後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す

 雪原の風景もフレージエの姿も見えなくなり、全身を雪解け水のような凍てつく冷たさが襲う。
 水の中にいるような心地だが、不思議と呼吸はできた。息を吐くと、がばりと水泡が上を目指して登っていく。まるで深海のようで、水面の波紋が僅かに揺らめいて見えた。

 右手で握ったままの刀の刀身が白く輝き、微かなスイウの気配を感じ取る。重さを増した刀が、まるで導くようにメリーの体を水底へと沈めていった。


 底が見えてくると、何か塊のようなものも一緒に見えてくる。徐々に近づくと、その塊が砂の中に半分埋もれたスイウだということに気づいた。

「完全に保護色ですね……」

という緊張感のない一人言が漏れた。

 刀がなければこの暗い深海の中で同じような色のスイウを見つけるのは難しかっただろうと思う。スイウは意識もなく眠り続けているらしく、両目は固く閉じられていた。

「スイウさん、必ず連れて帰りますからね」

 砂に埋まった左腕を掘り起こし、自身の腕に結び付けられていた紐をほどく。メリーは素早くその紐をスイウの左手首に固く結んだ。暗く冷たい濃藍色の世界に、温かな夕日色が煌めく。

 その瞬間、こぽっとスイウの口から小さく水泡が漏れる。眼帯はしておらず、薄く開かれた両目から月のような金の瞳と銀の瞳が覗いていた。
 その唇がメリーの名を形作る。スイウの左手に触れ、声をかけようとしたところで口を引き結んだ。

『紐を結んだら決して後ろを振り返ってはならぬし、誰とも言葉を交わしてはならぬ』

 冥王の忠告が頭をよぎり、笑みだけをスイウへ返した。メリーは砂を強く蹴り、上へ向かって泳ぐ。泳ぎには全く自信がないが、少しずつ確実に上昇していた。

「……忘れないで」

 小さな声が聞こえたと思った瞬間足首を何かに強く捕まれ、ぐっと底へ向かって引っ張られた。下を見ようとして、慌てて上を向く。
 振り返ってはいけない。下を見ることは来た道を振り返るのと同じだ。こちらを掴んでくる何かを必死に蹴落としながら、上へ向かってもがく。

 水底へと引き込もうとする何かはどんどん数を増し、全身が粟立つような気味の悪い感覚と共に体の中へと侵食してくる。視界に入る黒い手のような影を刀で切り払ったが、切っても切ってもきりがない。

 遠い昔に置き去りにした恐怖や迷い、捨てたはずの思いや後悔に思考を塗り潰されていく。どうやらこの黒い手のような影は捨ててきた一つ一つの記憶らしい。不要だと切り捨てた幼い頃の思いが走馬灯のように蘇ってくる。

お願い父さん、たくさん頑張ったから認めて……自慢の娘だって言ってこっちを見て。
お願い母さん、頑張ったからたくさん褒めて……まだ足りないなんて言わないで。

黄昏の月はどうして嫌われるの?
どうしてみんな怯えて逃げてしまうの?
そんな目で見ないで、私は何も怖くないよ。
ほら、みんなと何も変わらない、同じなんだよ。
嘘じゃない、本当のことなのに。
何で……どうして誰も私を信じてくれないの……?

 すっかり消え失せ死んだはずの感情が、当時の生々しさを持って呼び覚まされる。思い出したくもない、愚かで脆弱だった頃の自分が必死に訴えていた。

 どうでもいい、鬱陶うっとうしい、目障りだ、そう叫びたくなる衝動を抑える。

 魂の中の墓場。切り捨ててきたものが眠る場所。フレージエの口にしていた言葉が頭をよぎり、その意味を知った。
 惑わされるな、思い出すな、今はただここから帰らなければ。それだけを考えようとしても、にじみ出すようにして溢れる記憶の海へ沈められていく。

どうしたらミュール兄さんの体を治せるんだろう?
どうすればフランに自由な暮らしをさせてあげられるんだろう?
ねぇ、私は二人を守れてるかな?
二人は今、少しでも幸せだと思えてる?

