後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す

 降り立った世界の空は白い雪雲に覆われていた。まばらに降る雪が舞い、耳が切れそうなほどの凍てついた風が吹き抜ける。ここが魂の中の世界なのだろうか。見渡した景色はノルタンダールを出てすぐにあるブラーナ雪原の風景によく似ていた。

「何を探してるんですか?」

 背後から声がし、振り返るとそこにはメリーと同じ姿をした誰かが立っていた。

「私、フレージエって言います」

 にこやかにメリーと同じ顔が微笑む。真名は魂の名だと冥王は言っていた。霊族の間では成長と共に自認する精霊から与えられる名だとされていたが、魂の名を自認するというのが本来正しい認識なのだろう。

「私はメレディス・クランベルカです」

 互いの紹介もそこそこに、目の前の魂……フレージエは虚空から杖を呼び出して握った。大方予想通りで思わず苦笑する。

「やっぱりって感じですよね」
「あなたの都合で半分に割かれるんですから、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいんじゃないですか?」
「あなたは私なんですから、私だけじゃなくあなたの都合でもあるはずですけどね」

 冥王の話が本当なら刀がスイウの魂まで導いてくれるはずだ。メリーは抜刀しようとしたが、刀身が鞘に引っかかり抜けない。キメラと戦ったときとは違い、鞘に入ったままの刀は以前よりも強く重さを主張する。

 フレージエは杖に炎をまとわせ、近接攻撃を仕掛けてきた。一対一で戦うときのいつもの戦法だ。メリーも杖を呼び出し、火球を放ちながら飛び退すさる。

「その刀が応えてくれるのはあなたではないんですよ。スイウさんの魂は魂である私の中にあるんですから。メリー、今のあなたは何も残らない。一人ぼっちの抜け殻……私の器でしかないんです」

 この刀が魔族の魂に応えるものだとすれば、当然今のメリーには扱いきれない代物なのだろう。魂のない自分に一体何が残っているというのか。きっと考えてはいけないのだろう。そもそも魂と自分は同一の存在なのだ。鏡のように向かい合わせで対峙しているだけで、本来は分裂した個ではない。

「その紐、私が断ち切ってあげてもいいんですよ?」

 火球を火球で相殺し、杖による攻撃を躱し、杖で防ぐ。

 自分だからこそフレージエがメリーを理解できるように、メリーもまた自分だからこそフレージエを理解できる。メリーは自分を信じている。自分の中に多くの記憶や思い出が刻まれているように、魂であるフレージエにも刻まれているはずだ。

 自分を半分失ってでも救いたいという強い思い。確固たる信念でここまで来た。思いは同じはずだ。

「あなたはスイウさんを死なせたままでいいと本気で思ってるんですか?」

 メリーは地面を強く蹴り、杖に炎をまとわせて振るう。放たれた火球をかき消し、こちらの杖の切っ先はスレスレで避けられた。

「魂を割いて生きられる保証もない。そんな不確かなもので誰かの犠牲になるつもりですか? 無駄死にかもしれないのに、ですよ?」

 同一の存在にも関わらずフレージエはこちらの頭がおかしいと言わんばかりに鼻で笑い、言葉を続ける。

「私は私の人生を生きる。大切な人たちのため? そんなに認められて、褒められたいんですか? 誰かに媚びるような生き方なんて……虫唾が走る」

 万人に認められ、受け入れられるような生き方がしたいわけではない。媚びへつらい、取り繕った自分で好かれたいなどと思ったこともない。

 懸命に声をかけたって大半の者たちは怯えたような視線をぶつけ、逃げていく。そんな惨めな思いを抱えて生きるくらいなら一人でいた方がずっといい。
 大切な人たちを守りたい。その思いは決して純然たる慈愛や献身、正義感や自己犠牲精神からくるものではない。

 そんな美辞麗句で飾り立てられたものであってたまるか、とメリーは心の内で吐き捨てる。もっとき出しのナイフの刃のように鋭く、冷たく冴え渡るような独善的で自分勝手な意思によるものだ。

