後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す

 スイウの話していたこととは全く違う冥界の有り様に、笑みを浮かべたまま冥王を見下ろした。

「恐怖におかしくなったか、人の子よ」
「まさか。まるで、人のようなことを……言うんですね。魔族は人の世に……干渉すべきではない。本来は無闇に人の命を……奪うわけにはいかない、そうですよね? なのに、冥王という立場のあなたが……よりにもよって私情で私を殺す気で……?」 
「人の子のそなたに魔族の何がわかる?」

 脳裏にスイウの姿が浮かぶ。使命のために戦い、当然人を殺すこともあったが、人の命の重さに優劣をつけず、等しい重さで扱うよう努めていた。感情を極力挟まず、魔族として世界の秩序のために存在をかけて戦った。常に独特の矜持を持って駆け抜けた、気高い魔族のことをメリーは知っている。

「世界の秩序のためと……使命に生き、使命に散った魔族の生き様を、私は隣で見てきたんです……! 契約者、舐めないでもらえません?」

 その瞬間冥王の手が離れ、地に足がつく。急激に喉を通った空気に咽せながら、後ろへ蹌踉よろめく体をフィロメナが支えてくれた。冥王は心底愉快だと言わんばかりに大笑いを続けている。

随分ずいぶん豪胆な人の子が来たのものだ! この冥王に説教を垂れるとは身の程知らずの愚か者め。破滅から世界を守った厚顔無恥の人の子よ……そこまでしてスイウを蘇らせたいのなら相応の覚悟はあろうなぁ?」
「当然ですよ。そのために私はわざわざこんなとこまで来たんですから」

 やっと冥王が耳を傾けた。あともう一歩だ。あと一歩で届かなかったこの手がスイウへと届く。

「スイウを取り戻すには足りぬと言うたのは嘘ではない。魔族を妖魔にするには本来、その者の魂を半分、我の魔力、あちらの世界の魔力と触媒が必要なのだ。人の体に魂がある以上、方法も異なる。魔力に関しては我の魔力、お主の魔力でよいだろう。だが触媒は取りに行かねばならぬし……何よりスイウの魂の欠片だけでは魂が足りぬな」

 メリーはかばんから瓶を一つ取り出す。その中には藍色の花がぎっしりと詰まっていた。アイゼアが手土産にくれた白香の藍花だ。

「触媒はこの花で足りませんか?」
「何だ、持っておったのか。よいよい、これだけあれば十分過ぎるほどだ。これがスイウの性質の元となろう。それと、足りぬ魂のことだが……」

 冥王は目を細め、愉快そうに口が弧を描く。その視線はこちらを試すようでもあった。

「スイウの欠片を含めたそなたの魂、半分貰おうぞ」

 ぞくりとするような気配と共に手が伸び、その人差し指がトンと胸を軽く突く。

「どうぞ。それでスイウさんを呼び戻せるなら」

メリーは怯まないよう、じっと冥王を見据えていた。

「待ってメリー! それ、ちょっと話が違うわ。半分も魂を持ってかれたらあんたは──
「私が私の魂をどう使おうと私の勝手ですよね。口出しさせるつもりはありませんよ」
「メリー……」

 フィロメナはそれきり何も言わず、スカートを握りしめて俯いた。

「それならオレの魂を使ってくれ。オレも妖魔になれば、魂の半分が余ってくるだろ?」
「クロミツよ、人の子を助けたいか……だが、魂なら何でもよいというわけではない。そなたの魂を半分使っても必要なのはスイウと馴染んだ人の子の魂の方。そなたの分は成功率を上げる程度の力にしかならぬぞ」
「それでもいいさ。オレにやれることは全部やるつもりだからな。足りないなら魂全部使ってくれていい」

 クロミツはいつものカラッとした笑顔であっけらかんと豪語したが、冥王は呆れたように肩を竦める。

「まぁ、そなたは初めてうたときからスイウ、スイウとうるさかったからなぁ。やれすぐに目覚めさせろだの、無理なら起きるまで自分を封印しろだのと偉そうに注文ばかりつけおって。結局千年以上も眠って……全く、凄まじい執念よ」
「そういう未練みたいなのがないと魔族にはなれねーんだし、しゃーなくないか?」
「そなたのような若造に一々説明されずともわかっておるわ……」

 短いやり取りの間に、散々に振り回された冥王の苦労が垣間見える。魔族の性質上、一癖も二癖もある者たちが多いのだろう。それを束ねなければならないというのは想像以上に大変なことなのかもしれない。
 冥王は長い年月を重ねた深く重々しいため息をついた。

「人の子よ。理論上成り立つことと成功することは別の話と心得よ。魂が大きく欠けたままでそなたは生きねばならんが……その影響がどう現れるか、そしてどのような結果をもたらすかは我にもわからぬ。当然この場で失敗するかもしれぬし、下手をすればスイウと引き換えに死ぬことにもなろう。成功して地上界に戻っても、そこで何事も起こらないとは限らぬ」