どこにでもある、ありふれた家族になりたい。
どこにでもある、ありふれた幸福で平凡な暮らしを二人と送りたい。
ただ笑い合っているだけの未来が欲しかった。
たった、たったそれだけだったのに。

私は二人の命も夢も何一つとして守りきれなかった。
なのにどうして、私一人だけがのうのうと生きているのか。
三人で一緒にいたい、離れたくない。

ミュール兄さん、フラン、お願いだから私を置いていかないで。
いつもみたいに笑って手を取って、一緒に連れていって。
私を一人、こんなところに残して行かないで。
だって二人がいなくなったら、私は本当に……独りだ。

 今までに感じたことのないほどの強烈な寂しさと息苦しさが体の奥から迫り上がり、目頭が熱くなる。まだ自分の心の片隅にこんな感情が残っていたとは思いもしなかった。

 二人を失ったあの日、確かにメリーは独りになった。フランの花をお守りにしておかなければ、いつ心が折れるともわからないギリギリのところに立っていた。

 だが一緒に連れていってほしいなどと妄言するほど、強い寂しさを感じていたことには気付かなかった。この寂しさはあの時、ストーベルへ抱く憎しみと殺意、そしてミュールを救出しなければという使命感に潰されて葬られた。
 ここには殺した思いや忘れられた感情、捨て去った希望、そういった行き場を失くしたものの全てが埋められているのだろう。

 冥王の言っていた一つめの忠告、誘惑や恐怖に飲まれてはいけないという言葉を思い出す。この場所に自身を誘惑するものはないが、たちまち立ち竦んでしまいそうな嫌なものが渦巻いていた。
 どんどんと遠ざかる水面にメリーの焦燥は煽られていく。このままでは飲み込まれて帰れなくなる。よりにもよって自分の弱さに負けるなんて冗談じゃない。

 周囲にまとわりつく黒い手を払うため、狙いも定めず闇雲に刀を振り回す。胸から伸びる紐の輝きが弱まりつつあった。それでもまだ負けじと夕日の色に輝いている。

 成功率を上げるために魂を半分割いたクロミツの、夕日色の瞳を思い出す。そしてその温かな色に、破滅を止めたあの日にミュールとフランが宿してくれたあの光の色を見ていた。

『自分を信じて。メリーなら必ず未来を切り拓けるから』
『わたしも信じてる! だってわたしの自慢のお姉ちゃんだもん!』

 二人の遺してくれた言葉が、今もこの胸の中で強く生き続けている。道が分かたれ、たとえもう二度と共に歩むことはないのだとしても、その最期の願いを、信頼を裏切るわけにはいかない。
 必ずスイウを連れ戻して帰って来ると、信じて待ってくれている仲間たちもいる。

私はもう、独りじゃない。

 熱く込み上げる思いと共に水面を見据える。ここまできて自分だけ戻るという選択肢はなかった。
 あの醜く弱い姿は幻影などではない。この墓場に眠っていた悲しみも寂しさも後悔も苦悩も焦燥も、全てが事実だ。あれは確かに自分自身の感情の一欠片だった。

 だがそれは全て自身が踏み越えてきた、過ぎ去った過去でしかない。そんなものに足を取られるような弱さなど、とうに捨ててきただろうと自身の心を叱咤しったした。
 声を出さないよう歯を食いしばり、死にもの狂いで水面を目指す。過去の弱音に苛まれ、今にも奪われそうな思考を必死に未来へと向けた。

私は私の望む未来が欲しい。
もう誰一人失いたくはない。
今度こそ穏やかに笑って暮らせる未来を手に入れてやる。
必ず、この手で切り拓いてみせる。
私は幸せだと、胸を張って生きていくために。

そう強く念じながら刀を真っ直ぐ水面へ向けて掲げ、魔力を込める。

「まったく、世話の焼けるヤツだ……」

というスイウの声が耳元で聞こえたような気がした。

 急に刀の刀身が強く輝き出し、後ろから突き飛ばされるかのように強く引き上げられていく。急激に体が水面へ向けて上昇を始めていた。
 その勢いに思わず固く目を閉じる。足を引っ張っていた影のような何かがみるみる剥がれていく。

 刀から手が離れないよう、柄を強く握りしめた。体を突き刺すような冷たさから開放された瞬間、メリーの意識は飛んだ。


第87話 信念と矜持の果てに(2)  終
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