「誰のためでもない。私は、私のためにこの道を選んだんですよ。あなたは覚えてないんですか?」

 自分のために掴み取ったはずの未来。それなのに相変わらず自分は誰かのために命を削るような生き方をしている。否、そうやって生きることを自らの意思で選んだのだ。

ミュール兄さんとフランは私が守ってみせる。

 ずっと昔からしがみつき続けた思いが、信念と矜持きょうじに変わって道となった。これは大切な人たちだけでなく、自分自身のためでもある。

「私はみんなと一緒にいたいんです。大切な人たちが傷つくところを見たくない」

 傷つき悲しむ顔を見ると、自身の無力さと現実の理不尽さに無性に腹が立った。

死んでほしくなかった。
ずっとこの先の未来も一緒に歩んでいきたかった。

 そんな叶わない願いが、痛みなど忘れたはずのこの心をズタズタに傷つけてくるのだ。

「失う瞬間も、後に続く苦痛も、もううんざりなんです。敗北と屈辱の味は、一度味わえば十分でしょう……!」

身を焦がすような復讐心と怒り。
ミュールとフランを奪われた悲しみと痛み。
スイウが目の前で消えていく瞬間のやるせなさと喪失感。
もう戻らないものへの胸に迫る寂寥せきりょう感と悔しさ。
何度手を伸ばしても届かずすり抜けていく焦燥と残る後悔。

 ストーベルによってもたらされたあの敗北と屈辱の味を、メリーは今も鮮明に記憶している。もう二度と同じ思いはしたくない。

「大切な人たちを守るためなら、邪魔なものは全て灰に変えてやる。救える道があるなら、全てをかなぐり捨ててでも飛び込む。私はそのために、この命全てを燃やし尽くす覚悟がある」

 この思いは自分以外を幸せにはしないのかもしれない。誰も自分に、そんなふうに生きることを望まないかもしれない。だがそれは関係のない話だ。

 これは望まれる望まれないの話ではなく、自分の信念の話だ。だからこそ誰から非難されようと変えるつもりもない。それを失ったら、自分の中にはもう何も残らない。空っぽのまま生き長らえるくらいなら、譲れないもののために流星のように燃え果ててしまいたい。
 信念も挟持も捨てて漫然と生きられるほど、メリーは器用ではなかった。

「スイウさんを救う最後の機会を逃すわけにはいかないんです。それでもまだ抵抗するなら、この手で半分に引き裂いてやります!」

 優しさや思いやりは人を救い、守る力がある。だがそれだけでは守りきれないものもある。この手が優しさだけを紡げない破壊の手だとしても、メリーはメリーのやり方で進み続ける。

 フレージエは攻撃の手を止め、胸に手を当てて目を伏せる。

「終わりのない戦いに身を投じることになったとしても、覚悟は揺らぎませんか?」

 魂は本来の自分の本質の権化ごんげだと冥王は言っていた。フレージエはメリーに比べると少しだけ臆病で丸い性格だった。
 その本質が様々な経験を経て、今のメリーを形成している。メリーはフレージエが抱くような不安はもう抱かない。淡々と切り捨て、貫き通せるだけの鋭さを身に着けてきたつもりだ。

「さっきも言いました。それが私の道です。これまでも、これからも、この命が燃え尽きる最期の瞬間まで変わることはありません」

傷つければ傷つけられる。
奪えば奪われる。
殺せば殺される。
そんなこと当然だ。

 自分の行動には相応の覚悟を持つべきだとメリーは思う。守るために殺したことを逆恨みされるのなら、その復讐の連鎖が断ち切れるまで殺し続ける。自分はもう、最期の瞬間まで戦い続ける覚悟をした。

 それを不毛だと言う者もいるだろう。ならば問いたい。戦える力があるのに友人や家族が目の前で殺されるのを黙って眺めているのか、泣き寝入りするのか、と。中にはそういう選択をする者や、法の裁きを受けさせるべきという者もいるだろう。

 その選択や意見を否定する気はない。これは価値感の違いだ。メリーは失われてからでは遅すぎると思っているからこそ、その価値観とは相容れない。互いに理解できない価値観を持っているというだけの話なのだ。

「わかりました。私もスイウさんは見殺しにできません。私は私の覚悟が揺らがなかったことに少し安心しました」

 フレージエは安堵あんどしたような表情で笑む。刀の鞘をフレージエが握り引くと、刀の刀身が姿を現す。冬の朝を思わせるような清々しく冴え渡る白銀の刀身だ。鞘を手渡され、その手がフレージエ自身の胸をとんとんと叩く。

「刀をここに突き刺してください。やるからには必ず連れ戻しますよ」

 強気な表情は、やはり自分なのだなと思わされる。

「これから向かうのは魂の中にある墓場です。油断しないようにしてください。私たちが切り捨ててきたもの全てが眠ってる場所ですから」

 メリーはフレージエの胸へ、思い切り刀を突き刺した。驚くほどに感触はなく、吸い込まれるようにして刀身が飲み込まれる。かといって背中へと突き抜けることもなく、まるで鍵のように刺さった刀から溢れる闇に飲み込まれていった。


第87話 信念と矜持の果てに(1)  終
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