 今更そんなことで臆しはしない。自分の死への恐怖は元々薄い方だ。それは良い事ではないのかもしれないが、今は良い方向に働いていると信じている。

「私、『必ず帰る』って仲間に言ってここへ来たんです。嘘はつきたくないから帰りますよ」

 心配してくれるアイゼアとエルヴェに必ず帰ると約束した。根拠も保証もないただの軽い口約束だが、ある意味願掛けに近かった。

「今は不確定な未来も、言葉に宿る魔力が私を導いてくれるはずです」
「言霊の力か、健気なことだな。それにしても、怯えもせんし本当に可愛げのない人の子よ。ほれ、触媒を我に渡せ」

冥王へ花の入った小瓶を手渡す。

「魔力を差し出せ」

差し伸べられた手を取り、メリーは魔力を送る。

「む? そなた、黄昏憑たそがれつきであったか」
「……黄昏憑き? 黄昏の月ではなくてですか?」
「死の淵、黄昏の世界に住まう我らと同じ死の気配をまとう人の子には黄昏が憑いておる、とな。だから黄昏憑きだ。黄昏は生と死の境界線にある。そなたは他の者とは違い、常にその境界線に晒されているものだと覚えておくがよい。ふむ……それにしても相変わらずそなたらの魔力は感じがよいな」

 冥王は目を閉じ、うっとりと安らいだ表情をしている。黄昏の月の魔力は魔族の力を高めるが、その魔力を受け取ってどう感じるかまでは知らなかった。

「おっと、魔力を貰いすぎるところであった。クロミツ、魂を半分を差し出すがよい」

 冥王の手がまるで水面に手を入れるかのように、すんなりとクロミツの胸に差し込まれる。クロミツが少し呻いたあと、引き抜かれた手には夕日色に輝く宝石のようなものが握られていた。自分の胸にも手を突っ込まれるのだろうか、それはさすがに嫌すぎる。ここにきて初めて妙な緊張感を抱いた。

 冥王は集めたそれらを触媒のように魔力で練り、紐のようなものを編んでいく。

「よいか、これは通常の妖魔の召喚とは全く異なる。スイウの魂は魂を持つそなたが探しに行かねばならん。我はその手助けをし、そなたが見つけ出したスイウの魂とそなたの魂を使って召喚を行う」

 冥王の手が近づき、編まれた夕日色の紐と共に水に沈めるようにしてメリーの胸に差し込まれた。痛みも何もなく、何かをしている冥王の手をぼんやりと眺める。やがて手が引き抜かれると、胸の中から夕日色の紐が伸び、宙に漂うようにふわふわと揺れる。そしてもう片方の端を左手首に結ばれた。

「スイウを見つけたら、この手首に結ばれた紐をスイウの手首に結び直して戻って参れ。それができれば後は我に任せればよい」

 冥王の顔からスッと笑みが消え、黒い瞳がメリーの姿を縫い付けるように鋭く射抜く。

「そなたの意識はこれからそなた自身の魂の中へ落ちることになろう。その中でスイウを探すのだが、いくつか注意せねばならぬことがある。心して聞くがよい」

 緊張感が生まれた場の空気に、メリー自身も身の引き締まる思いになる。

「一つ、誘惑や恐怖に飲まれてはならぬ。二つ、紐を結んだら決して後ろを振り返ってはならぬし、言葉を交わしてはならぬ。三つ、紐の効力が消えかけたときは紐に戻りたいと念じること。さすれば紐を代償にそなただけは戻ってこれよう」

 冥王は魂に潜る際の注意点を簡潔に説明してくれた。注意点は全部で三つ、忘れないよう頭に叩き込む。

「スイウの魂まではその刀が案内してくれるであろう。己の魂だからと油断してはならぬぞ。同一の存在でありながら、魂は鏡に映した自身のように向かい合わせの存在でもあり、時としてその宿主を試す。魂はそなたの本来の本質の権化ごんげ……とにかく気をつけることだ」
「忠告ありがとうございます。でも、自分と同じなら、スイウさんを助けたい思いも同じはずですから」
「だとよいがな……では、目を閉じよ」

 指示されるがままにメリーは目を閉じた。額のあたりに手をかざされ、前髪がさわさわと弱い風になびく。

「最後に一つ、自分の名を決して忘れるな。真名ではなく、そなた自身の名だ。真名は魂の名だからな」

 名前の重要性は魔術士であれば皆認識している。自分を自分として確立することのできる唯一の言葉だ。メレディス・クランベルカ、と小さく声に出して呟く。

 ふっと一際強い風を感じた瞬間、体が吹き飛ばされ宙に放り出される。体の中をかき混ぜられるような奇妙な感覚が襲い、中にある何か大切なものが奪われていくような気がした。
 焦燥のような、虚無感のような、喜びのような、苦しみのような、悲しみのような、寂しさのような、安らぎのような、不安のような、複数の感情が湧き上がり、自分を見失いかけながらもまぶたを押し上げた。

 暗闇の中、白い光を目指して手を伸ばす。光は眩く輝くと一気に世界が開けた。


第86話 執念は境界を穿うがつか(2)  終
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