意趣返しのつもりなのだろう。こちらが嫌がると理解し、望んでいないと知っててもお構いなしだ。
自分が役目に対して譲らなかったように、メリーは仲間を守ることに対しては全く譲る気がない。兄と妹が死んでもなお、その二人の思いや尊厳を守るという意思を持ち、その執念でうっかり世界まで救ってしまったようなヤツだ。
最高に諦めが悪く、最高に根に持つ性格だったことを思い出し、阿呆もここまでくると笑うしかないなと苦笑する。
過ぎた過去は戻らない。どんなに自分が喚こうがここに呼び戻された事実も、メリーの魂が半分欠けた事実も変わらないし変えられない。メリーの執念を見誤った自分の落ち度だ。
返答はとっくに決まっていた。
「……最悪の気分だな」
「ふーん? ざまあみろ、ですよ」
メリーは呟きながら、満足そうに笑っていた。
第88話 報復 終